発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@「九州人」の想い―本州/九州の比較文化社会学的考察―
(今回はエッセイです。「○○人」という大胆な括りをしかも大雑把にまとめているので、だいぶ議論を呼びそうな内容になりそうです汗汗)
僕は、岡山生まれ、岡山/広島 育ちです。ですから中国地方が基盤にはなっているのですが、親の世代で関東や関西、さらには四国(さすがに東北・北海道はいない)の友達も多いです。
大学は九州です。九州にきて5年間が経つのですが、ずっと思い続ける・感じ続けさせられることがあります。
それは、「九州にいる人/そうでない人」という区別です。
※もちろん、生まれがどこかによって物事を区別する先天的運命論という、ある種の生物学的ジェンダー論調にも似た雰囲気になってしまいそうですが、それとは違います。このまま少しお読みください。
九州大学では、実に8割方の学生が出身が九州です。福岡ではなくとも、熊本や宮崎、鹿児島など九州9県からよりどりみどり集まっています。
この本稿においてだけ、「生まれ、育ちが九州の人」のことを「九州人」と呼ぼうと思います。
なぜそう呼ぶか。それは、僕が九州で生活をしていて強く感じ続けることがあるからです。
彼らにはある一つの特徴、すなわち”精神なるものの力に対する強い信仰”が見受けられます。これを、単に”アツさ”という言葉に置き換えてもらってもかまいません。(「信仰」という言葉を使ったのは、僕の考えでは”精神”なる概念そのものがそもそも曖昧であり観念論的なものであるから、それはすなわち宗教的色彩を帯びると結論づけられる故です。)
簡単な例を挙げると、例えば病気。 僕は、不安神経症を患って(6,7年)いるのですが、九州人は『病は気から』というスローガンを全ての病気において当てはめようとします。彼らに言わせると、「風邪は引くもんじゃない」「精神病なんて気が弱いだけ」。
現代医学的な観点からいえば、風邪や下痢ならまだしも、不安神経症は幾つかの生理学的特徴をもっており、少なくとも「そんなもの気の持ちようじゃ!」という言葉が真理性を帯びないのは当然のことです。
しかしそんな現代的状況にあっても、彼らは精神医学を信用しません(まぁ、九州に限らず一般に精神医学には慎重になるべきだと思いますが、それは別の箇所で)。
彼らは、自分たちの精神/心 の生成や、変化、ひいては精神的構造を下部構造とした個人観/社会観 を時に強く論じます(主に酒の席で)。
簡単に言うと、「俺の~な想いが強くて、…」「そういう~な態度はこれから先、…」「私のこの心…」 といった発言が、ものすごく多いということです。学問の世界でいう所の、個人アイデンティティの形成の物語や、社会=世界への参入・変革、ライフストーリーといったものを、およそ精神なるものから全て引きだそうとします。
唯心論です。 心的なものしか世界にはない、とまではいかずとも、心的なものがまずはじめにありき、といった態度が、九州人には僕の目から見て備わっているのです。
ここでお気づきかと思いますが、「九州人」と呼称したからには、当然比較対照するべき概念が必要となります。
それを僕は「本州に生まれ、本州に育った(しかし東北地域だけは例外とする)人」=「本州人」とします。
九州人は、一言でいってしまえば、アツさがあります。
反対に、本州人は、一種のクールさ/冷たさをもっています(僕自身も当然そうです)。 「東京の人は冷たい」「都会の人は冷たい」という格言があるのは偶然ではありません。
このアツさ/クールさ、はあくまで相対的なものです。 私たち本州人は、一般的に言って、”精神/心”という概念を疑ってかかります。それがめちゃくちゃ複雑なものであるとは考えますが、少なくとも”モノ”のようにその場にぱっとあるものといった実在論的な位相で捉えたりはしません。実在論的な位相で捉える例外状況は、先程の精神医学です。そこでは異常な心的状況を生理学の位相にズラし、そこにおいて薬の投与やカウンセリングといった極めて近代科学的な処置を施します。
本州人にとって「心/精神」なるものは観念論的なものです。だからこそ、オウム真理教は少数の信者を集めた後袋叩きにされ続けています(仕方ないですが)。宗教は危険なものとしてしか機能しません。
そして本州人は、アツさを以て物事を処理しません。というか、慎重だったり懐疑的だったりします。
どちらかというと、唯名論的思考の方が強いです。 全ては”モノ”的なものから出来上がっており、それらがシステムを成したり組み合わさったりしてセカイは動いている、という考え方です。そこに人のココロの重要さ、とかいったイデオロギーは介在しません。いや、介在するとしても一要素に過ぎません。
本州人にとって、人の心は、あくまでそれであって、それ以上のものではありません。経済、政治、自然環境、他の様々なシステムから世界は成り立っていて、心的システムはその一部に過ぎません。いわんや、「精神/心構えが全て」などどうして言えようか。
さて、九州人、アツさ、観念論、唯心論
本州人、クール、実在論、唯名論といった実に単純な二項対立によって議論を進めてきました。
大事なのは、ここからです。周知の通り、現代的状況にあっては、そもそも九州/本州 といった地域的区分が交通手段やネット環境の利便化によって無効化されつつあるので、実はあまり峻別することには意味がありません。つまり、両極端にいるような人はイメージがしにくく、僕とて唯名論者なんかじゃありません。苦笑
しかし、九州の奥底の奥底には、こういったものがはっきり存在している。それは感性のレヴェルでしか言えませんが、僕はそう感じます。
時として、九州人のそのアツさが怖いのです。なんでそんなぼんやりしたものをあたかも実在するかのごとくよってたかって信仰して、社会に臨もうとしているんだろうと。 フーコー読んだのかと。
逆に、私たち本州人も、九州人やそれ以外の地域の人達から見たら、同様に怖く思われることがあるのかもなぁ、と思います。
大切なのは、差異(違い)を意識し、共有圏をつくりあげること。理解しなくてもいいのです。共有できればいいのです。
そんな感じで、本稿を締めたいと思います。 公「共」圏 の大切さです笑 いや、冗談ではなくて。
@ misty
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