発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@真なる弱者と偽なる弱者
自動車を歩道者から外すという政策の云々が問題になっている。
暫定的な解消策としては、とりあえず自転車道というのをきちんと設けた上で、歩道/自転車道/車道 という扱いにするのが望ましい。
自転車を自動車道に一本化するなど、もっての他だ。いくら法的に”同じ”「車」であるからといって、自転車と普通自動車、軽自動車でさえそこには大きすぎる質的差異がある。自転車と自動車を同じ車道に一本化すると、どちらにとっても迷惑だし、おそらく自転車走行者の事故が多発するだろうというのは確認するまでもない。
さて、この車社会のアクター(登場人物)が織りなす車社会体についての基本的な視座は、一番の弱者である(とみなされる!)歩行者を中心にして考えるということである。
今の、自転車を車道で走らせて歩道には歩行者のみをといった平板で馬鹿にもほどがある議論は、しかしそうした基本的視座から短絡的に導いたものにすぎない。
ここまでは当たり前の話である。
さて、歩行者=弱者 とみなす、この<視点>は、一体だれ(どの主体)であろうか?
それが歩行者の視点ではないということは当たり前である。私は、福岡市で生活をしているが、歩行している時に当たって、ついぞ歩行者×自転車、自動車 の事故にかれこれ5年間、全くお目にかかってない。事故の中心は明らかに自動車×自動車(或いは自転車×自転車)である。歩行者は実は弱者ではない。歩行者は、ある意味において、一番の強者だ。というのは、都会のほんのちょっとした距離を歩くサラリーマン達が、そうである。歩かざるを得ない高齢者や子供は確かに弱者である。しかし、マントを被って弱者のふりをしている歩くサラリーマン達は、自分たちの移動コストが少しでも少しでも減るようにと、今の車社会体を動かしている一番の大きなアクターなのだ。従って、歩行者には2種類いることになる。真なる弱者と、偽なる弱者。
したがって、歩行者=弱者とみなすこの<視点>は、とりもなおさずこの偽なる弱者=歩くサラリーマン達=社会の中心を握っている者たち、なのである。繰り返しになるが、彼らは法的な保護(”歩行者”は優先されるべし)を巧みに身に纏って、自転車よどけそうすれば我々歩行者(ここでは、歩く高齢者/子供=真なる弱者と、歩くサラリーマン=偽なる弱者とが意図的に一体になっているのだ)は安全に守られる、とこざかしい主張をしているにすぎない。
行政は、真なる弱者と偽なる弱者を分かつ判別基準を未だもたずにいる。このままいけば、間違いなく車社会体は、偽なる歩行者にますます有利な環境にならざるをえないだろう。
真なる弱者は、実は自己の<弱み>を主張できない、だからこそ弱者なのだ。
偽なる弱者は、時に真なる弱者を巧みに利用して、自己の<弱み>を<強み>にこっそり変える、いまいましい強者なのである。
以上
misty @
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