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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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止まらないアイドルの勢力―ミュージックシーンの今

それなりにちゃんとした記事を書こうと思ったのだが、ねねねむい…。

明日!詳しく?書きます。。はい。 ちょっと、骨子だけを。苦笑

@止まらないアイドルの勢力―ミュージックシーンの今



1、 日本のミュージックシーンのあらゆる意味で(最)先端をいってるのは、やはり(?)地方アイドル=ジモドルの群雄割拠の状況である! これは印象論だけじゃなくって、それなりに説得力を示せる!

2、 かつてロックミュージックが負っていたような”人のニーズ”さえ、ジモドルの現場ではそれを遥か飛び越し、「欲望の21世紀」といった様相を呈している。

  …それにしても、80年代的、ディスコブーム、シラけつつノル的な空気の再帰を感じるのは合ってる?


本当、アイドル現場にいるといつも色々なことを考えます。 そこには、間違いなく日本のスガタが現れていると考えられるからです。

詳しくは、また!



misty @

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Perfume、AKB48、きゃりーぱみゅぱみゅ

久々に書くのはこんなネタです。笑 でも重要だと思います!

@Perfume、AKB48、きゃりーぱみゅぱみゅ

 
 日本の音楽業界が、長らく”国内閉鎖的”であるのは、指摘されるまでもない事実でした。

いわば、日本は、音楽をアメリカ圏やイギリス圏から輸入することには長けているけど、輸出が全く育たない、日本のアーティストは日本で終わるというのが、定番中の定番でした。 日本で屈指のセールス(というより、CDセールス1作800万枚というのは、日本一)を誇り、決して海外のアーティストに引けをとらない(と考えられる)宇多田ヒカルが、海外進出にどれだけ苦心しているかを見ても、わかると思います。

 日本の音楽が、なぜ海外で売れないか、それは様々の考察を必要とするでしょう。あくまで印象論にすぎませんが、しかし、それでも日本の音楽界が”イメージ作り”で中々結果を残せていなかった、というのは確認してよいことだと思います。

 話が逸れるようにも思われるかもしれませんが、2009年のPerfumeの「ポリリズム」、「チョコーレート・ディスコ」をはじめ、アルバム「GAME」のサウンドは、アイドルファンからのアクションというより、”耳の肥えた人たちからの”アクションが、とても大きかったように思われます。 そして筆者もその一人です。

 テクノサウンドとポップサウンドの要素を大胆に組み合わせる、そしてそれを、独特の”カワイさ”と言わしめる彼女らのプロモートは、とても目を見張るものがありました。それは、従来までの日本の音楽を、確実に変えるものがありました。

 しかし、Perfumeは二作目「(トライアングル)より以降、失速してしまいます。

この記事の続きを書くのが面倒臭くなってきたので(笑)、結論を先取りして言います。笑

 それは、きゃりーぱみゅぱみゅは、”セカイの中のニッポン=Japan”の音楽として、まずまず売れるだろうということでdす。そしてそこから、日本音楽の世界進出への途が開かれる可能性が、やっと作れるということです。

 どういうことか。それは、きゃりーの楽曲/パフォーマンスが、以下の3つの条件をすべて満たしているからです。

(1)”クール・ジャパン”の認識の拡がり
(2)インターネット・グローバルの活用
(3)”新鮮なジャパン像”の獲得


 冒頭でPerfumeの話題を出したのは、(3)の条件に当たります。 Perfumeときゃりー両方の楽曲プロデュース(並びに歌詞)を手掛ける中田ヤスタカのサウンドは、確固として、世界の音楽にひけをとらない、レヴェルにあったことです。
 詳細は省きますが、そもそもテクノは、80年代ヨーロッパに誕生しました。しかし90年代になると、海外/国内 の状況共に、このジャンルはあっという間に姿を消してしまいます。 それを新たな日本という異郷の地でよみがえらせたのが彼です。 シンプルなコードに未来的/オシャレなサウンドを乗っけて、そしてそれをなおポップミュージックに乗せるということで、テクノポップという新たな形態が生まれました。
 (1)の条件にもつながるのですが、例えばPerfumeの「ポリリズム」を例にとればわかるように、中田ヤスタカの楽曲は、上述のサウンド面に限らず、ミュージック・ビデオ/視覚効果に関しても、”クールでキュート”と形容されるような新しいアイドルを歌い手として前面に押し出して、”オシャレでカワいい”像の獲得に成功しています。

 現在のPerfumeは、「日本の・アイドルの」枠の中に位置づけられます。 そして、日本のアイドルの枠は、AKB48が違う形で席巻していきました。 AKBがいる限り、この枠の中では、あくまで”たくさんの日本アイドルの中の一つ”として、彼女らは認識されるにすぎません。

 Perfumeは、(3)”(日本発としての)新しさ”を獲得したにもかかわらず、結局フィールドは国内(しかも新規参入の激しくなった所に)にならざるをえなかった。 それは端的に言えば、(2)の、プロモートの仕方の違いにあります。

 以下を比べてください。共に5/13時点での再生回数と、そのリンク先です。

Perfume - Chocolate Disco(チョコレイト・ディスコ)  1,328,711
http://www.youtube.com/watch?v=eoM665paLKM

きゃりーぱみゅぱみゅ - つけまつける  17,636,078
http://www.youtube.com/watch?v=NLy4cvRx7Vc


Perfumeは国内で高いセールスを誇った楽曲にもかかわらず、Youtubeでの再生回数は130万回数程度。それに比べ、きゃりーの「つけまつけるは」国内でのCDセールスこそ微妙だったにもかかわらず、その再生回数は1700万回数以上。 

 きゃりーの楽曲の展開は、インターネット特にYoutubeやiTunesといった、グローバルに広がっているメディアの活用にあります。それが如実にこの再生回数の違いに表れている。

 最近の曲の”聴き方”の主流が、もはやネットにあるということを上手く利用しています。

 ついでにいうと、AKB48に関しては、(3)の点が引っかかっています。 つまり、日本の伝統的なアイドルソングの音をそのまま踏襲しているので、海外の”耳の肥えたリスナー”の目に留まるかどうかは極めて怪しいということです。 当たり前のことかもしれませんが、アイドルは音楽を中心として活動している(アーティスト)わけでも何でもないので、音楽的には、海外の人がAKB48の曲を聴いても、「日本ではこんな楽曲が流行っているらしい」に留まるでしょう。 AKBは、あくまで観照材として出したに過ぎないので、ご注意を。

 以上駆け足でしたが、僕は何となく、”日本の音楽のミライ”を、きゃりーぱみゅぱみゅの楽曲に見ています。
 3者をもう一度整理するとこういうことです。

Perfume  (1)〇 (2)× (3)〇(”クールでかつカワいい”日本の先駆者)
AKB48 (1)〇 (2)△ (3)×(日本伝統の曲の作り方を円環しているに留まる)
きゃりーぱみゅぱみゅ (1)〇 (2)〇 (3) 〇

 要するに、(1)日本”発”という必要最低限の要素が受けいられる態勢を、どこまで備えているか。
それに関しては、圧倒的に新鮮だったPerfume、”日本のカワいい=萌え”の頂点的存在であるAKB48、Perfumeのスタイルをそのまま踏襲しているきゃりーぱみゅぱみゅ、何れともOKです。

 (2)では、売り方が、現代的=時代の流れに沿っているか。 Perfumeはまず日本での成功というのが目標にあったため、その点では使い古したメディアをそのまま利用して今の彼女たちのステータスを築いてきたことが、逆にこれからの彼女らには負担になるかもしれません。きゃりー、AKBに関しては、差異はありながらも、各々、国内/海外 という二面的な視点をもってプロモーションにのぞんでいるといえます。

 (3)では、Perfume/きゃりー (引いては中田ヤスタカ氏)が、”海外”という同じフィールド枠内で戦えるだけのチカラ=刷新された日本のイメージを打ち出して成功している片方で、AKBはまだ楽曲面においては「日本のものを”そのまま”世界に売っていこう」としてしまっている点で、微妙です。

以上!

misty @

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趣味や特技が無い!?

@趣味や特技が無い!?

 「私、無趣味なんです…。」 「履歴書の『趣味・特技』という欄に、何て書けばよいのか分からない。」

 こういった声を聞くことは、実はとても増えている。

 もちろん、実際に若者から趣味や特技が消え去ったわけではない。ではどういうことか。


 これに関する回答はとても簡単である。 しばし、読者の皆さんにも考えてもらいたい。

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連載第二回 主権の通俗的な理解  主権概念の消滅(仮)

第二回 主権の通俗的な理解    主権概念の消滅(仮)

 
前回の終わりでは、20世紀最大の政治学者カール・シュミットと、現代思想をリードするジョルジョ・アガンベンらの著作を参照するといったが、その前に、”主権”概念の通俗的な理解を今一度確認しておきたい。

 現時点での通俗的な理解の矛先は、憲法学の芦部信喜『憲法[第四版]』(2007、岩波書店)に求めらる。
 その第三章二節「国民主権」では、以下のように主権の説明がなされる。

   主権の概念は多義的であるが、一般に、①国家権力そのもの(国家の統治権)、②国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、③国政についての最高の決定権、という三つの異なる意味に用いられる。(芦部信喜『憲法[第四版]』pp.39)

 続く文章で、簡素に①は統治権、②は最高独立性、③は最高決定権と呼称される。
簡単なところではあるが、それぞれをシンプルに説明しておこう。

 ①の国家そのものの統治権とは、字義どおりである。芦部は、この(国家)統治権を、立法権・行政権・司法権の3つを総称するものとほぼ同じものと考えてよいと説明する。
 
 ②の最高独立性は、論点を孕んでいる。まずこの最高独立性は、国家内のものと、国家外(すなわち、外に対して)のものとの2つに分かれる。前者に関しては、国家の内の中では(あらゆる権力があるとして)最高のものという意味である。他方で、国家の外に対しては(すなわち、例えば他の主権国家と相対峙する場面を考えてみよ)独立したもの、という意味合いを持つ。
 問題は、なぜこれらの国家の内と外でそれぞれ違う意味内容を有するものが、同じ”主権”概念としてひとくくりにされているかである。この論点に関しては、余裕があれば考察してみたい。

 最後の③の最高決定権は、芦部の説明によれば、「国の政治の在り方を最終的に決定する力または権威という意味であ」ると説明している。これはのちに詳しく論ずるように、俗に「憲法制定権力」と呼ばれるものと同義になる。

 以上が通俗的な理解の範疇での”主権”概念である。これからもわかるように、この主権というものは、憲法学の中でさえ3つに意味が分岐している。芦部は、この理由を少ない言葉で説明しようとするのだが、根本的なことはわからない。

 そしてその理由も、これからのちの探求によって理解できることになるだろう。

第二回 終わり

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「主権」概念の消滅を目指して(仮) 第一回

お久しぶりですmistyです!

ここでは、一時的にですが、大学院の修士課程でやろうと考えている、一連の論考を、連載形式で荒っぽい形で残そうと思います。

毎回が紆余曲折になると思います。その上、自分自身が理解していない議論や思考と常に戦っていくので、読むのが難しいと思われます。

しかし、テーマはお堅いにしろ、僕自身はとてもこれからの現代社会に欠かせない作業だと思っています! 
 
 その理由(動機)は、この第一回や、後々に触れていくと思います!

それではいきます!

「主権」概念の消滅を目指して(仮) 第一回

 
 
 本論での著者の出発点は、「これからの現代社会(世界、特に国家)」を考えるに当たり、「主権」という概念は不要なのではないかという動機にある。不要どころか、破棄すべきだとさえ思っている。
 
 それは何故か。
 思うに、「主権」という概念は、端的に言ってしまえば、「近代」(modern)の産物なのだ。
そして、私たちは、今、近代の後、すなわち”ポストモダン”の時代を生きている。
 近代がなき今、過去の遺物に拘泥することに、どれほどの意義があろうか?
 むしろそれはまた、弊害をもたらしはしないか。

もちろん、これは大雑把な理由である。何故に、近代的だというのかは、本稿がこれから明らかにしていくはずであるし、また破壊すべきまでなのかどうかの判断も、性急に求めることは当然できない。lこれからの議論次第にある。

 さらに付言すれば、現代がポストモダンであるかどうかも疑わしい状況である。それは、学会が、「ポストモダンをやたらと主張したがる輩は、ただ単に時代の切断を強調し『新しい時代』だといいたいだけなのではないか」と批判されているところからも明らかである。

 ここで、筆者はハッキリと明言しておく。 現代は、まぎれもなくポストモダンである。 
その論拠は何か。
 ”ポストモダン”に人々が抱くイメージにも色々あるが、筆者は、「現代、ことに1970年からの社会にあたっては、それまで(=近代)の思考枠組みやパフォーマンスは使いにくくなっている」、といった意味合いで時代の切断を認識点としている。その認識を大きく与えてくれたのは、東浩紀と宇野常寛だ。

 現代がポストモダンだと断じる論拠は、従ってまた別の個所で述べることにしよう。

第一回では、筆者が何故に、「主権」概念を近代的だととらえるのか、それを大雑把に述べよう。
 その細かな論証については、また第二回以降の探求課題になる。

 思うに、「主」権とは、何よりもまず、メタレヴェル=超越論的な視点である。そういったメタレヴェル性は、果たして現実の国家運営を鑑みた場合、機能するのであろうかというのが第一の私の疑いである。
 第二に、そして私は思うのだが、「主権」とは何よりもまず「国家」主権のことを指しているのではないか。そして、その国家主権が(どうしても)意味しているのは、専制君主国家としての主権なのではないか。この二つが私の疑義の出発点である。

 おそらくこの出発点は、のちの探求により何回も何回も修正され、場合によってはとん挫するか、別の方向にいくだろう。そのことは初めに断わっておきたい。

①主権の「メタレヴェル性=超越論性」 / そのメタレヴェル性の実現可能性(若しくは不可能性)

②主権が前提している「国家」とは、専制君主国家のことではないのか

 まず、①の点から長い論証をしていかなければならない。 はじめにいっておくと、この探求は、半年の時間を積み重ねて、暫定的には終了しているのだが、まだツメが甘い。 後々、②と並行しながら加筆することになるだろう。

 それでは、第二回以降は、とりあえず「主権」のメタレヴェル性=超越論性を、主にカール・シュミットの一連の著作と、ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』『アウシュビッツの残りのもの』『例外状態』から素描していく。

@ misty

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ブログ更新☆現代恋愛理論

現代恋愛理論

こんばんは…。 一度起きて寝られなくなったので。

簡単な話でもさせて下さい(^o^)/

恋愛について。
はいそこ、オタクが恋愛について語ったら終わりとか言わない!笑笑
最初に別記事の「あとがき」を読むとスッキリすると思います!

 ありとあらゆる生命体の生物学的な生存の目的(意義)は、オートポイエーシス、つまり自己再生産です。もっと分かりやすく言うと性行為をおこなって子どもを作ることです。それによって種は持続し、クロニクル(時系列的)に自己を維持できます。


 そこで、昆虫や動物などと人間の違いは何かと言えば、恋愛をするか否かというのが一つのメルクマークになると考えられます。
もちろん、昆虫や動物も求愛行動は取ります。しかしそれは結局のところ、性行為を即時的に行うための一連の動作となっているのが判明しています。

 人間だけが、性行為そのものを目的化するのかは任意にまかせられている(つまりセックスをするかどうかは付き合うための必要条件でない)、恋愛をおこなう存在だということが導かれます。

セックスを伴うか伴わないかがどうでもいい恋愛とは何かー。これが本論の射程です。

 もちろんセックスのみを目的とする恋愛も存在しますね。快楽のためのセックスというやつです。こいつは非常に分かりやすい。性行為をおこなう際には、それを推奨するため相当の快楽を生命体は与えられます。その快楽の無限行為が、セックスのための恋愛です。

 それに対し、より一般的な恋愛は、性行為がその間柄において占める割合は多くはありません。特に学生時代の恋愛はそうです。社会人に比べて時間の融通がききやすいというのもあって、デートから自宅

まったりからお買い物やらオプションが多い、その中の一つにセックスがあるといった感じです。

もうこれ以降セックスという単語は出てきませんのでご安心を笑

 結論から言えば、性交(出た!笑)をかなりの程度任意にまかせる恋愛とは、「繋がりのための手段と目的が一体となったもの」と考えられはしないでしょうか。
ポストモダン社会においては、ゲマインシャフト(ムラやマチ等の伝統的共同体)が崩壊したのち個人は個人として多様性(たくさんのオプション)の世界で孤立化させられることを余儀なくする一方で、どこかで(理解不能と分かっていても)他者と繋がっていたいという究極的なダブルバインドの生を生かされます。

 そこで、男らしく育った存在は、女らしい存在と、女らしく育った存在は、男らしい存在とペアになる二対構造が非常にスムーズになります。これは主にジェンダー(社会的性差)の交錯=工作と考えられます。

 僕自身の経験で言えば、女性にしか興味が持てないし、なごむ話やまったりした話は女性としたくなるというのが本音です。男性はむしろ仲間意識が非常に強いから、理念や社会について語りたくなります。もしくは下ネタ爆←18禁じゃねーか←

 一般的な恋愛が、「繋がりのための手段と目的が一体化したもの」

 手段というのは、簡単でしょう。恋愛を手段として、究極的に孤独な個人を、困難でも何か生ずる可能性のあるコミュニケーションによってその何かを生み出す。それは間主観性であったり、二人だけで完結・閉鎖したユートピア/幽霊界的なセカイを手に入れることができる。〈フタリダケノセカイ〉という奴ですね。

 一方で、恋愛自体が目的となっているというのは、繋がりそのものに価値があるということで価値観が一致した前提で、繋がり自体を目的とするということです。この場合、繋がりは事例差もあるとは思いますが、恋愛のケースにおいてはそれの求められる強度は強いのではないかと。
(ちなみに繋がりそのものに価値を認めコミュニケーションを論ずる代表格は北田暁大です。気になった方は彼の著作をどうぞ。)

 ここからがちょっと面白いのですが、繋がりを手段とした場合、結局繋がりの強度そのものが高まってしまった、つまり繋がりが目的となってしまうというパラドックスが生じます。
反対に、繋がりを目的としていた場合、繋がりが逆に趣味の一致や人生観の一致などを非必然的に生み出すことがあります。これは恐ろしいというか、事後的に見れば恋愛は必ずしも必要ではなかったかもしれないということです。他の代替装置(オンラインゲーム、麻雀、スポーツ等)でもよかったかもしれない。これもパラドックスです。

だから、私は現代の恋愛を、
「繋がりの手段と目的がいっしょくたになったもの」

と定義せざるをえなくなったわけです。

 以上、現代恋愛理論でした~。 コメント下さると嬉しい限りです♪
おお5時40分か…。

参考文献
東浩紀+濱野智史編『ised 情報社会の倫理と設計』
北田暁大『〈意味への抗い〉』
----『コミュニケーション-自由な情報空間とは何か』

***

あとがき


ちょっとしたあとがきです。

 最近のカップルは、セックスレスな人たちが割に多いということです。それは何故か、ということを説き明かすのが、「現代恋愛理論」の目標でした。

 事態は二極化していると考えられます。
セックスレスなカップルが出現するかたわらで、一方では性的快楽のみを目的とするコミュニケーションが横行している…。
いわゆる中道というのが見つけにくいのです。

 本論のギロンは北田氏の「繋がり自体の価値化」という概念をおおいに参考にしました。

 ちなみに、本論はひろく社会学に分類される、アカデミックなエッセイです。

 学問とはこんなものだというのを感じてもらえたら嬉しい限りです。文系大学生はこういうことを思考してます笑笑


以上

 

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ブログ更新☆1月に読んだ本

こんぱら!mistyです。
1月はミシェル・フーコーとよく戯れていましたww コレージュドフランス講義シリーズはやはりピカイチ☆

■痛みと身体の心理学 新潮選書
★★★★★ 非常に優れた一臨床心理学の書物だと思う。プロセス指向心理学者であるミンデルという臨床医がドリームボディという独自の概念を用いて体系化させたPOPの日本発概説書みたいです。至る所、筆者の学問的横断性の広さが垣間見られ、実践面にも充分に配慮したスグレモノだと思います(^o^)
読了日:01月29日 著者:藤見 幸雄
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16142472
 
■アガンベン入門
★★☆☆☆ アガンベンは難しいとかそういうのじゃないので、これは読む必要なし。むしろアガンベン著作のダイナミクスを減じてしまわせるほどだ。アガンベンの記述は緻密だが配慮があり、脚注もよくついている。図説もある。これを読む特別の必要性はない。
読了日:01月28日 著者:エファ・ゴイレン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16102578
 
■ケアの社会倫理学―医療・看護・介護・教育をつなぐ (有斐閣選書)
★★★★★ 本書は概説書の役割を果たしているため、具体的な解決策をどかーんと提示したりしているわけではない。しかし…。この本が発刊されたのは2005年、まだ10年と経っていない。しかし、これが学知の現状である。第二章の「看護とケア」の2論文では、特に考えさせられることが多かった。ケア概念は始まったばかりだ。
読了日:01月27日 著者:
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16086493
 
■危機の大学
大学の危機ではなく、危機の大学である。教育過程における大学機構の位置付けの揺らぎを、特に切実な問題として受け取った。
読了日:01月27日 著者:瀬戸内 寂聴,稲盛 和夫
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16085901
 
■自己再想像の“法”―生権力と自己決定の狭間で
★★★☆☆ 自分の研究テーマの先駆け的な書物だが、法的視点・思考から主に語っているので、おそらくこれが今の医療社会における生政治的なアプローチの限界なんだろうと思った。法的思考だけでは物事は語れない。
読了日:01月27日 著者:仲正 昌樹
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16084187
 
■ミシェル・フーコー講義集成⟨7⟩安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78)
★★★★☆ 論点は多岐に渡り、話がデカすぎてまとまりは見えない。しかし、17ー20世紀の時代の中から、「統治術」「(政治)経済学」の出現・発展を見出だしたのは、ものすごい功績だと思います。具体的な講義内容は、安全メカニズムの話から、中盤を多く司牧型権力について語られ、最後に国家理性について。次巻をすぐ読む!
読了日:01月27日 著者:ミシェル フーコー
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/16084100
 
■スウィート・ヒアアフター
★★★★☆ ばななの後書きが全てを物語ってます(^o^) 生と死をめぐるテーマは元々ばなな流のものであり、これを読んで被災者の方々の心が軽くなるかどうかは分からないけど、少なくとも僕は相変わらず心洗われました。メメント・モリ、死を想いながら生きよって感じだと思います(^w^)
読了日:01月22日 著者:よしもと ばなな
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/15965810
 
■ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生
★★★★★ 文句なし。現代に連なる生政治のリアルな問題を提示している。それでは、これからどうすればいいのかは、これからのアガンベンの課題でもあり、本書を読んだ人々が考えても良い、しかし差し迫った課題である。
読了日:01月19日 著者:ジョルジョ アガンベン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/15901069
 
■ミシェル・フーコー講義集成⟨6⟩社会は防衛しなければならない (コレージュ・ド・フランス講義1975-76)
★★★★☆ 最後の一コマで、人種主義と生権力という二大テーマが交錯して、おぉぉって感じでした。本書の講義自体は、戦闘、歴史、民族といった感じで、タイトルは直接的には関係がありません。
読了日:01月19日 著者:ミシェル フーコー
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/15900929
 
■パンドラの匣 (新潮文庫)
★★★★★ ひどく感動してしまった。これだ、これが青春だ!『正義と微笑』も『パンドラの匣』も、美しく爽やかで、それでいて重くてさらに軽い。形容できないほどすばらしい。
読了日:01月11日 著者:太宰 治
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/15715574
 
■アンチ・オイディプス
読了日:01月11日 著者:市倉 宏祐,ジル ドゥルーズ,フェリックス ガタリ
http://book.akahoshitakuya.com/b/4309240828
 
■政治的ロマン主義
ー  途中で飽きた(>_<) ちょっと退屈。いつか読む日は来るのか!?
読了日:01月06日 著者:カール シュミット
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/15597881
 
■人権の彼方に―政治哲学ノート
★★★★★ いい小冊子だ。「ホモ・サケル」と「アウシュビッツの残りもの」の補完財的な書物。アガンベンの思想の根底は変わらない。そこにホモ・サケルや難民たちの悲痛の想いが聴こえてくるみたい。
読了日:01月06日 著者:ジョルジョ アガンベン
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/15597788
 
 
▼2012年1月の読書メーターまとめ詳細
http://book.akahoshitakuya.com/u/95093/matome
 
▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/


@ misty 

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ブログ更新☆奇妙な食卓

あけましておめでとうございます(遅)、mistyです!

1月中の更新はないと思っていたのですが、久しぶりに短編小説が書けたので、うpします!(^^)!

短めなので、ごゆるりとどうぞ♪

@奇妙な食卓

                     奇妙な食卓
 
 奇妙だ。
いや、それは分かっているのだが、何というかそうだからといって僕が目の前の現実世界を変えてみる勇気もない。
 お皿のカチャカチャいう音と、連続的なる談笑。しかし、僕の隣の父親は相変わらず口少なめだ。それは僕の心をたゆまなく落ち着かせてくれる。
 「じゃあ、お母さんもお父さんも本当に地元育ちなんですね。」
千鶴子が天使のような無邪気さで笑う。
 「そうなのよ、だから私たちは都会の人たちの暮らしぶりとか全然知らなくて。田舎者で、ごめんなさい。」
 「そんな! いえいえ、私の地元の方がもっと田舎ですから、ここは私からしたら都会そのものですよ!素敵な所じゃないですか。」
 「あはは、無理を言わなくてもいいのよ。」
 僕のお母さんは、ハイ・テンションだ。台所から、香ばしい磯の香り。台所は見えない―画面の左隅っこにあって、よく見えないのだ。ぼんやりしている。そういえば、画面が動かないのだ。僕の視点は、120度くらいの按配で、不思議なことにそこから一つも変わる気配がしない。
 
 あさりの酒蒸しが運ばれてくる。貝殻置きの小さなお皿も一緒に。一同―僕と、四分の三の父親くらいは除いて―は甘美の空気にたちまち包まれる。
 「どうしようかしら、ワインでも飲もうかしら、千鶴子ちゃん、ワインはどう?」
 「えっ、頂いてもいいんですか? 申し訳ないです。」
 「いやいやいいのよ、今ちょうどおいしいワインを取り揃えていてね。千鶴子ちゃんがお酒も大丈夫だったら、是非飲みましょう。」
 「本当にいいんですか? じゃあ、お言葉に甘えさせていただいて。ありがとうございます。」
 「昼からお酒飲むの、大人の悪いくせー。」
弟が口をはさむ。運ばれてきたばかりのあさりにもう手をつけ、お箸を使わずに手でもってそのまま貝をとっては口に入れている。千鶴子と母親の苦笑。
 「お父さんも、いる?」
 「あぁ。」
短く、しかしまんざらでもなく上機嫌気味に答えるお父さん。 
 「じゃ、そこの茶色の棚から、赤の、この前買ったのを一本取って。」
 
 何がおかしいのか、それは僕が食卓の中心の位置―横長の6人用のテーブルに、下座から弟、僕、お父さん、向かいをはさんで、千鶴子、お母さんが座っている―にいながら、会話に一つも参加していないという事実だ。厳然たる事実。あぁ、僕はなんて単純なことに気が付かずにいられたのだろう。
 
 さらにもっと言えば―。千鶴子と、僕たち家族の間には、何の接点もなかったはずだ。接点という前に、会ったこと、話し合ったことすらない。第一、僕と千鶴子は付きあってすらいない―それは僕の一方的な解釈だが―の。とにかく千鶴子という女のことをお母さんにも弟にも、いわんやお父さんになど話すわけがない。それなのになぜ。なぜ、一同はこんなにも僕という仲介点を何ら必要とせずに盛り上がることができるのだろう。
 もう一つ。この家は、死んで10年も経ったおじいちゃんとおばあちゃんの家だ。そしてこの家は、6年前にとり壊されているはずなのだ! 白い花柄のレースがかかった横長テーブル、ふかふかの背もたれの椅子、これらは今ここに存在しているはずがない。額が汗ばんでいるのが分かる。それでも僕は、事態が経過していくのを観察することしかできない。さっきから料理をちゃんと口にしているのかどうかすらも分からなくなってきた。多分、僕は気を違えたのだ。あはは。狂っている、狂っている…。千鶴子なんて、千鶴子なんて。魔性の女じゃないか。つまらない人じゃないか。何故、そんな人が、僕の目の前に平気で座って、僕の家族一同の中に平然と食事を交わしているのだ。最高に面白い。ここは、最高に面白い。傑作だ。
 
 「じゃあ、こんな昼間からだけど。」
ワイングラスに赤の―本当にいい代物だ―液体を注ぎ終わり、ふぅと一息ついて母親が場をしきる。
 「えぇ、本当にすみません。ありがとうございます。」
千鶴子は天使・・・悪魔と表裏一体の天使なのだ。悔しいが、彼女はこういう所でもさりげなく彼女の魅力をさりげなく発揮させる。僕は千鶴子のことが好きなのか、やはり。
 「大人の悪いくせー。」
弟は、自分のところにはアルコールが回ってこないことで、ちょっと寂しい気分に陥っているのか、ちょっと不機嫌そうだ。それでも興味深そうに一同の会話と食事を見ている(当然、自分はガツガツ食べながら)。
 「乾杯!」
 
カチャン、と4つ―いや、僕の右手も参加しているのだろうか。僕はさっきから、僕の身体とかけ離れているようなのだ。身体がとても遠くに感じられる、自分のものじゃない気がする、だけど自分の所に返ってくる―か5つかのワイングラスが小気味よく音を立て、交差する。そう、甘美な空気が、暖かい、奇妙な暖かい空気が僕たちを包み込んでいるのだ。
 
 じりじりじり…。暑い、暑い。熱風のような風が食卓を取り囲む。夏、季節は夏だったか? 否、断じて。
 「はぁ、おいしい。 千鶴子ちゃん、どう?」
 「すっごい、とってもおいしいです! 甘いのに、しつこくなくて、苦みもありますね。」
 「千鶴子姉ちゃんすごいねぇ。ワインの味が分かる人みたい。」
 「あははっ、そんなことないんだよ。弘樹くんも飲んでみる?」
冗談交じりにワイングラスを弟の目の前にかざすふりをする千鶴子。
 
一同、再び食事と談笑に手をかかる。ここに秩序はない。
微笑のマリアよ、万歳!
 
(終)
***

@misty
 

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ブログ更新☆生、学問、自由

@生、学、自由

ホモ・サピエンスは生まれる。そして成長し、衰弱し、死ぬ。

この過程を<生>と名付けるのなら、

<生>において私たち人間=ホモ・サピエンスは何をするのだろうか?

ここまでの3行が、科学の大前提ではなかろうか。ここから、文学・法学・教育学・経済学・理学・工学・農学・哲学とあらゆる語りが始まる。

科学=学(問)という定式は、これもまた方法論としてしばらくの間(2000年くらい)は有効であるとみなす。

確かに私たちは、<生>を実行する物、すなわち生物の一種である。

それ以上に意味や機能を問う、それが学である。
科学はこの世界に真理があると妄想する学問の一形態である。

おそらく、真理とは、今・ここで<私>が理性悟性感性で処理した世界(社会、宇宙)とは何らかの形で”違う”と思える/考えられる世界のことであろう。
 それゆえ、真理は複数存在する可能性がある。

その諸々の真理を見つけて、そして私たちは何をするのであろうか?

おそらくそこが自由であるから、だから悩ましいのだ。自由とは、本質的に悩ましいものなのだ。
それでも近代は自由という価値を最高の産物としてしまったのだから、近代人は悩ましい存在として<生>を実行するしかなかった。

もう、自由を自由と呼ぶのはやめよう。
おそらくそこから、新しいセカイが発生するのだから!

@ misty

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複数体は賢慮か馬鹿か?

こんぱら、mistyです!

2011年最後の記事! 最後の記事らしくはないのですが、まぁいつも通りということでやっていきたいと思います~笑

2011年は、日本にとっても世界にとっても本当に大きな年でした。。
 歴史を忘却してはいけないと強く感じています。
2012年は諸々の事物の回復の兆しの年になって欲しいです! というかします!してみせます!1人だけじゃ無理だけど!

@複数体は賢慮か馬鹿か?

 非常に簡単な問いであるが、恐らくこの問いは深い。

すなわち、人が複数人集まった時、彼らは個人でいるよりも賢くなるのか、それともヨリ馬鹿になるのか、そもそも比較すべきではないのか、という問いである。

この問いは、筆者の感性=直感の経験からきている。

 その答えは、人は集まると、ヨリ賢くなる時もあり、また時にはヨリ馬鹿になることもある、パラドックスをはらむものである、と。

ここでは、人が複数集まったその団体形態のことを、「複数体」と呼ぶ。
 慣例上では、「集合体」と呼ぶのが一般的であろうが、集合体と呼称するとどうしても全体的なイメージが出てくる。 10人だったら10人全体みたいな。
 筆者はそうではなくて、任意の人の集まり、つまり2人以上の適当な人の集りのことを意味したく、「集合体」ではなく「複数体」と呼ぶことにする。

考察には入る。 a.考察の前提 b.賢慮になる場合(集合的賢慮) c.馬鹿になる場合(集合体的馬鹿) d.検討 e.総括

a.前提

 そもそも比較すべきでない、ということには直ちにはならないと筆者は考える。ここで複数体の意志や行動を観念するのは、個人の意志や行動との比較においてである。

個人は意志を持ち、また意志を持つか持たないかによって行動する、というのを大前提にする。

パラレルに、複数体も、あのリヴァイアサンのように、何らかの統一的な意志が生じたり、その意志によって行動したりするもの、と定義しておく。

 (したがって、本稿の問いの、「そもそも比較すべきでない」といった答えは、私の思考上排除される。)

b. 賢慮になる場合

 「三人寄れば文殊の知恵」、そして近年の注目のテーマ、「集合知」などがその例である。

三人寄れば文殊の知恵とは、一体どういうことなのだろうか?

 それは合理的に考察していくと、複数人の各個人が有する差異が、うまくバランスよく組み合わさって、1人(個人)の意志や行動よりも、ヨリ素晴らしい/効率的な/正しい/合理的な/快楽的な/プラスの意志が生まれ、それが行動につながるということではなかろうか

個人個人はそれぞれ異質であり、そのことなった部分が、相互補完的に機能したりする、ということである。

例を出そう。 「3人で、うまいタイ料理屋を探す」ことにしよう。
 Aは、世界史に詳しい。タイの文化や歴史をよく知っている。しかし、相当の情報弱者である。
 Bは、世界史に詳しくない。 他の3人に比べて国際的な人間関係を持っている。普通程度の情報弱者である。
 Cは、世界史に詳しくない。タイのことも知らないし人間関係も国内閉鎖的である。 情報強者である。
単純だがこのように3人を差異化する。

Aが、独りで「タイ料理食いたい」と望んだとする。しかし店を知らないし、携帯のネットの使い方もよく分からない。おそらく、A独りでは、タイ料理屋にすらそもそもたどりつけない可能性が高い。
Bの場合。国際的な人間関係のおかげで、「友人達の間で話題のお店」に入ることはできる。しかし、店の場所が複雑で、辿り着くのに結構時間がかかるだろう。
Cの場合。 店はメジャーな料理店からマイナー料理店まで、交通アクセスや料金まで詳しく調べられるが、そもそもタイ料理屋に行こうと思わない。

3人集まればどうか。
Aは、「じゃあ今日の飯はタイ料理屋がいいな!この前旅行行ったときマジおいしかったんだよ!」といい、「飯のカテゴリーをどうするか」の出発点をそもそも定めてくれる。
Bは、「じゃあ、タイと日本のハーフの友人に聴いてみよっか?」と答える。
Cは、「じゃあマイナーな店とメジャーな店どこにする?」と答える。

 Bが、その友人の友人がやっている小さなお店の名前を聞き出す。
 Cは即座にググッて、アクセス・料金等を比べ、その店がとてもいいという口コミも得て、3人はそこへ行った。 行くのに手間もかからないし、Aがタイの文化をよく知っているからネタがつきないし、実際ご飯はおいしいし、最高の結果であった。
 Aは、Cから携帯ネットの使い方を教えてもらった。Cは、タイのことを知った。 Bはその両方。

これが「三人寄れば文殊の知恵」ではなかろうか。 個人独りではなかなか達成できなかったことが、3人集まることによってよい結果を出し、更にそれぞれ各個人に別々の利益が還元される。

繰り返しだが、大切なのは各個人の差異がうまくかみ合っていることである。
3人とも情報弱者であったらダメだし、Aがタイのことをよく知っていないと雰囲気が盛り上がらないだろうし、Bがいないと友人の友人という親密的なお店を知ることがなかった。

「集合知」についても、あまり文献を読み込んでいないのだが汗、おそらく文殊の知恵論と似た構造を持つと考えられる。

さらに付言すると、具体的には集合の人数は、3,5,7といったように奇数がいいと思われる。そして、人数の上限は10人くらいが適度だと考えられる。
 なぜなら、偶数は、4人vs4人といった、ちょうどの二項対立を作ってしまう可能性があり、多数決の法理を採用する場合に不向きだからである。また、人数が多すぎると意見の集約そのものがさらに困難になる。

c. より馬鹿になる場合

 これが、おそらく「文殊の知恵論」がうまく機能しなかった、裏目に出たときとイコールなのではないかと考えられる。 つまり、諸個人の差異がうまくかみ合わなかった時だ。

A タイに詳しい・情報弱者
B タイに詳しい・情報弱者

 AB二人では、二人とも路頭に迷うのがオチであろう。 それでは、「なぜ俺たちはわざわざ集まったんだ」というストレス=コストがかかってしまうことになる(!)。

 
(※ ここが非常に大切なのだが、何故、人同士が集まることが時としてそれ自体コストと観念されるのだろうか?
 
それは恐らく、近代から連綿と続く個人(行動)主義 の禍いである。個人を重視するあまり「個人(独り)が生きやすい世界」という神話が形成され、「集合する時のメールが面倒くさい」「遅刻してきた奴の制裁がめんどくさい」とかいったストレス=コスト言説を生み出すことになるのだ!愚痴は誰に対してもマイナスになりやすい。 ここは、近代の負の遺産であると筆者は強く考える。だからといって、集団主義がヨリ正しいという事には全然ならない。)

この差異がうまくかみ合わなくなったときというのが、非常にイメージしづらい。なぜなら、人の差異による構成などそもそも予見することが非常に難しいからである。相手が親友であろうがまったくの赤の他人であろうが全く同じである。 親友だから分かっているつもりであるというのは幻想に過ぎない。

d.検討

 それでは、どのように諸個人の差異をうまくかみ合わすようにすればいいのか、といった政治ー社会設計的な発想が出てくる。
 それはもちろん、差異の統合体としての個人=人間の、予見可能性を高めるといったことがまずだいいちに考えられる。では、どのようにして?

 すると、管理社会論にいきつく。 個人のデータを全て集積し、なるべく分かりやすく分かりやすく公共圏の場にさらけ出すという事である。

 当然、今注目の「個人のプライヴァシー権」といった法ー政治概念が阻止要素として立ち現われてくる。

非常にありきたりな発想である。他にないだろうか? ハイエクの自生的秩序か?

 アーキテクチャ論になる。

e. 総括

本稿ではここまでの考察となる。結局、00年代の未解決問題である管理社会論orアーキテクチャ論の深化、といったことに繋がってしまった。

 もちろん、集団的馬鹿を忌み嫌うだけというのも寂しい。 A・B・Cの3人がイライラしながらもタイ料理屋を探すのに悪戦苦闘して、その悪戦苦闘している自分達をも笑えるような状況を作り出す、といったことが常にできるのであれば、それに越したことはない。

 しかし、集合的馬鹿は、その要因が見えづらい。だから、要因(原因)ー結果論という思考枠組みでは、処理しづらい。
 機能主義的に考えると、やはり集合的馬鹿はなるべく回避された方がいいということになり、先ほどのa→dの繰り返しである。

筆者がこの問題を強く考える動機は、政治の民主主義の方法論においてある。 民主主義の必要不可欠な「意見の集約、行動」というときに、集合的馬鹿=衆愚政治 はやはり防ぐべきである。 衆愚政治の回避を考察していきたいが、それは博士論文になるときまで待とうか。

「差異がうまくかみ合っている場合」の状況を仔細に、具体的にもっと細かく分析する必要があると考えられる。

以上

@ misty


***

よいお年を!☆☆☆

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
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1989/03/19
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
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*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
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