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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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人に優しく、自分に優しく

こんぱら。 mistyです。

ショートエッセイ。

@人に優しく、自分に優しく

1.
本当に、強くそう感じます。

人に優しくすると、自分にも優しくできる。

逆に、自分に優しくすると、人にも優しくなれる。

AKB48の秋元才加ちゃん(通称オカロ)が、成人式を迎えたときに、抱負として「人に優しくできるようになりたい」というのを、とても想いを込めて言っていました。

その時は、「人に優しくするなんて、なんて難しい事を抱負として考えれるんだろう…。」
くらいに受け取っていたのですが、
それがジワジワ、私の心にも広がってきているようです。

人に優しく。
それから、自分にも優しく。

私たち人間ひとりひとりが、人間性を維持し発展していくためには、この極めて抽象曖昧な「優しく」という心を、持つことが大事だと強く感じました。

2.
また、この「優しい」という概念を科学的に解明し、客観的に説明・人に伝染・或いは変換行為を経て「モノ」化させるようなある意味危険思想は、意外に現代哲学の固有の問題かもしれません。

<生哲学>の流行は、一般に、今日の日本社会がもろに示す暗い雰囲気の中で、脚光を浴びることは間違いない。

暗い所に、光を当てる。 それが、「啓蒙主義」の根本理念。

私たちに、光はあるのでしょうか。

否、光というものはもとから存在していて、私たちはそれにただ単に認識できずにさまよっているというのが、私の今の所の大雑把な見解です。

そんなこんな。

misty @

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福岡恋愛白書6

コンパら! mistyです。

表題の「福岡恋愛白書6」(九州放送限定!)を、AKB48の篠田麻里子ちゃんが主演を務めるという事で、今リアルタイムに観ているのですが…


何コレ、最初の話は青春キュンキュン!! 苦笑

心がきれいすぎるよ・・・。

福岡恋愛白書は初めてみるのですが、あれですね、画面(全体像の絵柄)がとても優しく、キレいですね…!(●^o^●)


さてさて、麻里子様が出る話は2話構成の内の後者という事で、僕はこの青春キュンキュンの1話目を、論文執筆作業をしながら観ます~ww

これ、ホントに他県の人が観るのがいいんだろうな。。

博多女子が放つ「博多弁」は、下手したら世界を征服するで!!


ほな。

misty @


*追記

・白書、観終わりました!  麻里子様の博多弁は世界を征服するでしょうww

・お知らせ  ブログのタイトルを、従前の「フルハウスの嗤い」 → 「フルハウスは嗤う」に変更しました。

 それから、ブログ全体のデザインを変えてみました。 どうでしょうか?(●^o^●) 幻想的すぎますかね?
お気になので、しばらく使っていくかもしれません@

misty @

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Yahoo!知恵袋

こんぱら! mistyです(●^o^●)

今回はただの日記です笑 いちお3部構成です。

1. ついさっき
 生まれてこの方、ついに「Yahoo!知恵袋」を使って、質問をさっき投稿しました!!

ドキドキ… すごい探されずに無視されそう・・・泣

これが僕の投稿した質問のURLです↓

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1355374538

「<○○>という表記があるけど、これってつまりどういうこと?」

って感じです。 あ、このブログ見て下さる方でも、分かる人というか、こうなんじゃないかな~という人がいたら、コメントでも何でも宜しくお願いします!!

<私> っていう表記が、本読んでたりするとよく見かけるんですよ。
 それって、単に 私 と表記するのと、どういう違いがあるんだろうと考え出したら、全然分からなくなってしまって… 恥ずかしい

「わたし」 「私」 「I」  いろんな表記があるけど、

中でも <私> ←  これはすごい多い気がするので!

気になって仕方ないー無視されないでー願わくば。。

2.Yahoo!知恵袋

検索タグを羅列して、ぐぐってポンってすると、たいていウィキペディアか知恵袋が、検索結果の1,2上にきますよね。

知恵袋の基本的なシステムは、

ある程度匿名性のある1人からの、短くまとまった質問を投稿 →  不特定多数の人からの回答が集まる(若しくは当てはまらない) → 質問者が、集まった回答の中から「これが一番スッキリする解だ!」というものに、ベストアンサーの名誉を付与する → スッキリ解決!!


すげえっすよね改めて。  専門の相談人の務めるオフィスまで足を運ばなくても、世界の誰かが、自分のモヤモヤをスッキリに変えてくれるんだもん。

めっちゃ気になります、何故知恵袋は台頭するに至っているのか、こんなにも人気を集めているのか、知恵袋のデメリット・限界はどこか、知恵袋が人気を集めるというのはどういう社会現象なのか


思い返せば、僕は、メールのやり取りのシステムを知らないし、最近のめまぐるしいネットシステムもよく知らない。

 知ってることといえば、HTML言語と、その変換によるHP作成ぐらいだ。。

僕は時代から取り残されているじゃあないか…。

よし、勉強しよ!!

 というより、私、携帯電話がなぜ繋がるのか、ということを全然知らない!

なんで遠距離にいる者同士が、<声>をお互いに送り合ったりできるの!?

同じようにして、知恵袋のシステムも研究したいです!(●^o^●)

3. ブログの内装そろそろ変えたい

表題のとおりです。できれば2週間内に、ブログ移行を目指します!

何だかんだでこのブログシステム、使いやすくはあるんだけど、もっともっと機能的なのは探せばいくらでもあるはずなんだよな。。

アメーバに移行してみようかなぁとか思ったり。
まぁ、予定をしっかり実行したいと思います。

それでは。

misty @

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「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」

amiami_med-dvd2-08495.jpg
こんぱら! mistyです。

日記ですよん。

表題のライトノベル、買いました!

実は僕、生まれてこのかた、ライトノベルというものを読んだことがないんです!
 友達の刺激と好奇心が1:1の割合で、購入決定という作動システムを生み出しました(*^。^*)

「俺の妹が…」、人気みたいですね。
ライトノベルにはまれるか、はまれないか、それが問題だ…。


ここから余談ですが、社会学的な見地からすると、文化・芸術というものは得てして、上位文化/下位文化 という2極化の構造を呈しますよね。

例えば、

「ピアノを弾ける」っていう趣味と、

「1日中ネットでアニメを見続ける」っていう趣味って、

一般的(かつ大衆的)な感覚からすると、何か違いません? 人にはよりますが、

何となく、「ピアノが弾ける」ってすごく高尚というか、カッコいい気がする…。
 
それと比べて、ヲタ文化的生活は、どこか下に見られているような気もする…。

どちらもカテゴリとしては同じ「趣味」、ひいては文化の領域なんですけどね。


どうやら、あらゆる文化は、ある側面において、「上位文化」と「下位文化」といったような上下(格差)構造に、意識の上でも社会の上でも置かれてしまう、という傾向があるらしいですね。


それはなぜなのか? どうして文化内の差別現象が起こるのか??


…すみません、それが分かりません!!

 多分、社会学をはじめとする学問においても、この謎・疑問は普遍的テーマになってると思うので、関連する書籍や意見に、いつかは触れてみたいと思います!


というのが、これ、あんまり認めたくはないんですが、多分僕の中で、今まで「ライトノベル」をどこか下に見ている意識が今でもあると思うんですよね。

 僕が愛する小説=純文学等 → 上位文化
 ライトノベル・大衆小説等   → 下位文化

多分、単純化して話を整理したら、僕の意識システムにおいては、こんな図式が脳内に定着してしまってる気がするんです。

 だから、ライトノベルに触れようと思わなかった。結果、22年間生きてきて、一冊たりともラノベを読んだことが無い。

 多分、大いなる損をしている可能性があると考えられるので、そういう意味でも「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」、買ってみました♪

そんなこんな@

misty @

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熱狂者の苦難 ーAKBを題材にして

こんぱら! mistyです。

すげーだらだらと、AKBをめぐるファン(熱狂者)とそのアンチの対立構造のことを、思い患っていますww
 かる~く受け止めて下さいww

@ 熱狂者の苦難 ーAKBを題材にして

(1)前置き
 AKB48!! お好きですか、お嫌いですか?
akb48-1.jpg AKB48 公式ホームページ









まず始めに言及すると、私はAKBファンです。  自分で言うのはアレなんですが、ハマり具合はおそらく中程度。 
 ((あと、いわゆる「新規」です(ちなみに、ファン層を古参/新規とするこの区別ほど、無意味で有害なものはないと感じている日々です・・・苦笑))

お好きな方は魅力を語ったりだろうし、嫌いな方は秋元Pのえげつない(笑)商業的手法にホント辟易するわって感じだったり、色々ですよね。

AKB48に限らないのですが、あらゆる選好=好きか/嫌いか、の対象とされるものを取り巻く人間を、

熱狂者 / 無関心者 / アンチ(反抗者)


と便宜上、3者を引き合いに出して整理したいと思います。

もちろん、
 熱狂者=ファン
 無関心者=AKBになーんにも関心を持たない人、或いはちょっとうっとおしく思っている人
 アンチ=「AKB」という単語を聞くだけで寒気と怒りを覚える人

という感じです。

 実は私、AKBのファンだな~と実感するようになったその前までは、「けっこうな無関心者」か、寧ろ「アンチ」に近い感じだったんです。
 よく非難の対象になっている、あの秋元康をプロデューサーとするえげつない売り込み方法、超商業主義的態度。  私もAKBが世間に注目され始めた頃はそういう面に当然注意がいって、「AKB、AKBと世間はアホみたいだな!」とふんぞりかえっていたわけです。


ところが、あらら…。

 いつの間にか、「熱狂者」側に来ていたわけですがww
まぁその過程は、今回記述することではありません。


(2)本題
 私が最近すごく痛ましいと感じているというか、うーんどうしたものかというのは、ネット社会に現れる

「熱狂者VSアンチ ( 無関心者」

この構図なんです。

例えばYoutubeのAKBの関連動画のコメント履歴などを参照して頂ければ、意味していることが一発で分かると思うんですが、本当にすごいんですよね、ファンとアンチのその争いが。。 2ちゃんもすごいです。

(参考までに)【PV】 ヘビーローテーション / AKB48 [公式]

 参考に挙げた「ヘビーローテション公式PV」の動画は、さすがにAKB公式運営から配信されているだけあって、コメントの管理がある程度は行われているのでアレなんですが…。私人が自主的に編集したりして作っている動画のコメント欄は、時にすごい様相を呈しているものがあります。。

 で、こういうのって、AKBに限らず、賛否両論を招く対象事物って、普遍的に存在するじゃないですか。
海老蔵問題(海老蔵を擁護したい人VS すげーバッシングをするメディア・一部の世間)然り、角界崩壊問題(相撲を擁護したい人 VS すげーバッシングをするメディア・一部の世間)然り。

今回の焦点はAKBの熱狂者側から見た、アンチの存在なんですけどね。。

 アンチって、本当に嫌い(生理的に受け付けないとか)だからそういう態度を―反射的にしろ意図的にしろ―取らざるを得ないような人もいて、それは全然わかります。だって嫌いなものは嫌いだし、それを強制的に受容しろと言われても無理は無理ですから! アンチにはアンチなりの存在理由(しかも合理的な)があるし、それは否定するべきものでは全くない。

 しかし、そういうある意味純粋なアンチを除いて考えてみると、よくあるアンチ的態度は、単なる煽りだったりとか、「AKBファンにこういう事言い放ったらきっと争いが起こるぞププ…」みたいな感じで、幼児的な感覚から生まれるものがかなり大半だと思うんですよね。

 だから結論としては、基本的に、アンチに無意味に反応していても、しょうがない。
アンチという存在自体を不可視化するのが、一番良い。スルーが一番良し。


…それは、そうなんです! でも実際には、そういったアンチ的態度をうまく処理できない人、若しくは行為がずっと残存していて、それは途方もない悔しさだとか、何だろうな、水をさされた的な、うまいラーメンに鼻水一滴足らされたー!! みたいな不快感を、生み出しますよね。
 その悔しさなり不快感がまた、アンチに対する冷静な処理を困難にしている。
ますます、アンチと熱狂者の間の溝、不毛な事態は深まり、状況はもやもやする一方。

 ネット社会では、こんな、見ていてすっごく哀しい状態を、すごくよく見かける気がします。。

 ファン=熱狂者は、そういう本来的にはあまり好ましくない事態に直面しながら、熱狂者であることを生きるんですよね。
 本当は、ファンとファンとの間のみで構成される関係の中で、「あっちゃん大好きー!」「えー私も私も! 最高だよね!」と大切な想いと時間を共有できる環境だけを生きることのことが、どれほどいいことか。それは理想です。現実ではありません。 熱狂者が全体を占めるというのは、本稿の前提からするとあり得ないことになります。

((cf. 例えばこれが「無関心者」だったら、そもそも関心がないわけですから、争いに巻き込まれる事はない訳です。中立(的ポジション)。 
 無関心者からみると、この「熱狂者VSアンチ」の下らない争いを、「何やってるんだキミタチは…」という冷めた、冷静な視点で観察することが可能です。

 だからといって、熱狂者→無関心者 への移行は難しい。 無関心者→熱狂者 の移行は全然あるんですがね。。))

 ネット社会の台頭によって、知らず知らずのうちに、私たちはこの下らない争いに巻き込まれる事態によく逢うようになってしまった。 非生産的な争いが、増えてしまった。 私はそう捉えています。それは、「ネットに自ら首を突っ込むからには仕方のないことだ」という完全自己責任主義の態度からだけでは対処しきれない、地獄図だなぁと。


 …かくいう私が、「アンチは絶対スルー」と心に決めておきながら、つい最近不覚にもアンチ態度に行動として反応してしまっりしてて。。はたから見ればそれは微々たるものですが、当事者の立場からすればそれ相応の消耗がお互いに在り。
 それはもちろん例外なく、より不毛な事態を生みだすだけでした。

(3)結び

おっと、AKBからだいぶ焦点がずれましたww

今回は、こういう事態があってただ哀しいな~と強く感じたことを書き連ねてみました。
 対策法の考慮は対象外です。 対策法があるのかどうかは分かりません。
できれば有効な対策法を考える段階に入りたいですが、それはまた機会があったらということで。
ただ一つ言えるのは、私が提起しているこの哀しい事態は、思っている以上に複雑だという事です!

まとまりのない文章ですみません!! それでは。

misty @

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ルーマン「社会の科学 1」 読書感想(3)

こんぱら!

mistyです。
今回は、第三章「知識」の章を。
読書自体はpp230くらいまでいってるのですが、いかんせん内容が難しくなっている…orz


さて、第三章「知識」。

・知識の位置づけ
この章は、次章の「真理」の伏線にもなっていると考えられ、記述自体比較的短め(pp107-150)です。しかし内容が複雑で、つかみにくいと思われ。

 中心的なテーマは、
「『知識』は、環境とシステムとの構造的カップリングによるオートポイエティックなコミュニケーション・システムにとって、基底となっているもの」
 ということだと思われます( ^^) _旦~~

基底となるものであるとも同時に、コミュニケーションによって獲得されるもの・増幅されるもの、という指摘も。
 ではどうやって知識が獲得されるのか、という事柄の詳細については、読む限りは分かりませんでした…。

 まとめの段落に、こういうルーマンの記述があります。

pp147「知識は全体社会システムの構造的カップリングの結果の総体である、と要約できる。」

「結果の総体」…。  直感で飲み込んじゃいましょう(笑)


・知識と真理/非真理との関係
 真理/非真理 については次章で触れられるのですが、この章にも真理/非真理に関する記述が散見されます。その中でも特徴的なのは、

知識は、ひとまず「真」の知識として出発するということ。
 その際、「真理か非真理か?」という懐疑的態度は、無視できるもの、であるらしいです。

 というのも、0次的な世界(生の実在)は、そもそも真理/非真理 の区別を受け付けない(どっちの状態かをハッキリ明言することはできない、これをスペンサー=ブラウンの定義にしたがって「無標状態」と呼びます)ことからくるみたいです。
 コミュニケーションという作動によって、最終的にはその当該知識は「非真理」―例えば、銀河系は、地球を中心にして回っている(天動説)というのは、誤りだ―であることが言われるかもしれませんが、始まりはとにかく真理の側から出発するそうです。

・「記憶」の重要性

 近代社会とそれ以降を明確に区分けする指標の一つとして、「印刷術の発明」があります。これは、人々の記憶の諸形態、並びに構造をも変化させてしまったようです。

 知識は、絶えず発生し、消え去っていくもの…。 つまり、知識は瞬間性を帯びたものです。

 しかし、ある知識が、<文字>として残され、公刊される事で、過去のものだったはずの知識は、いつでも(現在性の方向)に引っ張ってくることができます。

ルーマンは、この記憶(メモリア)の役割付けを、重視せよ! と言ってます。

 どんな役割付けなのかは、ハッキリとは書かれていません(多分)。 後々明確になってくるのでしょうか。


以上、「知識」の章についてでしたが、正直残念な気持ちです。だって、よく分かっていないし、まとまりがない(笑)

うーむ。 次の章のがもっと長いし難しいのに…。

misty @

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ルーマン「社会の科学1」 読書感想(2)

やってまいりました、続編です。

今回はpp140くらいまで読みました。
だ、だんだん難しくなる…笑

第二章の「観察」を終えて、第三章の「知識」も終えました。
 ところどころ分からない概念が。。

(1) 第二章に行く前の、確認事項
 「観察」の章にいく前に、前回分で載せていなかったことを…。


 まず、「生物学・心理学・社会学」の3者の違い、若しくは区分、あるいは定義です。

この3者がどのように区別されるのか、改めて考えてみると確かによく分からない人も多いんじゃないでしょうか。そもそも社会学・心理学は比較的若い学問ですし。

こんな対応関係になっております。

生物学 → 「生命」のシステムを解明・研究する
心理学 → 「意識」のシステムを解明・研究する
社会学 → 「コミュニケーション」のシステムを解明・研究する

こんな定義らしいです。ちょっとなるほど。
 

 そしてここから話が進むのですが、それでは「生命・意識・コミニュケーション」の共通点は何か??

それが、それらは3つとも「オート・ポイエティック・システム」であるということです(多分)。

オートポイエティックシステムとはなんぞや。
簡単に言うと、オートポイエティックとは、「自己が自己を再産出」するもの(他にも要件はありますが、重要な要件はコレです)です。

 「自己(主体)」の、20世紀的な定義の仕方。 自己(主体)=オート・ポイエティック・システム。

例えば、20世紀以前の、「近代」においては、「自己」の定義について「デカルト的主体」が有名です。
 私とは何か? と問われれば、この考える私こそが、私に他ならない! 考える私こそが、私=自我なのだ!

デカルトが発見したので、デカルト的主体などと呼ばれています。 しかしこのデカルト的主体の概念はその後様々な批判を経て、脱・デカルト的主体 が目指されました。
 オートポイエティックシステムの概念は、その流れの中でも無視できない、新しい「主体(自己)」の定義付けです。

 分かりやすいのは、先ほど挙げた3つの中の、「生命」。 神経生理的な図をイメージしてみてください。
生命を構成するところの細胞は、自ら細胞分裂し、新しい細胞を生み出します。その子細胞は、また親細胞となって、新たな子を産みます。これが半永久的に続いていく。この性質を持って、ルーマンは「オートポイエーシス」と呼んでいます(多分)。

神経生理学的な「生命」は、自己と自己以外である外界を(その方法がどうあれ)区分して、例えば外界に二酸化炭素を吐きだして、同時に外界から酸素を取り込み、そして自己を維持します。 細胞は細胞分裂して「自己が自己を絶え間なく産出」していき、DNAも次々と新たなDNAを生産していきます。 親細胞はいつか死に絶え、そのころには子細胞がその親細胞の地位にとって代わって、またその親細胞が死んで…。
 こんなイメージ。

それが、人の精神作用である「意識」にも、それから社会の基盤である「コミュニケーション」にも、全く同じことが言えるみたいです。

 そして、「社会の科学」では、その3つの内の「コミュニケーション」をシステム論の見地から考察し、よって「社会」を検討していこうとします。

以上が、前提の話です。

(2) 第二章 「観察」 
さて、第二章「観察」について。

前回は「観察の観察」という、二次的なステージがキー概念となるといいましたが…。
 それが具体的にどのような意味を持つのかと言われると、ちょっと困ってしまいます。

要するに、世界の記述の仕方、それが科学の問題だ、と指摘するのみなのでしょうか…?
 曖昧ですみません。 まぁ、これ読書感想ですから笑

 次に、「時間」という概念もキーワードになる感じでした。
つまり、過去・現在・未来という時間が「観察」の現場に持ち込まれることによって、そこから様々な観察が生まれます。 1秒前にみた世界の景色と、1秒後の世界の景色は、全く違うはずです。 そこに、観察の意味がある、といったような論調でした。

 そもそも観察とは、絶え間なく更新されていく作動だ、といった要旨もあったように思われます。次から次へと生まれては消え、消えてはまた生まれ、的な。
 そういう意味でも、やはり時間が流れることは、重要な意義を持つらしいです。
「こうやって私は世界を観察=記述した、はいおーわり!」じゃなくって、どんどん角度を変えた世界の観察=記述 が生み出されることの、担保になる、といったところでしょうか。

 第二章「観察」はこれくらいで勘弁して下さい(笑)


@ misty

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面倒を我慢する

こんぱら! mistyです。

かな~り軽いエッセイをば。

@面倒を我慢する

この世の中は、面倒だらけだ!!!

すごくそう感じます。最近。
 というよりも、最近の僕は、世界や人生のことを美化しすぎていました。理想主義に浸っていました。

現実は、もっともっとグロくて、どうしようもなくて、ほんっとに面倒くさいことばかりといっても過言でもないかもしれません。
 でも、世の中面倒だらけだ!といって、悲観に走るのは、また違います。というよりとてもタチが悪いです。

面倒だらけの世の中を、どう打破するか。

その有効な方法は、やっぱりというか、忍耐(がまん)する力だと思います!

がまん、それは僕がもっともうっとおしく思ってる事です。そう思ってしまうから、いつの間にか忍耐力がすごく落ちていました。。

世の中は不条理だけど、そこから逃げてばっかりでも、意味はない。
 時には、がまんする、辛い状況に、苦しい状況に耐えることも、とても大切だと思います。

がまんとは、力でもあり、思いでもある。 つまり、客観的に指標することのできる(万人に可視的)「能力」であると同時に、心の中で叫ぶ強度=主観的なものでもある。 要するに、両義的って事ですね(*^。^*)

がまんの果てに、利益が待っているのか、何も変わらないのか、不利益になっているのかは分からない。そもそも、人生に於いて、物事を利益不利益のみで片付けようとする思考すら、理想主義に他ならない。

 ならば、やっぱり忍耐がモノを言う。
「いま/ここ」の「がまん」は、何よりも代えがたい強さを秘めている。

それからやっぱりできる人は、忍耐力がある。
すごいそう感じます。

 がまんすることの大切さを、僕も反芻しながら、頑張ってみたいです。

以上@@@

misty@

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ルーマン「社会の科学」 読書感想(1)

こんぱら! mistyです(*^。^*)


ニクラス・ルーマンの「社会の科学」を、2日前からゆっくりとしたペースで読んでいます。

おもしろすぎ!! 
 (cf. ニクラス・ルーマン(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 )

ルーマンって手ごわいイメージがあったけど、すごく読者のことを意識して書いてるんだなってことが伝わってきて笑、中々です。
まだ80ppくらいまでしか読み進めてないんですけどね。

今読んでるのか「観察」という章なのですが、これはポスト構造主義がテーマの一つにもしている所。というよりも、近代科学とそれ以降の大問題。

あれです、われわれ人間の立ち位置は、神にも似た、<自己>を<世界>からある程度距離を置いた所から観察して、そういう風にして物事を考察していくのだ!、というイメージです。

(世界の外部) 人間  ((  世界の内部
               ↑
          見えない壁

※⇔ 故に、自分自身のことは、観察できない (<自己>が<自己の外側>に立つというのはパラドックスですよね)

ポスト構造主義(か、もしくはオリジンの構造主義)は、本当に人間は世界の外部に立つことができるの~?ていうか立っているの~?そうだとしてそれは正しいの~?的な視点から批判を始めていたように思われます。 これは私の勘違い・勝手で誤ったイメージかもしれないので、アテにしないで下さい。

ルーマンは、この<世界の外部から世界の内部への観察>という概念を緻密に検討してました。

今読んでいる範囲内の所でいうと、結局、われわれ人間が観察できた!と思って描いたスケッチは、実在の生の現実そのものではなく、その観察者の思い通りに描いたものに過ぎない、という要旨だと思われます…。曖昧ですいません。

そこで、その観察そのものを観察するという現象に光をあててみようじゃないか、という話になってきております。「観察の観察」です。
 観察者が、どのようにして<世界>を記述しているか、それをこそ観察(記述)してやろうじゃないか、という感じです。
 つまり、「何を」観察しているかが大切なのではなく、「いかにして」観察しているのかが、重要なポイントらしいですよ!

 たかだか1/5を読み進めたくらいなので、うん難しい!

今後に期待☆笑
続くかどうかは私のやる気次第です。

それでは~

@ misty

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共時感覚

こんぱら! mistyです。

今日はもう一つ、なんか話をしたい感じなので、投稿しておきます*

@共時感覚

(1) 個人主義
「共時感覚」という言葉が存在するのか、あったとして学問的なステータスがあるのか、残念ながら勉強不足の私には分かりませんが、要するに「(他の)誰かと同じ時間を共有していると感じることのできる気持ち」です。

 一緒に弁当を食べていて、「あ、おれは今コイツと一緒に飯食ってんだな」と思うその感覚の事です。

 なぜそんな一見瑣末なことに思える事柄をテーマにするのかというと、この共時感覚というものは意外に奥が深いから。と私は考えています。
 
 偏見だらけで、とても大雑把な社会の見方ですが、現代社会はある面に於いて、集団主義から個人主義へ移行しつつある(むしろ現代社会=個人主義である)と言われています。
 つまりは、個人個人がそれぞれ独立―したかのように見える―して生活なりを送っていくことのできる、またはその傾向にある社会が現代的であるということ。
 話を限定するため、日本にしましょう。

(2) 核家族、便利社会
何故、個人主義が台頭したか?
これを説明するのが、「核家族」というキー概念です。 よく説明されるように、以前の日本の家においては、子供ー親ーじいちゃんばあちゃんといったような、複合家族を単位として社会共同体が基礎されていた。 それが江戸時代の頃から、さらにはWW2後のブームともなった、子供ー親 のみで構成される家族が中心となった、という記述。
 核家族の諸問題の一つとして、とてもあいまいなものではありますが、タテのつながりの希薄化がもたらされてしまった、というものがあると考えられます。まぁそれは、昔は一緒にいたかもしれないじーちゃんばーちゃんとは、別々の場所で生活をするだけで、密な関係性が築きにくくなるのは当たり前です。

複合家族から核家族へ、家族という人間にとって最も大きい存在である所の共同体の構成が縮小された。

 さらに、世の中は「便利社会」となり、「ネットで何でもできる」というイメージからも伺われるように、比較的「1人で」生活することがより楽になった(推進された)。 「家」(=共同体)を作らなければならない!という束縛から離れ、文字通り「個人」として生きやすい時代になった。

 人とのつながり、例えば親子の関係性も、未来永劫絶対的に必要なものではなくなり、ある種、手段的に対象化されるものになるでしょう。人間関係は、「必須事項」から「選択事項」へと移行しつつある。

(3) 共同体
 しかーし! ここで私がちょっと待てよと言いたいわけです。
というのも、私は、人というのは本来的に、他人との繋がりを求めずには居られないという仮説を支持しています。
 いくら個人主義がまかり通れど、厳密な意味でたった1人で生涯を形成していくことは客観的に不可能であるし、人数が多かれ少なかれ、人との関わり合いは必要になってきます。

 そこには、「共同体に生きなければならない宿命」とでもいうようなものがあるのでしょうか。
共同体に生きることは必ずしも完璧とか、そういうことではないと思うのですが、例えば大きなメリットを挙げましょう。共同体、つまり複数人の人達で生活を送ると、そこには何かしらの「秩序」が生まれます。
 例えば、「朝は最低でも8時に起きる」「ご飯は協力して作る」などです。
秩序は、役に立ちます。人を律し、全体を効率的かつ体系的にまとめあげていきます。

「オレは好きな時に寝て、好きな時に起きる! 勝手にやらせてくれ」 ← たぶんこんな人は、健康面でひどい目にあいますwww

早いが話、群れて暮らす、同じ時を過ごすのには、やはり歴史的に見ても、政治の観点からみても、なかなかの魅力があるということですね。

(4) 「我々は元々群れていたがそれが細分化され、そして再び結合しようとしている」

 現代社会のイメージ、それはネットカフェのブースのような状況。 各人それぞれにはネット環境という素晴らしい利器が与えられ、それぞれはブースという単位で区切られ、互いに干渉することなく、「個人」での楽しみを追求することができる…。
 人は、ちりぢりになっているように見える。

 しかし大切なのはここからで、そのちりぢりになった所で人々がネットに夢中になっているのは、ツイッターやSNSだったりするわけです。
 つまり、ネットの向こう側にも、匿名性の皮を着た、生身の人間がいるのは分かり切っているはずで、結局そのベールを包んだままの存在と戯れる。 ブースで区切られ「個人」を手にしたはずの現代人は、しかし、終局的には再び「集団」を求めているということ。

 これが、現代社会の生の姿、なのではないかなと思います。
 「集団」から「個人」へ、そして再び「個人」から「新しい形の集団」へ…。
私たちは個人主義にどっぷりつかっているわけではなく、「集団」と「個人」の間を行き来する、中々不安的な存在であるのではないでしょうか。

(5) 共時感覚

ツイッターTwwiterでは、各人の瞬時のコトバ(=「ツイート」と呼ばれるものです)が、時間軸(「タイムライン」と呼ばれます。)に沿ってリストアアップされていきます。 あの人がこの時間ああゆうことを発言したかと思えば、この人はこの時間にそんなことを思っている、それを俯瞰的に眺めることのできるのがツイッターです。

 ツイッターでは、「この人と同じ時間を共有している!」という想いを大変強く感じさせられます。1人家に帰宅して寂しいと思っても、パソコンのふたを開ければ、そこには姿こそ見えないけど大切な友人やタレントが「生」を送っているらしいという生の現実が、ありふれています。
 1人でも、複数人の存在をより身近に感じることができる。実はこのポイントこそが、ツイッターブームを支えている最大要因なのではないか、と私は考えています。まぁこれは余談ですが。

それは、いわゆる共同体チックな、それでいて形式的には「1人」で行えるとても利便性のある、体験です。「集団」と「個人」を程良く両者とも味わえる。

 共時感覚は、人を支えるきっかけになりませんか? 例えば勉強を1人でしていて、どうもはかどらない。そんな時、周りにいる友達が同じように必死に勉強している姿を見て、「あぁ私も頑張らなくっちゃ!」と起動力をもらうきっかけになります。
 それはおそらく、共同体生活が生み出す秩序からさらに派生された、「共時感覚の安心感」とでも呼べるものです。私一人ではない、私だけが存在しているのではない、確かに近しい存在が私の周りにもいるんだ…。こう感じることで、人は無意識的に安堵をおぼえる節がある、と私は考えています。そしてそれはごく普遍的なことです。

「個」がやたらと強調される社会風景だからこそ、共同体、共時感覚のようなどこか懐かしいようなものがとても貴重に思えてくる。
 これからも、共時感覚の存在は益々脚光を浴びることになるだろう、と、本文を以て指摘ができました!

はい、終わり♪

misty @

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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男性
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1989/03/19
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学生
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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