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ブログ更新☆現代恋愛理論

現代恋愛理論

こんばんは…。 一度起きて寝られなくなったので。

簡単な話でもさせて下さい(^o^)/

恋愛について。
はいそこ、オタクが恋愛について語ったら終わりとか言わない!笑笑
最初に別記事の「あとがき」を読むとスッキリすると思います!

 ありとあらゆる生命体の生物学的な生存の目的(意義)は、オートポイエーシス、つまり自己再生産です。もっと分かりやすく言うと性行為をおこなって子どもを作ることです。それによって種は持続し、クロニクル(時系列的)に自己を維持できます。


 そこで、昆虫や動物などと人間の違いは何かと言えば、恋愛をするか否かというのが一つのメルクマークになると考えられます。
もちろん、昆虫や動物も求愛行動は取ります。しかしそれは結局のところ、性行為を即時的に行うための一連の動作となっているのが判明しています。

 人間だけが、性行為そのものを目的化するのかは任意にまかせられている(つまりセックスをするかどうかは付き合うための必要条件でない)、恋愛をおこなう存在だということが導かれます。

セックスを伴うか伴わないかがどうでもいい恋愛とは何かー。これが本論の射程です。

 もちろんセックスのみを目的とする恋愛も存在しますね。快楽のためのセックスというやつです。こいつは非常に分かりやすい。性行為をおこなう際には、それを推奨するため相当の快楽を生命体は与えられます。その快楽の無限行為が、セックスのための恋愛です。

 それに対し、より一般的な恋愛は、性行為がその間柄において占める割合は多くはありません。特に学生時代の恋愛はそうです。社会人に比べて時間の融通がききやすいというのもあって、デートから自宅

まったりからお買い物やらオプションが多い、その中の一つにセックスがあるといった感じです。

もうこれ以降セックスという単語は出てきませんのでご安心を笑

 結論から言えば、性交(出た!笑)をかなりの程度任意にまかせる恋愛とは、「繋がりのための手段と目的が一体となったもの」と考えられはしないでしょうか。
ポストモダン社会においては、ゲマインシャフト(ムラやマチ等の伝統的共同体)が崩壊したのち個人は個人として多様性(たくさんのオプション)の世界で孤立化させられることを余儀なくする一方で、どこかで(理解不能と分かっていても)他者と繋がっていたいという究極的なダブルバインドの生を生かされます。

 そこで、男らしく育った存在は、女らしい存在と、女らしく育った存在は、男らしい存在とペアになる二対構造が非常にスムーズになります。これは主にジェンダー(社会的性差)の交錯=工作と考えられます。

 僕自身の経験で言えば、女性にしか興味が持てないし、なごむ話やまったりした話は女性としたくなるというのが本音です。男性はむしろ仲間意識が非常に強いから、理念や社会について語りたくなります。もしくは下ネタ爆←18禁じゃねーか←

 一般的な恋愛が、「繋がりのための手段と目的が一体化したもの」

 手段というのは、簡単でしょう。恋愛を手段として、究極的に孤独な個人を、困難でも何か生ずる可能性のあるコミュニケーションによってその何かを生み出す。それは間主観性であったり、二人だけで完結・閉鎖したユートピア/幽霊界的なセカイを手に入れることができる。〈フタリダケノセカイ〉という奴ですね。

 一方で、恋愛自体が目的となっているというのは、繋がりそのものに価値があるということで価値観が一致した前提で、繋がり自体を目的とするということです。この場合、繋がりは事例差もあるとは思いますが、恋愛のケースにおいてはそれの求められる強度は強いのではないかと。
(ちなみに繋がりそのものに価値を認めコミュニケーションを論ずる代表格は北田暁大です。気になった方は彼の著作をどうぞ。)

 ここからがちょっと面白いのですが、繋がりを手段とした場合、結局繋がりの強度そのものが高まってしまった、つまり繋がりが目的となってしまうというパラドックスが生じます。
反対に、繋がりを目的としていた場合、繋がりが逆に趣味の一致や人生観の一致などを非必然的に生み出すことがあります。これは恐ろしいというか、事後的に見れば恋愛は必ずしも必要ではなかったかもしれないということです。他の代替装置(オンラインゲーム、麻雀、スポーツ等)でもよかったかもしれない。これもパラドックスです。

だから、私は現代の恋愛を、
「繋がりの手段と目的がいっしょくたになったもの」

と定義せざるをえなくなったわけです。

 以上、現代恋愛理論でした~。 コメント下さると嬉しい限りです♪
おお5時40分か…。

参考文献
東浩紀+濱野智史編『ised 情報社会の倫理と設計』
北田暁大『〈意味への抗い〉』
----『コミュニケーション-自由な情報空間とは何か』

***

あとがき


ちょっとしたあとがきです。

 最近のカップルは、セックスレスな人たちが割に多いということです。それは何故か、ということを説き明かすのが、「現代恋愛理論」の目標でした。

 事態は二極化していると考えられます。
セックスレスなカップルが出現するかたわらで、一方では性的快楽のみを目的とするコミュニケーションが横行している…。
いわゆる中道というのが見つけにくいのです。

 本論のギロンは北田氏の「繋がり自体の価値化」という概念をおおいに参考にしました。

 ちなみに、本論はひろく社会学に分類される、アカデミックなエッセイです。

 学問とはこんなものだというのを感じてもらえたら嬉しい限りです。文系大学生はこういうことを思考してます笑笑


以上

 

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「九州人」の想い―本州/九州の比較文化社会学的考察―

@「九州人」の想い―本州/九州の比較文化社会学的考察―

 (今回はエッセイです。「○○人」という大胆な括りをしかも大雑把にまとめているので、だいぶ議論を呼びそうな内容になりそうです汗汗)

 僕は、岡山生まれ、岡山/広島 育ちです。ですから中国地方が基盤にはなっているのですが、親の世代で関東や関西、さらには四国(さすがに東北・北海道はいない)の友達も多いです。

 大学は九州です。九州にきて5年間が経つのですが、ずっと思い続ける・感じ続けさせられることがあります。

それは、「九州にいる人/そうでない人」という区別です。
 ※もちろん、生まれがどこかによって物事を区別する先天的運命論という、ある種の生物学的ジェンダー論調にも似た雰囲気になってしまいそうですが、それとは違います。このまま少しお読みください。

 九州大学では、実に8割方の学生が出身が九州です。福岡ではなくとも、熊本や宮崎、鹿児島など九州9県からよりどりみどり集まっています。
 この本稿においてだけ、「生まれ、育ちが九州の人」のことを「九州人」と呼ぼうと思います。

なぜそう呼ぶか。それは、僕が九州で生活をしていて強く感じ続けることがあるからです。

彼らにはある一つの特徴、すなわち”精神なるものの力に対する強い信仰”が見受けられます。これを、単に”アツさ”という言葉に置き換えてもらってもかまいません。(「信仰」という言葉を使ったのは、僕の考えでは”精神”なる概念そのものがそもそも曖昧であり観念論的なものであるから、それはすなわち宗教的色彩を帯びると結論づけられる故です。)

 簡単な例を挙げると、例えば病気。 僕は、不安神経症を患って(6,7年)いるのですが、九州人は『病は気から』というスローガンを全ての病気において当てはめようとします。彼らに言わせると、「風邪は引くもんじゃない」「精神病なんて気が弱いだけ」。

 現代医学的な観点からいえば、風邪や下痢ならまだしも、不安神経症は幾つかの生理学的特徴をもっており、少なくとも「そんなもの気の持ちようじゃ!」という言葉が真理性を帯びないのは当然のことです。
しかしそんな現代的状況にあっても、彼らは精神医学を信用しません(まぁ、九州に限らず一般に精神医学には慎重になるべきだと思いますが、それは別の箇所で)。


 彼らは、自分たちの精神/心 の生成や、変化、ひいては精神的構造を下部構造とした個人観/社会観 を時に強く論じます(主に酒の席で)。
 簡単に言うと、「俺の~な想いが強くて、…」「そういう~な態度はこれから先、…」「私のこの心…」 といった発言が、ものすごく多いということです。学問の世界でいう所の、個人アイデンティティの形成の物語や、社会=世界への参入・変革、ライフストーリーといったものを、およそ精神なるものから全て引きだそうとします。

 唯心論です。 心的なものしか世界にはない、とまではいかずとも、心的なものがまずはじめにありき、といった態度が、九州人には僕の目から見て備わっているのです。


ここでお気づきかと思いますが、「九州人」と呼称したからには、当然比較対照するべき概念が必要となります。
それを僕は「本州に生まれ、本州に育った(しかし東北地域だけは例外とする)人」=「本州人」とします。

 九州人は、一言でいってしまえば、アツさがあります。
反対に、本州人は、一種のクールさ/冷たさをもっています(僕自身も当然そうです)。 「東京の人は冷たい」「都会の人は冷たい」という格言があるのは偶然ではありません。

このアツさ/クールさ、はあくまで相対的なものです。 私たち本州人は、一般的に言って、”精神/心”という概念を疑ってかかります。それがめちゃくちゃ複雑なものであるとは考えますが、少なくとも”モノ”のようにその場にぱっとあるものといった実在論的な位相で捉えたりはしません。実在論的な位相で捉える例外状況は、先程の精神医学です。そこでは異常な心的状況を生理学の位相にズラし、そこにおいて薬の投与やカウンセリングといった極めて近代科学的な処置を施します。

 本州人にとって「心/精神」なるものは観念論的なものです。だからこそ、オウム真理教は少数の信者を集めた後袋叩きにされ続けています(仕方ないですが)。宗教は危険なものとしてしか機能しません。

 そして本州人は、アツさを以て物事を処理しません。というか、慎重だったり懐疑的だったりします。
どちらかというと、唯名論的思考の方が強いです。 全ては”モノ”的なものから出来上がっており、それらがシステムを成したり組み合わさったりしてセカイは動いている、という考え方です。そこに人のココロの重要さ、とかいったイデオロギーは介在しません。いや、介在するとしても一要素に過ぎません。

 本州人にとって、人の心は、あくまでそれであって、それ以上のものではありません。経済、政治、自然環境、他の様々なシステムから世界は成り立っていて、心的システムはその一部に過ぎません。いわんや、「精神/心構えが全て」などどうして言えようか。


さて、九州人、アツさ、観念論、唯心論
   本州人、クール、実在論、唯名論といった実に単純な二項対立によって議論を進めてきました。

 大事なのは、ここからです。周知の通り、現代的状況にあっては、そもそも九州/本州 といった地域的区分が交通手段やネット環境の利便化によって無効化されつつあるので、実はあまり峻別することには意味がありません。つまり、両極端にいるような人はイメージがしにくく、僕とて唯名論者なんかじゃありません。苦笑 
 しかし、九州の奥底の奥底には、こういったものがはっきり存在している。それは感性のレヴェルでしか言えませんが、僕はそう感じます。

時として、九州人のそのアツさが怖いのです。なんでそんなぼんやりしたものをあたかも実在するかのごとくよってたかって信仰して、社会に臨もうとしているんだろうと。 フーコー読んだのかと。

逆に、私たち本州人も、九州人やそれ以外の地域の人達から見たら、同様に怖く思われることがあるのかもなぁ、と思います。

大切なのは、差異(違い)を意識し、共有圏をつくりあげること。理解しなくてもいいのです。共有できればいいのです。

そんな感じで、本稿を締めたいと思います。 公「共」圏 の大切さです笑 いや、冗談ではなくて。

@ misty

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戦争(争い、闘争)への一歩

こんぱら! おはようございます、mistyです♪

簡単なエッセイを♪

@戦争(争い、闘争)への一歩

昔は、なんで人々は戦争を絶えず繰り返しているのか、さっぱり分かりませんでした。
 今もよく分かりません。

…いや、分かります。いろんな利害調整が働いたりとか、世界大戦がはじまる前の、戦争にネガティヴなイメージがそこまであまりついていなかった時代までは栄光とか復讐心の完成とか、、、

「戦争」とひとくくりにして考察するのであれば、各時代ごと、各地域ごと、等なんらかのメルクマークを取り入れて個別的に検討するのがホンスジでしょうね。そのとき、経済学や政治学、精神分析なんかも役に立ちそうです。
 ”戦争”に原因が確定すれば(つまり因果性の概念でとらえきれれば)の話ですが。 僕は、機能主義の立場を最近採っているので、”戦争の原因”そのものにスポットライトを当てる気はさらさらありません。

 しかし心理システム的に、一つ分かったらしいことがあります。

 それはどの時代の、どの地域の戦争においても、戦争遂行者の心理としては、「他者への恐怖」が根源として働いているのでは、と。
 これは、さらっと読むと至極当たり前な言説なので、「他者」と「恐怖」の2つのタームに分けて説明します。

まず”他者”。 もちろんこれは、”自己””我々”との相関において捉えられるべきものです。

他者の例には、子供や外国人(英語ではなく、南アメリカ民族あたりのマイナー言語)がいいかな。私たちは、いつもそうですが、他者とコミュニケーションを直接にしているわけではありません。これが大前提になります。ニクラス・ルーマンの発想なので、なわきゃないと思う人はここで読むのやめて下さい。

 私たちは、常に相手から返ってきた返事を自己の内において処理し、その返事の意味を推測し、そうしてあくまで自己の内から自分の言葉を言葉として発します。 向こうも同じことをやっています。それは相互行為でなく、二者の行為が同時的に複数成立しているだけです。 他者への呼びかけは、あくまで自己の範疇を飛び越えません。
 しかしこういった単なる二つの自己言及的行為が、たまたま奇跡を起こして「わけのわからんが面白い間」とか「不思議な空気」を作ったりします。

 さて、この上で、私たちが全く親密でない、どこのだれかもわからないような子供(分裂症的)か、どこのどこだかわからないような外国人と、出くわしたとしましょう。どうしますか?
 直接面と向かえば、ボディランゲージなどを駆使して「対話」は起こる可能性が非常に高いです。

しかし、一つ間ができた場合には。 おそらく、普通の感覚であれば、ヨリ距離を一歩とろうとするでしょう。つまり、自分のテリトリー(自分の可知的な領域)にこもろうとするでしょう。
 さっきのコミュニケーションの原理からしたがえば、私たちはいつも、自己の内において、相手を処理しているのです。相手と直接コミュニケートすることはまず少ないです。とすれば。
 私たちはその相手に対して、「この子供はきっと認知症的な何かに罹患している」「この子供はきっと3~4歳くらいだろう」「この子供はよその地域の子供だろう」「この外国人は○○の生まれであろう」「この外国人は英語をしゃべれるだろう」「この外国人は少し体格的に危険な人物だ」  など色々なことを思います。

 その思いは、ラベルとなって、いわばこちらからの防御/攻撃態勢となって、相手とのコミュニケーションを図るに至り、その役割を果たすのです(心理学でいう所のラベリング機能です)。 このラベリング機能が働いている間においては、相手は、相手であって相手でありません。なぜなら、そのようにラベリングしたのは、自己なのですから。分かりやすく言えば、その相手は、あなたが作った頭の中の産物ですから。

こうして、他者の、他者だけが有する<他者性>というものは、一気に引きはがされることになります。どんどん、自己が他者の他者性を引き離して、なんとか他者を理解しようとするために、予め「あいつ(他者)とはこういう奴なのだ!」という決め付けを無意識/意識的におこないます。他者の<他者性>は拡大された”自己”の範疇に収まります。なんとか、他者よ可知的であれ!と、自己防御が働きます。

 ここで重要なのは、そうしたラベルや推測は、相手(他者)の本当の姿かどうかは、相手(他者)の反応をちゃんと見ていない限り、いっこうに知りえないという事です。

これが、見知らぬ他者に抱く、根源的な恐怖につながることは想像に難くないでしょう。その推測/ラベリングが外れていた場合、たぶん私たちは慌てふためきます。それか、「分かったつもりにしていた」他者(の他者性を忘れて)が、全く分からないと感じたり。 推測はあくまで推測なので、外れることもよくあります。しかし、私たちは往々にしてその推測を推測だと認識していないため、「(勝手に)分かっているつもりの他者が分からなかった」と嘆き、そして恐れるのです。これが恐怖のはじまりです。

他者の<他者性>を軽視したこの態度は、相手をよく見もしないままに、また新たに相手をラベリングすることになり、「あいつは自分のことを分かってくれない奴だ」「あいつは危険な奴だ」と自分に有利な推測を打ち出します。そうして、勝手に(!)敵視するのです。

これが、おそらく戦争(争い、闘争)の根源的要因の、大きな一つではないか、と私は強く考えます。
集団自己防御が集団恐怖に代わり、はては集団憤怒に代わり、相手と有効なコミュニケーションを取れないことが”戦争”への火種になる。

出発点はルーマンのコミュニケーション原理からでしたが、ルーマンは社会の最小単位をコミュニケーション(個人/人間一人ひとりではない!)におきます。そのことも、こういった例からよくうなずける気がします。

大切なのは、他者の<他者性>を、そのまま尊重すること。不可知なものを不可知なままやりすごすこと。

コミュニケーションの大半なんて、自己の自己演出ですから。勘違いが勘違いを呼び勘違いになってドカーンと争いになった、そんなんばっかじゃありませんか?笑

長くなりましたが以上です!

misty @

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きれい・かわいい・かっこいい/”オシャレ” の区別

 

 こんぱらーmistyです! 深夜更新です。少し昼寝をし過ぎたようで…
それだからというわけでもないんですが、今回はすごく肩の力の抜けたエッセイでも(*^_^*) まぁ、基本的にいつも大したことを言っているわけではないんですけどね…←

@きれい・かわいい・かっこいい/”オシャレ” の区別

 褒め言葉は、たくさんあります。人に対する賛美に対してもそうです。それほど、賛美への気持ちというものは多義的であり、またいくら言葉を変えても表しきれないものであり、それだけ深いということでしょう。

最近のワカモノ(笑)の、主にルックスに対するホメ言葉としては、女の子だったら【かわいい/きれい】が主流で、他はよく分かりません。男性だったら、クールとか、かっこいいとか、ダンディ(笑)とかありますかね。

さて、女性男性を問わずして、”オシャレ”という言葉がほめ言葉の一つとしてあると思います。
 「○○さんオシャレー!」 とかいうのですね。

 この”オシャレ”という言葉は、他のほめ言葉とは差異があるように感じられます。
主流的な(主にルックス面に対する)褒め言葉は、きれい・かわいい・かっこいいですが、この中に「オシャレ」という言葉を同格的に扱うのはちょっと違うかなーという気がします。

というのも、オシャレというのは、専ら”ファッション”を背景として、それとの関係において使われる言葉だからです。

「○○さん・君がオシャレ」というのは、何よりもまずファッションが良いということであり、その人のルックス/全体像に対するほめ言葉としては、本質的に違うということです。

しかし、ごまかしか拡張か、「きれい・かわいい・かっこいい」という言葉と並列して、今やオシャレという言葉は同格に扱われているのが現状です。
 ごまかしとして捉えると、それは皮肉にも似た、一種の冷たさに他なりません。
他方で、拡張として捉えると、ファッションそのものも含めて、人物に対する賛美の構成がなされている。分かりやすく言えば、ファッショナブルであるということが、割りと直接的に今の「きれい・かわいい・かっこいい」をそのまま規定している。

 こう考えると、”オシャレ”という概念も、中々深いですね。 心のオシャレという言説もたまーに見かけたりするのですが、オシャレは派生的な、つまり元々は専らファッションとの関係において使用されていた意義とは異なる、広い賛美への意味作用を働かせるものとして、起用しつつある。
 ファッションとは、とりもなおさず身体的なものだと私は考えています。衣服やアクセサリーは、<身体>の拡張ないし変容として、捉えなければならない。
 今、オシャレという概念が、人への賛美への一般的なほめ言葉としてますますその地位を高めているのなら、それは、<身体>の美が、人の美へかなり多く貢献する。 身体の美が、すなわち人の美である。

これは言い過ぎでしょうか。 なにも、オシャレという言葉が使われたのは最近に限りません。昔から使われていた言葉です。
 身体の美が人の美の一構成要件である事は間違いないのですが、私的には、オシャレというほめ言葉が流行しつつあるのは、そういった「きれい・かわいい・かっこいい」といった一般的な人の美に対する賛美に、上記の変容を見てとります。

はい、オシマイ。 反論どうぞ!

@ misty

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一番難しいと感じた書物は?

こんぱら、mistyです。 

結構な風邪をひいてしまいました。。 風邪の時は暗記が全くできないのでお勉強ができないのですが、代わりに、本を(かなり)読んでいますww
 今回は、エッセイ、というよりだべりですww

@一番難しいと感じた書物は?

皆さんが、生きてきた中で、最も難しいと感じた書物は何ですか?(●^o^●) 是非教えて頂きたいです♪

 mistyの場合は、もう完璧に決まっています。
その名も。

 ジル・ドゥルーズ『差異と反復』


 マジで、難しいとかそんなレヴェルじゃないって!という感じで、この書物に出会ってからはや2年が経とうとしていますが、今だに全然分かりません。笑 なんでそんな本を私は所有しているんじゃーい!ww(定価は5,800円!!)

 アレです、サンスクリット語で書かれた書物を、サンスクリット語知識ほとんどなしに読んでいる感じです\(^o^)/ ←
”日本語”に訳されているはずなんだけど…


 例えば、『差異と反復』の一番最初の章の語り口は、こんな感じで始まります。

「序論 反復と差異

 反復と一般性―行動の視点からする第一の区別

反復は一般性ではない。反復は、いくつかの仕方で一般性と区別されねばならない。両者の混同を巻き込んでいる言表は、いずれも厄介なものである。たとえば、わたしたちが、二つの水滴のように類似しているという場合や、「一般的なものについてしか科学[学問、知識]は存在しない」というのと、「反復するものについてしか科学は存在しない」というのを、同一視する場合である。差異は、本性上、反復と、たとえどれほど極限的な類似であろうと、その類似とのあいだにある。


…? 笑  今でこそ、はじめてこの語り口に出会った時は、雰囲気くらいは掴めるようになったのですが、しっかしこれやっぱり難しいですよ…。一つ一つの言葉自体は、特に専門用語が出てこないでしょう?しかも、文が長いわけでもない(というより短くてキレがいい)。 なのに難しい。加えてドゥルーズは、特に『ここでいう反復とは何か』『類似とは』『一般性とは』とかを、簡単に言わないですからね。

 その証拠に、続きを。


 一般性は、類似の質的レヴェルと量的レヴェルの、二つの大きなレヴェルを提示している。もろもろの個別的なものの交換ないし置換が、一般性に対応するわたしたちの行動の定義である。だからこそ、経験論者が、言葉のうえで一般観念に類似している個別[特殊]観念ならどのような個別観念であろうと、その一般観念の代理として用いてかまわない、という気持ちを加味することを条件に、一般観念を、それ自身において個別的なひとつの観念として提示するのも間違いではないのだ。


… うん。 分かりません!!!

 しかし僕は性懲りもなく諦めず、何とかドゥルーズへ接近しようとたくらんでいるわけです。まずはドゥルージアンと呼ばれるくらいには、”ドゥルーズを理解した”気になっとかなきゃなー。

 ちなみにこのドゥルーズ『差異と反復』に出会ってからというもの、それまで難しいと思っていた書物や思想も、相対的にそこまで難解ではないと感じるようになりました。 カント『純粋理性批判』であったりとか、ミシェル・フーコーであったりとか…。

 いわゆる”ポスト構造主義”と括られる人たちの思想は、確かに複雑で難しいんでしょう。 しかし、時間が経過すれば私たちの理解力ももしかしたら発展するかもしれず、ドゥルーズ/デリダ/フーコー の難解さも、少しは取り払われるのかもしれませんね。


ということで、最初の点に立ち戻って、今まで出会った書物の中で、一番「難しい」と感じた書物を教えてください(#^.^#)

以上

misty @

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バランスが取れている人

こんぱら! mistyです。

今更気づきますけど、「エッセイ」というカテゴリのくくり方、かなり自由ですよね。笑 エッセイと名付けることで、いろんな物事を「社説」「論説」よりもずっとずっと軽めに、気軽に語れる。うんうん。

エッセイは、その自由すぎる故に、「この情報を的確に得たい!」という場合には不向きかも知れないけど、時間がある時は手にとって読んでみたいですよね。たくさんのことが、断片的であれ体系的であれ、語られているから(*^。^*)

そんなわけで、今日も短いエッセイ。

@バランスが取れている人

バランス取れてるな、この人! と思う事がよくあります。

それはどういう人なのかというと、簡単にいえば、「切り替えがうまくできている人」。

ゼミナールや会議のように、荘厳さ・厳密さが求められる空気の中では、びしっとした態度で物事を語り、お茶タイムになったら途端、みんなをユーモアで笑わせる。

まったりした話が行われている時は、自らもその流れに沿った話を提供し、キャピキャピした空気の時は、冗談をぶちかまし、相談モードになる時は、表情を変えて真剣に人の話を聞く。

全部、「切り替え」ができている証拠だと思うんですよね。

諸個人の生活の中では、あらゆる場面があって、上記のような荘厳な空気をまとう場面/まったりとした空気をまとう場面、 キャピキャピした雰囲気の場面/真剣真面目モードの場面、といったようにいかようにも分類することは可能であると考えられます。

それぞれの場面の中で、求められる道徳心・行動力・ユーモア・性格など、ハッキリいってぼんやり主義の私から言わせれば、「各々の場面に応じて常に適した(=求められる)行動をやるべき!」なんてのは考えたくもありません。プライベートの場面に「今日のあなたはこんな服装をしてこんな性格をして生活を送るのよ!」という母親には蹴りと咆哮をいれたくなります。

しかし、事実として、ある場面において求められるものを発揮したら、その分だけ効果があるんだ!というのは認めざるをえない。 仕事の場面においては、特にそうでしょう。

生活にはいろんな場面がある。 学生をやっていても、それは実感します。 学生=勉強をやっている人 とはいえども、普段の生活の中で、そりゃあ勉強だけやっていればどれほど単純なことか。
 実際には、家事炊事、友達との交流、郵便局に行く、テレビを観る、「勉強」以外にも様々な生活上の様式がそこにはあります。

バランスが取れている人、すなわち「切り替えがうまい」人は、その点、生活力という観点からおいて、優れているのかなぁと。。

これは、私misty自身が、切り替えるのがへたくそで、故に生活力もその分それほどではない、と自ら思っていることの裏返しでもあります。

楽しい気分の時はいいのですが、暗い気分が襲ってくると、それを駆逐しようとして余計に気が滅入り、ずっと引きずったまんまですからね。 気持ちの切り替えができないというより、それは「うまく」ないんだなぁ、と思うこの頃であります。

一般論として、切り替えがうまい人/下手な人、と分類することができると私は考えます。 前者の方が、生活力の上ではしたがって優れている、というのも、直感的にも論理的にも帰結されうるとも。

私が、切り替えがうまいと思っている当の本人の内心を、私は知りません。機会があったら、聞いてみようかな。
「そんなに意識はしていないですけど…」という答えは返ってきそうです。

切り替えがうまいことが、結果論として自らの生活力の向上につながり、それが派生して周りにもプラスの影響を与えることが、きちんと実証されるのであれば(本稿では、この点におけるちゃんとした論理的考察を行っていないですから)、僕もそれに従ってみようかな…。

とりあえずは、、まずはその人のまねから始めたいと思います。無理しない範囲で。

エッセイというより、日記に近くなってしまったかもしれないですね苦笑 それでは。

misty @

拍手[0回]

ベースの話。

こんぱら! mistyです。

関東東北大震災から、はやくも5日が経ちました。

平和な福岡に住み、実家も岡山にある僕は、いわゆる「被災者」ではありません。
でも、ブラウン管やツイッターを通じて映し出されてくる悲鳴や不安の声は、明らかに同じ人間のもの…。
 ほっとけるわけがない。

お世話になっているニコニコ動画や、AKBなどから少額ですが募金活動などをし、どうにか間接的に被災者の方々に力をわけあたえたらな、と思います。

さて、今回は、「ベースの話」です、以下より地震とは全く関係のないお話です苦笑
 不謹慎だと何だと言われようが、確信をもったことはまずやるというのが僕のモットーの一つでもありますから…。
いきます。

お風呂が沸くまでに書き上げる、という圧迫した制約付きの記事ですw

@ベースの話。

今回は、ロックバンドを組んだことのある方に、伝わる内容かもしれません。

mistyは、高2から現在まで、6年間ベースをやってきました。

その6年間の中で、自分が経験して得た体験や知識は、まぁ相応にはあると思います(熟練の方からしたらマダマダだな、ですが)。

このエッセイでは、だから、僕なりの、簡単なベース論・ベーシスト論を、専ら経験論の立場から語らさせて頂きます。

直球で行きましょう。 ベースの役割とは何なのか?

それは、諸々のバンドの形式にもある程度左右されるのですが、一般的には「みんなのまとめ役になる」、ということに尽きると考えられます。

 まず一つには、バンドリーダーは、確かにいろんな人がなっています。しかしそのなかで、ベースを片手に持っている実に多くの人が、ある種のリーダー的役割を発揮しているのは、(私の中では)厳然たる事実です。そしてこの事実は、ベーシストの本質的な役割/機能が、「みんなのまとめ役になる」ということを如実に表している一端と私は考えています。

2つ目。ベースボールベア、毛皮のマリーズ、マスドレなどのバンドが、紅一点の女性をベーシストに置いているのは何なのか?

 一概には言えませんが、私としては、女性一般(年齢等を問わない)が有する、母性=対象を甘い世界に包み込む をポイントに挙げます。 やんわりとした母性が無意識に発揮されていれば、「みんなをやんわりまとめる」ことにつながるからです。

 ベースボールベアや毛皮のマリーズが実際に、女性ベーシストにやんわりまとめられているのかどうかは知りませんが、少なくともベースというポジションに女性が置かれることは、そのような効果を期待することができる、と私は考えています。彼女たちが一見控え目な性格に見える、一歩引いた存在として扱う/扱われているのも、そのことをうかがわせます。


あぁ、風呂がわいてしまいましたww

そうですね、3点目に、ベーシストがどこか一歩引いているように見える、という現象も、大切な点だと考えられます(ちなみに今は、とても一般的・普遍的なロックバンドの中におけるそれまた一般的なベーシストの話をしているので、例外的な話は置いておきます、あくまで原則論です)。

 一歩ひくことで、言いかえれば、エレキギタリストやキーボーディストのように自由変幻に動き回ることなく冷静・俯瞰的な視線を演奏中にも持つことで、「みんなをコントロール」することができるからです。
 ギターやキーボードは、自由勝手に暴れてもらっていいんです。むしろ、パフォーマンス面を彼らにかなりの部分を任せておいて、ベーシストは、全体としてのバンドサウンドを統括するポジションを担う、と言えます。

 また4点目として、ベースは、ドラム(リズム)とギター・キーボード・ボーカル(中高音のメロディ+ハーモニー)を、接続する役割があるんです!このことも重要です。 ベースは、いわゆるリズム隊(ドラムとベースから成る対象をそう呼びます)の中でリズムを刻むことにも貢献しながら、一方で低音を提供することで、メロディ・ハーモニー面にも貢献します。
 そのバランス感覚は、まさに「まとめ役」ならではのもの! 自分の演奏によってもみんなを繋げ、全体=みんなの音としてのバンドサウンドを確立することに苦労する宿命を負っている、と言っても過言ではないでしょう。


ここまでの結論です。大切なのは、

ベーシストの本質的な役割は、「みんなをまとめる」こと。

そのことは、
 ・単にベーシストがバンドリーダーにもなっているという事実が普遍的であること
 ・女性ベーシストを抱えるバンドの例のように、ベーシストが「母性」を有していることがまとめ役にも通ずるものであること
 ・ベーシストは、一般的に一歩引いた存在、言いかえれば冷静・俯瞰的な視点を有していると考えられること
 ・ベースは、リズムとメロディ・ハーモニーを接続する楽器でもあること

などから、裏付けられます!

ふぅ…。 風呂が冷めてしまう汗

んで、こっからは、自分の話を短く。

 結論から言って、私は、自分はあまりベースには向いていないと自分で思っています(!)。
それは、自分が完全にリーダーシップをとる性向ではないから、です。
 まとめ役になるのは好きなのですが、効果的にそのリーダーシップを発揮することにはそこまで自信がありません。

ぶっちゃけ、mistyは、ギタリストやキーボーディストに向いていると思います。
 いい意味で、自由奔放な所があるからです。 リズム隊(ドラム+ベース)ががっしり柱を備えてくれている所に、気ままな音を乗っけたりする自由さ、奔放さが、mistyの生来的な性格にも敵するからです。

かといって、ここで私が、もうベースやーめた! なんて言う筈がありません。笑笑
 ベースの他にキーボードくらいしかやらないので分からないのですが、ベースは以上にも見たように、とってもとっても深く、奥深い楽器・存在なんです。 アニメ「けいおん!」のベースの娘がかなり人気になってしまうのも、こういう観点から頷けなくもないかも?! ベースは、一言では表せない奥深さがある。

だから、これからもベースにはお世話になると思うし、自分でももっともっとベースの可能性を追求していきたいな、と考えています。 簡単にいえば、もっとベースを使いこなせるようになりたいのです。完璧主義者ではないので、適当な所で「これくらいでいいっか」と放り投げてしまうのが私の本当に悪い癖ですが。。笑笑


以上、一般論・個人のお話も含めて、私mistyの、簡単なベース・ベーシストの話でした! バンド経験者の方が読んで下さるととても嬉しいです!

それでは。 misty@

 

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人に優しく、自分に優しく

こんぱら。 mistyです。

ショートエッセイ。

@人に優しく、自分に優しく

1.
本当に、強くそう感じます。

人に優しくすると、自分にも優しくできる。

逆に、自分に優しくすると、人にも優しくなれる。

AKB48の秋元才加ちゃん(通称オカロ)が、成人式を迎えたときに、抱負として「人に優しくできるようになりたい」というのを、とても想いを込めて言っていました。

その時は、「人に優しくするなんて、なんて難しい事を抱負として考えれるんだろう…。」
くらいに受け取っていたのですが、
それがジワジワ、私の心にも広がってきているようです。

人に優しく。
それから、自分にも優しく。

私たち人間ひとりひとりが、人間性を維持し発展していくためには、この極めて抽象曖昧な「優しく」という心を、持つことが大事だと強く感じました。

2.
また、この「優しい」という概念を科学的に解明し、客観的に説明・人に伝染・或いは変換行為を経て「モノ」化させるようなある意味危険思想は、意外に現代哲学の固有の問題かもしれません。

<生哲学>の流行は、一般に、今日の日本社会がもろに示す暗い雰囲気の中で、脚光を浴びることは間違いない。

暗い所に、光を当てる。 それが、「啓蒙主義」の根本理念。

私たちに、光はあるのでしょうか。

否、光というものはもとから存在していて、私たちはそれにただ単に認識できずにさまよっているというのが、私の今の所の大雑把な見解です。

そんなこんな。

misty @

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面倒を我慢する

こんぱら! mistyです。

かな~り軽いエッセイをば。

@面倒を我慢する

この世の中は、面倒だらけだ!!!

すごくそう感じます。最近。
 というよりも、最近の僕は、世界や人生のことを美化しすぎていました。理想主義に浸っていました。

現実は、もっともっとグロくて、どうしようもなくて、ほんっとに面倒くさいことばかりといっても過言でもないかもしれません。
 でも、世の中面倒だらけだ!といって、悲観に走るのは、また違います。というよりとてもタチが悪いです。

面倒だらけの世の中を、どう打破するか。

その有効な方法は、やっぱりというか、忍耐(がまん)する力だと思います!

がまん、それは僕がもっともうっとおしく思ってる事です。そう思ってしまうから、いつの間にか忍耐力がすごく落ちていました。。

世の中は不条理だけど、そこから逃げてばっかりでも、意味はない。
 時には、がまんする、辛い状況に、苦しい状況に耐えることも、とても大切だと思います。

がまんとは、力でもあり、思いでもある。 つまり、客観的に指標することのできる(万人に可視的)「能力」であると同時に、心の中で叫ぶ強度=主観的なものでもある。 要するに、両義的って事ですね(*^。^*)

がまんの果てに、利益が待っているのか、何も変わらないのか、不利益になっているのかは分からない。そもそも、人生に於いて、物事を利益不利益のみで片付けようとする思考すら、理想主義に他ならない。

 ならば、やっぱり忍耐がモノを言う。
「いま/ここ」の「がまん」は、何よりも代えがたい強さを秘めている。

それからやっぱりできる人は、忍耐力がある。
すごいそう感じます。

 がまんすることの大切さを、僕も反芻しながら、頑張ってみたいです。

以上@@@

misty@

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普通の幸せって?


@普通の幸せって?
 
 「私は、普通の恋愛をして、普通の家庭を築いて、普通の人生を歩んでいく、ただそうしたいだけなのに―。」
 
 そんなセリフをよく聞きます。
私からしてみると、そんなことをよく軽々と言えるな!という感じです。笑
 「普通の」幸せ、この形容詞・「普通の」、という言葉はとてもやっかいなものだなと感じます。
それは、「普通の」という言葉を前にを付けてしまった瞬間、たとえどんなものであろうとそれが「格下」(でありながら獲得されるのが必然とされなければならないという強制を伴ったもの)に成り下がってしまうから、と思うからです。
 
 早いが話、上のセリフ、「普通の恋愛をして、普通の家庭を築いて」という、彼(彼女)が念頭に置いている「普通の」人生とは、本当に「普通」なのでしょうか?
 これは否、誤りだと私は考えます。こんな説教くさい話をするのは元より苦手だしそんな柄でないことは重々分かっているのですが―。
 こういうことです。
例の上の人生図とは、すなわちごく最近に私たちが「夢」にまで描いた、理想図―「普通」は対極・反対のもの―なのではないでしょうか? 四民平等、男女平等の名の下、どこか1920年代のアメリカ的な家庭を背景にしたような構図は、しかし、一般的なものであるとは、到底考えられません。
 
 自由な恋愛ができ、お互いに結婚という一大イヴェントをクリアし、仕事に励みながらも育児を充実させる、このことの難しさ。
 20年代のアメリカにおいては、確かにそれは普遍的な家庭の構図であったのかもしれません。しかし、それは一時的な普遍性だったのではないでしょうか。
 
 1920年代のアメリカといえば、第二次産業革命を起こし、WW1後の国際社会に置いてイニシアティヴを取ったということも後押しをして、国家的にも非常に勢いのある時代でした。そんな時に生活・文化圏の中心になったのが、上の例の「普通の生活」像だと考えられます。
 もう一度いいますが、当時はそれは確かに個人の人生の一般的な図になりえたのかもしれません。しかし、それとて永久的なものではなかった。何故なら資本主義を本格化させることになるアメリカ社会の裏では、実に多くの貧困労働者が生まれ、彼らは「理想的な」人生はおろか、食えるか食えないか分からない生活を強いられていたれっきとした事実があるからです。また、白人社会・黒人社会等に見られる、人種間のあからさまな軋轢、それによる貧困の拡大化も見逃せません。
 ということはやはり20年代が普遍的とみなした「普通の人生像」も、内容的にも歴史的にも「特殊」のものであったことは間違いがないのです。
 
(★「普通の」―  普通の恋愛、家庭、仕事、人生   →  「理想的な」

1、 「普通」とは平均ではなく、むしろ理想化された特殊なものである
2、 「普通」=おしなべて  …そのような等質的な生活像が実際にあるわけではない
3、 「普通の生活」を手に入れた人は、実際はごく少数である

 
 私の意見では、日本は例えばアメリカ文化を、形のみならず精神までもを非常に欲していたと解します。昨今私たちが「普通の暮らしがしたい…」と呻いているその大本の「普通の暮らし」も、たいがい、そういった海外からの影響を受けて多かれ少なかれ歪曲された像に他ならない、と考えています。
 だからといって、そのイメージが悪である、とは一つも思っていません。
 
 しかし、私たちが意識している「普通の暮らし」「普通の人生」「普通の家庭」とは即ち普通ではないのであって、むしろ「理想」や「夢」などの稀の方向に近いもの、と考える方がスッキリします。その差異を私たちは簡単に忘れて、「普通の」という形容詞を用いることでそれらの事実にフタをし、まるでそのことがあたかも一般的、引いては手にするのが当たり前、手にしなくてはならないもの、であるかのように思考しがちなのだと思います。
 
 実際、どのくらいの人がその「普通の」幸せを手に入れているというのでしょうか?
また、私たちの一人ひとりの差異(違い、相違)は、必ずと言っていいほどあるものです。私たちの境遇がまったくそのまま一緒、なんていう事態が果たしてどのくらいあるでしょうか? 似たような人生を送っている人だな、と思うことはあっても、よくよく聞けば細かいところが随分食い違っている、ということはよくあることです。
 とすると、「大多数の人々が送っている普通の暮らし」なんていうのも、アリえないことになります。一人一人こんなにも違う私たちから、共通項をみいだすことなんて、ほとんど不可能に近いからです。同じ人数の家庭をもって同じ年収を稼いでいる人が二人いるからといって、その二人が抱いてる心象までもが同じと誰が言いきれるのでしょうか。片方はこれで満足だ、などとと思っていても、もう片方はこんな生活ではマダマダだ、と思っている―少なくとも、同じような心象風景がみいだされることは皆無と言って差し支えないと思われます(それは私たちが抱えている差異そのものに根拠がある、と考えています)。
 
 さらに、そうした特殊な事例は数の少なさを以て他を圧倒するという性質があります。つまり、「理想の人生図」を手にしたものは、実際にはごく僅かであるにもかかわらず、それがイメージとなり伝聞となることで、人々の脳内を刺激し「そのような人生は、夢ではなく私たちにも同じように手に入れることができるのだ」、と考えてしまうことになります。
 ここで峻別しなければならないのは、「可能性」と「事実」です。確かに、普通の人生=自由な恋愛をして、立派な家庭を持って、希望のある人生を進むこと をかなえられる可能性は、どこまでも平等に私たちの目の前に広がっている、ということは否定できません。特に自由主義資本主義社会との関係では、そのような可能性はぐっと広がった。
 しかし、そのことと実際にそのような生活を送ることができている人たちは、ごく「一部」です。そして多くの人は、恋愛に障害があったり、結婚に何回も失敗したり、子どもに恵まれなかったり、仕事で挫折をしたり、そういうことがありながらも前を向いて生きているというのが実体なのではないでしょうか。それらが「哀れな人生」であると思うことの方が哀れなのです。障害―尤もそれは社会が「障害」と見做すからこそ障害たりえるのだが―のない人生など、ありえるにしても求めるのが不思議なほどです。
 
 つまり、「普通」は普通であって普通ではない―。
素晴らしい物事をあたかも「当たり前」のことにみなしてしまうわたちたちの思考の性急さ、これこそ愚の信骨頂!  私はそう思います。
 それよりも、目の前にある現実から目をそむけずに、大きな気持ちで受け入れていくことの方がよっぽど大事だと私は思います。
 だから、「普通の人生でいいのにっ…!」と言ってしまう人は、普通の人生というものがどれほど困難でだからこそ重要なものなのか、そのへんの所を考慮せずに発言してしまっている結果なのでは―と疑うのが先になります。
 幸せはよく目を凝らせばその人の近くにたくさん転がっているだけであって、「普通の人生」という強迫観念が眼隠しとなってその人の思考を縛り付け、見えなくさせているだけなのではないか―。それならば、「普通の人生でいいのにっ…!」の解決は、「こうこうこうすれば普通の幸せを手に入れられるよ」と説く占い師や宗教家の言葉よりも、「そうじゃなくって、もっと広い心で目の前の現実を受け入れてみれば?」と教えてくれる小説なんかのほうが、よっぽど心に響く。
 もちろん、解決方法は人それぞれであって万人に適したものなどないというのが正論でしょうが、悩んでいる人はまず「何故自分が悩んでいるに至っているのか」ということに思いを巡らせば、意外に答えはそのへんに転がっているのではないでしょうか。
 
まとまりのない文章でしたが、得てして人の煩悩とはそのようなものだと、私は思っています。
misty @

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私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

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misty
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男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
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