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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
カテゴリー「連載」の記事一覧

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連載第二回 主権の通俗的な理解  主権概念の消滅(仮)

第二回 主権の通俗的な理解    主権概念の消滅(仮)

 
前回の終わりでは、20世紀最大の政治学者カール・シュミットと、現代思想をリードするジョルジョ・アガンベンらの著作を参照するといったが、その前に、”主権”概念の通俗的な理解を今一度確認しておきたい。

 現時点での通俗的な理解の矛先は、憲法学の芦部信喜『憲法[第四版]』(2007、岩波書店)に求めらる。
 その第三章二節「国民主権」では、以下のように主権の説明がなされる。

   主権の概念は多義的であるが、一般に、①国家権力そのもの(国家の統治権)、②国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、③国政についての最高の決定権、という三つの異なる意味に用いられる。(芦部信喜『憲法[第四版]』pp.39)

 続く文章で、簡素に①は統治権、②は最高独立性、③は最高決定権と呼称される。
簡単なところではあるが、それぞれをシンプルに説明しておこう。

 ①の国家そのものの統治権とは、字義どおりである。芦部は、この(国家)統治権を、立法権・行政権・司法権の3つを総称するものとほぼ同じものと考えてよいと説明する。
 
 ②の最高独立性は、論点を孕んでいる。まずこの最高独立性は、国家内のものと、国家外(すなわち、外に対して)のものとの2つに分かれる。前者に関しては、国家の内の中では(あらゆる権力があるとして)最高のものという意味である。他方で、国家の外に対しては(すなわち、例えば他の主権国家と相対峙する場面を考えてみよ)独立したもの、という意味合いを持つ。
 問題は、なぜこれらの国家の内と外でそれぞれ違う意味内容を有するものが、同じ”主権”概念としてひとくくりにされているかである。この論点に関しては、余裕があれば考察してみたい。

 最後の③の最高決定権は、芦部の説明によれば、「国の政治の在り方を最終的に決定する力または権威という意味であ」ると説明している。これはのちに詳しく論ずるように、俗に「憲法制定権力」と呼ばれるものと同義になる。

 以上が通俗的な理解の範疇での”主権”概念である。これからもわかるように、この主権というものは、憲法学の中でさえ3つに意味が分岐している。芦部は、この理由を少ない言葉で説明しようとするのだが、根本的なことはわからない。

 そしてその理由も、これからのちの探求によって理解できることになるだろう。

第二回 終わり

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「主権」概念の消滅を目指して(仮) 第一回

お久しぶりですmistyです!

ここでは、一時的にですが、大学院の修士課程でやろうと考えている、一連の論考を、連載形式で荒っぽい形で残そうと思います。

毎回が紆余曲折になると思います。その上、自分自身が理解していない議論や思考と常に戦っていくので、読むのが難しいと思われます。

しかし、テーマはお堅いにしろ、僕自身はとてもこれからの現代社会に欠かせない作業だと思っています! 
 
 その理由(動機)は、この第一回や、後々に触れていくと思います!

それではいきます!

「主権」概念の消滅を目指して(仮) 第一回

 
 
 本論での著者の出発点は、「これからの現代社会(世界、特に国家)」を考えるに当たり、「主権」という概念は不要なのではないかという動機にある。不要どころか、破棄すべきだとさえ思っている。
 
 それは何故か。
 思うに、「主権」という概念は、端的に言ってしまえば、「近代」(modern)の産物なのだ。
そして、私たちは、今、近代の後、すなわち”ポストモダン”の時代を生きている。
 近代がなき今、過去の遺物に拘泥することに、どれほどの意義があろうか?
 むしろそれはまた、弊害をもたらしはしないか。

もちろん、これは大雑把な理由である。何故に、近代的だというのかは、本稿がこれから明らかにしていくはずであるし、また破壊すべきまでなのかどうかの判断も、性急に求めることは当然できない。lこれからの議論次第にある。

 さらに付言すれば、現代がポストモダンであるかどうかも疑わしい状況である。それは、学会が、「ポストモダンをやたらと主張したがる輩は、ただ単に時代の切断を強調し『新しい時代』だといいたいだけなのではないか」と批判されているところからも明らかである。

 ここで、筆者はハッキリと明言しておく。 現代は、まぎれもなくポストモダンである。 
その論拠は何か。
 ”ポストモダン”に人々が抱くイメージにも色々あるが、筆者は、「現代、ことに1970年からの社会にあたっては、それまで(=近代)の思考枠組みやパフォーマンスは使いにくくなっている」、といった意味合いで時代の切断を認識点としている。その認識を大きく与えてくれたのは、東浩紀と宇野常寛だ。

 現代がポストモダンだと断じる論拠は、従ってまた別の個所で述べることにしよう。

第一回では、筆者が何故に、「主権」概念を近代的だととらえるのか、それを大雑把に述べよう。
 その細かな論証については、また第二回以降の探求課題になる。

 思うに、「主」権とは、何よりもまず、メタレヴェル=超越論的な視点である。そういったメタレヴェル性は、果たして現実の国家運営を鑑みた場合、機能するのであろうかというのが第一の私の疑いである。
 第二に、そして私は思うのだが、「主権」とは何よりもまず「国家」主権のことを指しているのではないか。そして、その国家主権が(どうしても)意味しているのは、専制君主国家としての主権なのではないか。この二つが私の疑義の出発点である。

 おそらくこの出発点は、のちの探求により何回も何回も修正され、場合によってはとん挫するか、別の方向にいくだろう。そのことは初めに断わっておきたい。

①主権の「メタレヴェル性=超越論性」 / そのメタレヴェル性の実現可能性(若しくは不可能性)

②主権が前提している「国家」とは、専制君主国家のことではないのか

 まず、①の点から長い論証をしていかなければならない。 はじめにいっておくと、この探求は、半年の時間を積み重ねて、暫定的には終了しているのだが、まだツメが甘い。 後々、②と並行しながら加筆することになるだろう。

 それでは、第二回以降は、とりあえず「主権」のメタレヴェル性=超越論性を、主にカール・シュミットの一連の著作と、ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』『アウシュビッツの残りのもの』『例外状態』から素描していく。

@ misty

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ルーマン「社会の科学 1」 読書感想(3)

こんぱら!

mistyです。
今回は、第三章「知識」の章を。
読書自体はpp230くらいまでいってるのですが、いかんせん内容が難しくなっている…orz


さて、第三章「知識」。

・知識の位置づけ
この章は、次章の「真理」の伏線にもなっていると考えられ、記述自体比較的短め(pp107-150)です。しかし内容が複雑で、つかみにくいと思われ。

 中心的なテーマは、
「『知識』は、環境とシステムとの構造的カップリングによるオートポイエティックなコミュニケーション・システムにとって、基底となっているもの」
 ということだと思われます( ^^) _旦~~

基底となるものであるとも同時に、コミュニケーションによって獲得されるもの・増幅されるもの、という指摘も。
 ではどうやって知識が獲得されるのか、という事柄の詳細については、読む限りは分かりませんでした…。

 まとめの段落に、こういうルーマンの記述があります。

pp147「知識は全体社会システムの構造的カップリングの結果の総体である、と要約できる。」

「結果の総体」…。  直感で飲み込んじゃいましょう(笑)


・知識と真理/非真理との関係
 真理/非真理 については次章で触れられるのですが、この章にも真理/非真理に関する記述が散見されます。その中でも特徴的なのは、

知識は、ひとまず「真」の知識として出発するということ。
 その際、「真理か非真理か?」という懐疑的態度は、無視できるもの、であるらしいです。

 というのも、0次的な世界(生の実在)は、そもそも真理/非真理 の区別を受け付けない(どっちの状態かをハッキリ明言することはできない、これをスペンサー=ブラウンの定義にしたがって「無標状態」と呼びます)ことからくるみたいです。
 コミュニケーションという作動によって、最終的にはその当該知識は「非真理」―例えば、銀河系は、地球を中心にして回っている(天動説)というのは、誤りだ―であることが言われるかもしれませんが、始まりはとにかく真理の側から出発するそうです。

・「記憶」の重要性

 近代社会とそれ以降を明確に区分けする指標の一つとして、「印刷術の発明」があります。これは、人々の記憶の諸形態、並びに構造をも変化させてしまったようです。

 知識は、絶えず発生し、消え去っていくもの…。 つまり、知識は瞬間性を帯びたものです。

 しかし、ある知識が、<文字>として残され、公刊される事で、過去のものだったはずの知識は、いつでも(現在性の方向)に引っ張ってくることができます。

ルーマンは、この記憶(メモリア)の役割付けを、重視せよ! と言ってます。

 どんな役割付けなのかは、ハッキリとは書かれていません(多分)。 後々明確になってくるのでしょうか。


以上、「知識」の章についてでしたが、正直残念な気持ちです。だって、よく分かっていないし、まとまりがない(笑)

うーむ。 次の章のがもっと長いし難しいのに…。

misty @

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ルーマン「社会の科学1」 読書感想(2)

やってまいりました、続編です。

今回はpp140くらいまで読みました。
だ、だんだん難しくなる…笑

第二章の「観察」を終えて、第三章の「知識」も終えました。
 ところどころ分からない概念が。。

(1) 第二章に行く前の、確認事項
 「観察」の章にいく前に、前回分で載せていなかったことを…。


 まず、「生物学・心理学・社会学」の3者の違い、若しくは区分、あるいは定義です。

この3者がどのように区別されるのか、改めて考えてみると確かによく分からない人も多いんじゃないでしょうか。そもそも社会学・心理学は比較的若い学問ですし。

こんな対応関係になっております。

生物学 → 「生命」のシステムを解明・研究する
心理学 → 「意識」のシステムを解明・研究する
社会学 → 「コミュニケーション」のシステムを解明・研究する

こんな定義らしいです。ちょっとなるほど。
 

 そしてここから話が進むのですが、それでは「生命・意識・コミニュケーション」の共通点は何か??

それが、それらは3つとも「オート・ポイエティック・システム」であるということです(多分)。

オートポイエティックシステムとはなんぞや。
簡単に言うと、オートポイエティックとは、「自己が自己を再産出」するもの(他にも要件はありますが、重要な要件はコレです)です。

 「自己(主体)」の、20世紀的な定義の仕方。 自己(主体)=オート・ポイエティック・システム。

例えば、20世紀以前の、「近代」においては、「自己」の定義について「デカルト的主体」が有名です。
 私とは何か? と問われれば、この考える私こそが、私に他ならない! 考える私こそが、私=自我なのだ!

デカルトが発見したので、デカルト的主体などと呼ばれています。 しかしこのデカルト的主体の概念はその後様々な批判を経て、脱・デカルト的主体 が目指されました。
 オートポイエティックシステムの概念は、その流れの中でも無視できない、新しい「主体(自己)」の定義付けです。

 分かりやすいのは、先ほど挙げた3つの中の、「生命」。 神経生理的な図をイメージしてみてください。
生命を構成するところの細胞は、自ら細胞分裂し、新しい細胞を生み出します。その子細胞は、また親細胞となって、新たな子を産みます。これが半永久的に続いていく。この性質を持って、ルーマンは「オートポイエーシス」と呼んでいます(多分)。

神経生理学的な「生命」は、自己と自己以外である外界を(その方法がどうあれ)区分して、例えば外界に二酸化炭素を吐きだして、同時に外界から酸素を取り込み、そして自己を維持します。 細胞は細胞分裂して「自己が自己を絶え間なく産出」していき、DNAも次々と新たなDNAを生産していきます。 親細胞はいつか死に絶え、そのころには子細胞がその親細胞の地位にとって代わって、またその親細胞が死んで…。
 こんなイメージ。

それが、人の精神作用である「意識」にも、それから社会の基盤である「コミュニケーション」にも、全く同じことが言えるみたいです。

 そして、「社会の科学」では、その3つの内の「コミュニケーション」をシステム論の見地から考察し、よって「社会」を検討していこうとします。

以上が、前提の話です。

(2) 第二章 「観察」 
さて、第二章「観察」について。

前回は「観察の観察」という、二次的なステージがキー概念となるといいましたが…。
 それが具体的にどのような意味を持つのかと言われると、ちょっと困ってしまいます。

要するに、世界の記述の仕方、それが科学の問題だ、と指摘するのみなのでしょうか…?
 曖昧ですみません。 まぁ、これ読書感想ですから笑

 次に、「時間」という概念もキーワードになる感じでした。
つまり、過去・現在・未来という時間が「観察」の現場に持ち込まれることによって、そこから様々な観察が生まれます。 1秒前にみた世界の景色と、1秒後の世界の景色は、全く違うはずです。 そこに、観察の意味がある、といったような論調でした。

 そもそも観察とは、絶え間なく更新されていく作動だ、といった要旨もあったように思われます。次から次へと生まれては消え、消えてはまた生まれ、的な。
 そういう意味でも、やはり時間が流れることは、重要な意義を持つらしいです。
「こうやって私は世界を観察=記述した、はいおーわり!」じゃなくって、どんどん角度を変えた世界の観察=記述 が生み出されることの、担保になる、といったところでしょうか。

 第二章「観察」はこれくらいで勘弁して下さい(笑)


@ misty

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ルーマン「社会の科学」 読書感想(1)

こんぱら! mistyです(*^。^*)


ニクラス・ルーマンの「社会の科学」を、2日前からゆっくりとしたペースで読んでいます。

おもしろすぎ!! 
 (cf. ニクラス・ルーマン(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3 )

ルーマンって手ごわいイメージがあったけど、すごく読者のことを意識して書いてるんだなってことが伝わってきて笑、中々です。
まだ80ppくらいまでしか読み進めてないんですけどね。

今読んでるのか「観察」という章なのですが、これはポスト構造主義がテーマの一つにもしている所。というよりも、近代科学とそれ以降の大問題。

あれです、われわれ人間の立ち位置は、神にも似た、<自己>を<世界>からある程度距離を置いた所から観察して、そういう風にして物事を考察していくのだ!、というイメージです。

(世界の外部) 人間  ((  世界の内部
               ↑
          見えない壁

※⇔ 故に、自分自身のことは、観察できない (<自己>が<自己の外側>に立つというのはパラドックスですよね)

ポスト構造主義(か、もしくはオリジンの構造主義)は、本当に人間は世界の外部に立つことができるの~?ていうか立っているの~?そうだとしてそれは正しいの~?的な視点から批判を始めていたように思われます。 これは私の勘違い・勝手で誤ったイメージかもしれないので、アテにしないで下さい。

ルーマンは、この<世界の外部から世界の内部への観察>という概念を緻密に検討してました。

今読んでいる範囲内の所でいうと、結局、われわれ人間が観察できた!と思って描いたスケッチは、実在の生の現実そのものではなく、その観察者の思い通りに描いたものに過ぎない、という要旨だと思われます…。曖昧ですいません。

そこで、その観察そのものを観察するという現象に光をあててみようじゃないか、という話になってきております。「観察の観察」です。
 観察者が、どのようにして<世界>を記述しているか、それをこそ観察(記述)してやろうじゃないか、という感じです。
 つまり、「何を」観察しているかが大切なのではなく、「いかにして」観察しているのかが、重要なポイントらしいですよ!

 たかだか1/5を読み進めたくらいなので、うん難しい!

今後に期待☆笑
続くかどうかは私のやる気次第です。

それでは~

@ misty

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見えないことを信じること 2

(2)見えるということ

わたしたちは、実は案外見えていないと考えられる。見えてはいないが、自分の現状を高めに飲み込もうとするのだ。結果、大して見えなくても、見えたつもりになっているのではないか。

まず、可視的に見えるかどうか、という議論から入っていこう。
目が見える、ということは、しかし、あんがい漠然としたものである。簡単に目がいいから、とか人並みの視力はあるから、いっても、実はそれほど安易に片付けられる話ではない。

まず、私たちの、視野の限界だ。私たちは、目が見えるといっておきながら、実は背後は全く見えていない。180度はがら空きになってしまう。
顔に目がついているのだから、当たり前ではある。しかし、私たちはこの事実をよく消去しがちである。
背後においては不可視的である。そこを、意識が想像物として補う。目の前の景色との一貫性や、あるいはこうであろうとの推測から、それは作られる。背後の世界は、造られたものである。
ゆえに、それは本当の背後と、同じなのかはっきりしない。もしかしたら一致するかもしれないし、もしかしたら全く違うかもしれない。不意を突かれる、というが、基本的には背後から起こることであるのが多いのである。
つまり、私たちは、世界の半分を不確かなものとして、それに半ば脅かされながら生きている、ということはできよう。我々が見ているのは常に半分の世界である。

さらに、集中という事柄がある。私たちは、見えている180度の世界の中でも、実際に意識的に見る景色は部分的なのである。意識は、集中という事態を発生させるので、どうしても不注意な部分が景色の中にできてしまうのである。
凝視する、という言葉はつまり、見えている世界の中からさらに対象をしぼりとって見るということである。つまり対象外の部分については、注意力散漫となる。
いや、全部を凝視できるのだ、との反論はある。しかし、たとい全ての方向を注意したつもりでも、それはあらゆる部分が少しぼけるといったことにしかならない。対象を絞らない分、不明確となるのである。


(3)see

見えるの英語は、seeである。周知の通り、この言葉は「分かる・発見する」という状態・動作をも示す動詞である。
そもそもseeには、分かるという意味ガあった。見えるということは、その内容が見えるということでもある。
未来が見える、という時、それは未来が可視的に見えるのだということを指すのではなく(もしかしたらそのような意味合いを指す場合もあろうが)、未来の内容が分かっている・把握しているということを中心的に示している。
ここで、見える/見えない の区分は、分かる/分からないに移行することにもなる。
人間の知を無限定にとる立場からすると、「分からない」ことは何もないの鴨知れない。
しかし、次のような事実を考えた場合、どうであろうか。
私たちは、何かを分かろうとし、結果そのことについての知識を得た、とする。
すると同時に、また新しく分からないことが、噴出してくることはないだろうか。例えば、ある新種の原子を発見したとする。

すると今度は、どういう環境の元でその原子は姿を表しやすいのか、化学反応は、性質は、他の原子との関係はどうなのか、何を生成するのか、地球上にどれくらい存在するのか、といった具合に、どんどん新しい問いが生まれてくる。発見者は、次はこうした問いにまた答えていく姿勢を見せるであろう。 つまり1つの問いとその答えに対応することは、それを終わらせると共にまた新しい問い(謎・分からないもの)を出現させるのだ。人は新たな問いに一つ一つ答えていく生き物だし、世界は分からないことでうめつくされているのである。
分かることが、一つ増える度に、分からないことが10増える。我々の歴史とは、そういうものであったはずだ。
とすれば、どれだけ分かっているものを分かっている、と豪語するよりも、分からないことを見つめていくことの方がより真摯な姿勢だと私は思う。

ただ、人間は分かることに安住してしまいがちな存在である。分からないことに対しては、腹を立てるのである。

あるいは、分かったふりをする―。分からないと安心できないから、気を休めるために、自分の周りを予測可能な、つまり分かるものだけで埋めようとする。隙間を作ってはならない。隙間は悲劇であり、あってはならないものである(視界には隙間のない、「強い人間」という虚像が作られる。)。


鷲田が次に述べるように、企業戦略の場においては常に「現在から確定されたものとしての未来」が、並べ立てられるのである。
話題は、筆者が企業の活動にあたる言葉を分析していた所からはじまる。

…あるプロジェクトを立ち上げようと提案する。そのプロジェクトの内容を検討するにあたっては、そもそも利益の見込みがあるかどうか、あらかじめチェックしておかなければならない。なんとかいけそうだということになれば、計画に入る。計画が整えば、それに沿って生産体制に入る。途中で進捗状況をチェックする。支払いは約束手形で受ける。そして儲けが出れば、企業は次の投資に向けてさらに前進する。事業を担当した者にはそのあと当然、昇進が待っている……。
 ここでポイントになるいくつかの用語を英語になおしてみる。プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、見込みはプロスペクトである。計画はプログラム作りと言いかえることができる。生産はプロダクション、約束手形はプロミッソリー・ノート、進捗・前進はプログレス、そして昇進はプロモーション。なんと、「プロ」という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである。これらはみな、ギリシャ語やラテン語の動詞に「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)がついてできた言葉である。…(中略)…要するに、すべてが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標のほうから現在なすべきことを規定するというかたちになっている。…
(鷲田清一「「待つ」ということ」17-8頁、角川学芸出版、2006)

  予見可能のもの中で、なるたけ<現在の方>からのみ、物事の判断をしようとする姿が浮かぶ。

しかし、結局それでは本質を掴んだことにはならない。アキレスと亀の話は、線分の交差点までの一部分までしか見てはいなかったのだ。


(4)信じるということ
  信頼社会という言葉がある。信頼社会は崩れている、今の日本は欺瞞に満ちていると、様々な方向から批判されている。

例えば、売買契約においての、当事者の片方の債務不履行について(例えば買主なら、商品を受け取ることの対価として、金銭を支払うこと。)。法律的には、その相手方(売り主)は一定期間付きの催促を請求することができる(条)。
催促は、必要に応じて何回でもできる、とされている。しかし、何回かにも、限度があるであろうことは、冷静さをもっていれば、判別がつくはずである。

当然、催促は法律上も認められた、権利の行使として積極的にすべきである。
しかし、その催促を過剰にやることは、非合理的ではなかろうか。
過剰に催促すると、それはまず1法律上の強迫行為に近いものとなってしまうおそれがある。
それから、2相手方に不必要な焦りを産ませて、心理的負担を加える可能性がある。
また、3潔さの観点からも疑問となる。

しかし現実は、ヤミ金融の取り立てを典型として、過剰催告の例が珍しくない。
この、過剰に相手に「まだなの!?」と催告してしまう行為は、心理的にはどういった状態から来るものなのか。

それは、私は相手を「信頼しきれていない」ことからくる焦燥感や、不安感、疑心暗鬼の現れだと考えている。
決まり文句のように、「あなた、信頼されていないわよ」という言葉は使われるが、実はそれは裏を返せば、「私はあなたを信頼する自信が持てません。」という、―相手の悪さゆえでなく―自己の弱みを表明してしまう言説でもあるのだ。

催告の法律的な制度趣旨(制度の目的)は、相手方に債務の存在を気付かせることで、債務履行の機会を促すことである。そうすることで、私法上の大原則である、取引上の安全の充足に資するからである。
それは、人情的に言えば、思いやりである。反対に、思いやりがなければ相手方の債務履行の機会を与えようなどとはそもそも意図しない。
 現状は、こうした思いやりを欠いた催告行為が多くなっているのだと思う。それは、先程述べたように、相手に対する疑心暗鬼の気持ちからなされている。
 だから、その不安定な気持ちは、相手をも焦らせてしまい、互いを不信にしてしまう。冷めた契約関係に堕落させてしまい、それ以外の所での心のやり取りといったものは全く無くなる。

ところで、信頼できないということは、幾つかの観点と同視できるものがある。
1つは、不安に思うということであった。
上で見たように、不安に思うという事は、相手の力量や行動や誠心を疑うという事でもあるが、自分をも疑ってしまうことの裏返しであった。
そして1つには、「待てない」ということが挙げられるだろう。
引用で引いた鷲田はその著書「『待つ』ということ」の冒頭で、日本社会は待てない社会になったことを指摘している。
我慢や自制が、効かないのである。
耐久力という言葉があるが、それは、人間においては崩壊しているのが今の現状であるのだろう。
その背景には、人々の相互不信やコミュニケーション不全、物欲主義など様々なものの検討の余地があると思われるが、本稿ではその考察には至らないことにする。
相手を信頼できないことの理由を挙げるのは、幾つでもありそうである。相手を信頼できる理由の方が、挙げることの難しくなった社会であるかもしれない。

一つ、この小節で述べておきたいのは、相手が信頼できないというのは、思ったより手強い事態であるということだ。
相手を待てないのは、とりもなおさず、少なくとも「自分」自身は信頼ができるということでありそうである。
しかし、それは違うと思う。
 相手を信頼できないということは、即ち自分自身でさえも信じることができないことを指すのである。
 自分を信頼していないからこそ、相手にも同じように、自分とよく似た部分への不信を示すのだ。

いや、自分だけは信頼できるのだ、という主張があるのかもしれないが、それでは、次の引用を見て4節を閉じることにしよう。
精神分析者のエーリッヒ・フロムの、「利己主義者」についての議論である。すなわち…

…利己主義をよりよく理解するには、たとえば子どもをかまいすぎる母親に見られるような、他人にたいする貪欲な関心と比べてみればいい。そういう母親は、意識のうえでは、心から子どもを愛していると思いこんでいるが、じつは、関心の対象にたいして深く抑圧された憎悪を抱いている。彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているのだ。…
(エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳「愛するということ」98頁、紀伊国屋書店、1991)


(続く
(5) 可視化の幾つかの例

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見えないことを信じること 1

こんばんは!

さっそく、連載第二弾に映りたいと思います。
まだ草稿が手元にあり、書き途中なので順調にのせられるかどうかは怪しいです!

「見る」ことの意義を考えた記事です。


@見えないことを信じること

(1)「見える」ことの恐怖/権威作用

「見える/見えない」ことを、考えていきたいと思う。
何かしらの方法なりやり方なり考え方なりで見えるもの。それは、果たしてどれくらいあるのだろうか。

「見えないものを信じる力」
いつからか、こんな曖昧な概念が、それでも有効性を持って言われたりする。

私は、これからの時代において、この見えないものを信じる力、というのはますます大切なものになってくる、と考えている。何故だろう。
それは、さっきの一番はじめの問いにもリンクしている。
私たちは、この世界で一体どれくらいのものが見えるのだろうか。

ある意味、人間が歩んできた道とは、いかに見えるものを多くするか、という点にリンクしていたのかもしれない。
人は、見えるものをできる限り多くすることに、尽力を尽くしてきたといってもいいくらいだ。

 反対に、見えざるものに対しては、一種の恐怖を抱く。未だ知らないものは恐怖の対象であり、また恐怖そのものでもある。化け物と置き換えてもよい。化け物は、普段(通常)は見えないものだからこそ恐ろしい。

 従って、見えないものは恐怖に裏付けられた権威である。反対に、見えることも、一つの権威である。見えないことは、ある種の恥であり、不正であり、良くないことでもある(*1)。

「君には見えなかったのか?」 「見えない方がおかしいよ」
こんな言葉は、幾度も聞く。そのことが、見えること/見えないことの、線引き、またはそれらの断然を物語っている。

*1でさりげなく書いてしまったが、〈見える―良いこと、正しいこと、健常なこと /見えない―良くないこと、不正なこと、異常なこと〉 という風に、見える/見えない に、価値判断が従属していることである。見えない<見える、という不等号が一般的には成立しているようにも思われる。

しかし、こうした価値判断は、実に恐ろしいものである。それらの価値付けは、果たして根拠のあるものであるのか。理由あって正当化されている事柄なのか。
価値付け自体が、暴力現象に他ならないのだから、このことはよく考えなければならない。

 「目」で見えるものを想像しよう。
ここに、普通に目が見える人と、いない人がいて、A地点とB地点、それから〈あまりそこなわれることのない自由〉があるとしよう。
二人は、A地点―B地点を往来したいという欲求と、自由をひとしく持っている
。このとき、目の見える人は、あまり不自由なく、A地点から出発してB地点にたどりつける。B地点に分かりやすい目印がある。

しかし、目の見えない人は、それほどうまくいかない。しかし、彼が何らかの能力でそこにたどり着く場合はある。
彼が超人的な能力を以てして、B地点にたどりつくのはよい。
しかし残念ながら、超人的能力というのは、普遍的ではないらしい(だから超人と言うのかもしれない)。 なるたけ目の見える人と「同じ」ように往来するためには、どうするのがいいのか?
  一つの答えらしきものは、現代社会の中に見出だせるだろう。あたりを見回せば、視覚障害者のための期間や装置などは、いくつか制度化され、運用もされている。点字、点字ブロック、専用杖等々。
だがそれらが、いかに不便に使われているのかも、みおとされている。
「目の見える」人は、わがもの顔にそうした往路を行き来する。そうするのが、さぞ正しいことであるかのように。
  これは、私も例外でない。平気で、点字ブロックの上に立っていたりする。

一つだけ取り出せば、地下鉄の設計はほとんどが酷い。点字ブロックの上を平気で踏みつけたりする私の態度とかもふくめて、地下鉄では、まるで健常者でない人はなるべく利用するな、とでも言いたげである。いったん健常者用/非健常者用のコースを分けた上で、しかもそれは必ずしも便宜的でないことを、再確認する必要があろう。


しかも付け加えておきたいのは、たいていの場合、そうした障害者システムは、「配慮」とかいう概念で設計されたりする。

配慮こそ、何か優越的な含み損をもっているし、上位/下位 の区別形成の前提に成り立っている気がしてならない。配慮と労りは似たようで、大違いである。後者は苦しみも共用しようとするが、前者はともすれば、ただの突き放しになってしまいかねない。

このように一例をとっただけでも、「見える」ことには暴力や権威がつきまとっていることが分かる。
見えないことは、負けであり、支配される側にからめとられる。
先ほどは、この見える/見えない に恐怖が働くといったが、これは、根源的な情念(純粋な恐怖を抱く、完全な暗闇にある種の不安や怖さを抱かないものはいないであろう)に加えて、こうした権威/暴力システムから由来する怯え、恐怖も
重なっていると思う。二重に仕立てられているのだ。
この二重構造の前に、あたふたして翻弄しているのが、今日の人間の実体であろう。

 (続く
(2) 見えるということ

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責任 4 (完)

責任 続き 

承前

(4)技術革新と生命の支配不可能性

18世紀末の産業革命(第一次)以降は特に、機械工業がめざましく発展を遂げている。それは今日でも変わらない。
 現代は、機械なしには生活が考えられないほどになっている。

機械というと少々古臭い表現であるが、要は人間の知恵が投入された、システマティックな道具である。
もちろん、ナイフや水車といった原始的なものから、時計やパソコンなどの精密機械まで、実にさまざまのものがある。
 機械工業の移り変わりを、ひとえに技術革新ということができる。
技術革新によって、機械は、どんどん複雑なもの・巧妙なものになっていった。
そしてそれは、人間の産業から生活まで幅広く、半ば無承認的に浸透している、というのが現状である。

おそらく、技術革新は、人間の機械工業に対する一つの夢の現れであろう。
益々の発展と、やむことのない、永遠の革新への願望が、如実に表れている。

たとえば法律は、性社会の役割というテーマにはおずおずとしたものの、技術革新の社会への応用には、ひたすら甘かった。

もしかしたら、である。もしかしたら、人々は、夢(しかも、突き詰めるとあやふやで、独り善がりの妄想)を追いかけるあまり、機械だけが先走りして、それを関係づけることに追い付いていないのかもしれないのではないか。

機械の様々の定義の中から、以下のようなものも導きだせよう。
すなわち、機械とは、人間のコントロール可能な、支配下に在る物体である、と。
事実、機械を支配しているという観念は、支配的であろう。しかし、本当に我々は機械を支配しているのだろうか?
否、機械を支配できるのだろうか?
 おそらく、これを肯定する意見の抜本には、人為に因るものは、人為のコントロールが効く、という前提があるはずである。

しかし、現実を鑑みると、事態はまったく逆である。転倒して、機械が人間を走らせている、不安にさせているという事が如何に多いだろうか。
操作ミスから設計ミス、「思いもよらぬ」トラブルなど、機械に手を焼かない人間がいるだろうか?
人は、やれ機械だからと、さも支配して安心しきった顔をするが、しかしそれが絶対安全だと保証できる根拠は実は大変に乏しいのではなかろうか?

 ところで、飛行機、自動車、電車、これらの交通系機械は特にそうであるが、人間の生命の安全を、それらに乗せている機械は少なくない。

私は常々思うのだが、自動車事故は、限りなくゼロに向けて縮減することはできても、ゼロになることはない。なぜなら、自動車制度自体が、その制度の中にそもそも「事故の犠牲が出る」というシステムを組み込んでいると考えられるからだ。

機械は支配可能であるから、したがって人間の生命を預けても同様に安心―。おそらくこの簡潔な理論で、昨今の交通産業は成り立っているのであろう。
しかし、自動車事故をはじめ、電車の(思いもよらない)脱線事故、飛行機の離着時失敗など、事故が起こらない日を迎えたことはない。

これはおそらく、機械への完全支配可能性というのは、最早神話になっているとみた方が早いであろう。
その神話を以てして、人間の生命を預けているのである。

(5) 神秘性

言いかえると、生命は、機械によって支配可能だとされている。

しかし、生命とは、そんなに簡単に支配できるものであろうか。
この問いに対する私の答えは否である。おそらく、生命というものの不可思議性は、世界が始まるそのころから、ずっと続いてきた性質のものである。 ちょっとやそっとのことで、生命を把握できるなど、おこがましいことでしかなかろう。

つまりである―。 (3)で見たボート事故の例では、機械ミスによって、Yの生命が絶たれた。
しかし、それを、機械の「所為」にすることは、おそらくナンセンスだろうということである。
 なぜなら、機械は生命をコントロールなどできはしないからである。

だとすれば、過失概念を持ってきて、それをさらに機械の所有者であるXに責任転嫁するなど、もってのほかであろう。

これは何も、責任を負わないからといってなんでもかんでも、精密度を問わない機械発明をすればよいという話ではない。むしろ逆である。責任を負える程度を、見極めることが大切なのである。

そうした時に、昨今の技術革新バンザイの声にすぐに傾倒してしまうのは、たいへん恐ろしいということになる。

さて、それでは、(3)のボート事故では、Xは過失がなかったということになるのか。それは、どういった事態を引き起こすのであろうか?

考え方としては、もはやYのYに対する生命を保障する責務は、とりあえず彼以外に負わせるべきではないのであろうか?
 これは、おそらく彼の生命に対して最も適した行動が取れるのは、ほかならぬ彼自身しかいないからである、という風な根拠のもっていきかたになる。
 Yの生命の安否が、ボートに託一時的に託された、とは、すぐさま考えないべきではなかろうか。
事故は、あくまで不慮の事故にあったのではなかろうか?

ルーマンが指摘するように、近代以降の社会は、この不慮という現象をなるべく人為の枠で捉えようとする傾向がある。しかしそれはやはり擬制に過ぎない(「人為」という枠組みの入れ替え)。不慮から人為への転化の作用には、無理が含まれる。

不慮というのは、実に神秘的な事柄だ。 雷、がけ崩れ、津波などの天災というものは、おそよ人知を超えた所にある。 民法に、期間についての天災を考慮した規定があるくらいである。
天災は、どこまでいっても天災でしかない。

そして、不慮の機械ミスによる事故は、どちらかというと、やはり天災に近いものなのではなかろうか。
それは、コントロールの不可能な、しかし起こるべくして起こった不慮の事故なのではなかろうか?
不慮は神秘性故に、ましてや人がその事故の責任を負うなどといったことは、およそ考えられないのではなかろうか。

ここにおいて、事故は起こるべくして起こったのだという、かなり前近代的な考え方ではあるが、一種の宿命の観念を持った方がまだましなのではないか、と私は考える。
過失概念を拡大して責任可能性を追求すると、それではいったい誰が責任を負うべきかといった、ある種のたらい回しのような事態が起こりかねないからである。
帰責性がそもそも内在するのであfれば、それは発見するに困難はないはずなのである。あれこれうーんと考え出した揚句に、「お前に一番帰責性がある」と判断されるようなものではないからである。

そして、技術革新という社会の大きな「波」が、強いて言えば今回の犯人(責任を負うべき主体)である、といえる。しかし、そのような不特定多数の群衆が責任を負うことは、現時点において作業的に不可能である。
ゆえにそれは、前近代的な「不慮」=「神秘的なもの」=「人知をこえたもの」として扱うことも、不可能ではないのではないか。 

技術革新は発展するが、その関係を有する人間は、必ずしも同程度に発展しない。
ゆえに、そのような帰結を考えることは、無意味ではないように思う。

責任、責任というが、これは極めてむずかしく、かつあいまいな概念であり、簡単に「お前に責任があるから」などといった言葉を、本来なら言うのは難しいはずなのである。

(6) まとめ

括弧3で見た事例の法律関係でそれを述べてみる。
つまり、YはXの生命権を、一時的に引き受けたことになる。
しかし、生命権はどこまでいってもY自身のものなのではないか。少なくとも、Yの生命権をXがコントロールすることは、不可能がつきまとうように思われる。
最低限、Yの生命に一番「近い」、Y自身がその権利保障の担い手となる。
そして、終局的には事故によって命を絶ったのは、宿命だと言いきることも必要なのではないか。
コントロール不可能なものを、過失概念の拡張によって、半ば技術的にXに帰責性を負わせるのは、あまりにプログマティックにすぎる。

かつては宿命や不慮と言われた類のものを、解決の方向に向かわせようとしたものは、結局新しい別の問題を引き起こしている。いや、それどころか、益々事態をやっかいなものにさせている。

責任=個別に対応すること。  

技術革新に夢を見てそれを発展させるのは一向に構わない。しかし、技術革新がしいたレールの整備が、中途半端に過ぎる気がする。

事象を不慮や宿命の範囲の方にもっていくことは、決して現代文明の否定ではない。
責任の限界を常に参照し、現代社会のシステムを構築していくことが望まれる。

misty @
(完)

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責任 3

責任概念の揺らぎ 続き

承前

(3) 責任の限界 -ボート事故を例にとって-

 それではここで、あるボートの事故例を話の引き合いに出そう。
あるボート業者と利用者がいて、ボート業者Yは湖面Aを遊泳するのに最適なボートを貸し出ししているとする。
 ある利用者Xがこのボートに乗ったところ、遊泳中に沈没して死亡してしまった。
このとき、Yの罪責はどうなるだろうか?

 これを、業務上過失致死罪で構成すると、おおむね次のようになるだろう。
すなわち、Xが死亡に至ったのは、X自身に因るところもあるにはある。しかし、Xは、Yの貸し出しするボートの作業中に死亡したのである。Yは、ボートに対して最大限の安全を確保せしめる義務を担っており、したがってYを安全に遊泳させる義務に、違反したことになる。したがって、Yに過失があったといえ、YがX死亡についての罪(業務上過失致死)を負う。

このような所である。
 ボート操業については、Yがその専門性を有しており、また貸し出しをして設けをしているからには、利用者の安全を保たなければならないという、業務上の義務を負う、とするわけである。

これが、近年の考え方の主流であり、新過失論に大きく依拠したものであるということができよう。
しかしここでは、もう少し仔細にこの事案を、法律的に見ていこう。

まず、利用者Xには、人一般の権利として、X自身を生命の危機から救う、自己防衛権を有していると考える。
それから、ボート利用についての、賃貸契約から派生する権利関係である。

まずボートは動産(民法86条2項)である。 権利関係としては、民法601条以下の賃貸借か、もしくは使用貸借と見るのが普通であろう(593条)。若しくは616条(使用貸借の既定の準用)。
606条には修繕義務が規定されている。少し見てみよう。

606条 (賃貸物の修繕等)

① 賃貸人は、賃貸物の使用および収益に必要な修繕をする義務を負う。

 606条一項によると、賃貸人(使用賃貸人)は、物の利用若しくは収益のために、自らそれを改善する義務を負っていることになる。つまり、賃借人(使用賃借人)が物を利用しやすいように、賃貸人がその物の便を図るようにする義務を負うのである。逆に、賃借人は修繕請求権利を持つ。

 例で言うと、湖面でボートを使用するにあたって、それが利用しやすいように改善、もしくはそこから収益行為を図るためのそれ(この場合、魚を釣ってそれを売るための修繕とかだが、この事例ではそれは考えられない)を、貸し出し人が積極的にする義務を負っている、ということである。

 この規定があるのは、主に601条以下は土地の貸し出しに当たってを想定しているのであるが、借りる人がいざ借りてみるとなると、当該物件がボロボロでは意味がない(借りる人にとって十分な利益とならない)からである。十分な権利関係としての利益を図るために、相手方が修繕(契約当時に当たっては、少なくともボロのない物を想定している、というのが普通だからである:あまりにもボロの物を借りることを当初から想定しているとは考えにくい)をするのである。

ここまでみると、ボートの利用者は、まず大前提として自己防衛権(若しくは自己防衛義務)を持ち、それからボートを使用する権利(601条)、さらにボートを安全に利用する権利(606条)を持っていることになる。

本論はここからである。
利用者Yが死んだとして、それはどこに帰責性があるのだろうか?
 ボートの機械の故障によって死んだのなら、それは故障するような機械がわるい、引いてはそのような機械の所有者として、ボートの貸し出し人Xの責任が問われ、民事では709条の損害賠償、刑事では前述した通りの業務上過失致死罪(208条)を負うことになるかもしれない。

 しかし、この説明はまったく正しいのだろうか。
これは突き詰めて言えば、機械の故障が、直ちにXの責任につながるのだろうか、という極端な問いでもある。
Xがそのボートを作り、その貸し出しを業務としていたことは確かである。
しかしそのことが、本当に決定的な帰責性の原因となるのだろうか。若しくは、我々はそう考えてもよいのであろうか?

ここでは、機械の支配ということも同時的に問題となってくる。

(続く
( (4) 技術革新と生命支配の不可能性

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責任 続き 2

承前

(2) 宿命・予定説

宿命(しゅくめい)という言葉がある。 もともと、人生は決まっている、という観念である。
これは、日本人には馴染みがあるものだろう。少なくとも私は、そう考えている。

自分の人生についての一挙一足はあらかじめ規定されており、それに抗うこととかはあまり意味がない、ということ。
ここで、自由な意志という話題を引き合いに出せば、宿命はそれを否定することにはなる。
運命は自分で切り開くものだ、とする考えとは相いれないからである。
しかしそう性急にならなくても良い。二つくらいに場合分けが可能であろう。

一つは、宿命に対してその反抗を全く認めないもの。自分が生きることの全てが運命であり、それが落ちようが上がろうが、それにただ服従するしかないというもの。
もう一つは、基本的な所は不動=自分の意志では抗えないものの、一部は意志の自由に開かれている、という考え方である。
意志の自由と、宿命との両者を取り入れて、かつ後者を基軸としたものである。

2つ目は、いつが意志の自由に開かれている場面なのか分からない、という問題を抱えているにはせよ、無理が一番ない考え方かもしれない。
意志の自由という考え方は、すなわち、20世紀の最大の戦利品でもある。 実存主義と置き換えていいかもしれない。
近代が待ちに待った、意志の完全なる自由は、それは妄想に近い形でありながらも、それをめぐって動向を重ねたというのが、

20世紀であったということができるだろう。
1つ目の考え方を取ると、この意志の自由と全く相いれないものになってしまう。その点、2つ目の考え方は柔軟である。

抗えないとはどういう事柄を指すのであろうか。
これには、人間が己をどうとらえているかということと、強く関係している。
これについては、また後述することになるだろう。

宿命の考え方に近いものとしては、オーソドックス(古典的)ではあるが、宗教改革者カルヴァンの、「予定説」などがある。

人生は、生まれたときに予め規定されているとする説だ。予定説によると、人々はただその決められた道に従うほかない。
そして、ただ善行を積み重ねることによってのみ、救われるとするのである。
予定説は、おそらく当時のカトリック世界の不条理=現実と説示とが乖離している状態を、合理的に説明するのにも利するものであったのだろう。
お金持ちの人にはそうなる予定が、貧乏の人には貧乏の予定があるとするのである。

アジア的な宿命の観念にせよ、カルヴァンの予定説にせよ、大事なのは、決められたあるものに抗えないということである。
そこには、ある絶大なパワーが観念される。
その絶大な力には、私たち人間は抗う事ができない。まして、つかみ取ることなどできやしない。

そこには、人々の観念を超えた、その意味で超越論的な、不可解ともとれる何かがあるのである。
その得体のしれない何かを、面と向かって肯定するのが、宿命や予定説なのかもしれない。

 この宿命は絶対なのかどうかは、人々によって様々であるだろう。
しかし、私は思う。 この世には、人の考えをもってしては到底達しきれない、宿命や予定説のようなものは依然として存在すると。
それは、科学技術や、人々の知恵がいくら発達しようとも、いや発達するからこそ、そのような不可解な深淵がますますポッカリと口を開けて我々の前に立ちはだかっているのではないか。
私はそのように、宿命のことを思う。

 この得体のしれない宿命は、後に述べるように責任概念と大きく関わりあいをもってくる。

(続く 
(3)責任の限界 ボート事故を例にとって

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