発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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承前
(2) 宿命・予定説
宿命(しゅくめい)という言葉がある。 もともと、人生は決まっている、という観念である。
これは、日本人には馴染みがあるものだろう。少なくとも私は、そう考えている。
自分の人生についての一挙一足はあらかじめ規定されており、それに抗うこととかはあまり意味がない、ということ。
ここで、自由な意志という話題を引き合いに出せば、宿命はそれを否定することにはなる。
運命は自分で切り開くものだ、とする考えとは相いれないからである。
しかしそう性急にならなくても良い。二つくらいに場合分けが可能であろう。
一つは、宿命に対してその反抗を全く認めないもの。自分が生きることの全てが運命であり、それが落ちようが上がろうが、それにただ服従するしかないというもの。
もう一つは、基本的な所は不動=自分の意志では抗えないものの、一部は意志の自由に開かれている、という考え方である。
意志の自由と、宿命との両者を取り入れて、かつ後者を基軸としたものである。
2つ目は、いつが意志の自由に開かれている場面なのか分からない、という問題を抱えているにはせよ、無理が一番ない考え方かもしれない。
意志の自由という考え方は、すなわち、20世紀の最大の戦利品でもある。 実存主義と置き換えていいかもしれない。
近代が待ちに待った、意志の完全なる自由は、それは妄想に近い形でありながらも、それをめぐって動向を重ねたというのが、
20世紀であったということができるだろう。
1つ目の考え方を取ると、この意志の自由と全く相いれないものになってしまう。その点、2つ目の考え方は柔軟である。
抗えないとはどういう事柄を指すのであろうか。
これには、人間が己をどうとらえているかということと、強く関係している。
これについては、また後述することになるだろう。
宿命の考え方に近いものとしては、オーソドックス(古典的)ではあるが、宗教改革者カルヴァンの、「予定説」などがある。
人生は、生まれたときに予め規定されているとする説だ。予定説によると、人々はただその決められた道に従うほかない。
そして、ただ善行を積み重ねることによってのみ、救われるとするのである。
予定説は、おそらく当時のカトリック世界の不条理=現実と説示とが乖離している状態を、合理的に説明するのにも利するものであったのだろう。
お金持ちの人にはそうなる予定が、貧乏の人には貧乏の予定があるとするのである。
アジア的な宿命の観念にせよ、カルヴァンの予定説にせよ、大事なのは、決められたあるものに抗えないということである。
そこには、ある絶大なパワーが観念される。
その絶大な力には、私たち人間は抗う事ができない。まして、つかみ取ることなどできやしない。
そこには、人々の観念を超えた、その意味で超越論的な、不可解ともとれる何かがあるのである。
その得体のしれない何かを、面と向かって肯定するのが、宿命や予定説なのかもしれない。
この宿命は絶対なのかどうかは、人々によって様々であるだろう。
しかし、私は思う。 この世には、人の考えをもってしては到底達しきれない、宿命や予定説のようなものは依然として存在すると。
それは、科学技術や、人々の知恵がいくら発達しようとも、いや発達するからこそ、そのような不可解な深淵がますますポッカリと口を開けて我々の前に立ちはだかっているのではないか。
私はそのように、宿命のことを思う。
この得体のしれない宿命は、後に述べるように責任概念と大きく関わりあいをもってくる。
(続く
(3)責任の限界 ボート事故を例にとって
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