発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@メディア批判はまだ活力がある
本屋で、社会学の近くのコーナーにいってみると、そこには実にたくさんの「メディア」に関する社会評論やエッセイの類の書物が置かれている。メディア批判はいつもアツい。メディア言説の中では、メディアを擁護する立場は批判する立場よりも圧倒的に少ない。それでよいし、それが正常だ。
本稿ではメディアをひとまずテレビ、ラジオ、新聞に限る(ネットは除外する。)
テレビ、ラジオ、新聞にある共通点は、情報の発信者の非・匿名性だ(ネットは反対に匿名性を特徴にしている)。それは名前を、発信源を、程度の差はあれ、公に示している。発信源を示すことは、そこに責任(応答可能性/レスポンシビリティ)の所在を示していることでもある。ざっくばらんに言えば、「顔」を示しているのだ。
相手の「顔」が見えると、こちらもある程度の覚悟、つまり再批判されるリスクをおいつつ批判することを予め想定しているので、互いに責任感や倫理感をもって言説を行うことができる。古館さんはクソだ、とか、小倉さんの今朝の発言はヒドい、私たちはテレビの前でそういった愚痴や批判をボソッとつぶやくだけではない、きちんとこちらも名前や責任の所在を示しつつ彼らに批判を送ることができる。
批判は、相手の下に届いてはじめて批判足り得る。どこから矢が飛んできたのか分からないのでは、批判された側もたまったものではない。 飛び矢は矢ではないのだ。
余談にはなるが、だからネット社会がまだ人々の言説に匿名性を従わせている限り、2ちゃんねるやその他の言説の場は、全く責任・倫理を伴わない、少しも批判ではない批判がただうずまくカオスの場であるだけである。それらは、相手に届かない。唾を吐いているだけである、そうして、唾を吐くだけでナルシズムに陥るだけの、つまらないものである。
従って、「顔」のみえる、face to faceなメディア批判だけは、依然として社会の言説の闘争の場としての有効性を持ち得る。昨今の”知識化社会”の進行にしたがって、人々は何世紀か前は一部の人だけが握っていた、対抗運動としての知識・情報を獲得する可能性を充分に手に入れた。あとは、各人が行動に移すのみである。知識を知恵に変えるだけである(それが難しいのだが)。
misty @
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COMMENT
既存メディアと新メディア
ネット(SNSやようつべウィキリークス等)の新メディア批判は全くだと思います。実際唾吐きになってる感はあるよね。ところが最近では政治家とか権力者までもが既存メディアの取材拒否してYouTubeで単独インタビュー発表とかしてるよね。権力者が批判を避ける為新メディアを悪用してる感じがして。。なんか変な感じする。
一方では朝日新聞がウィキリークスと連携はじめたり、既存メディアと新メディアの融合も広がっててさ。新メディアの情報収集力+既存メディアの精査ってのはそれ自体はすげーいいと思うんだ。でもそれによって既存メディアってどう変わるのかなぁ。新聞なんて週刊誌みたいになっちゃったり。テレビや新聞なんてなくなる時代になるのかねぇ。うーむ。
No Title
コメントありがとー♪♪ 超嬉しい♪
そうです、指摘通りかなり保守的、というより伝統的な立場です笑
内容については、少し論点のズレがあると思ったので、別記事でもう少し自分の論点を浮き彫りにしてから、また改めてこのコメントに答えるよ(面倒なやり方だ…苦笑)