こんにちは、ミスティです@
電車で50分バスで15分かかる大学祭があるキャンパスまでの片道の中で、ケータイから投稿です。
そうそう、このブログは携帯からアクセスするとコメント機能がついてないですね汗 携帯からのコメントは便利だと思ったので、また直しておきますm(__)m ある方が、過去記事の私なりのブランド志向主義批判をめぐって、意見を語って下さって、ブログは決して自己完結的じゃなくてやっぱ外部効があるんだな、と改めて自負と遣り甲斐と責任感。匿名性にはかまけない。
情報社会(のマイナス面がある)からこそ、それをいわば「逆手にとっ」て、情報社会の重要性を正しく訴えていくと共に社会問題を考えていく、と改めて胸に! このブログはそんなブログです、なぜならブログを含むインターネット世界ですら、芸術が抱える大きな世界の枠組みにずしんと構えているからです。
今回は、短いエッセイをば。
@学問と道
私は、学問も一つの大きな道であると思っています(数学→数道、語学→言語道、医学→医療道くらいの用語法があってもいいと思えるくらい(笑))。
反対に、終局的には、人生もまた学ぶという「道」だと思っています。意識してもしなくとも、年齢に関係なく、私達は日々学んではその知識や知恵を修得しては、社会に還元する。そんな構造が大前提にある気がする。
今回は、前半のトコについてちょっと記述をば。
小学校・中学等の義務教育~大学・大学院・専門学校や民間学習企業までの専門教育過程まで、僕らはあらゆる「学問」に出会う。 算数は必死に6年間やったかて思うと、数学と名前を変えてコレマタ6年間。
語学、とくに英語なんかは、ある子は生まれて間もなくして児童向けの塾にいったりとかして、義務教育レベルでも、ビッシリ時間割にある。
僕が一番伝えたいのは、そうそう時間割に出てくる算数とか体育とか道徳とか化学とか、みんな、「それぞれの道」であって、ものすごく大切なんだからできる以上は頑張って取り組む姿勢を持つこと。
もちろん、センセイの喋り方が…とか、これはアタシに全く向いてない、机に向かっても時間の無駄になるだけだ、というのはあると思います。
でも、その時間割に組み込まれたそれぞれの科目を、じーーっと、見て。そしたら、それは、その世界への「扉」になっていませんか??
日本人は、昔から、なんでも生きる職業を、人生の「道」と捉えては極めて子孫へ子孫へ語り継いできた。「剣道」とか、「兵道」とか、「華道」とか。華に生きた人々は、自らそれを一つの大切な「ミチ」と見立てて、全人生をそこに注いで捧げて伝え伝え続けた。
「香道」ってのも、スゴい!嗅覚から捉えられる香りって、近代科学がアプローチしやすそうなのに、日本人は昔から独自の観点で「香りを創る人生の道」を、既に確立していたんだなあ。
したら、学問も、西洋から受け継いでいるとはいえ、全く同質量なんだ。 医学と法学と神学の3つが、アカデミックなそれとして最も古来のものだけど、それに先行したギリシャローマ時代からのプラトンやアリストテレスが編み出した数学や哲学。
要するに、それぞれの科目は、各々の学問という、「道」に匹敵するくらいの、関心の宝庫だと思うんです。
どうしても、「義務」教育過程の中にいては、プログラムされた作業をたんたんとこなしていく、みたいな感じもあると思います。かつてのぼくもそうだった。
でも、学「問」ていうのは、それこそ何千年もの気が遠くなるような時間性の中で、たくさんの人がその思索を重ねに重ね、身を削り、そして次の人に残しては肉体を消していった。
苦手意識がどうしても消えない、教師の教え方が微妙だ、そういった学問という扉に至る前の段階にでさえ、その享受の制限を無意識に受けている、という印象を受けるわけです。
いったい、どれほどの人達が、各学問というミチに生きたかは、計りしれない。でも、なんでもいい、一般書店に置いてあるような「これで分かる!数学の全て」みたいなキャッチコピーがついているのでもいい。何か手にとって、5分間くらい最初の「はしがき」を阿呆みたいに真面目に読んでみる。
どれほどその学問の考え方なり概念やり姿勢が、社会に影響を及ぼし続けているか、それを教える側のほうからも、教えられる側のほうからも、意識してほしい。
そして、もう一生やりたくない!ぐらいの気持ちで、勉強してみる。それから、やっぱりその学問が大嫌いになるか、それともわりと良かったなと思うかは選択の自由だ。
それでも(時間的・精神的コストの消費)、「食わず嫌い」よりは明らかにマシだと私は思います。
中学の勉強は、やれ小テストだ宿題だ中間考査だと、ため息をつく場面も多々。でも、そういった歴史的大バックグラウンドのもとに、実はそういう教育という「制度」の一環があるんだよ、ということ。
人間、human raceとしてではなく、「人」間らしく生きたい、生きていくと思うときがある。
そんなときの第一の着手が、学問という一つの生きる道の、それぞれの扉だ。
扉は、きらきらしていて、最初だからこそ、奥深くて楽しいのだ。
と思う、ずっと。
ミスティ @
[0回]
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COMMENT
うわー
みんなで発信しあいませう(´∀`)
無題
そして、もう一生やりたくない!ぐらいの気持ちで、勉強してみる。それから、やっぱりその学問が大嫌いになるか、それともわりと良かったなと思うかは選択の自由だ。
それでも(時間的・精神的コストの消費)、「食わず嫌い」よりは明らかにマシだと私は思います。
以上引用。
ここの部分に同感!って思ったので。
私、法律学を苦手と感じているわけですが、それこそ「もう一生やりたくない!」くらいの勢いで勉強してないからであって、本当はそんな状態で苦手という評価を下すことが間違いなのかもしれないなーなんて常日頃思ってはいる(笑)
思っては・・・いるんだよ(笑)
あと、食わず嫌いしないってのは何においても本当に大事だなーって思ってます。
私のポリシー?モットー?のひとつ!
ってことで、たまには批判ではなく同意も書かせてもらいますww
無題
それから、僕は言及しなかったけど、何よりもいまそういった「食わず嫌い」の状況を作出している教育する側の問題、でもあると思うんだ。ちょっとでも算数に出遅れたコがいたら、ほっとくとかじゃなくって、無茶苦茶わかりやすくその子に伝える。
学校教師の問題、親の問題、子供の各科目に対うする意識過程に出てくるアクターは多様だけど、「食わず嫌い」は、ほんとに最小限にとどめなければ!ってかんじだよね・・・。
「なんのために物理を勉強するのか」みたいなイントロダクション(説明)が、義務教育課程プログラムにはなかったきがするmisty思い出。。