第二回 主権の通俗的な理解 主権概念の消滅(仮)
前回の終わりでは、20世紀最大の政治学者カール・シュミットと、現代思想をリードするジョルジョ・アガンベンらの著作を参照するといったが、その前に、”主権”概念の通俗的な理解を今一度確認しておきたい。
現時点での通俗的な理解の矛先は、憲法学の芦部信喜『憲法[第四版]』(2007、岩波書店)に求めらる。
その第三章二節「国民主権」では、以下のように主権の説明がなされる。
主権の概念は多義的であるが、一般に、①国家権力そのもの(国家の統治権)、②国家権力の属性としての最高独立性(内にあっては最高、外に対しては独立ということ)、③国政についての最高の決定権、という三つの異なる意味に用いられる。(芦部信喜『憲法[第四版]』pp.39)
続く文章で、簡素に①は統治権、②は最高独立性、③は最高決定権と呼称される。
簡単なところではあるが、それぞれをシンプルに説明しておこう。
①の国家そのものの統治権とは、字義どおりである。芦部は、この(国家)統治権を、立法権・行政権・司法権の3つを総称するものとほぼ同じものと考えてよいと説明する。
②の最高独立性は、論点を孕んでいる。まずこの最高独立性は、国家内のものと、国家外(すなわち、外に対して)のものとの2つに分かれる。前者に関しては、国家の内の中では(あらゆる権力があるとして)最高のものという意味である。他方で、国家の外に対しては(すなわち、例えば他の主権国家と相対峙する場面を考えてみよ)独立したもの、という意味合いを持つ。
問題は、なぜこれらの国家の内と外でそれぞれ違う意味内容を有するものが、同じ”主権”概念としてひとくくりにされているかである。この論点に関しては、余裕があれば考察してみたい。
最後の③の最高決定権は、芦部の説明によれば、「国の政治の在り方を最終的に決定する力または権威という意味であ」ると説明している。これはのちに詳しく論ずるように、俗に「憲法制定権力」と呼ばれるものと同義になる。
以上が通俗的な理解の範疇での”主権”概念である。これからもわかるように、この主権というものは、憲法学の中でさえ3つに意味が分岐している。芦部は、この理由を少ない言葉で説明しようとするのだが、根本的なことはわからない。
そしてその理由も、これからのちの探求によって理解できることになるだろう。
第二回 終わり
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