私は、エッセイ「sかいのりこsかいのりこ」で、
なーんか、芸能人の「人権」らしきものって、一般人・通常人のそれと比べて制約されてる気がするなぁ(゜-゜)と、まぁ日頃から思ってる事をエッセイ調にのべたんですのよ。
だって、
1「有名人税」論ー有名人なら、一般人よりもマスコミに出演してる分非難のネタに時には轟々されてもある程度仕方ないでしょ!ーの如き、わけわからん(しかも論証のうっすーい)感情論では、全然説得的じゃないでしょう。
2、そこで、前回の「芸能人の「人権」(part1)」で、例えば法律学的世界の下で、彼らの人権を制約の方向に向かわせるものとして、働く要素としてはどういったものがあるか、をふと思った際、アメリカで政治家などに対する人権のある程度の制約の正当化、である「モア・スピーチ」論を検討(現実にアメリカにおいてそれなりに認められ、運用されている論理なので)し、応用として、政治家と芸能人の類似性ー両者とも通常人より著名性を備えているーに着目して、類推適用させて、んで反証チックなことをしました。
まぁ結論としてはモア・スピーチ論もおかしいということで説得的にはならないですね。
それでは、第二部・part2に映ります。
1、どうやら私の2日足らずの少ない時間の中では、彼らの人権制約をなんとかストップさせてあげたいのですが、なかなか思いつかないみたいです。
んでも、現実として、彼らが時として通常人よりも権利侵害の危機にさらされやすい場面が多々ある。 そして加えて重要なことですが、それが、
報道機関をはじめとする巨大な中間団体の権威によって翻弄されていることが多い。思うに、重複しますが、それは彼らのpropertyが、たいてい、自分の生き様を社会に反映させるものとしてあるからです。
芸能人、最近では「お笑い」ブームが引き起こしたように各エンターテイメント分野からその領域をどんどん拡大させつつあります。
モデル。 ファッションの導き手として活動するとともに、われわれは、彼らに一つのある「エンターテイメント性」を期待し、彼らの生き様を見届けたいと思うのです。
「どうやったら、あんな立派なモデルとして成功できるのか。」と人々は思います。そこには、なんだかしらないけど、「人生の含蓄」とでもいったものがバックグラウンドに控えているじゃないですか。
徹子の部屋がいい例です。ちなみに私、実名をあげる必要があると感じる時は、容赦なく出します。(笑)ネットにおける匿名者からの名指しの危険性というこれまたべつもんだいを抱えていそうですが、私は自分の属性をある程度は公表しているつもりです(だってプロフィールがけっこー詳細でしょう笑)。 そこはまた別途発信するかもしれません、いずれにせよ本稿とは関係がないというか道にそれました。
そうそう、徹子の部屋でした。(笑) 各分野からいろんな人を招き、あの黒髪爆発オバハンTETSUKOwwが、巧みに彼らの生き様を聞き出していくという番組ーまーたまた話がそれますが、黒柳徹子さん、本当素晴らしい人です。あれだけ精力的に、そして同時に貢献的に活動している方も多くありませんーですね。 そこでは、例えば、僕の尊敬する北野タケシ先生が招待されたとしましょう(黒柳徹子×北野タケシって、今頭の中で考えただけで笑いましたww)。 北野タケシ師匠はさっまざまな分野で成果・影響を与え続けている人です。 その時、師匠の頭にこんな思いがよぎるのかもしれません。
正直、語りたくない人生経験だってある。でも、私は「芸能人」である以上、生き様を世に伝えるのもこれまた仕事のうちの一つだ、と。そして、あのマシンガントークマシーンTETSUKOの合いの手と共に、彼は「自己の」生き様をポツポツ語りそうですね。
2、当然ですが、そういった事例に、彼の個人の自由を尊重する方向に傾く大切なモノを、かなり妨げる・制約するなんらかの力が働いてしまっているのです。
一方で、企業経営陣等のactorは、おそらく法的にはーむちゃくちゃざっくりいいますー、企業の大きさとパラレルな程度でその責任・義務を負って言っているといいでしょう。
大手企業系グループの取締役などはともかく、零細企業の最高責任者は、その零細さ故に、非難ごうごうと言った非難可能性は相対的に低いと考えられます。
零細企業の最高責任者も、芸能人も、アタリマエですが、同じ人間です。法的にいっても、
同じ個人としての人一般の権利性を十二分に認められる・備えているといった意味合いでの「個人」です。
さぁ困った。現実は、中間団体の影響などにより、本来的には等しく権利性をもっているもの同士なのに、かたいっぽうは中間団体による権利侵害があまりひどくなくー例でいえば、非難可能性が低いからー、一方は激しいー週刊誌のネタに簡単にさらされる、自分の人生(生活)のあらゆる方面が監視の対象となっているー。
3、さぁさ、困った困った。(笑)
困ったというのは、本当に困った事態だから困ったというんです。
これ困りますよ?
アナタが非難可能性が少ないと思われる職業についたとしましょう(職業選択の自由は、なぜか憲法レヴェルでもカタログ22条1項にのってます)。たまたま、業績がトントン拍子に上がって、あなたは有名企業の一社員に。今はこんな時代ですから、マスコミはやれ企業責任だのといってガチャ蠅みたいに、取締役以上に失礼な態度でカメラを向けるでしょう。その際、あなたも不運にも、「監視」の目が向けられるかもしれません。会社とは、本質的には法人であり、何をどう勘違いしているのか会社の構成員=法人の手足みたいなもの、と考えるのをいいことに、手や足に向かって「どういうことですか?!どういうことですか?!」とわめきちらしていることが多いです。
人と会話する時、手や足を見て対話する人なんて僕はあったことありません。(笑)エッセイでは、僕は、今、さかいのりこの立場に立ったとしたら、絶対心折れまくってると記事で書きました。
「芸能人だから、これも生き様をみせる一環、非難ごうごうを受けるのも当たり前、何100人もの報道記者が私の法廷の言葉ー法廷での証言も、立派な訴訟行為の一つですーを逐一聞きとっていたとしても、毅然として私は裁判に立ち向かう。」in her mind?
これは、多分強がりです。そして、不利な状況に陥りやすいことを見忘れています。
もう一度繰り返しますが、法廷での証言は訴訟行為です。訴訟行為は裁判官に心証を形成させるなどの法的効果があります。
いいですか。
今、裁判員制度が導入されてますよね。「裁判官」というこぎつけるまでにいったいどのくらいの勉強と活動・業績を踏まえているのか図りし得ない程の地位の人と一緒に、国民が一緒に参加して重要な事件の審理に関わります。
私は思うんですが、この文脈での「国民」って、制度設計の立場から見ると、「通常人・一般人」とほぼ同義の使われ方をしているんじゃないかなって。 裁判官は、繰り返しくどいですが、プロフェッショナルです。あんまそう感じないなーと思われる方には、正直、僕も申し訳ないと思います。まいがなりにも僕、法学部生のはしくれですから。ともかく、死ぬほど勉強してー今の制度だと、大学(4年間)→試験→法科大学院→(2~3年間)→試験→国家試験(合格率は医師免許試験ほど高くない)→司法修習(1年間)→さらに3年間→裁判官、という感じなので最短でも11年間ですねー、この職業はあるわけです。
そこに国民(通常人)が入ってくる。
ここは、私に対して批難ごうごうになって構いません。私は、抽象的一般的「国民」が、現在の裁判官と同程度の賢慮さを備えている可能性は、多分に相当程度低いと考えています。エリート嫌いな方、多いと思いますが、どうぞこの部分について不快と思われたなら、「不快」と僕に対して発信して下さい。
ともかく世論の如く正体不明なものに、往々にして「国民」も影響は受けやすいという事は言えそうです。
4、すると、こんな図式ができあがります。
・・・小学生か、俺は。笑 汚い笑
即興でペイントで書いたのが間違いでした。笑 Word今後つかおっと・・・。
まぁ見苦しい図ですが、色はなんとか識別できると思うのでクリックで拡大版を見ながらご容赦下さい笑
(あ)中間団体=マスメディアが、僕らにある訴訟事件をとりあげて報道します。黒線矢印で、伝えられます。
(い)しかし、赤線矢印、マスメディアから被告人への執着なアプローチがあったとします。それも視聴者の目に映ります。
(う)(い)の段階の手法が怪しいものであったとしましょうー例えば報道の仕方が迅速性を重視するあまり公正さに欠けている等ー。
それでも、その赤線矢印の行為は、青線矢印で示したように、①国民、それから②万が一にも裁判所(官)への心証形成に影響がある可能性があるかもしれません。
裁判所は、公正さ・慎重さを十二分に重視する立場から、法廷証拠主義を現行法では採用しています。法廷で示された証拠ー法廷で正式に扱われる物的証拠、証言などなどーのみによって心証等を形成するという立場です。妥当です。まぁ、欠点はないとは言えませんが、3000年間の歴史の実践を踏まえた考え方ですので、運用面はともかくこの主義は公正・客観性を何よりも標榜とする裁判所には望ましいんすよ。
(え)しかーし!! ここで、緑矢印の登場です。もはや、この事件がたまたま裁判員審理によって扱われたとしましょう。裁判員として登場するactor「国民」は、青矢印のような、歪曲された情報を基盤に、審理の現場に足を運ぶかもしれません。さぁさ困った。
「だって、あの時、さかいのりこさんは、こんなこと法廷で証言してたんですよ?!ニュース番組が言ってました!!」
ひえー。こえー。 「ニュース番組への信頼→審理の際の判断資料になる」、というこの定式化の怖さが、分かってもらえるでしょうか?
いくら裁判官が、「いやね、ニュース番組ってのはね・・・」-こういうセリフ自体も可笑しいこと甚だしいですが-と説得したとしても、最終的に個々の裁判員がどんな心証を形成して審理を下すかは知りません。
5、被告が、通常人よりも著名性を有しているからこその怖さ。
これは、政治家が被告の対象になった時も同じか。
実は、本稿が語りたいのはここの要素ではありません。
中間団体って何?そもそも、「人権」て何?
こんな語り口から、次に続けるとします。
中間団体とは、結論から言うと、国家権力に対する脅威と同程度に、今や力をあげている、まさに脅威です。
歴史的背景があります。
では、またpart3、で。
misty@
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