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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

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カテゴリー「法学・政治学入門」の記事一覧

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選択可能性という自由


こんにちは! mistyです。

前回の記事投稿から時間がたっていますが、連立政権がうんたらの前にもう主相が変わっちゃったりして、てんでダメですね笑

世間ではワールドカップの真っ只中であり、僕ももれなくどっぷりサッカー鑑賞にひたっています笑
みれない試合があったら憤るくらい!

今回は、誰しもの頭を抱えさせるテーマ、「自由」について、ほんの覚書程度のことを申し訳程度に記述していこうと思います。

一応はじめに簡単に触りを紹介すると、「自由」というのはまさに簡単なようで難しいテーマであって、古今東西その概念の内容について偉人たちも普通の人たちも、いろいろな思考をめぐらしてきました。
記述するのは、まったく的外れな議論であろうkとは重々承知ですが、それでも思考はやむことはないので、わかった上ではじめたいと思います。確信犯ですね! (ーー;)

@ 選択可能性という自由

(1)開放感

「あ、これはいろいろと選べるな!」 そう感じるとき、往々にして人はそれと同時に「自由」をおぼえないだろうか。
私の場合はそうである。
たとえば食堂が二つあったとして、A店には3つしかメニューがないけど、B店には30種類ものメニューがある時。
いつもA店に通っていた人は、B店に行くと、「おぉ~」と感嘆の声をあげそうである。
あの、何ともいえない、ある種の開放感。 それは、自由と名づけられてもいいような気がする。

ここで語っているのは、とても気分的なものだ。主観的な「自由」である。開放感というのはまさに気分であり、その人がその時その場所で感じたことは、その人以外には誰も分からない。そういうものであろう。

しかし、その気分を感じさせる、根っこのところに、理論的に説明することができる何かしらのモノはあると思う。そこに焦点を当てて生きたい。

それが、「選択可能性」という名前の<自由A>である。ハッキリ言って、それが自由かどうかすらも分からないし、どのような種類のものであるかも分からないので、これからは<自由A>という風に呼んでおく。
ここでの<自由A>の本質的な定義は、「より選択の可能性があること、外に向かって開いていること」である。

上では食堂のメニューを手に取ったが、正直あまりピンとくる事例でもないので、また新しい事例を取り上げてみたい。
メジャーとマイナーの音楽の世界はたとえばそうである。

マイナーな音楽の世界では、実はけっこう、歌詞がとても開放的である事が多い。どういうことかというと、とても公の場所では言ってはいけないような言葉が歌詞に使われていたり、すごく分かりにくかったり反対にピンポイントの用語を歌ったりされる事が多いのである。これは断言してもよい事柄だ。

あくまで一般論であるが、よりメジャーの世界では、歌詞は分かりやすくなるような傾向にあると考えられる。それはもちろん、聴く人層がそれだけ厚くなるので、老若男女が理解できるような表現がマッチするのだ。

以前、Mr.Childrenの楽曲の歌詞に際どい社会的用語が使われた事があって、歌詞の変更とは言わないまでも、テレビ出演で演奏の際に、その部分だけほかの言葉に代えてくださいと命令されてうたったことがある。
これは、より公正で社会の福祉に利さなければならない空間においては、仕方のないことだろう。

しかしそのフレーズは、どぎついものであるだけに、とても歌詞の内容を際立たせていた。ピンポイントで、歌っている事柄の背景が描かれるのである。

こういう風に、表現の世界では、よいか悪いかは別として、たくさんの言葉を使える可能性があればあるほど、描写が生き生きとしたものになってくるという性質があるのだ。そしてそれは意外に大きな要素である。
メジャーの世界で言葉を変えて歌わざるを得なかったMr.Childrenの例に対して、マイナー世界は対照的だ。言葉が、時には暴力的で時にはあまりに鋭い言葉が、活き活きと歌われてその生命を鼓舞しているのである。

その意味においては、マイナーの世界のほうが、なにかより解放的であるとは感じないだろうか?
もちろんこれは一般論である。逆の事態もとうぜんにあるだろう。メジャーの世界のほうがより広くて、楽しくて、開放的な場面もあるであろう。
しかし、ここは見逃せない点である。公の場所ではタブーになりそうであればなりそうであるほど、逆に表現は生き生きとしてくること。

ある意味、禁忌の独特のゾクゾク感とも似ている。

(2)論理的考察 前段

このように、<自由A>は、よりたくさんの可能性が開けているときに感じる思い、である。
そして、<自由A>はとても短命である。

なぜならば、人は、あるものが決定された瞬間、それに束縛されてしまうからである。
今日の夕食は何にしようと、うきうきで考えていて、しかしメニューを決めた瞬間、そのウキウキ感を味わうことはもう2度とない。「今日はエビフライにしよう」という思いの下に、その人は支配されていることになる。

選択や決定は、すなわち束縛である。あるものが、あるとあらゆる可能性を持っていた時期から、その可能性を一瞬にして奪う契機である。

すると、すべてのあらゆるものは、その選択される直前が、一番可能性の開けている時なのだ。まだなにものでもなくて、これからなにものにでもなれるというその莫大な広大さが、おそらく人にあれだけの開放感を与えるのだとも考えられる。

すなわち、<自由A>は、まだなにももにもなっていなくてかつなにものにでもなり「うる」もの、である。

内に秘めたパワーが、発揮されるその直前が、実は一番発揮されているときなのだ。


(3) 論理的考察 中段

<自由A>は、物事が選択される前に、その時点においてありとあらゆる可能性を秘めているという点で、もっとも自由的である。
それは、<自由A>の、本質的な箇所であると解される。しかし、この議論は、少なからず現実的な側面を見落としている。
物事の選択についてわたしたちが思考をめぐらすとき、つまり、選択肢について考えるときに、物事は既に決定されているということがらだ。
これはどういうことかというと、まだ何にも規定されていない物事は、したがって規定をもたない。たとえばAという物体は、いくつにでも切り分けることができる。ひとつのリンゴは、まだその処分が決まってない限りにおいて、いくつにでも分割しうる。
しかし、それを切り分けようとしたとたんに、その物事は選択肢の切り分け方という一つの事態によって束縛されるのである。一つのりんごを3人分に切り分けようとする、その瞬間に、そのものは4つに切り分けられたかもしれないし、5つに切り分けられたかもしれない、そういったほかのいっさいの運命を辿る道を切り落として、物事Aは「3つに切り分けられる」という厳然たる要素に束縛されてしまうのだ。

だから、私たちが、ある物事について決定を下そうとするとき、その選択肢を考える時点で物事を支配してしまっているのである。
これは、現実の作用として仕方ないと割り切るしかない。私たちは、物事を始めるに至って、すでに終えられているのだ。

しかし、そういった束縛を受けてもなお、その複数の選択肢のどれかにすがりつくことができる、というまさにこの点において、自由は違った性質を持つものとして、新たに登場するのだ。これも、<自由A>の新たな形態に違いない。

それでは、このような事態においては、やはり選択肢の範囲がより広範なものが、より自由的であるといわざるを得ない。3つに規定されるよりも4つの方が、そして浅く切り分けられるよりも深く切り分けられることの方が、より自由的なのである。あらかじめ、束縛されているという点でそもそも自由的ではないのだが、その中でもより制限的でないというまさにこの側面において、<自由A>は姿を現すのである。


話が少々ややこしくなったので、前の具体例に戻ろう。Mr.Childrenの歌詞である。彼らは、禁止されてしまった語句を用いることで、よりピンポイントな感情や歌の背景を、少なくともヒュオ減できる可能性を手にしていた。マイナー音楽の世界では、これが特に禁止されることもないので、はじめからそのような開放性を手にすることができるのである。

語句が禁止されるということは、多かれ少なかれ、表現の選択の幅が狭くされてしまっているということだ。なぜなら、その禁止語句を使うという道はあらかじめとおせんぼされているからである。
これに対し、より寛容な世界を持つマイナー音楽では、そのような道がとおせんぼされていない。それは、その道を通ることは結果的にはもしかしたらないかもしれないがー禁止語句を使うということはしないかもしれないがー、それでもあらかじめその道も選択肢の中に含みいられているという点で、より制限的でない。つまり、より自由的なのである。

これはおそらく、<自由A>の具体的な姿だ。

このように、<自由A>は世の中にごく普通にみられる現象であり、かつ人々にある種のー説明した通りのー開放感を与える性質のものである。この<自由A>を求める人間の欲求は、さだかではないが、しかし現実にははっきりその光景を見て取ることができる。
このような<自由A>は、例えば日本国憲法が規定しているかのように、憲法の理念として設置されているかどうかは不明である。
しかしわずかに言及しておくなら、このような<自由A>は、人間にとってより「多様な」可能性を与えるものである。多様な行動がそれでは善などをもたらすのかといったらそれは疑問であるが、少なくとも「今ではない私」「ほかのものでもありうる社会」といった、人間社会における建設的想像の世界の柱を担うものになっていることは、否定しがたいのである。

本稿はここでいったん筆を置くことにするが、この続きとしては「多様性」の世界についてもう少し考察を加えてみたい。
ちなみに多様性の思想については、今日グローバリズムというのが、現実界•思考界両方においてその勢力を伸ばしていることとも関係して、様々な議論が交わされている。これは、こういった文脈においても、やはり注目したい事柄である。


misty @

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抵当権と資本主義

こんばんは、mistyです!

理由あって、「横に広げるマーケット」は続き断念しています。。書こうと思えば書けるんだけど。うーむ。笑
「見えないことを信じること」に関しては、いつか投稿したいとは思っていますので、どうぞよろしくです(--〆)

今日の話は、法律の簡単な小話、エッセイです。そこまで突っ込んだ議論になっていません。


@抵当権と資本主義

(1)抵当権とは?

今日の大学でのゼミで聞いて、改めてハッとしたことなんですが…
 抵当権の制度趣旨は、資本主義の発展にある! ズバッ!と言ってのけた、民法学者の我妻はやっぱり天才だなと思いました。
あくまで我妻説という話にはなるでしょうが。
法律のお話を、ぐっと社会制度の方に引き寄せて考え付くというのが、中々出来ない。すごい。
抵当権の話を、いつでも現代社会の在り方と結び付けて、いつでも新鮮な議論を展開できますからね!( ^^) _旦~~

抵当権とは何ぞや?という風に思われる方もいると思います。
厳格な説明をすると、また話はややこしくなるので、具体例で説明します。下に述べるような感じです。

Aさんは、Bさんに100万円を貸していたとします(あげた<贈与>わけではないので、当然返さねばなりません)。
しかし、Bさんは、まんま100万円を所持していない。Bさんには、不動産(平たく言えば、土地のことです)を持っているので、それを担保にしていたとします。担保というのは、要するに現金100万円の代わりに、その土地を(最終的には金銭化して)充てる事をいいます。
Bさんは日頃から、持っているその不動産で、賃貸などの商売で儲けているとします。そして、約束の返済期が来ても、100万円を返せなかったら、自動的に、その不動産を競売(「けいばい、と読みます」)手続きにかけて換金して、そこから100万円をAさんの弁済に当てることができる。この、弁済に当てることができる権利を、抵当権といいます。

説明長っ! 笑 要は、債務者に、商売をさせておきながら、約束の時期を過ぎた時には仕方ないから強制的に弁済をさせる権利です。
メリットは、考えようによると思いますが、(1)100万円借りたらそのまま100万円返さなければならない、といった即物的な形式の契約にとらわれることがない、そして(2)債務者は、弁済期にあっても、抵当権の目的物(上の事例でいうと、Bさんの所有している不動産です)を利用して、収益を得ることが出来る、(3)抵当権者(債権者、事例でいうとAさん)は、確実な弁済を得ることが出来る、などなど。
 デメリットは、複数の人が関与してきた場合の処理の仕方がやや煩雑になる、(2)抵当権の及ぶ範囲がイマイチ定かでない、などなど、他にも色々あると思います。

 我妻先生は、もう亡くなっておられる学者ですが、既にこの抵当権の意義を、資本主義の関連の下に考えていました。
資本主義は、資本を投下して、労働力を購入してそこから商品を産み、商いによって利潤を得て、の繰り返しです。ですから、ある程度のスピードと融通の良さは、のどから手が出るほど欲しい要素になります。
 抵当権制度は、債務者は自己の債務の弁済にそれほどとらわれることなく目的物の利用・収益行為をなすことができるし、抵当権者にとっても確実な弁済が得られるので、まさにうってつけといえるわけですね。


(2)資本主義の現在

ところで、その資本主義制度そのものはどうなっているかというと、まさに危機に瀕しているということができます。
書店に行っても、「資本主義」「瓦解」「終わり」「危機」、これらのキーワードが一緒になった論考や基本書は本当に多いです。
労働者への搾取、という、マルクスのテーマの一つでもある事態の困惑さは、資本主義の影の大きな要因になっていると考えます。

(1)で見たように、もし我妻先生に同調するとすれば、抵当権の制度も、今日の資本主義の停滞という現象とパラレルに考えざるを得なくなります。
すなわち、契約をどう結ぶかは基本的に完全に当事者に委ねられている<契約自由の原則、民法の根幹の原理>ので、抵当権を設けるかどうかも、自由の範囲内になっています。
おそらく、ここをイジるのかなぁと。
つまり、抵当権を付けるか付けないかは、昨今の取引界では当事者の自由でしたが、もしかしたら一定の条件を満たした場合にだけ、抵当権付きの契約をしてもよい、などといった形式の議論が生まれてくるかもしれない、といった事柄です。

 抵当権の制度趣旨=資本主義の発展
ととらえることは、抵当権の設定を促す方向に働きます。そこで、「ちょっと待った!」をかける。
一つの取引が新しい取引を産んで、それは利益が利益を産むといった神話=資本主義、が、瓦解の危機に直面しているのだとしたら。
取引締結に関して、もう少し慎重に!との声を政策的にかける余地はあります。
 例えば、別の次元にはなりますが、特定商取引法や消費者法等の特別法の規定は、そうした、「契約をする前にちょっと待った!」の効果を人々に与えるものだという事ができます。


ちなみに、昨今の取引界では、金額がある程度の大きさをもつ契約関係を取り結ぶにあたっては、ものにはよりますが一般的に抵当権などの権利を付すことが多いみたいです。もちろん、返せなくなったら困るのですから当然ですよね。

(3)まとめ

現行の修正資本主義の下でも、1日にどれだけの契約が結ばれているのかは、図り知れません。数えきれないくらい多数の契約関係があることでしょう。
しかし、その中で、どれほど公正で安定感のある関係はあるのかというのも、昨今では微妙なラインです。一般に、契約自由の原則の下では、例えば国が「契約の際にはこうした形式を!」といった公式なルールが中々働きにくいので、その態様は千差万別だと思います。

抵当権は、便利でもありますが、同時に強力な権利です。
あまりに少額の金銭でも、弁済を弁済をと迫るのは、時にはやむをえない場合と認められるにも関わらず、酷であるかもしれません。
抵当権の設定をするにあたって、下限を作って、これ以下の金額でのやり取りでは抵当権を付けることが出来ないなどといった政策の議論が生まれる日はそう遠くないのかもしれません。

以上!
ちなみに、抵当権の基本的な知識については、さまざまな書籍がありますが、
①内田貴『民法Ⅲ 債権総論・担保物権 [第三版]』東京大学出版会、2009
②淡路剛久ほか『民法Ⅱ 物権 [第三版補訂]』有斐閣、2010
をオススメしたいと思います。話の中で出てきた我妻先生の本もあります。以下。
③我妻 栄『民法案内4 物権法 下 』(勁草書房、2006)

misty @

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相対的平等の謎

こんにちは、mistyです(*^。^*)

憲法学でも扱われることの多い、「平等」に関連した、とある一つの話を繰り広げたいと思います。
参考文献や判例などを、本来であれば、適時あげたい所ですが、いかんせんややこしくなるので、あまり触れずに論考したくおもいます<(_ _)>

相対的平等の謎

 現日本国憲法14条1項に、差別禁止規定が置かれています。 性別や社会的地位などの条件から、差別はしてはならないことを憲法自身が定めているということです。

ちなみに、14条1項に掲げられている条件については、考えようには2つあります。一つ目は、憲法がそれに限って差別することを禁止したというもの(限定列挙説)、もう一つは、歴史的背景をもとにして特にそれらの禁止を定め、広く差別一般を禁止するというもの(例示規定説)、の二つです。

限定列挙説を採れば、14条1項に書かれていること以外の事由に基づく差別は、憲法自身は特に何も言っていないということになります。

おわかりでしょうが、差別禁止規定の読み方に関しては、後者の例示規定説が支配的です。
 それは、日本国憲法が築かれるにいたった、特に差別や不平等の歴史・系譜を鑑みてその調合を図ろうとすると、後者の方が妥当となるからです。

 つまり、憲法は、広く、差別を一般的に禁止していることになります。
しかし、おかしなことに、日本には、未だあらゆる差別状態・状況が残っています。
しかもそれを、憲法が自ら認めているものもあります。

 それらを、相対的平等と呼ぶことがあります。
相対的平等に対置する概念は、言葉返還のみですが、絶対的平等です。
絶対的平等とは、ありとあらゆる差別を禁止すること、平等であることに絶対の重きを置くことです。

 14条1項に関連して言えば、読み方としては上述の例示規定説を採りつつも、この文言は絶対的平等を定めているものだ、とする見解と、いや相対的平等を規定するものだ、との、大まかには2つに分かれるようです。

相対的平等とは一体なんなのか?

例を出します。 青少年保護条例に基づく性的自由に対する介入、などがそうです。
人は、性的自由を持っている、とひとまず考えます。
 このことは、21条の”自由”を定める条項から導かれる、と考えてもいいと思います。

それでは、青少年(成人に満たない=年齢の幼い”人”)の、性的自由を認めてもいいのか?
ここで、21条の自由規定を重視する立場に立つと、その(性的)自由を、平等に青少年にも押し広げ、彼の自由は尊重される! と考えることはできます。

しかし、それに反対する考えとしては、例えば、青少年に性的自由が与えられることを認めてしまう結果として、彼の適切な育成が阻まれる、と構成するものがあります。

適切な育成ですから・・・憲法としては、13条の幸福追求権条項などがこれを、間接的に保護していると言えなくもないかもしれません。
 しかし、より一般的には、11条の「公共の福祉」が、この性的自由に対する、大きな制限(制約)として働く、と説明されます。
つまり、とりあえずは人一般に、性的自由を認める。しかし、例えば青少年などのように、あまりにも幼少の者にそれを認めてしまうことは、適切な育成等の観点から、返って不都合である。
 だから、青少年の性的自由に一定の制限を加えてもよい、ということになります。

青少年保護条例は、かかる目的のもとに定められた条例(法的性質を担うものとしての)です。


こういった一連の状況は、ちょっと見方を変えれば、年齢に基づく不平等状態を引き起こしている、とも見ることができます。
なぜなら、彼は、年齢の上下という条件によって、ある人々が享受できる自由の状態を、引き受けていないという見方もできるからです。
 14条1項がこのような相対的平等を定めたものだ、とする見解を採ると、この青少年保護条例規定も、憲法は認めていることになります。

相対的平等とは、こういった、ある一定の合理的範囲における差別は認めてもよいとする論理です。

それでは、合理的範囲、とはいったいなんなのでしょうか?
この範囲の確定をめぐって、裁判所や学者たちはそれぞれの判断を下している状況にある、というのが昨今です。

裏をかえせば、合理的範囲の線引きのいかんによって、この相対的平等は内容を変えられることにもなるというのが私の見解です。
上の例でいえば、青少年保護条例は、誰もがみとめる合理的範囲における差別だから、と理由づけをすることによって、事実上は差別に当たっているとしても、それが一応認められる不平等規定である、ということになります。反対に、誰もがそうは考えていないから、と推移すると、この条例の平等/不平等のラインが危うくなります。

ちなみに、判例・学説とも、上の青少年保護条例については、支配的な見解よると相対的平等の範囲内である、と考えられていそうです。

平等か不平等かは、何が合理的差別にあたるかの判断(客観・主観いずれにおいても)によって、とりあえず決められています。 意外に、危ういものです。

絶対的平等などないのだ!との主張は現実的ですが、しかし、その根拠を考え出すとなかなか出てきません。
とりあえずは、合理的差別=平等の定式のもとに、私たちは日常生活を送っているというのが今の日本です。

misty

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(アリガチたいとる)便利な法律用語10コ厳選!!


 こんにちは、mistyです。

 行政学の議論は、まだ展開の余地があるのかなと思うので反応待ち中です笑 というか、全部の記事に対して、いつでも反応待ち中ですww 文章とインターネットの利便性のいい所は、この一定程度の保存性に限りなく担保されているとこだと思います(●^o^●)
 社会芸術論(勝手に命名)については、昨日投稿した折にふれた、「J-POP」にまつわる問題からある程度順序立てて投稿するつもりです。 私的にはとても楽しい=他者からしたらとってもつまらない、という構造に陥る危険が(笑)。 まぁ、みんな硬いものばっか勉強とかしてないで、普段触れている絵画だとかゲームだとか音楽だとかについてちょっと思念してみるというのも、まぁ人間の行為の範囲内かなと(笑) 暇だからやってるわけじゃありません。そこに何らかの意義があると考えてるからです!(娯楽に興じるのは楽しい事この上ないがそれを思考するということは、必ずしも楽しくはないw) 

んで、この放置された悲しい二つの記事。
特定電子メール法等の制度へのギモン   http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/30/
「芸能人の「人権」」 part3  続き1 」  http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/21/

もうこいつらは結論が主観的に見えているというか、その過程を書くのがとっても面倒なので、しばらく放置させます。でも消さないけど。

 今回は、コーヒーブレイクですけど、本当におせっかいじゃなくて単に知っていればまず損は絶対しないという法律用語・概念10コ厳選!
 あのね、他学部の人と話してて、う~ん今の教養制度がいかにロクなものじゃないかということを何度も思い知らされるww 他方で、法(学)にまつわる話はいつだって関係してますから。あなたが社会的人間である限りは。 だって人間社会関係を規律・統制しているものそれが「法」なんですもの、気がついても気がつかなくとも触れていますよ。

というわけで、法学部以外の方、以下の10コのキーワードでピンとこないものがあったら、暇なときにググったりウィキったりすべし!!今すぐ!www

・善意と悪意

・当事者・第三者

・判決と判例の違い

・通説・有力説・多数説・少数説

・当為の法則と絶対の法則

・パターナリズム

・法律と法の違い

・法治主義と法の支配の違い

・立憲主義

・不動産と動産

(オマケ→民主主義と自由主義と全体主義の違い)←これは法学にも通じるが講学上は政治学の入り口で説明されることがオオい。


 よい休日を~★

misty @

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NPOと行政のパートナーシップ??

何回か前の行政学の講義より、ギモンに感じていたことをブログを使ってまとめてみむとす。課題とか一切関係ないけど、すげぇ気になるから書くの!このやろう!

おはようございます、mistyです( ^^) _旦~~
眠すぎですw

NPOと行政のパートナーシップ(協働)?

まー行政学という、政治学の中でも専門といえば専門の話にはなるのかもしれないので、ざっくり簡単にいきます。
問題にいきつくまでに、その経緯とか最初にさらさらっと記述しまっせ。分かる人は飛ばせい

そもそもNPOとはご高名の通りNon-Profit Organizatinの略称であり、非営利組織・団体などと言われることもある。一応のNPOの組織の定義としては、「非営利目的でありかつ公益の実現を目指す組織」である(嶋田、レ13-1)。ここでの公の利益とは、国家側から見たそれではなく、あくまで市民の視点から捉えられるものであることに留意が必要である。

 政治の世界において、政治のアクター(行動主体)が伝統的には国家のみで語られることが多かった。これは、近代における主権国家概念の広がりが関係している。主権国家が成り立つと、統治・支配という政治のはたらきは(この)国家に集中し…法をつくり執行し強制する機能が国全体に及んだので、…「政治は国家をめぐる現象の世界と考えられるようになった」のである(ウェーバー、1919/日本語訳1980)。
 ところが20世紀前半の戦期を経て、主権国家はその概念・事実上の存立ともに危ういものとなってしまった。ここであらためて各国で国の統治システムそのものが見直された。それを反映した形で現代の政治システムがある。さまざまに用いられる「行政サーヴィス」という用語自体が、その反映を物語っているであろう。要するに、福祉国家の量的質的増大に伴う、行政範囲の拡大である。ある説では、1経済成長2人口構成の高齢化3それに伴う社会保障制度の成熟、の3つが福祉国家の主な成立要件とされている(社会経済的要因重要説)が、仮にこの説をそのまま今の国際状況に当てはめれば、現在先進国に数えられるほとんどの国は福祉国家の様相を呈しているということになろう。

 海外では、国つまりフォーマル部門以外の、インフォーマル部門での福祉や教育サーヴィスが積極的に行われている(米、英、北欧などが顕著)。医療・公衆衛生・教育・介護・職業訓練といった各場面においてNPOの活動は、社会的にもかなりの認知を受け、一定程度の評価を受けている。また、それが国(公権力)側にとっても「好ましい状況である」と捉えられているのは、特に注意すべき点であろう。

 現代の日本でも、福祉国家側面の膨張に伴って、その行政サーヴィスの範囲が拡大した(西尾、08,
4-11頁)。要するに増えた仕事分を今まで通り公権力側がやっていたのでは足りないから、そこでドーンと登場してくるのが民間独立機関であるNPOであったというわけである。
法整備もNPOの活動を積極化する方向付けで、NPO支援税制の改正や非営利活動促進法の制定などがなされている(嶋田、レ13-4頁)。

 さて、ここで、そういった国=公権力の活動である行政と、市民の活動であるNPOの「パートナーシップ・協働」とは、一体どのような意義があるのだろうか。先ほど海外でNPOの活動は社会的にも評価を受けていると言ったが、アメリカなどではこのパートナーシップによる実績(たとえばピッツバーグでのNPOタワーなどなど)があり、おそらく日本でもこの協働を前向きに検討している・若しくはスタートを切っている段階であろう。

そこで、ちょっとまったぁ!である(笑)

協働とは文字通り、両者相互が同じ目的を目の前にして、歩み寄ること。
とすれば、まず国と市民が手を取り合ってというそのままの解釈をすると、はなはだおかしいことになる。そもそも、公権力の行使である行政の失敗・不十分性が露呈して始末に負えない(ちなみに日本でのNPO活動が一気に注目を浴びることになったのは、あの1995年の阪神淡路大震災である)ということで、市民が主体となってこの国の阿呆が!という形で行政場面でのアクターとしてNPOの登場が期待されていたのである。 とすれば、お互いが緊張関係にいるこそすれ、歩み寄るとは如何なものか。

嶋田レジュメ(13-pp5-6頁)による、両者の協働の意義を以下省略しつつ引用する。

@NPOにとっての効果・意義
・行政情報の収集が容易になる
・活動資金や信用を得ることができる(あ)
@行政にとっての効果・意義
・市民ニーズを詳細・的確に把握できる(い)
・外の目が入ることで業務改善につながる(う)
・新しい政策・事業の創出につながる
@社会全体にとっての効果・意義
・政府の限界に対する補完
・ボランタリー組織の限界の(政府側からの)補完


***ちょっと休憩させてくださいwww***
休憩終了。
ちなみに、協働形態は、論理的類型的には次の3つに分けられよう(嶋田、レ13-5頁)。
(1)政府が当該NPOを基本的にサポートする形
(2)NPOが政府の政策執行=行政を補助する形
(3)双方が例えば企画立案の時点などから協力して同じ事業を行う形

さてさて、上のように挙げられた様々な意義にものもうそう。
橙色で示した(あ)~(う)のみを取り上げるが、例えば(あ)の活動資金や信用を得ることができる、というNPO側からのメリットは、確かに当該活動をより積極的な方向に働かせることに有効である。しかし、活動資金を一部政府から得る、というのは類型的には(1)か(3)の形式をとることになるが、ここにはよく言われる「
資源依存関係論」が批判の矛先に向く。 活動資金・クレジット等を得るというメリットを巨大視し過ぎると、それは市民側が政府を短絡的に「利用」するという実質になりかねない。政府を短絡的に利用することのデメリットはいうまでもないだろう。

 次に行政側からの視点であるが、(い)の市民ニーズを詳細的確に把握できるというのも、特段このようなパートナーシップを取らずとも解決策はあるであろう。たとえば、あくまで両者は対立関係に置きながらも行政と市民をつなぐラインをより関連政策の強化や法整備等によって明確化する、などである。
 また(う)の「外の目」の確保という課題は、講学上の行政法・行政学にとって大変興味深いテーマである。特に行政活動の透明性を確保する方向で、行政情報に対する市民のアクセスを一般的な形で保障する「情報公開制度」(大橋、07-87頁)の運用とその妥当性が、行政内部でも外部でも今どんどんなされている。これを鑑みると、わざわざ積極的にパートナーシップの形を採用することでその行政サーヴィス活動の外の目を入らせるという文脈は論理必然的には出てこないように思われる。あくまで、結果論として、市民=外、の監視機能が得られるだけにすぎまいか。

 こうしたNPOと行政の協働という論理・実践は、やはりはじめから賞賛を得たきたわけでもない。嶋田レジュメでは、こういった協働形態に対する様々な批判(さきほどの資源依存関係論もその一つ)と、それから改めて協働を肯定するサイドからの再批判の両方を示しているが、嶋田は基本的に肯定の立場をとっている(らしい)。その大きな根拠としては、協働が「NPOの自律性を失わせる」といった批判に対して、
そのようなNPOの被コントロールの問題は、例えば強力な協働条例などを取り結ぶことなどの、ルールを新たに設けることで克服できるということを根本に挙げている(嶋田、レ13-7頁)。

 しかし、私は基本的に協働に?を投げかけるというか、むしろ否定の立場をとる。その大きな理由は、
ズバリ国家(政府)―国民(市民)の2極対立構造の揺らぎの危険性である。

繰り返し述べるが、両者は緊張関係にあるこそすれ手を取り合うなどといった位相ではそもそもないのであるから。 ホッブズ~ルソーの社会契約論を基軸として、近代国家は成立した。国家は市民の信託をcontemporaryに受けることによってパワーを持つにすぎない。そして市民は、その国家のパワーの発動=公権力の行使に対して、常に敵視的でなければならない。国家も拘束なしには暴走する存在だからである。
 とすれば、協働関係に新たなルールを設けるということも、やはり欠点を往々にしてはらんでいる。まずルールを設けるとすれば、それは各当事者間に適用するという限りにおいて個別具体的である。それはすなわち、時間の消費という点を重視する見地からは望ましくない。
 そして何といっても、協働関係をいくら新たなルールで一定程度縛ろうと、結局根っこのところは変わらない。繰り返し述べることになるが、
行政の場面においてはその透明性の確保、が大変な課題になっている。NPOの行動主体である市民と、行政の行動主体である公権力=国家が協働形態を採ることで、逆に行政の実態を見えづらくしないか(市民の視点に立って)。協働が、結果的に「混同」といったマイナスの事態を産みはしないか。

 行政サーヴィスの範囲がいくら拡大しても、そのアクターをなお国家/国民と峻別する実益はなおある、と私は思う。両者を峻別したうえで、各々が、その透明性の確保の問題に対する的確な対処法を模索していくべきである。
partnership.jpgこんなカンジ。やっぱ。












ご批判・ご意見いくらでもどうぞ(●^o^●)

参考文献
・嶋田 暁文 「ーNPO(非営利組織)ー」『行政学講義第13回』(2009、九大内用レジュメ)
・西尾 勝 「行政学[新版]」(2008、有斐閣)
・加茂・大西・石田・伊藤 「現代政治学[第3版]」(2007、有斐閣)
・M.ウェーバー/脇圭平訳 「職業としての政治」(1980,岩波文庫)
・大橋 洋一 「行政法[第二版]」(2007,有斐閣)


※あとがき
同じようなテーゼで政治学が対象とするのは、例えばネオコーポラティズムをめぐる問題であろうか。しかし、パートナーシップとそれは性質がそもそも異なるものであり、十分な吟味をする必要があると思われるので要するに面倒くさいから省きますww

逆説的かどうかは分からないが、ネオ・コーポラティズムの概念それ自体は、結構妥当だと考えられる。打ち倒されたのは、やはり悲しくはあるのぉ。

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