発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@倫理(道徳/道義心による審級)をどう考えるべきか
”議論”と呼ばれているものの多くの実態、例えば、世論、一般大衆による国家批評―もっともこれはメディアがイメージ作るものでもあるから、一端には責を問えないが―などは、実際のところ、最終的な拠り所を<倫理>やヒューマニズムに求めているのがほとんどだと、私は観察する。
「人間的な態度として…」
「道徳心に欠ける政府の対応…」
「結局、倫理的な使命感を欠いているのが決定的にダメだと…」
こういった言説で他者を批判/非難するのは自由だが、しかしそれは有効なのだろうか?
この<倫理>といったものをどう考えるべきかの、私の回答はひどく冷めたものである。
一言でいえば、倫理(ないし道徳/道義心による審級)とは、他の政治的判断、法的判断、自然科学的判断、芸術的判断、宗教的判断といった諸領域の中のひとつにおける、一機能であり、またそれ以上のものではない。
倫理感に溢れている人が、常に成功を呼び起こすのだろうか?
使命感が強い人は、救われるのだろうか?
必ずそうではないことを私たちは知っている。また、全てが倫理で片づけられないということも。しかし、私たちは時に補充的にヒューマニズムを持ち出す癖があるのだ。
最終的な拠り所にこのヒューマニズム、つまり倫理をもっていることはあまり重要でない。それよりも、他の諸領域と並行して働く、一つの機能だと相対的に把握しておくことが、より大切である。
倫理を一つの機能として捉えると、それはまず何よりも、諸々の行動/言説に対する、ストッパーの役割になる。
私たちはこの問題に対して法的判断や政治的判断をクリアしてきたが、倫理的判断においてはどうか?それはあまりに非・人間的な態度に過ぎやしないか? こういう風に懐疑することは、必ずしも私たちを損なうものではない。
ハッキリ言って、<倫理>的な態度を取るということの意味を考えても、あまり役に立たないと考えられる。しかしそれは、私たちを非常に人間らしくする。というより、倫理や道徳の(決定不能な)問いを問い続けることによってのみ、私たちは人間たりえるのだ。
「倫理的には許されざるものかもしれない。しかし…」
「宗教的観点からは好ましい。しかし倫理的にはどうしても…したがって…」
このように、言説が倫理といったものに一旦括弧をつけて、物事を相対的に見る言説態度が増えることを願ってやまない。
以上。vv
misty @
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