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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
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ブロク更新☆ポストモダン時代の大学生

@ポストモダン時代の大学生

 従来の大学生/今頃の大学生、という大学生の話題をしてみようと思います。今回はなるべく分かりやすく書こうととの意図のもと書いています!!

***

「いまどきの若い学生は根性(やる気)がないよ」

 というセリフは、新聞・テレビなどのメディア空間や、もしくは自分や親族のおばあちゃん・おじいちゃんなどの親密圏などから、よく耳にする言葉(言説)だと思います。

それを字義通りに受け取ってしまうと、さも従来の人達(今の60~80歳の人たち、それを本稿では「リアル旧世代」と呼びます)は”マジメ”に学生時代を送っていて、今の僕たち(本稿では「リアル新世代」と呼びます)は”フマジメ”に学生時代を送っているかのように考えてしまいますが、勿論本稿ではそんなテーゼに従うわけがありません笑

 むしろ、何故リアル旧世代の人たちが、リアル新世代を見て、「いまどきの若い学生はやる気がないよ」と心理的・感情的・投げやりに言ってしまうのか、そう言わしめてるものは何なのか、それを考察していくのが社会学というものです。

 (※だから)今回は社会学の手法を使って書いています。

ここで、そう言わしめてるものを、私は「時代の雰囲気の違い」という社会構造の差異に結び付けて結論付けます。
 時代の雰囲気の差異が、リアル旧世代にそんなセリフをたくさん言わしめているのです。従って、「やる気がないよ、いかんよいまどきの若い学生たちは」という言説は、専ら自発的なものではない、と筆者は考えます。むしろ、社会構造が個人を規定し、そう言わしめているという思考を採用します。

 そこで、本稿ではフランソワ・リオタールの偉大な著作、『ポストモダンの条件』で出てくる概念群を使ってみようと思います。

リオタールは、その『ポストモダンの条件』モダンmodern(近代)と、ポストモダンpost modern=近代の後、という時代区別を行い、その時代の実質的な内容を次のようにまとめたとされています。
 
 すなわち、

モダン(近代)= 大きな物語の共有

ポストモダン = 小さな物語の乱立

 これがどういう意味を指しているのか。こういうことです。

1900年代の前半に、この世界で二つの大きな戦争がありました。第一次世界大戦と、第二次世界大戦です。それら世界大戦においては、それぞれの戦争参加国、すなわち近代国民国家は、例えば日本だったら「大東亜共栄圏」の構想、ドイツではナチズムによる世界征服、英米など西側陣営では「それら全体主義/独裁主義 に対抗するパワー」といったものを掲げて戦争を繰り広げていました。

 大切なのは、大東亜共栄圏や、ナチズム(全体主義)、さらにはマルクス主義といった、半ば「~主義」という用語(ターム)で括られるような大きな考えや理想が、大マジメに、その当時の人々の間で信じられていたということです。

 ヒトラーは、大真面目に、ユダヤ人を排除し、ナチズムが全世界を征服すれば、この世界は統一的なものとなる、と本気で信じて戦争を行っていたのです。またそれに対し西側陣営は、本気でそれらを何とかして食い止めなければならないという理念の下で、日本に二つもの爆弾を落としたりしたのです。

 近代とはそういう風に、大マジメに、それぞれの大きな物語(「大東亜共栄圏」、「ナチズム」、「それらに対抗するパワー」)といったものが、大多数の人々の間でマジメに共有されえていた時代、そういうことです。

 しかし、そのような近代時代は、1960年代の、マルクス主義(共産主義国の確立を目指した運動)や大学生たちによる大学紛争の失脚という形で、徐々に勢力を失ってきました。

その代わりに出てきたのが、「小さな物語の乱立」です。 もはや大東亜共栄圏やマルクス主義といった話は過去の遺産だ。これからは、もっと現実的な、クールな思考で、世界や社会をどうするのかを語られなければならない…。そこで、戦後民主主義、自由主義、自由民主主義、社会主義、修正された共産主義など政治の場面でも、じつに様々なイデオロギー(考え方)が乱立することになります。

 これは、政治の場面に限った話ではありません。例えば、アイドル文化の成立。 一般に、アイドル文化が成立したのは1970年代だとされています(ちなみに、別稿で筆者はそのことを詳しく論じています)。それまでは、「少数の”スター”」の時代でした。エルヴィス・プレスリーや、美空ひばりなどの、「手の絶対届かない遠い存在の人の輝き」です。 アイドルでは対抗的に、「もしかしたら手が届くかもしれない、もっと身近に応援することのできる存在」なのです。1970年代以降、南沙織にはじまり、山口百恵、松田聖子、きょんきょん、浅川唯、おにゃん子クラブ、Wink…といった実にたくさんのアイドルが登場してきては移り変わっていくという状況がありました。

これが、小さな物語の乱立です。 つまり、かつての大きな物語ほどには大きくないし、支持者も少ないのだけれど、それぞれのそういった物語が幾つも幾つも浮遊しては乱立している、いりみだれている、そんな時代が1970年代あたりから徐々に始まったのです。

 

ここで漸く、大学生の話に戻ります(笑)。

リアル旧世代の人々は、この大きな物語の共有=近代の時代に、まさに自分たちの青春を学生生活の中で送っていました。
 そこでは、その当時の社会や世界をどう生き抜いていくか、変えていくかが、真剣に差し迫った問題として、人々の中で語られていました。

 特に、”大学”という空間はその最たるものです。大学こそが、子供と社会人の分岐点、モラトリアムの時期であり、これから社会人として社会を支えていく側が、どうこれからの未来を支えていくかが、とても大事でした。そこで、例えば日本が共産主義国・マルクス主義国であるべきかどうか、戦後民主主義を支えていくかどうかといった類の話は、実に真面目に大学サロンで語られていたのです。 ”マルクス主義”や、”共産主義”、”戦後民主主義”といったイデオロギーは、それ自体、当時の大学生みんな、みんなとは言わずとも、大多数の人に、暗黙に共有することのできる空間であったのです。

 それとは対照的に、リアル新世代の私たちが生きるこの社会・世界においては、そんな大多数の人が共有できている物語というのは、実に少ないのです。 

 現代社会、つまりポストモダンの時代は、趣味の時代だといわれています。趣味とは、各個人個人がハマるものであって、大多数の人々に強制できるものではない。各個人は、それぞれ自分の自由な選択に基づいて、自分の生を決定できてしまいます(個人主義)。

 実際が、自分の趣味を、公共(パブリック)の空間において、胸を張って言えるものが、どれくらいあるでしょうか?

 筆者は音楽と文芸が趣味ですが、例えば

「僕は音楽が好きだー!」

と言ったとします。しかしそれだけで、何の説明にもならないのです。なぜなら、たちまち次のような質問が返ってくるからです。
 「どんな音楽が好きなの?」
 僕は、エクスペリメンタルやポストロックが好きなので、「ポストロックやエクスペリメンタルが好きです」と答えたとします。すると、「ポストロックって何?」という返事が返ってくるのです。 音楽の界隈でも、「小さな物語の乱立」、つまりジャンルの多様性といったものが深刻に進んでいます。

 例えば「アニソンが好き」といっても、具体的に聞いてる曲は本当に各人様々ですし、「ロックが好き」といっても、本当に近代の時代、つまりビートルズやストーンズの頃の1960年代後半、ギリギリ「近代」の時代に生まれたロックが好きならば、「古典的ロックが好き」と補わなければなりません。 ツェッペリン、ザーフーなどが好きだと言えば、「ハードロック・UKロックの初期あたりのロックが好き」とさらに補わなければなりません。

 つまり、音楽やロックといった一つの例をとるにしても、そこには多様性がどんどん浸透してしており、「みんなが暗黙に共有できる音楽観やロック観」といったものは存在しないのです。

 実際、大きな物語の共有の時代は、過去の「遺産」となっていました。 今の大学にあるサロンがそれをよく物語っている気がします。
 サロンは、現状維持で仕方なく大学制度側がまだ残していますが、例えば九州大学文系のサロンは、かつてあった「サロンで政治や人生を語る」といった場所ではなくなっています。それぞれの学生が、各自分の目的に応じて、利用するだけの場所となっているのが現状です。

 ハッキリ言って、リアル新世代の私たち大学生は、「目的意識をもって勉強することの認識」が欠けていると思います。目的意識とは、「これから社会人になるにあたって、どういう社会を歩んでいくか、どんな社会がこの世界に望ましいか、自分は社会の中でどんな役割を果たせるだろうか」といったことを常に念頭に置きながら、勉強している人たちは、いないとはいいませんが、それもまたごく少数にすぎないということです。大多数では決してありません。むしろ大多数は、単位取得ただそれだけのために、勉強を仕方なくなっている感があるのが、本当のトコロではないでしょうか?

 リアル旧世代の人たちは、大学=子供と社会人の狭間、に来たからには、自分がこれからどういう社会を望むのか、どういう社会に作り変えていくのか、そういうまた一つの”大きな物語”をもって、大多数の人が勉強していたのが事実だと考えられます。 だから、今の、”趣味で勉強しちゃっている”学生をみて、「なんか今どきの学生にはやる気(根性)が感じられん」というのだと思います。

 長くなりましたが、以上です。 ポストモダン時代に生きる大学生がどうなっていくのは、また別稿で考察したいと思います。

misty @ 

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真なる弱者と偽なる弱者

@真なる弱者と偽なる弱者

 自動車を歩道者から外すという政策の云々が問題になっている。
暫定的な解消策としては、とりあえず自転車道というのをきちんと設けた上で、歩道/自転車道/車道 という扱いにするのが望ましい。
 自転車を自動車道に一本化するなど、もっての他だ。いくら法的に”同じ”「車」であるからといって、自転車と普通自動車、軽自動車でさえそこには大きすぎる質的差異がある。自転車と自動車を同じ車道に一本化すると、どちらにとっても迷惑だし、おそらく自転車走行者の事故が多発するだろうというのは確認するまでもない。

 さて、この車社会のアクター(登場人物)が織りなす車社会体についての基本的な視座は、一番の弱者である(とみなされる!)歩行者を中心にして考えるということである。
 今の、自転車を車道で走らせて歩道には歩行者のみをといった平板で馬鹿にもほどがある議論は、しかしそうした基本的視座から短絡的に導いたものにすぎない。

ここまでは当たり前の話である。

 さて、歩行者=弱者 とみなす、この<視点>は、一体だれ(どの主体)であろうか?

  それが歩行者の視点ではないということは当たり前である。私は、福岡市で生活をしているが、歩行している時に当たって、ついぞ歩行者×自転車、自動車 の事故にかれこれ5年間、全くお目にかかってない。事故の中心は明らかに自動車×自動車(或いは自転車×自転車)である。歩行者は実は弱者ではない。歩行者は、ある意味において、一番の強者だ。というのは、都会のほんのちょっとした距離を歩くサラリーマン達が、そうである。歩かざるを得ない高齢者や子供は確かに弱者である。しかし、マントを被って弱者のふりをしている歩くサラリーマン達は、自分たちの移動コストが少しでも少しでも減るようにと、今の車社会体を動かしている一番の大きなアクターなのだ。従って、歩行者には2種類いることになる。真なる弱者と、偽なる弱者。

  したがって、歩行者=弱者とみなすこの<視点>は、とりもなおさずこの偽なる弱者=歩くサラリーマン達=社会の中心を握っている者たち、なのである。繰り返しになるが、彼らは法的な保護(”歩行者”は優先されるべし)を巧みに身に纏って、自転車よどけそうすれば我々歩行者(ここでは、歩く高齢者/子供=真なる弱者と、歩くサラリーマン=偽なる弱者とが意図的に一体になっているのだ)は安全に守られる、とこざかしい主張をしているにすぎない。
 行政は、真なる弱者と偽なる弱者を分かつ判別基準を未だもたずにいる。このままいけば、間違いなく車社会体は、偽なる歩行者にますます有利な環境にならざるをえないだろう。

真なる弱者は、実は自己の<弱み>を主張できない、だからこそ弱者なのだ。
偽なる弱者は、時に真なる弱者を巧みに利用して、自己の<弱み>を<強み>にこっそり変える、いまいましい強者なのである。

以上
misty @

 

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メディア批判はまだ活力がある

こんぱら!mistyです。

今回は、身近なメディア論を\(^o^)/

@メディア批判はまだ活力がある

 本屋で、社会学の近くのコーナーにいってみると、そこには実にたくさんの「メディア」に関する社会評論やエッセイの類の書物が置かれている。メディア批判はいつもアツい。メディア言説の中では、メディアを擁護する立場は批判する立場よりも圧倒的に少ない。それでよいし、それが正常だ。

本稿ではメディアをひとまずテレビ、ラジオ、新聞に限る(ネットは除外する。)

テレビ、ラジオ、新聞にある共通点は、情報の発信者の非・匿名性だ(ネットは反対に匿名性を特徴にしている)。それは名前を、発信源を、程度の差はあれ、公に示している。発信源を示すことは、そこに責任(応答可能性/レスポンシビリティ)の所在を示していることでもある。ざっくばらんに言えば、「顔」を示しているのだ。

相手の「顔」が見えると、こちらもある程度の覚悟、つまり再批判されるリスクをおいつつ批判することを予め想定しているので、互いに責任感や倫理感をもって言説を行うことができる。古館さんはクソだ、とか、小倉さんの今朝の発言はヒドい、私たちはテレビの前でそういった愚痴や批判をボソッとつぶやくだけではない、きちんとこちらも名前や責任の所在を示しつつ彼らに批判を送ることができる。

 批判は、相手の下に届いてはじめて批判足り得る。どこから矢が飛んできたのか分からないのでは、批判された側もたまったものではない。 飛び矢は矢ではないのだ。

 余談にはなるが、だからネット社会がまだ人々の言説に匿名性を従わせている限り、2ちゃんねるやその他の言説の場は、全く責任・倫理を伴わない、少しも批判ではない批判がただうずまくカオスの場であるだけである。それらは、相手に届かない。唾を吐いているだけである、そうして、唾を吐くだけでナルシズムに陥るだけの、つまらないものである。

 従って、「顔」のみえる、face to faceなメディア批判だけは、依然として社会の言説の闘争の場としての有効性を持ち得る。昨今の”知識化社会”の進行にしたがって、人々は何世紀か前は一部の人だけが握っていた、対抗運動としての知識・情報を獲得する可能性を充分に手に入れた。あとは、各人が行動に移すのみである。知識を知恵に変えるだけである(それが難しいのだが)。

misty @

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批判/非難

というわけで、1週間に1回、つまり月に4回くらいは最低ラインとして投稿してはいきたいですね…。

「ふっ」と疑問に思う事があっても、それを解決するのってすごく時間かかったりすることありますよね。
それは、答え方が一つではないからです。たくさんあります。

一言でいえば、「多様性」です。

それでは、記事へ…

@批判/非難
1.問題提起
2.「批判」とは
3.「非難」とは
4.批判/非難

1.問題提起
この投稿記事が指摘する点は非常に簡潔である。それを最初に断わっておく。つまり、

昨今のメディア社会における「○○批判」という言葉遣いは、まずもって正しくない!

ということである。例の事件を以て小沢批判~とかいう、そのノリは感性的に理解できるのだが、しかし用語法としては「批判」という言葉を使うのは多くの場合に於いて間違っている。そしてそれはたいてい、「○○批判」→「○○非難」と置き換えると、用語法上は正しく思われることが実に多いのであるという事。

少なくとも、私が「批判」という言葉が意味しているのは、簡単に言って次のような事柄である。

2.「批判」とは
以下、引用。

「批判とは、単に悪口を言うことではありません。正しいのかどうかをきちんとチェックしてみる厳しい姿勢を指します。」    小野攻生監修『図解雑学 構造主義』(ナツメ社、2004)pp54

この、「きちんと」という点が、とても重要だと私は考える。上の引用記述は、カントの代表的著作『純粋理性批判』などにおける、カントの理性批判研究の文脈の中で語られている。 カントが人間が有する理性について、どれほど綿密な考察をしているかは、それは本を開けば読まずとも丸分かりだ。
「きちんとチェックする」というのが、「多くの時間をかけてチェックする」ということと同義という事ではない。

しかし、昨今の「○○批判」という言説は、極めて短時間に作られた言葉、もしくはその使われ方としての言説に他ならない。 小沢批判、海老蔵批判、東電批判というのであれば、そこには緻密な検証程度が含まれていなければならないはずである。
現実には、そうでない。東電批判をするのは、ニュースから流れた東電の記者会見の映像を見て、その一事を以てだけして「東電は社会体としてけしからん…!」という。それを「東電批判」と呼ぶならば、それは間違い以外の何物でもない。 そう、引用文の通り!ただの悪口である。

ただし、「東電非難」というのなら、それは正しい用語の使い方である。それを次に見ていく。

cf. カントの著作の一つ、『純粋理性批判』を英訳にすると、”Critique of Pure Reason”であるそうだ。カント的「批判」とは、この「critique(critic)」を指す。
critique(critic)の意味は、名詞で1批評家2粗捜しをする人、などだが、原語では「判断(決定)ができる、批評家」(ギリシア語源)である。

3「非難」とは

辞書的な意味における「非難」とは、次を事柄を指す。
ひなん【非難・批難】 「人の欠点や過失などを取り上げて責めること。『不実な態度をーする』。」  (デジタル大辞泉より)

つまり、(日本語における)「非難」の意味の中心部分は、それが心理的/感情的な態度・行為であるということだ。 バッシングというカタカナが示すものと同類である(バッシングは、もっと強めの「非難」、つまりは程度が強度であるという差異があるのみで基本的には同室の事柄を指すと思っていただければ良い/)。責める、というのは、心理的攻撃の一種である。それはどちらかというと、感性的な行いである。人の態度を見てカッとなったから、「ふざけんなよお前!」と責め立てる。
少なくとも、日本語圏における「非難」とは、上で見たような心理的/感性的態度を示すものだと私は定義付けしておこう。

cf. 英和辞典で調べると、この心理的/感性的態度を示すものとしての「非難」は、さしあたりblameとかattackとかになりそうである。しかし、後にも関連することだが、批判/非難 の両方を指し示すものとして、「criticizm」(critisizeの名詞形)がある。現代英語、辞書的な正解での英語では、批判/非難 は、一般的にはそれほど区別して意識されていないのかもしれない。しかし私は、この両者をとりあえず区別してみよ!と提唱している訳である。

4批判/非難 

「批判」という言葉と、「非難」という言葉が指し示すもの、抱えるものを、私は敢えて区別する。超簡単に説明すると以下の事柄になる。

批判:どちらかというと、理性的/長時間的な態度・行為
非難:どちらかというと、感性的/短時間的な態度・行為

どちらも人の頭の中から算出されて示されたり行われたりするものではあるのだが、そこには以上のような決定的な差異がある(と私は提唱する)。

理性的、感性的というのは雰囲気でつかんでいただけると思う。専門家や学者が行うのは、基本的には前者の「批判」の方であり、一般大衆によく見受けられるのは、後者の「非難」である、と説明するのはいささか極端であろうか。 ただし、例えば学者が「○○批判」とかいうタイトルで論文や書物を書いたりするとき、それは短時間の範囲の中では成し遂げ得ない。学者的「批判」は、「しっかりと厳密にチェックすること」であるから、ちょっとやそっとの時間のことでは簡単に行為することのできないものである。

反対に、一般ネットユーザーが「東電批判」とか「海老蔵批判」とかをコメントに書き残す場合、そのほとんどは心理的な動機から生まれ、そしてかつ相対的に短時間の間でなされた態度・行為である。「東電批判」とのネット言説が意図する所は、東電に対する心理的な憎しみや激怒からネット行為者が短時間を通じてエクリチュールしたものではないだろうか。新聞の記事そのものはある程度時間がある範囲内で、理性的に構築されたものであることは伺えるが・・・。

ともかく、安易に批判、批判という言葉を使っている人には、一度でもいいからカントの「純粋理性批判」をググってもらいたい。カント的「批判」が内包するものがどんなものであるか、印象だけでも十分に受け取れるはずである。そこには、おそらく我々がメディア社会において様々に取り交わしているコミュニケーション的行為の、幅の広さを知る契機があるはずである。

最後にではあるが、繰り返し、「批判」と「非難」という単語を英和辞典で調べると、ともに「criticizm」という単語でくくられる。英語圏においては、批判と非難はいっしょくたに使われてんじゃん!じゃあわざわざ区別する必要はないじゃん! と考えることもできようが、本稿では敢えてそれらの諸概念を区別すること、それを始めよと主張するのである。

以上

※ なんか、今回の記事は、従来の「フルハウスは嗤う」らしくない、とてもシンプルな記事でした笑 極度に簡素化したモデルを提示したので、「こいつバカか?」と思われる方も多いんじゃないかなと思います。 久々言いますが、「コメント求ム!」笑

misty @

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自己批判システム

こんぱら!

久々に、フルハウスは嗤うらしい記事を、投稿してみむとす\(^o^)/

@自己批判システム

1.前提
 ヒト/モノなどの対象が、どうやったら改善するのか、ということを、影響関係―例えば<私>と<他者>からなる相互影響関係―の観点から考えたとき、

やっぱり、一番分かりやすいのは、人から、「お前、そこはおかしいんじゃない?」とか、「ここはこうすればいいよ」と指摘されたりアドバイスを受けたりなど、<他者>からの影響を受けるということである。

このことには、以下の事柄を大前提として含んでいるー。すなわち、

「自分のことは自分では見づらい」

物理的な意味においても、精神的な意味においても、その他包括的な意味において、そうなのである。

 物理的な意味合いにおける上記の概念を試しに見ておこう。人は、自分の顔面を直視することは一生ない。 鏡があるじゃん! といっても、それは左右が逆で、しかもその鏡面のクオリティ如何によってかなり規定される、文字通りの<虚像>である。実体ではない。

おそらく、<私>の顔面は、何人もの<他者>が直接的に、かつ的確に見ている―この<私>一人を除いて。

 同じように、精神的な意味合いにおいても、私たちは自分のことを分かってるようで実は全然分かっていない。他人に「お前はおっとりな性格なんだよ」と指摘されて、「そうなのか!」と衝撃を受けるくらいである。自分のことは、近視のおかげで、<思っているよりも見えていない>。


だから、<他者>の存在はとてもありがたい存在なのである―。ハネた髪を指摘してくれる<他者>、叱ってくれる<他者>、諸々の<他者>。

2.本論
しかし。 (本論はここからであるのだが)

 現代社会においては、人は、自分のことは自分で管理しなさい、とよく言われるようになったし、実際にもそうなってきている。 「自己責任の原則」はもちろん、自分のことは自分「一人」でできなきゃ恥! ということが、いわば世の中の常識と化している。


マ、マジで?  自分はこんなにも見づらいものなのに??

そこで出てくるのが、「自己批判システム」という、筆者が勝手に命名した装置である。

大学を例にとってみよう。 昨今の大学の講義では、必ずと言っていいほど、「授業評価アンケート」なるものが配られる。

それはどういうものなのかというと、例えば

「1.この半年間の講義は、面白かったですか? 2.講義のどのあたりがつまらないと感じましたか? 3.教師の指導は適切でしたか?」 などといったウンザリする質問項目が延々と続く、実にタイクツな代物である。

 諸々の講義を―単位を撮るために―受けた大学生は、任意でこの授業評価アンケートを記入し、最後の授業時にちっぽけな箱に入れてその場を立ち去る。

 さて、この回収された授業評価アンケートは、もれなく担当教員の所に哀しくも行き渡り、「先生の話す声が聞きとりづらくて…」などと書いた無残なそれを眺めながら、彼らはその集計結果をネット等に公開する。

そして、一個下の学年が、そのよくまとめられた集計結果を見て、「あぁこの講義は、86人の受講生の内56人の人が『大変面白い』と感じたのか…」などと呟く。また、教師もその集計結果をもとに、自分の教育方法の反省材料にし、「来年の授業は、もっと声を張るぞ!」などと息づいたりする。

この大学の講義の話で伝えたかったのは、以下のことである。

「今年度の講義内容が、学生たちによって評価され、それを元に担当教員は来年度の講義に活かす」

という仕組みに授業評価アンケートが加担しているということである。

この、授業評価アンケート制度を取り入れることを予定しているという点において、私は、昨今の大学の講義の仕組みを「自己批判システム」の一つに数え上げている。

 「自己批判システム」とは、簡単にいえば、

自分が自分をちゃんと見れるようにしておく仕組み

のことである。 上記の大学講義での授業評価アンケートの例で言えば、

「講義(内容)が自分自身をちゃんと批判―厳しく考察すること―できるようにしておく仕組み」

ということになる。

 もちろん、生徒達が自発的に、「先生ーもっと分かりやすく教えてよ!」と言ってくれれば、こんな面倒くさい
―しかも往々にして悲惨たる―制度は要らない。 しかし、筆者の知ってる限りでの大学生徒というのは、何というか、こう、冷めているのだ! ドラマや映画で出てくるような積極性を持っていない。

生徒達が自発的に教師に悪い点を諭してくれる― <他者>が<私>に影響をしてくれる。

 しかし、中々そんなことが望めない中で、<私>が<私>に影響を及ぼす「自己批判システム」は、一般社会に産まれてきたのではないか。 筆者はそう考える。

 鏡は、最たる例だ。 ファッションチェックは、勿論友人やショップ店員さんの<声>が非常に大事だが、まずは自分の服装を鏡で確かめるのではなかろうか。 うーん…この帽子はやっぱおかしいな、とか、あれは自分で自分をなるべく見るための、装置の一つなのである(と私は考える)。
 先ほどにも述べた通り、鏡に映る像は、「虚」像でしかない。しかし左右反対のその像は、うまく利用―頭の中でこれは左右逆なんだよなとか再確認することによって、或いは習慣的・反射的に―することによって、<私>の批判/改善を促してくれる。

 自己啓発本のブーム。 自己啓発本は、自分のことを本の中で再発見し、自分を批判し改善するための書物である。本を通して、<私>は<私>に影響する。
 正直、本は<他者>であるといえなくともないのだが、一応自己啓発本は先ほどの鏡のような媒介機能を以てして、最終的には<私>・自分が<私>・自分をよく見えるように手を差し伸べてくれるのだ。

 これが、自己批判システムである。

 気が付けば、至る所に、自己批判システムは存在する。大学機構、鏡、自己啓発本、諸々のSNSの日記、「イイネ!」etc…。

3.結論
これらは、個人主義―<個>が<個>として、集団の中から切り離されて<個>として生きなさい!と半ば放逐されて、<個>として生きていこうとする傾向・考え―が採用される中で、

自分・<私>がよりよく生きていきたい、そのためには、

自分を自分でもっとよく見れる/批判できる/改善できるようになりたい・<他者>の手を煩わせなくても

と考える中で産出された、現代社会の様相を如実に映し出している。それが「自己批判システム」である。

misty @ 

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”家族”の閉鎖性 ー開放的な家庭なんてあるのか?ー

 こんぱら、mistyです。

ちょっとふと疑問に思ったことを止めることができなくて、今突発的にブログ書いています。

@”家族”の閉鎖性 ー開放的な家庭なんてあるのか?ー

皆さんに、私が聞きたいことがあります!

「家族というものは、どうして閉鎖的なの?」
法律が「家族は閉鎖的であれ」なんて規定するのは、聞いたこともみたこともありません。法律上の構造が閉鎖性を考慮しているという話は、別の次元のお話です。


もう少し、疑問を限定したいと思います。”教育”という概念を付け加えます。

「家族(家庭)の教育は、どうして他の教育と比べて閉じこもりがちなの?」

こういうことです。まず、私が想定している「他の教育」とはどんなものなのか、示したいと思います。小学校の教育を述べます。
以下は僕自身の経験談なのですが、地元の小学校に通っていた時。
クラスに、新しい担任が入ってきたのですが、そのやり方・口調などが他の先生達と比べても横暴で、一言で言うと恐いのです。
「この担任の指導(=教え方)、嫌だな・・・」
というグチは、まず僕の友達同士によって共有されました。家に帰って、「新しい先生はどんな感じ?」と母親が尋ねてくると、「・・・嫌だ。」と答えます。そしてその、小学生である僕の反応に敏感に応じた親達が、こぞって「ババア連合会」を巷で開きます。そして、「新しい担任の先生には、もう少し生徒への優しい労りの信念を持って、自分の教育に取り組んでもらいたい」との要請が、PTAに対して受け渡されます。苦情を受理したPTAは、それを議題にかけ、最終的に「実行に移すべき案件」との判断を下します。
そうして翌朝、PTAは当該担任の先生を呼び出すことになるのです。「自分の態度を深く改めるように」との通達を受けたその先生は、自分の教育方針をそこで改めて反省し、その日の朝の会で、僕を含めた生徒達にこう告げます。


「おはよう、みんな。先生なぁ、みんなに話さなくちゃいけないことがあるんだ。先生はどうやら、みんなに対して少し厳しすぎる・つらくあたってしまう所があったようだ。先生も、それを十分に反省した。これからは、みんなから優しい先生と言われるよう、努力するから、みんなも先生に言いたいことがあったら構わず何でも言ってくれ。」

こうして、先生の横暴な教育は少しずつ改善され、それが正しかったのかどうかは不明にせよ、先生に対するクラスの生徒の信頼感は客観的に見ても高まっていったのでした・・・。

この体験話は、少々冗長でしたが、私が取り上げたいエッセンスは、「PTA」がこの事例によって果たした役割です。

小学校機関を、とりあえず小学生ら生徒たちと、担任ら先生たちとの二つの構成員からなる団体であると仮定すると(恐らくこの仮定は間違っているか、少なくとも正しい見解ではないでしょう。私は教育のテーマに関してあまりに無知です)、PTAは小学校機関とはある一定の距離を持った、別の機関、つまり外部の機関であると言えます。

(※携帯用サイト「どこでもウィキペディア」を参照すると、PTAとは「各学校ごとに組織された、保護者と教職員による教育関係団体のこと」であります。私の独自の定義、小学校=生徒と教職員からなる機関、という見地から出発しても、PTAはその構成員において、別の/違った 機関 であることが帰結されます。)参照URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/PTA

さらに、同サイトによると、PTAはその活動目的の主たるものに、「教職員を支援すること」を入れています。ここから、PTAとは、生徒と教職員からなる小学校機関に対する上部の機関であり、その監視等を行う機能を有している、と言えます。もっとも、PTAもその教育機関に属するという点では、自己批判システムを有する機関、であると考えます。


端的に言うと、小学校の教育においては、”外の視線”あるいは”自己を客観的に見る視線”が一応確保されているという多々建前ということになっているということです。生徒たちにとってかなり近しい存在になる「担任」の教育方針/行動に問題があれば、体験談ではかなり迂回な道をとったことにななるのですが(僕という生徒→友達→僕の親→親たちの井戸端会議→PTA→当該担任→僕ら生徒)、「あなたは問題になっているよ!」というフィードバックが実行され、担任の教育はかなりの確率で変革されるものになる、ということです。

PTAという上部機関/監視/自己批判機関があることで、つまり「外」の視点があることで、小学校機関における教育は”批判的態度”を有することができる、と言えます。

それでは、家庭における教育の場面ではどうなのか?
結論から言うと、家族の教育は、事実として、閉鎖的なものであり、PTAのような監視/自己批判のような「外」の視線に、さらされることはめったにない、というものです。

以下も私の個人的な体験談になりますが、現在の私の家族では、父親がほぼ一括的に、家庭における権限を掌握しています。家計簿を付ける、等の金銭管理も、以前までは母親が担っていたのですが、つい最近になってそれすらも父親がその権限を奪う、という事態になりました。

さて、最初に明示しておきたいのが、その父親の教育論の一つに、「人生は勉強だけ励め!他のことをやっているお金などもったいないわ!」というのがあります。これは後に述べますが、私としては明らかに間違っていると考えられる教育なのです。

僕自身はもうハタチを超えたので家庭の教育うんぬんという話は直接には関連がないのですが、僕の妹が現在17歳で、高校2年生、ひとまず進路の岐路に立っています。
妹は、まずお小遣いをかなり減じられました。妹が楽しみにしている漫画や服などの「遊び」に類するものは、買ってやらん!少ない小遣いからやりくりしてくれ!それよりもそんなことしてる暇があったら、勉強に励め!ということらしいです。一律的禁止。

これは一見正論のようですが、私の考えとは相容れません。例えば勉強をするということについて、私は、勉強に集中するためには、遊びや余暇も効果的に取り入るべきだ、と常日頃から考えているからです。人間は、ー悲しいことではあるかもしれないけどー、日々様々な欲望に惑わされている存在なので、「勉強」だけに専念しようとするとかえってその禁欲的態度は他の欲望(もっと漫画を買いたい、もっとすてきな服が欲しい!)を高めてしまうということになります。それならばいっそ、ある程度の自由を与えておいて、一定の範囲で様々な欲望をいい具合に満たして、満足させる。満足すると、人は安定する。安定すると、ニガテ意識を持つ勉強にも意欲が少しずつ湧いてくる・・・といったものです。つまり僕の許容主義的考えからすると、父親の教育に関して、「遊びに使うお金を一律的に与えない」という箇所がおかしいのです。

人生は、勉強だけによって豊かになるのではなく、いい意味での遊びをたくさん体験することによって、また勉強とは違った形で豊かになる。そういう点から、長男の私は父親の当該教育をおかしい、と考えます。

しかし、ここからが問題なのです。父親は、頑固なのです。聞く耳をもたないのです。=自己批判をしないのです! 僕がいくら、「妹にはもっと優しくしてやれよ!」と言っても、自らの教育方針を一向にかえようとしないのです。

さて、この家族の教育と言う場面において、小学校機関にあったような「PTA」のような独立/上部/監視/機関は、ご意見を承りそれを審議し、時には実行に移してくれるような直接的な機関は存在するのか? ”家族の教育”に「外」から切り込む権力を有する社会的実体はあるのか?

現在までの所、私の答えでは「ノー」です。誰も、僕の家族の問題に対して外から切り込むようなことはしていません。 母親の友人の奥さんが、その耳になってくれるのでは? 一般的にはそうかもしれませんが、何と家の両親はどちらとも、そういう意味での活発な近所付き合いや、家庭間同士の交流を、現在ほぼ断ち切っているのです。 正直困ります。

誰の意見も受け付けない頑固な父親と、友人をほとんど持たない母親。 私の家庭の教育は、どうやって外部の視線にさらされることができるのでしょうか?

警察に話を持ち込むのか? 家庭児童相談所に話を持ち込むのか? 「はは、そんな話、どこのご家庭だってありますよ。気にしすぎです。」と一蹴されるだけなのでは?

誰か、うちの”親”の教育が間違っている、と摘発する存在は見つかるのか?

本屋に行けば、「家庭の教育論」に関する書物はたくさん並んであります。しかし、当の本人達がそれを手に取って読んでくれないことには、意味がない。長男の私が、「この本読んで!」と言った所で、聞く”耳”持たない父親はそもそもそういう話を受け付けない。

以上、本当に長い私の個人談でしたが、一般的な大衆社会を見た場合も、ここまでとはいかなくとも、以上のような意味における”閉鎖性”を持った家庭が多いんじゃないか、と私は考えます。

それは、”究極の開放的家庭があるのか”ということを考えると、分かります。「ねぇ、見てみて、私の家族の教育。正しい、間違っている? おかしい点があれば、どんどん批判していってよ!」なんて言ってる家庭なんて、果たしてこの日本でどのくらいあるのでしょうか? 「ウチのことは、ウチで考えますから。」 こういう親ばっかりが、いそうな日本です。

「家族(家庭)の教育は、どうして他の教育と比べて閉じこもりがちなの?」

ー最初に提示した疑問です。この答えを、知りたい。「どうして」というより、「いかにして」閉じこもりがちであるのか、もし閉じこもらないようにもすることができるとしたら、それはどんな方法によるのか、も知りたい。

教育に見識のある方、興味のある方、家庭の教育に問題意識を抱いている方、本稿によって少しでも何か考えてくださることがあったら、幸いです。


以上 @ misty

追記: ネットがまともに使える状況になったので、10分間くらいこのことを調べてみました。 「家族 閉鎖的」でググったりして。 例えば以下のような掲示板がありました。 ↓
「ひとりで悩まないで!」 http://katei-nayami.webdeki-bbs.com/

「ひとりで悩まないで!」というタイトルそのものが、閉鎖的なものとしての家族(家族外の誰かとコニュニケーションしづらい)をにおわせるし、実際、掲示板住民は、警察に行ってみました市役所に行ってみましたDV法が制定されました、と、口々に言うものの、悩み続けているという実態が多く見受けられます。

統一的な「救済機関」は、児童相談所 なのか? または、「友人とのまたーりした相談タイム」しか方法は残されていないのか?
 
 何故このようにネット掲示板に集まってくるてんでばらばらの人達は、それにまず駆けこまないのか? 「110番」のような広範な意識に至っていないからか? それが無力なものだと諦観しているからか?

まだ分かりません。

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問題解決―科学、哲学、宗教―

どうも、mistyです!

@問題解決―科学、哲学、宗教―

1、諸前提
 私たち人間社会において行われること、行われるべきこと、好んで行われることは、すなわち

①何らかについての(社会的)諸問題に対して、②解決を実行すること

であると、私は考える。これを本稿では単純に「問題解決」と圧縮しておこう。
勿論、人間社会は様々な側面を持つものであるから、一概に問題解決だけがその本質ではない。しかし、問題解決の領域が相当広範であることは、うなずかざるをえないと考えられる。

問題解決=①何らかについての(社会的)諸問題に対して、②解決を実行すること

と抽象的に定義したが、もう少し細かく明らかにしておこう。

まず①の部分に関して。
 私たちが生きるこの・社会には、ありとあらゆる問題が横行していたり、潜んでいたりする。
また、「これは問題だ」と、人が意図的にある事物を「問題」への変換することもある。A君がクラス中のみんなからいじめられていることが発生したら、A君をとりまく家族や教師、学校などが当事者となって、「これはゆゆしき問題である」と宣告する。おそらく、その宣告の時点から、A君がいじめられているという「単なる事実」は当事者の作為的意図によって、「問題」へとその質を発展させる。

また、「殺人はダメ!絶対」というように、かなり古くからの慣習の影響も大きくあって、問題の領域に確定されるものもある。

要するに、社会的諸問題はどのように発生するのか、何が(どのような”現象”が)問題視されるのか、問題となる原因・背景は何なのか、の基礎的な考察・検討が必要とされるのである。

 例えば私が右腕を骨折したとしよう。これはかなり分かりやすい事例であって、骨折をほっておいたら悪化するのは社会の”常識中の常識”であるから、かならずお医者さんのお世話になる。 私やお医者さんが「骨折したこと」を「問題」と視ることによって直ちに、この現象の処理は進行することになる(X線を撮られた後、ギプスをはめて全治3週間と言われる…。)

これが、派遣切り、という現象についてであると、複雑性を呈してくる。 どのような経営判断があったのか、その人の収入状況はどれくらいなのか、精神的ダメージの程は…。 これらの考察を一つ一つ吟味して確定していくことで、「問題化」の処理が進行していくことになる。

 何が問題となるのか、がポイントである。

次に、②について。
①の処理によって確定された問題を、どのように解決するのか。
 先の例え話でいけば、骨折した現象に対しては、お医者さんという専門家の判断・技術の応用等の行為があって初めて、骨折は回復するに至る。
 問題の、解決方法を思考する。そしてできる限り最良の策を選び出し、それを行動に移す。
これが②のステップである。

派遣切りの問題であったら、社会保障の観点から、生活保護をどの程度受けさせるのか、親類の支援は、などといったネットワーク上での解決が試みられるであろう。

 私たち人間社会は、往々にしてこの問題解決の場面に出くわし、または自ら作りだす。
その時、科学・哲学・宗教の3者は、一体どの程度、この問題解決に役割を果たしてあるのだろうか、というのが本稿の記す所であるテーマである。

2、科学


(※続く)

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若年層と幼児の奇妙な関係

 こんぱら! mistyです。


@若年層と幼児の奇妙な関係

若年層(15〜25歳くらいの人)は、幼児(3〜6歳くらいの子)に、多かれ少なかれ、特異な好奇心の眼差しをもって見つめられるー。 これが本稿の出発点であり、私の確信に基づく経験論である。もっぱら私の独自の感じ方というよりも、一般的/普遍的にこの事実命題は当てはまる気がする。

親戚や友人関係でもない、赤の他人という関係性の中ですら、そうである。むしろ、どこのだれだか分からない幼児の好奇心にあふれる視線をたくさん感じるからこそ、私はこの問題に興味関心を抱いているのかもしれない(親戚の子や友達関係の幼児だったらそこに親密な関係性が生まれるのは、アタリマエっぽいからである)。

若者は、幼児から好奇心の眼差しをもって見つめられる。このことを筆者が確信するに至ったのは、高校生のときの家庭科での時間の、「幼稚園に遊びにいこう!」の企画の時であった。とくにこちら側(若年層)が「いまなにしてあそんでたのー?」とか「へーそんなテレビやっているんだねー」とか問いかけなくても、あちら側(幼児)がどんどん勝手に、「お兄ちゃんおんぶして!」「こっちで遊ぼ!」と反応を過大に示してくるのである。若干僕らは戸惑い気味ながら、最後には仲良く・涙までこらえてしまうほどの親密さを気付くに至った、そんな高校授業のプログラムであった。
それ以来、幼少期の子供に会うたび、いろいろちょっかいを出されたり出したりと、面白い交際関係がはじまった。一言で言えば、あまりそれまで関心を向けなかった幼児を、「あぁ普通に可愛いなぁ、結婚したらあんな可愛らしい子供を授かることにもなるのか」という幸福の気持ちで迎えるようになったのである。

それでは何故、若年層は幼児から特別な眼差しをもって見つめられるのだろうか?

パッと思いつくのは、まず私たち若年層が、幼児たちからしてみれば、ものすごく大きい身体をしているのに、同じ生活環境の中に暮らしている存在だから、であるという点。幼児たちにとって一番近しい存在であるお母さん/お父さんもまたそのような特徴を持っているのは言うまでもないが、そのお母さん/お父さん以外にも、自分たちとは到底似ても似つかない身体をもった宇宙人が、あちこちにご飯を食べたり自転車をこいだりしているー。活発な好奇心が自動的に働くのは、どうやら間違いなさそうである。

しかし、その1点だけが本稿の命題の「なぜ?」に回答を示すものだけではない。幼児が好奇心をもつのはいいとして、それが含まれた眼差しを積極的に僕ら若年層に向けてくるー。
これはすなわち、幼児たちが僕らと何らかのコミュニケーションを取りたがっている証拠、と捉えることに格段の無理もないだろう。

得体の知れない宇宙人のような存在と、意思疎通を図ろうとするのは、当然そうしたいという欲求にかられる反面、その危険性/恐ろしさを看過できないところがある。
ここで多少の雑談になるが、物事の危険性/恐ろしさを感じ取ることのできる能力は、年齢が積み重なっていくに従って、どんどん向上していくものである、というのはかなりの妥当性を得ていると考えられる。人生の初期には「赤信号を渡るとどうやら死んじゃうかもしれない」という危険察知能力を獲得し、30代になる頃には「この会社に投資するリスクはどれくらいだろう・・・」と机上で頭を抱えながら数値計算を行うに至るまで、つまり危険性/恐ろしさを感じ取ることのできる力は、大人>子供 という図式が当てはまってしかるべきなのだろう。

幼児が若年層にコミュニケーションを取りたいと欲求するのは、すなわちそのリスクを判断する能力が一般的に低いことからくる、その欲求への制限がさしてない、という消極的な一つの回答が得られる。

幼児は、奇形人のような若年層に、多大な好奇心を寄せる。そして、コミュニケーションしたいと欲求する。その際、その欲求の実行を制限するような、危険察知能力が働く領域は一般的にかなり狭いので、私たち若年層はご飯を食べている間ずっと、彼らから熱い熱い視線をずっと浴びることになる。

さて、その熱い熱い視線を浴びた後、私たち若年層がどういう対応を取って(無視/手のひらをかえす/親しく受け止める)、その後どのような関係性に発展するかは、本稿の対象外である。今後のお楽しみである。

本稿が示した原因以外にも、様々な要因があるにちがいない。それらを探ってみたい。

※ちなみに筆者は、児童心理学等の分野に全く携わったことがないような状態で、思いつきで本稿を書くにあたった。忌憚のない感想や批判を頂ければ幸いである。

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共時感覚

こんぱら! mistyです。

今日はもう一つ、なんか話をしたい感じなので、投稿しておきます*

@共時感覚

(1) 個人主義
「共時感覚」という言葉が存在するのか、あったとして学問的なステータスがあるのか、残念ながら勉強不足の私には分かりませんが、要するに「(他の)誰かと同じ時間を共有していると感じることのできる気持ち」です。

 一緒に弁当を食べていて、「あ、おれは今コイツと一緒に飯食ってんだな」と思うその感覚の事です。

 なぜそんな一見瑣末なことに思える事柄をテーマにするのかというと、この共時感覚というものは意外に奥が深いから。と私は考えています。
 
 偏見だらけで、とても大雑把な社会の見方ですが、現代社会はある面に於いて、集団主義から個人主義へ移行しつつある(むしろ現代社会=個人主義である)と言われています。
 つまりは、個人個人がそれぞれ独立―したかのように見える―して生活なりを送っていくことのできる、またはその傾向にある社会が現代的であるということ。
 話を限定するため、日本にしましょう。

(2) 核家族、便利社会
何故、個人主義が台頭したか?
これを説明するのが、「核家族」というキー概念です。 よく説明されるように、以前の日本の家においては、子供ー親ーじいちゃんばあちゃんといったような、複合家族を単位として社会共同体が基礎されていた。 それが江戸時代の頃から、さらにはWW2後のブームともなった、子供ー親 のみで構成される家族が中心となった、という記述。
 核家族の諸問題の一つとして、とてもあいまいなものではありますが、タテのつながりの希薄化がもたらされてしまった、というものがあると考えられます。まぁそれは、昔は一緒にいたかもしれないじーちゃんばーちゃんとは、別々の場所で生活をするだけで、密な関係性が築きにくくなるのは当たり前です。

複合家族から核家族へ、家族という人間にとって最も大きい存在である所の共同体の構成が縮小された。

 さらに、世の中は「便利社会」となり、「ネットで何でもできる」というイメージからも伺われるように、比較的「1人で」生活することがより楽になった(推進された)。 「家」(=共同体)を作らなければならない!という束縛から離れ、文字通り「個人」として生きやすい時代になった。

 人とのつながり、例えば親子の関係性も、未来永劫絶対的に必要なものではなくなり、ある種、手段的に対象化されるものになるでしょう。人間関係は、「必須事項」から「選択事項」へと移行しつつある。

(3) 共同体
 しかーし! ここで私がちょっと待てよと言いたいわけです。
というのも、私は、人というのは本来的に、他人との繋がりを求めずには居られないという仮説を支持しています。
 いくら個人主義がまかり通れど、厳密な意味でたった1人で生涯を形成していくことは客観的に不可能であるし、人数が多かれ少なかれ、人との関わり合いは必要になってきます。

 そこには、「共同体に生きなければならない宿命」とでもいうようなものがあるのでしょうか。
共同体に生きることは必ずしも完璧とか、そういうことではないと思うのですが、例えば大きなメリットを挙げましょう。共同体、つまり複数人の人達で生活を送ると、そこには何かしらの「秩序」が生まれます。
 例えば、「朝は最低でも8時に起きる」「ご飯は協力して作る」などです。
秩序は、役に立ちます。人を律し、全体を効率的かつ体系的にまとめあげていきます。

「オレは好きな時に寝て、好きな時に起きる! 勝手にやらせてくれ」 ← たぶんこんな人は、健康面でひどい目にあいますwww

早いが話、群れて暮らす、同じ時を過ごすのには、やはり歴史的に見ても、政治の観点からみても、なかなかの魅力があるということですね。

(4) 「我々は元々群れていたがそれが細分化され、そして再び結合しようとしている」

 現代社会のイメージ、それはネットカフェのブースのような状況。 各人それぞれにはネット環境という素晴らしい利器が与えられ、それぞれはブースという単位で区切られ、互いに干渉することなく、「個人」での楽しみを追求することができる…。
 人は、ちりぢりになっているように見える。

 しかし大切なのはここからで、そのちりぢりになった所で人々がネットに夢中になっているのは、ツイッターやSNSだったりするわけです。
 つまり、ネットの向こう側にも、匿名性の皮を着た、生身の人間がいるのは分かり切っているはずで、結局そのベールを包んだままの存在と戯れる。 ブースで区切られ「個人」を手にしたはずの現代人は、しかし、終局的には再び「集団」を求めているということ。

 これが、現代社会の生の姿、なのではないかなと思います。
 「集団」から「個人」へ、そして再び「個人」から「新しい形の集団」へ…。
私たちは個人主義にどっぷりつかっているわけではなく、「集団」と「個人」の間を行き来する、中々不安的な存在であるのではないでしょうか。

(5) 共時感覚

ツイッターTwwiterでは、各人の瞬時のコトバ(=「ツイート」と呼ばれるものです)が、時間軸(「タイムライン」と呼ばれます。)に沿ってリストアアップされていきます。 あの人がこの時間ああゆうことを発言したかと思えば、この人はこの時間にそんなことを思っている、それを俯瞰的に眺めることのできるのがツイッターです。

 ツイッターでは、「この人と同じ時間を共有している!」という想いを大変強く感じさせられます。1人家に帰宅して寂しいと思っても、パソコンのふたを開ければ、そこには姿こそ見えないけど大切な友人やタレントが「生」を送っているらしいという生の現実が、ありふれています。
 1人でも、複数人の存在をより身近に感じることができる。実はこのポイントこそが、ツイッターブームを支えている最大要因なのではないか、と私は考えています。まぁこれは余談ですが。

それは、いわゆる共同体チックな、それでいて形式的には「1人」で行えるとても利便性のある、体験です。「集団」と「個人」を程良く両者とも味わえる。

 共時感覚は、人を支えるきっかけになりませんか? 例えば勉強を1人でしていて、どうもはかどらない。そんな時、周りにいる友達が同じように必死に勉強している姿を見て、「あぁ私も頑張らなくっちゃ!」と起動力をもらうきっかけになります。
 それはおそらく、共同体生活が生み出す秩序からさらに派生された、「共時感覚の安心感」とでも呼べるものです。私一人ではない、私だけが存在しているのではない、確かに近しい存在が私の周りにもいるんだ…。こう感じることで、人は無意識的に安堵をおぼえる節がある、と私は考えています。そしてそれはごく普遍的なことです。

「個」がやたらと強調される社会風景だからこそ、共同体、共時感覚のようなどこか懐かしいようなものがとても貴重に思えてくる。
 これからも、共時感覚の存在は益々脚光を浴びることになるだろう、と、本文を以て指摘ができました!

はい、終わり♪

misty @

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戦争責任

mistyです!
少し話に飛びがある記事になってしまいました。。 反省。

述べられている2つの疑問というのは、ようするに

1 戦争=WW2 となっている我々の認識の危険性
2 「責任」を戦争未経験のわれわれにあまりにも簡単に、画一的にそして威圧的に伝えている嫌いがある

です。


@戦争責任
 
この時期になるとなお一層、第二次世界大戦をはじめとする日本の「暗い」過去についての報道の熱が増す。
 
端的に言ってしまえば、私には報道の必要性とその大切さは十重に分かっているのだが、それにしても報道の偏りには疑問を抱かざるをえないのである。
 
まず一つの大きな疑問は、日本は歴史を振り返っても幾度の国内・国際紛争をおこなってきた(そしてそれは現在にも連なっている)のにもかかわらず、何故WW2のみが過剰に取り上げられるのだろうか、ということである。
 たしかに、この戦争が日本の歴史や文化などにとって、特殊で異様な意味を持つことは頷ける。最多の犠牲者が出たことや、二度の原子爆弾―日本は唯一の被災国である―が落とされたということ、全体主義的な色がとても濃く、戦時下はあらゆる価値が裏切られ虐げられていたということ。ポイントをあげるには少しも足らないが、WW2が日本に投げかけた―投げかけている―事柄は、実に根が深い。
 しかし、戦争というとなぜすぐWW2になってしまうのだろうか。時系列的に一番短いからか? それは否であると思う。近いといっても、戦争の終わりから現在にいたってはとんでもないほどの月日が流れているし、しかも日本がそれ以降関与している世界戦争は現に存在するからである。まさか、まっこうから交戦をしていないという形式的な理由だけで、日本は非・戦争国であると認識するわけでもあるまい。
 
 疑問は解消しないが、しかしこのことがはらむ問題を敢えてあげるとすれば、それはあまりに戦争=第二次世界大戦 という結びつきが強すぎるために、他の事件の事が認識されなくなってしまうという危機である。
 確実に言えるのは、日本はこれまでも幾度の戦争を行ってきたという「事実」である。WW2は確かに最も異例で重要な意味を持つ事件の一つであったが、だからといって、他の事件が重要でないということでは必ずしもない。
 
 過剰な報道がもつこうした危険性を、もう少し当局は考慮すべきで、報道の配分などについても改めてく構成しなおすべきであろう。
 
二つ目は、われわれはあまりにも戦争責任を重たく負っている、と見えることである。それも、WW2の時のみのことを? 報道は、私たちの「過ち」を決して忘れることないように、という目的をこめてということもあって、毎年毎年戦争責任について考えたり思ったりする時間を私たちに提供する。
 それは、必要的・とても意義の大きい時間であると思う。戦争責任は、何年かかっても償いきれるものではないし、まただからこそ、何年かけてもしょっていくべきであるからである。
 
今いえるのは、私たちが普遍的に戦争や平和のことについて考えるとき、その基盤となるのが固定されたWW2の世界観になってしまわざるをえなくなることである。WW2ではああいうことがあった、だから今回はそんなことが起こらないようにしよう―。 一応、一般的な思考傾向であるように思われる。
 それでは、世界大戦終結後すぐ起こった朝鮮戦争に対する日本の態度は? 友好国であるとされるアメリカが関与した戦争について、日本が積極的な国際対応を取らなかったことは?
 
 私たちが参照するのは、過去に行われたただ一度の戦争のことのみではないはずである。反省材料は色々とあるし、またそれらは同じような意味をもつものでもなく、それぞれ微妙な差異を持った問題を投げかけてくれるであろう。
 具体的にいえば、参加国として関与したWW2の反省として、日本国憲法において国際戦争の参加を禁止する規定を作った。 それでは、朝鮮戦争において軍事物質を結果的には大量に戦争地に配布することとなった日本の、責任は何もないのかといわれれば、そんなことはないであろう。実質的に「参加」というかたちを取らないにしても「提供」国としての対応はどうすべきだったか・・・? このようなことを、このあまり認識されていない戦争は考えさせてくれる。
 
 要は、WW2に捕われるあまり本質を見失ってあまり視野を狭めすぎるな、ということである。
 思考の視野は、自分でも気がつかないぐらいにどんどん変化していくものである。だからこそ、私たちが戦争責任について冷静に考えるときに必要な参照物を、WW2のみに固定することはないのである。広く見なければならない。
 
率直にいうと、報道やその他の情報機関・機構からもたらされる戦争責任についての事柄は、どこか単純で説明不足で威圧的だ、ということが否めない。私も含めて今の子供たちは、WW2をリアルに経験したことがない。
 何かを伝えようとするときに、その肝心の何かが簡単になりすぎてしまったり、大事な要素が抜け落ちてしまったりというのはよくあることだが、だからこそもう少しこの点をデリケートに考慮するべきである。
 
 WW2は60年以上も前に終わっている。そして、戦争についてのイメージは、一途なものでなく、実に様々である。事実を報じるのはけっこうなことであるが、それが人の頭の中にどう映りどう解釈されるのか、このことはメディアについての最大の課題の一つであると断言できよう。
 
misty @

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私にとっては、新しい試みです。

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misty
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1989/03/19
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*好きなモノ・コト
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音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
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*苦手なモノ・コト
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