発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@ポストモダン時代の大学生
従来の大学生/今頃の大学生、という大学生の話題をしてみようと思います。今回はなるべく分かりやすく書こうととの意図のもと書いています!!
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「いまどきの若い学生は根性(やる気)がないよ」
というセリフは、新聞・テレビなどのメディア空間や、もしくは自分や親族のおばあちゃん・おじいちゃんなどの親密圏などから、よく耳にする言葉(言説)だと思います。
それを字義通りに受け取ってしまうと、さも従来の人達(今の60~80歳の人たち、それを本稿では「リアル旧世代」と呼びます)は”マジメ”に学生時代を送っていて、今の僕たち(本稿では「リアル新世代」と呼びます)は”フマジメ”に学生時代を送っているかのように考えてしまいますが、勿論本稿ではそんなテーゼに従うわけがありません笑
むしろ、何故リアル旧世代の人たちが、リアル新世代を見て、「いまどきの若い学生はやる気がないよ」と心理的・感情的・投げやりに言ってしまうのか、そう言わしめてるものは何なのか、それを考察していくのが社会学というものです。
(※だから)今回は社会学の手法を使って書いています。
ここで、そう言わしめてるものを、私は「時代の雰囲気の違い」という社会構造の差異に結び付けて結論付けます。
時代の雰囲気の差異が、リアル旧世代にそんなセリフをたくさん言わしめているのです。従って、「やる気がないよ、いかんよいまどきの若い学生たちは」という言説は、専ら自発的なものではない、と筆者は考えます。むしろ、社会構造が個人を規定し、そう言わしめているという思考を採用します。
そこで、本稿ではフランソワ・リオタールの偉大な著作、『ポストモダンの条件』で出てくる概念群を使ってみようと思います。
リオタールは、その『ポストモダンの条件』モダンmodern(近代)と、ポストモダンpost modern=近代の後、という時代区別を行い、その時代の実質的な内容を次のようにまとめたとされています。
すなわち、
モダン(近代)= 大きな物語の共有
ポストモダン = 小さな物語の乱立
これがどういう意味を指しているのか。こういうことです。
1900年代の前半に、この世界で二つの大きな戦争がありました。第一次世界大戦と、第二次世界大戦です。それら世界大戦においては、それぞれの戦争参加国、すなわち近代国民国家は、例えば日本だったら「大東亜共栄圏」の構想、ドイツではナチズムによる世界征服、英米など西側陣営では「それら全体主義/独裁主義 に対抗するパワー」といったものを掲げて戦争を繰り広げていました。
大切なのは、大東亜共栄圏や、ナチズム(全体主義)、さらにはマルクス主義といった、半ば「~主義」という用語(ターム)で括られるような大きな考えや理想が、大マジメに、その当時の人々の間で信じられていたということです。
ヒトラーは、大真面目に、ユダヤ人を排除し、ナチズムが全世界を征服すれば、この世界は統一的なものとなる、と本気で信じて戦争を行っていたのです。またそれに対し西側陣営は、本気でそれらを何とかして食い止めなければならないという理念の下で、日本に二つもの爆弾を落としたりしたのです。
近代とはそういう風に、大マジメに、それぞれの大きな物語(「大東亜共栄圏」、「ナチズム」、「それらに対抗するパワー」)といったものが、大多数の人々の間でマジメに共有されえていた時代、そういうことです。
しかし、そのような近代時代は、1960年代の、マルクス主義(共産主義国の確立を目指した運動)や大学生たちによる大学紛争の失脚という形で、徐々に勢力を失ってきました。
その代わりに出てきたのが、「小さな物語の乱立」です。 もはや大東亜共栄圏やマルクス主義といった話は過去の遺産だ。これからは、もっと現実的な、クールな思考で、世界や社会をどうするのかを語られなければならない…。そこで、戦後民主主義、自由主義、自由民主主義、社会主義、修正された共産主義など政治の場面でも、じつに様々なイデオロギー(考え方)が乱立することになります。
これは、政治の場面に限った話ではありません。例えば、アイドル文化の成立。 一般に、アイドル文化が成立したのは1970年代だとされています(ちなみに、別稿で筆者はそのことを詳しく論じています)。それまでは、「少数の”スター”」の時代でした。エルヴィス・プレスリーや、美空ひばりなどの、「手の絶対届かない遠い存在の人の輝き」です。 アイドルでは対抗的に、「もしかしたら手が届くかもしれない、もっと身近に応援することのできる存在」なのです。1970年代以降、南沙織にはじまり、山口百恵、松田聖子、きょんきょん、浅川唯、おにゃん子クラブ、Wink…といった実にたくさんのアイドルが登場してきては移り変わっていくという状況がありました。
これが、小さな物語の乱立です。 つまり、かつての大きな物語ほどには大きくないし、支持者も少ないのだけれど、それぞれのそういった物語が幾つも幾つも浮遊しては乱立している、いりみだれている、そんな時代が1970年代あたりから徐々に始まったのです。
ここで漸く、大学生の話に戻ります(笑)。
リアル旧世代の人々は、この大きな物語の共有=近代の時代に、まさに自分たちの青春を学生生活の中で送っていました。
そこでは、その当時の社会や世界をどう生き抜いていくか、変えていくかが、真剣に差し迫った問題として、人々の中で語られていました。
特に、”大学”という空間はその最たるものです。大学こそが、子供と社会人の分岐点、モラトリアムの時期であり、これから社会人として社会を支えていく側が、どうこれからの未来を支えていくかが、とても大事でした。そこで、例えば日本が共産主義国・マルクス主義国であるべきかどうか、戦後民主主義を支えていくかどうかといった類の話は、実に真面目に大学サロンで語られていたのです。 ”マルクス主義”や、”共産主義”、”戦後民主主義”といったイデオロギーは、それ自体、当時の大学生みんな、みんなとは言わずとも、大多数の人に、暗黙に共有することのできる空間であったのです。
それとは対照的に、リアル新世代の私たちが生きるこの社会・世界においては、そんな大多数の人が共有できている物語というのは、実に少ないのです。
現代社会、つまりポストモダンの時代は、趣味の時代だといわれています。趣味とは、各個人個人がハマるものであって、大多数の人々に強制できるものではない。各個人は、それぞれ自分の自由な選択に基づいて、自分の生を決定できてしまいます(個人主義)。
実際が、自分の趣味を、公共(パブリック)の空間において、胸を張って言えるものが、どれくらいあるでしょうか?
筆者は音楽と文芸が趣味ですが、例えば
「僕は音楽が好きだー!」
と言ったとします。しかしそれだけで、何の説明にもならないのです。なぜなら、たちまち次のような質問が返ってくるからです。
「どんな音楽が好きなの?」
僕は、エクスペリメンタルやポストロックが好きなので、「ポストロックやエクスペリメンタルが好きです」と答えたとします。すると、「ポストロックって何?」という返事が返ってくるのです。 音楽の界隈でも、「小さな物語の乱立」、つまりジャンルの多様性といったものが深刻に進んでいます。
例えば「アニソンが好き」といっても、具体的に聞いてる曲は本当に各人様々ですし、「ロックが好き」といっても、本当に近代の時代、つまりビートルズやストーンズの頃の1960年代後半、ギリギリ「近代」の時代に生まれたロックが好きならば、「古典的ロックが好き」と補わなければなりません。 ツェッペリン、ザーフーなどが好きだと言えば、「ハードロック・UKロックの初期あたりのロックが好き」とさらに補わなければなりません。
つまり、音楽やロックといった一つの例をとるにしても、そこには多様性がどんどん浸透してしており、「みんなが暗黙に共有できる音楽観やロック観」といったものは存在しないのです。
実際、大きな物語の共有の時代は、過去の「遺産」となっていました。 今の大学にあるサロンがそれをよく物語っている気がします。
サロンは、現状維持で仕方なく大学制度側がまだ残していますが、例えば九州大学文系のサロンは、かつてあった「サロンで政治や人生を語る」といった場所ではなくなっています。それぞれの学生が、各自分の目的に応じて、利用するだけの場所となっているのが現状です。
ハッキリ言って、リアル新世代の私たち大学生は、「目的意識をもって勉強することの認識」が欠けていると思います。目的意識とは、「これから社会人になるにあたって、どういう社会を歩んでいくか、どんな社会がこの世界に望ましいか、自分は社会の中でどんな役割を果たせるだろうか」といったことを常に念頭に置きながら、勉強している人たちは、いないとはいいませんが、それもまたごく少数にすぎないということです。大多数では決してありません。むしろ大多数は、単位取得ただそれだけのために、勉強を仕方なくなっている感があるのが、本当のトコロではないでしょうか?
リアル旧世代の人たちは、大学=子供と社会人の狭間、に来たからには、自分がこれからどういう社会を望むのか、どういう社会に作り変えていくのか、そういうまた一つの”大きな物語”をもって、大多数の人が勉強していたのが事実だと考えられます。 だから、今の、”趣味で勉強しちゃっている”学生をみて、「なんか今どきの学生にはやる気(根性)が感じられん」というのだと思います。
長くなりましたが、以上です。 ポストモダン時代に生きる大学生がどうなっていくのは、また別稿で考察したいと思います。
misty @
@真なる弱者と偽なる弱者
自動車を歩道者から外すという政策の云々が問題になっている。
暫定的な解消策としては、とりあえず自転車道というのをきちんと設けた上で、歩道/自転車道/車道 という扱いにするのが望ましい。
自転車を自動車道に一本化するなど、もっての他だ。いくら法的に”同じ”「車」であるからといって、自転車と普通自動車、軽自動車でさえそこには大きすぎる質的差異がある。自転車と自動車を同じ車道に一本化すると、どちらにとっても迷惑だし、おそらく自転車走行者の事故が多発するだろうというのは確認するまでもない。
さて、この車社会のアクター(登場人物)が織りなす車社会体についての基本的な視座は、一番の弱者である(とみなされる!)歩行者を中心にして考えるということである。
今の、自転車を車道で走らせて歩道には歩行者のみをといった平板で馬鹿にもほどがある議論は、しかしそうした基本的視座から短絡的に導いたものにすぎない。
ここまでは当たり前の話である。
さて、歩行者=弱者 とみなす、この<視点>は、一体だれ(どの主体)であろうか?
それが歩行者の視点ではないということは当たり前である。私は、福岡市で生活をしているが、歩行している時に当たって、ついぞ歩行者×自転車、自動車 の事故にかれこれ5年間、全くお目にかかってない。事故の中心は明らかに自動車×自動車(或いは自転車×自転車)である。歩行者は実は弱者ではない。歩行者は、ある意味において、一番の強者だ。というのは、都会のほんのちょっとした距離を歩くサラリーマン達が、そうである。歩かざるを得ない高齢者や子供は確かに弱者である。しかし、マントを被って弱者のふりをしている歩くサラリーマン達は、自分たちの移動コストが少しでも少しでも減るようにと、今の車社会体を動かしている一番の大きなアクターなのだ。従って、歩行者には2種類いることになる。真なる弱者と、偽なる弱者。
したがって、歩行者=弱者とみなすこの<視点>は、とりもなおさずこの偽なる弱者=歩くサラリーマン達=社会の中心を握っている者たち、なのである。繰り返しになるが、彼らは法的な保護(”歩行者”は優先されるべし)を巧みに身に纏って、自転車よどけそうすれば我々歩行者(ここでは、歩く高齢者/子供=真なる弱者と、歩くサラリーマン=偽なる弱者とが意図的に一体になっているのだ)は安全に守られる、とこざかしい主張をしているにすぎない。
行政は、真なる弱者と偽なる弱者を分かつ判別基準を未だもたずにいる。このままいけば、間違いなく車社会体は、偽なる歩行者にますます有利な環境にならざるをえないだろう。
真なる弱者は、実は自己の<弱み>を主張できない、だからこそ弱者なのだ。
偽なる弱者は、時に真なる弱者を巧みに利用して、自己の<弱み>を<強み>にこっそり変える、いまいましい強者なのである。
以上
misty @
@メディア批判はまだ活力がある
本屋で、社会学の近くのコーナーにいってみると、そこには実にたくさんの「メディア」に関する社会評論やエッセイの類の書物が置かれている。メディア批判はいつもアツい。メディア言説の中では、メディアを擁護する立場は批判する立場よりも圧倒的に少ない。それでよいし、それが正常だ。
本稿ではメディアをひとまずテレビ、ラジオ、新聞に限る(ネットは除外する。)
テレビ、ラジオ、新聞にある共通点は、情報の発信者の非・匿名性だ(ネットは反対に匿名性を特徴にしている)。それは名前を、発信源を、程度の差はあれ、公に示している。発信源を示すことは、そこに責任(応答可能性/レスポンシビリティ)の所在を示していることでもある。ざっくばらんに言えば、「顔」を示しているのだ。
相手の「顔」が見えると、こちらもある程度の覚悟、つまり再批判されるリスクをおいつつ批判することを予め想定しているので、互いに責任感や倫理感をもって言説を行うことができる。古館さんはクソだ、とか、小倉さんの今朝の発言はヒドい、私たちはテレビの前でそういった愚痴や批判をボソッとつぶやくだけではない、きちんとこちらも名前や責任の所在を示しつつ彼らに批判を送ることができる。
批判は、相手の下に届いてはじめて批判足り得る。どこから矢が飛んできたのか分からないのでは、批判された側もたまったものではない。 飛び矢は矢ではないのだ。
余談にはなるが、だからネット社会がまだ人々の言説に匿名性を従わせている限り、2ちゃんねるやその他の言説の場は、全く責任・倫理を伴わない、少しも批判ではない批判がただうずまくカオスの場であるだけである。それらは、相手に届かない。唾を吐いているだけである、そうして、唾を吐くだけでナルシズムに陥るだけの、つまらないものである。
従って、「顔」のみえる、face to faceなメディア批判だけは、依然として社会の言説の闘争の場としての有効性を持ち得る。昨今の”知識化社会”の進行にしたがって、人々は何世紀か前は一部の人だけが握っていた、対抗運動としての知識・情報を獲得する可能性を充分に手に入れた。あとは、各人が行動に移すのみである。知識を知恵に変えるだけである(それが難しいのだが)。
misty @
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