こんぱら! mistyです。
@若年層と幼児の奇妙な関係
若年層(15〜25歳くらいの人)は、幼児(3〜6歳くらいの子)に、多かれ少なかれ、特異な好奇心の眼差しをもって見つめられるー。 これが本稿の出発点であり、私の確信に基づく経験論である。もっぱら私の独自の感じ方というよりも、一般的/普遍的にこの事実命題は当てはまる気がする。
親戚や友人関係でもない、赤の他人という関係性の中ですら、そうである。むしろ、どこのだれだか分からない幼児の好奇心にあふれる視線をたくさん感じるからこそ、私はこの問題に興味関心を抱いているのかもしれない(親戚の子や友達関係の幼児だったらそこに親密な関係性が生まれるのは、アタリマエっぽいからである)。
若者は、幼児から好奇心の眼差しをもって見つめられる。このことを筆者が確信するに至ったのは、高校生のときの家庭科での時間の、「幼稚園に遊びにいこう!」の企画の時であった。とくにこちら側(若年層)が「いまなにしてあそんでたのー?」とか「へーそんなテレビやっているんだねー」とか問いかけなくても、あちら側(幼児)がどんどん勝手に、「お兄ちゃんおんぶして!」「こっちで遊ぼ!」と反応を過大に示してくるのである。若干僕らは戸惑い気味ながら、最後には仲良く・涙までこらえてしまうほどの親密さを気付くに至った、そんな高校授業のプログラムであった。
それ以来、幼少期の子供に会うたび、いろいろちょっかいを出されたり出したりと、面白い交際関係がはじまった。一言で言えば、あまりそれまで関心を向けなかった幼児を、「あぁ普通に可愛いなぁ、結婚したらあんな可愛らしい子供を授かることにもなるのか」という幸福の気持ちで迎えるようになったのである。
それでは何故、若年層は幼児から特別な眼差しをもって見つめられるのだろうか?
パッと思いつくのは、まず私たち若年層が、幼児たちからしてみれば、ものすごく大きい身体をしているのに、同じ生活環境の中に暮らしている存在だから、であるという点。幼児たちにとって一番近しい存在であるお母さん/お父さんもまたそのような特徴を持っているのは言うまでもないが、そのお母さん/お父さん以外にも、自分たちとは到底似ても似つかない身体をもった宇宙人が、あちこちにご飯を食べたり自転車をこいだりしているー。活発な好奇心が自動的に働くのは、どうやら間違いなさそうである。
しかし、その1点だけが本稿の命題の「なぜ?」に回答を示すものだけではない。幼児が好奇心をもつのはいいとして、それが含まれた眼差しを積極的に僕ら若年層に向けてくるー。
これはすなわち、幼児たちが僕らと何らかのコミュニケーションを取りたがっている証拠、と捉えることに格段の無理もないだろう。
得体の知れない宇宙人のような存在と、意思疎通を図ろうとするのは、当然そうしたいという欲求にかられる反面、その危険性/恐ろしさを看過できないところがある。
ここで多少の雑談になるが、物事の危険性/恐ろしさを感じ取ることのできる能力は、年齢が積み重なっていくに従って、どんどん向上していくものである、というのはかなりの妥当性を得ていると考えられる。人生の初期には「赤信号を渡るとどうやら死んじゃうかもしれない」という危険察知能力を獲得し、30代になる頃には「この会社に投資するリスクはどれくらいだろう・・・」と机上で頭を抱えながら数値計算を行うに至るまで、つまり危険性/恐ろしさを感じ取ることのできる力は、大人>子供 という図式が当てはまってしかるべきなのだろう。
幼児が若年層にコミュニケーションを取りたいと欲求するのは、すなわちそのリスクを判断する能力が一般的に低いことからくる、その欲求への制限がさしてない、という消極的な一つの回答が得られる。
幼児は、奇形人のような若年層に、多大な好奇心を寄せる。そして、コミュニケーションしたいと欲求する。その際、その欲求の実行を制限するような、危険察知能力が働く領域は一般的にかなり狭いので、私たち若年層はご飯を食べている間ずっと、彼らから熱い熱い視線をずっと浴びることになる。
さて、その熱い熱い視線を浴びた後、私たち若年層がどういう対応を取って(無視/手のひらをかえす/親しく受け止める)、その後どのような関係性に発展するかは、本稿の対象外である。今後のお楽しみである。
本稿が示した原因以外にも、様々な要因があるにちがいない。それらを探ってみたい。
※ちなみに筆者は、児童心理学等の分野に全く携わったことがないような状態で、思いつきで本稿を書くにあたった。忌憚のない感想や批判を頂ければ幸いである。
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