こんぱら、mistyです!
2011年最後の記事! 最後の記事らしくはないのですが、まぁいつも通りということでやっていきたいと思います~笑
2011年は、日本にとっても世界にとっても本当に大きな年でした。。
歴史を忘却してはいけないと強く感じています。
2012年は諸々の事物の回復の兆しの年になって欲しいです! というかします!してみせます!1人だけじゃ無理だけど!
@複数体は賢慮か馬鹿か?
非常に簡単な問いであるが、恐らくこの問いは深い。
すなわち、
人が複数人集まった時、彼らは個人でいるよりも賢くなるのか、それともヨリ馬鹿になるのか、そもそも比較すべきではないのか、という問いである。
この問いは、筆者の感性=直感の経験からきている。
その答えは、人は集まると、ヨリ賢くなる時もあり、また時にはヨリ馬鹿になることもある、パラドックスをはらむものである、と。
ここでは、人が複数集まったその団体形態のことを、「複数体」と呼ぶ。
慣例上では、「集合体」と呼ぶのが一般的であろうが、集合体と呼称するとどうしても全体的なイメージが出てくる。 10人だったら10人全体みたいな。
筆者はそうではなくて、任意の人の集まり、つまり2人以上の適当な人の集りのことを意味したく、「集合体」ではなく「複数体」と呼ぶことにする。
考察には入る。 a.考察の前提 b.賢慮になる場合(集合的賢慮) c.馬鹿になる場合(集合体的馬鹿) d.検討 e.総括
a.前提
そもそも比較すべきでない、ということには直ちにはならないと筆者は考える。ここで複数体の意志や行動を観念するのは、個人の意志や行動との比較においてである。
個人は意志を持ち、また意志を持つか持たないかによって行動する、というのを大前提にする。
パラレルに、複数体も、あのリヴァイアサンのように、何らかの統一的な意志が生じたり、その意志によって行動したりするもの、と定義しておく。
(したがって、本稿の問いの、「そもそも比較すべきでない」といった答えは、私の思考上排除される。)
b. 賢慮になる場合
「三人寄れば文殊の知恵」、そして近年の注目のテーマ、「集合知」などがその例である。
三人寄れば文殊の知恵とは、一体どういうことなのだろうか?
それは合理的に考察していくと、複数人の各個人が有する差異が、うまくバランスよく組み合わさって、1人(個人)の意志や行動よりも、ヨリ素晴らしい/効率的な/正しい/合理的な/快楽的な/プラスの意志が生まれ、それが行動につながるということではなかろうか。
個人個人はそれぞれ
異質であり、そのことなった部分が、
相互補完的に機能したりする、ということである。
例を出そう。 「3人で、うまいタイ料理屋を探す」ことにしよう。
Aは、世界史に詳しい。タイの文化や歴史をよく知っている。しかし、相当の情報弱者である。
Bは、世界史に詳しくない。 他の3人に比べて国際的な人間関係を持っている。普通程度の情報弱者である。
Cは、世界史に詳しくない。タイのことも知らないし人間関係も国内閉鎖的である。 情報強者である。
単純だがこのように3人を差異化する。
Aが、独りで「タイ料理食いたい」と望んだとする。しかし店を知らないし、携帯のネットの使い方もよく分からない。おそらく、A独りでは、タイ料理屋にすらそもそもたどりつけない可能性が高い。
Bの場合。国際的な人間関係のおかげで、「友人達の間で話題のお店」に入ることはできる。しかし、店の場所が複雑で、辿り着くのに結構時間がかかるだろう。
Cの場合。 店はメジャーな料理店からマイナー料理店まで、交通アクセスや料金まで詳しく調べられるが、そもそもタイ料理屋に行こうと思わない。
3人集まればどうか。
Aは、「じゃあ今日の飯はタイ料理屋がいいな!この前旅行行ったときマジおいしかったんだよ!」といい、「飯のカテゴリーをどうするか」の出発点をそもそも定めてくれる。
Bは、「じゃあ、タイと日本のハーフの友人に聴いてみよっか?」と答える。
Cは、「じゃあマイナーな店とメジャーな店どこにする?」と答える。
Bが、その友人の友人がやっている小さなお店の名前を聞き出す。
Cは即座にググッて、アクセス・料金等を比べ、その店がとてもいいという口コミも得て、3人はそこへ行った。 行くのに手間もかからないし、Aがタイの文化をよく知っているからネタがつきないし、実際ご飯はおいしいし、最高の結果であった。
Aは、Cから携帯ネットの使い方を教えてもらった。Cは、タイのことを知った。 Bはその両方。
これが「三人寄れば文殊の知恵」ではなかろうか。 個人独りではなかなか達成できなかったことが、3人集まることによってよい結果を出し、更にそれぞれ各個人に別々の利益が還元される。
繰り返しだが、大切なのは各個人の差異がうまくかみ合っていることである。
3人とも情報弱者であったらダメだし、Aがタイのことをよく知っていないと雰囲気が盛り上がらないだろうし、Bがいないと友人の友人という親密的なお店を知ることがなかった。
「集合知」についても、あまり文献を読み込んでいないのだが汗、おそらく文殊の知恵論と似た構造を持つと考えられる。
さらに付言すると、具体的には集合の人数は、3,5,7といったように奇数がいいと思われる。そして、人数の上限は10人くらいが適度だと考えられる。
なぜなら、偶数は、4人vs4人といった、ちょうどの二項対立を作ってしまう可能性があり、多数決の法理を採用する場合に不向きだからである。また、人数が多すぎると意見の集約そのものがさらに困難になる。
c. より馬鹿になる場合
これが、おそらく「文殊の知恵論」がうまく機能しなかった、裏目に出たときとイコールなのではないかと考えられる。 つまり、諸個人の差異がうまくかみ合わなかった時だ。
A タイに詳しい・情報弱者
B タイに詳しい・情報弱者
AB二人では、二人とも路頭に迷うのがオチであろう。
それでは、「なぜ俺たちはわざわざ集まったんだ」というストレス=コストがかかってしまうことになる(!)。
(※ ここが非常に大切なのだが、何故、人同士が集まることが時としてそれ自体コストと観念されるのだろうか?
それは恐らく、近代から連綿と続く個人(行動)主義 の禍いである。個人を重視するあまり「個人(独り)が生きやすい世界」という神話が形成され、「集合する時のメールが面倒くさい」「遅刻してきた奴の制裁がめんどくさい」とかいったストレス=コスト言説を生み出すことになるのだ!愚痴は誰に対してもマイナスになりやすい。 ここは、近代の負の遺産であると筆者は強く考える。だからといって、集団主義がヨリ正しいという事には全然ならない。)
この差異がうまくかみ合わなくなったときというのが、非常にイメージしづらい。なぜなら、人の差異による構成などそもそも予見することが非常に難しいからである。相手が親友であろうがまったくの赤の他人であろうが全く同じである。 親友だから分かっているつもりであるというのは幻想に過ぎない。
d.検討
それでは、どのように諸個人の差異をうまくかみ合わすようにすればいいのか、といった政治ー社会設計的な発想が出てくる。
それはもちろん、差異の統合体としての個人=人間の、予見可能性を高めるといったことがまずだいいちに考えられる。では、どのようにして?
すると、管理社会論にいきつく。 個人のデータを全て集積し、なるべく分かりやすく分かりやすく公共圏の場にさらけ出すという事である。
当然、今注目の「個人のプライヴァシー権」といった法ー政治概念が阻止要素として立ち現われてくる。
非常にありきたりな発想である。他にないだろうか? ハイエクの自生的秩序か?
アーキテクチャ論になる。
e. 総括
本稿ではここまでの考察となる。結局、00年代の未解決問題である管理社会論orアーキテクチャ論の深化、といったことに繋がってしまった。
もちろん、集団的馬鹿を忌み嫌うだけというのも寂しい。 A・B・Cの3人がイライラしながらもタイ料理屋を探すのに悪戦苦闘して、その悪戦苦闘している自分達をも笑えるような状況を作り出す、といったことが常にできるのであれば、それに越したことはない。
しかし、集合的馬鹿は、その要因が見えづらい。だから、要因(原因)ー結果論という思考枠組みでは、処理しづらい。
機能主義的に考えると、やはり集合的馬鹿はなるべく回避された方がいいということになり、先ほどのa→dの繰り返しである。
筆者がこの問題を強く考える動機は、政治の民主主義の方法論においてある。 民主主義の必要不可欠な「意見の集約、行動」というときに、集合的馬鹿=衆愚政治 はやはり防ぐべきである。 衆愚政治の回避を考察していきたいが、それは博士論文になるときまで待とうか。
「差異がうまくかみ合っている場合」の状況を仔細に、具体的にもっと細かく分析する必要があると考えられる。
以上
@ misty
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よいお年を!☆☆☆[0回]
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