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カテゴリー「芸術」の記事一覧

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評価行為とネクスト・ステージ


こんばんは! 連載の、途中ですが、小話を間に入れておきたいと思います。

少し話が抽象的で、分かりづらいかもしれません。
それは、なるべくコンパクトに今からまとめようと思う気持ちのせいからかもしれません笑

「評価」を通じて、芸術作品を語ることの一端に触れたいと思います。

@評価行為とネクスト・ステージ

評価、レビューというものは大変奇妙なものだ。それは、幾つかの点において、奇妙である。
ある作品のレビューをするとして、話を進めていきたい。

まず、評価したくなるような作品と特別、評価する気にはならない作品と分かれる点。
 これは言いかえると、評価したくなる気分と評価する気にならない気分との、2つを私たちが持ち合わせているということかもしれない。

すばらしい作品に逢った時は極端である。積極的に評価したいと思うか、若しくはこんなのは表現できないとさじを投げ出してしまうかのどちらかにならないだろうか?
反対に、低劣な作品に出合った時も、同様であるように思われる。 攻撃的に、その低俗さを攻めようとするか、若しくはレビューする気にもならない、といった相反した態度を採るのではなかろうか。

 一番レビューしたくなるのは、実は、一見<素晴らしいもの>なのか<低俗なもの>なのか判別がつきにくい作品であると考える。
 なぜなら、そういう作品こそ、レビューという手順を踏まえることによって、作品を<素晴らしいもの>か<低劣なもの>か、あるいは別のボックスかに投下するからだ。
 レビューは、作品の価値づけのための、ある種の儀礼的な、そして過渡的な作業だとも言える

 次に、エクリチュールとの関わり。
エクリチュールとは、書き取るとか書くとかいった事柄をさすが、評価行為が、例えそれが口語であれ書面であれ、このエクリチュールを媒介させなければならないのは事実である。
 エクリチュール行為そのものが、評価の方向を決定づけようとする、といった事態も、踏まえておかなければならないのだろう。実際、書き始めたとたんにその言葉達に表現が拘束されているというアイデアは、中々妥当なものだと私は思う。
 ここでは、エクリチュールの厳密な意味や広がりを書くことは省くので、次に移る。

3番目に、作品をレビューするというのは、「<私>の中の作品」を出現させる、ということである点だ。

<私>の中にあるというのは、すなわちイメージされた作品ということだ。
そして、私は、この段階における評価行為を、ファースト・ステージと呼ぼうと思う。
ファースト・ステージにおいては、人は、作品を<私>とセットに、つまり一体のものとして扱おうとする。この点は大変に奇妙である。
 どう作品をレビューしようかと考えても、<私>と結びつける言葉しか出てこないようなレヴェルがそれに当たる。
しかし、何かをレビューしようと思った時、<私>抜きで語れることがいかに少ないか。

ファースト・ステージでは、特に、作品の、<私>に対する影響などが表現される。例えば音楽作品などの場合、「この曲が<私>の人生を変えた」とか「今までの考えをひっくり返させるかのような曲だった」とか表現するようなのが典型例である。

ファースト・ステージでのレビュー行為を非難しようとか、決してそう言うつもりではない。
そういうものなのだと思う。どうしても作品を語る時は、<私>とセットになった作品、つまり<私>の中において塗り替えられた作品をしか、現出できないのだと思う。
 作品はそのように、<私>という一人称との「関係」によって、まずは表現される。そう定義しても良いだろう。
<私>の中でどう響いているか、<私>の中でどう分類されるか、<私>のどの部分に刺激を与えたか、<私>の中でどのような価値づけになったか。 それらを捉えることこそが、第一の、作品に対する評価行為なのである。

本論はここからなのであるが、そのようなファースト・ステージにおける評価行為から、抜け出そうとする動きも幾つか見られる。

 それは、まず<私>の放棄という事柄によって始まる。これを、セカンド・ステージにおける評価行為としよう。

注1…「儀礼的」とは、<素晴らしいもの>なのか<低劣なもの>なのかすぐさま分からずに、それでも何らかの評価を示してみようとする時に、レビュー行為は一つの儀式として存在するかのごとくである。そして「過渡的」というのは、まさに評価行為そのものによって、その作品に対する価値判断がなされるのであるから(少なくともそう捉えられているから)、評価行為自体は中間的、橋渡し的なものである。

注2…<私>の放棄というのが、どういう事態を示すのかといった、厳密な定義はしない。しかし、ここでは簡単に、<私>という主観性から脱却する、くらいの意味に留めておく。そこから考察する。

 ファースト・ステージでは、付属品のような、<私>付きの作品の出現がなされた。この付属品をとっぱらおうとするのが、<私>の放棄である。
 つまり、主観性を排して、徹底的に客観に作品を捉えようとするのだ。

客観的に捉えられる作品にまつわる表現の言葉は、しかし、実に様々である。まずは、作品の輪郭(外枠)をなでるような行為からはじめなければならないだろう。
 よくある大衆向けの短いレビュー、「青春時代にピッタリの、若者向けの応援ソング…」といった決まり文句は、セカンド・ステージに少なくとも立とうとしたものであると、分類される。
 「若者向けの応援ソング」という外枠を探り当てている。その妥当性はさておき、とりあえずそのような輪郭であると判断を下すのである。

しかし、面白いのだが、<私>を徹底的に排除した客観的なレビューというものは、実に無味乾燥なものであるのだ。人間臭さが無い。ファースト・ステージで得られたような、みゃくみゃくしい表現というものが差しあたってない。客観的な視点は、ひたすら作品を冷静にとらえようとし、観察にとどまる。
 しかし、評価行為が、徹底された観察行為と同位なのか、と尋ねたら、それは微妙なラインである。それなら、いっそ観察、オブザーヴといってしまった方が早い。

徹底された観察も、評価行為の一つなのか? これは、私にはまだよく分からない。

 こうして、ファースト・ステージ、セカンド・ステージを経て、私たちは、次のような事態に出会う―。
ネクスト・ステージ、まだ触れられることのない、しかし評価行為をめぐって必ず目指したくなるようなレヴェルでの評価。 それが、ネクスト・ステージにおける評価である。

 ここでは、<私>とセットにさせるのでもない、<私>を放棄するのでもない評価の仕方が問題になる。

人によって意見は違うだろが、私は、作品そのものの「中に」飛びこんで、そこから作品を新たに描き出そうとする行為が、そしてそれが完成、パーフェクトに達成された時が、ネクスト・ステージであると定義したい。

それは、例えば、ある家があってそれを表現したいと思った時、家の周りをウロウロするだけでなく(これは、セカンド・ステージである)、家の中に入ってしまおう、そこからその家を表現しようといった、ある意味「脱構築」的な作業であるのかもしれない。

作品自らに入り込んで、そこから作品が放っている声やエネルギーを、表現させていく―。 これは、実はしかし、私は不可能ではないと思う。可能だと思う。 <私>を一体させずに、しかもなお作品の内なる声を一層華々しく表現させることは、どこか可能であるように思えるのだ。
 というのは、現実に、このレヴェルに達したのではないか、と思えるような評価に幾つか出会っているからかもしれない。

しかしその数はやはり大変少ない。それは、評価という作用が、このように順序を追ってその内容を変えていくものであるからだ、と私はどこかで思っている。
 作品の、もっと純粋でもっと華々しい内なる声を聞きたい、そう思った瞬間から、人々のネクスト・ステージにおける評価行為への道が用意される。


以上
misty @

***
今回はレビューにまつわる話で、私自身、作品を何らかの形でレビューすることが少なくないので、そのような含蓄からこれをかいてみたというのもあって、やはり話が分からないかもしれません。

とにかく、人は、ある時から「より忠実でしかも内容もより面白い」レビューを目指すということ。
そしてそれは論理上可能なのではないかということ。

この二つを、書いてみました。 脱構築の話に近いと言ったら近いのか?笑
それでは。

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江戸川乱歩「芋虫」


こにちはっ、ミスティです☆彡今日は江戸川乱歩の作品「芋虫」についてちょっとば(ちょっとば?笑)。

@江戸川乱歩の「芋虫」

とかくこの作品は恐ろしい。江戸川乱歩の風変わりな怪奇文学と言われる所の要素がつまっている、と思います。

以下は、「芋虫」の内容も触れたりするので、た・楽しみがっ!って方はスルーをオススメしておきます笑 はい。


前提として見落としてはいけないのは、乱歩のあまりに豊かな描写です。平面である所の文字体から、五感を、そして更にシックスセンスとでも言われるような、風景描写の怪しい感覚までをも感知させる所があります。
これは、少なくともそう体験させられる読者にとってみれば、並々ならないことです。コミュニケーションの果てを越えている。そこに、文芸ならではの怪談、というスリルを十分に楽しむことができます。

そして、「芋虫」も、その例外ではありません。乱歩が設定したいくつもの事柄、すなわち登場人物の容貌、性格、生い立ち、舞台の外観、語られる物語の前のストーリーなど、幾多にもわたる場所において、その手腕をいかんなく発揮させています。

しかし、この「芋虫」の魅力は、さらに違う所にある。 それは、これを読みおわった後の途方もない気持ち悪さです。その気分の悪さは、確かに描写のあまりの濃厚さゆえの所もあると思います。しかし、次の事柄を忘れてはならないのではないでしょうか。

この主人公は、最後の妻の行為によって、完全に人間性を引き剥がされた…? 心も、そして身体までも?そしてそれが、猿どころか、僕達がしばしば「気持ちの悪いもの」、とイメージを貼っている、うにょうにょと動く「あの」芋虫と等しく同じであると、宣告した…?

これは、大変に恐ろしいです。ここに、乱歩ゆえんの怪談の面白さが最大限にも現れていると考えられます。 つまり、文芸の範疇でありながら、この作品の作者は、どうやら主人公を人間から芋虫のレベルに落とした、見放した、と錯覚してしまうことが起こりうるのです。そして、それを受けてか、読者としての私達も、芋虫と化してしまった、かつては人間であったはずの主人公の成れの果てと、対峙し続けなければなりません。

物語は、容赦しません。芋虫から、私達が抱きがちな「気持ち悪さ」を引き算させることを許しません。かわいらしい芋虫だとか、慣れしたしんだ芋虫とかのイメージ、ラベルに転換させるのは、難儀です。いずれにせよ、物語の中では、「汚いもの」「気味の悪いもの」「触りたくもないもの」といった属性をもつそれのイメージを、人間であるはずの主人公に押し付けます。そこで、読者自身も酔ってしまうわけです。この物語の中で、私は彼が「あの」芋虫になることをまざまざと見せつけられてしまった…、と。

以上のような、マイナスのイメージは、僕らが勝手に芋虫に付けたものです。ただ、そのイメージを付けたことによって、次のような思い・概念が生まれます。「僕らは、「あの」芋虫とは、違う筈だ」。


そしてこのような心象に対して、乱歩は、人間と、それから忌み嫌われるものとしての芋虫の交錯を見事に叩きつけます。だから、後味悪く感じる読者もいるのです。

これは、面白い事柄です。怪談・小説はもちろんフィクション、虚構の世界です。ただ、乱歩が見せた人間倫理観をそれとなく感じとってしまうと、やはり一瞬ではありますが、現実の僕達の倫理観を参照せざるをえなくなります。

だから、この芋虫という話は、怪談話の範囲で実に良かった、とも思えるのです。怪談、フィクションの世界だからこそ僕達読者は楽しむことができる。これは、素晴らしいことだと思います。

特に、登場人物の立場になって読み込もうとする読み方は、この物語にとっては、ある意味危険で、だからそこ楽しいとも言えるでしょう。

ここにおいて、英語圏由来のホラーとは違った概念の、「怪奇」を見いだすことが可能です。驚かせるのでもない。怯えさせるのでもない。
ただ、自分の内面、奥のそのまた奥の方から感じる一緒の気味の悪さが、醍醐味とでも言えるでしょう。世界の乱歩、とかあまり聞きませんが、このような、「ズレた」文芸は、しかし、世界の文学と比べても少しも引けをとらないと思います。

よく似た、怪談ではないのですが、話としては安部公房の「棒」などがあります。これも、恐ろしいです。恐ろしい、ちょっと気分が悪くなる、と感じる読者にとっては、「芋虫」の話と似たような、人間倫理観を、自己の内から問わせるようなオートマチックな仕掛けになっている、と読むことも可能です。

いずれにせよ、それをちゃんとフィクションの世界であるところの「怪奇」に、包み込ませていることはどのみち素晴らしいことでしょう。現実と虚構をいったりきたりさせて、その意味で私達読者の心持ちをある種混乱させ、愉快にさせ、でも最後にはフィクションだからといって現実世界に戻らせてくれる。

純粋で、だからこそ今なお力強い、怪奇・怪談の源泉、それが乱歩の作品だと考えられます。

お終い(*´∇`)
ミスティ

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芸術娯楽二分論 1

芸術娯楽二分論 1

第1章「芸術」の枠組み

第1節
途方もない問いかけ

(1)娯楽産業の枠組みを排して 

 およそ「~とは何か」という問いかけは、飛来爆弾を目の前にするようなものである。考えた所で何も知り得ないから、とりあえず逃げるしかない。そして、被爆が続く限りは、代替案を考えるのが普通であろうと思われる。

 私個人の話をすると、「音楽って何だろう、芸術って何だろう」という途方もない問いを、とにかく自己でよく反芻してしまうのだ。被爆にあいつづけるのである。この質問に対する正解(ないし真理)など、おそらく存在しない。正解の存在を肯定するにせよ、ちょっとの思考と生の実体験からでは到底それの域にたどり着きそうもない。そこで、時には友人や音楽業界に携わっている方とお話ししてみたりもする。

 私の自己哲学的な思索の生産性などは、皆無である。そこで、「~とは何か」という問いの形をまず変えてみる、というのが、普遍的でかつ有効な手法であろう。


 本論ではさしあたり、娯楽(娯楽「産業」)との距離感を実質的に考えるのが大きなテーマとしてあるので、「娯楽とは違う・異なる芸術とは何である(べき)か」という形に転換しておく。しかしこの問いは、娯楽とは何か、といった(同様に飛来爆弾的な)問いも同時に含んでいることを示唆することにはよく注意しておかなければならない。


(2)ステージという区切り

 少し話を変えて、ステージという場の持つ機能や意味合いを考えてみたい。

 絵画や造形物の展覧、音楽の披露などが催される時、多くはそこに日常空間とは異なる「場」が設けられることが多い。美術館や博物館、アートギャラリー、武道館やコンサートホール、ライブハウス… 大規模なものから小規模なものまで、高度で複雑化されたものから実にシンプルなものまで。 芸術作品・形態にアクセスしようとする時、周りを見渡せば、日常の場とは区切られ特別に設定された空間がよく目につくのである。

テントでの劇の性質を考察する桜井1頁は、次のように述べる。

…テント芝居の重大な関心事は、いつも〈場所の領有〉の問題である。たとえ数日間であろうと、屋根を架し周囲を幕で囲えば、その場所は領有化された空間となるのだ。…

 具体的な事例をもう1つ上げておくと、音楽の演奏場所の多くには必ずといっていい程段差が存在する。それが低いものからものすごく高いものまで形は様々だが、基本的にはその段差によって設けれた、「高い」場所の方にステージが作られ、観客スペースと区別される。
 この段差の必要性の1つには、たくさんの観客がいる中、ミュージシャンを観やすくするといった理由も大きいに違いない。だが、本当にそれだけであろうか? 

 ごくたまにではあるが、ほとんどないといっていいくらいの、取ってつけられたくらいの段差や、たまにはそういった演奏家/オーディエンスの場の区別が全くされていない会場も例外的にあるのだ。これは、一体何を意味するのであろうか?
桜井1-2頁は続けて、こう述べる。

…だが、テント芝居がテントという〈劇場〉を必要とする以上は、その場所がいかなる性格のものであろうとも、そこに新たな公共空間を創出してしまうことになる。たとえば、その場所が個人所有の私有地である場合でも、そこはテント劇場という公共空間に変わらざるをえない。(中略)その異質さは、緊急避難場所としての段ボールハウスと似ているが、それが〈私〉的領有でなく、新たな公共空間という領有性を持つという意味ではかなり違っている。…

 「音楽って、演奏家と観客のコミニュケーションなんです」ということを、たまに耳にすることがある(たいていは一流のアーティストの発言や、その業界に長く携わってきた人のそれなどである)。 桜井2頁のいう「新たな公共空間」とはたとえばそういった、アーティストとオーディエンスの一歩進んだコミニュケーションの場所故の公共性、ということも含んで語っているのかもしれない。しかし私は、個人的にはステージってそういう場所なんだ!と実感の境地に至ったことは未だなく、従ってこの読みが正しいのか間違っているのかは分からない。 
 しかし、括弧2で見てきたことではっきり言えるのは、私たちは芸術といわれるものを披露する時、ほとんどがステージという場所を設けて、何かしら日常とは違う位相でそれを行ったり観たりするようである。

(3)途方もない問いかけ 

 重商業主義、という言葉がある。あの有名な政治家コルベールが、フランス王政後期において、国策の最優先事項として、国内商業を活性化させる立場などが、それとして言われたりする。

 昨今の音楽業界では、商業化の流れの勢いは益々激しくなっている。大衆音楽の中でも、一昔前はCDやレコードの歌い手となるのは、厳しい世界を勝ちぬいた演歌歌手、歌謡曲を歌うごく僅かなアイドルに限られていたものが、各芸能プロダクションは競うようにして自事務所が抱えるタレントを歌手としてデビューさせたり、また80年代のバンドブーム等が大きな流れとなってそれまでアンダーグラウンドに居続けたバンドも、よく表舞台に登場するようになって久しい。

 日本社会は、第1・2次産業の大きな飛躍と確立を見た。それを土台とし、80年代からはサービス業をはじめとする第3次産業の分野の中でいかに戦えるかという点に経済実務の注目が移行した。 その中で、音楽は娯楽産業の圧倒的な流れに不可避的に出会ったりした。

 それがどんな事態を引き起こしたかはまさに目の前にある事柄なのだが、これを一言で表現するのは難しい。しかし、敢えて言うとすればそれは「音楽の混乱」だと、私は肌身でいつも感じている。

 そこで、これからしばし長きに渡って、いくつかの視点から音楽のみならず芸術一般の現状と、あるべき姿を考えてる。途方もない問いかけに対しては幾人もの人が思念を費やしてきた所では、ここではあくまで娯楽産業から排される・もしくは排されるべき芸術とは何なのかを実質的に考察する。


(注) 参考文献
桜井大造「変幻痂殻城」『HAN 第2号』(白順社、2009)


ご感想、ご意見お待ちしてます(*´∇`)

ミスティ @





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芸術娯楽二分論 0

こんばんは、ミスティです。(*´∇`)

芸術娯楽二分論 0

はじめに

はじめに
 この一連の記事では、世の中であーだこーだ言われている「芸術」と、それから「娯楽」、及び両者の関係を考察する。 目的は、芸術とはこうだっ!とか、はたまた娯楽とはこうなんだっ!という、両者の本質を追及することではない(およそそういった真理の模索というのは、1人の人間がたった10年とかそこいらで成し遂げられるようなものでもない)。

 そうではなくて、芸術と言われているもの、娯楽だと言われているもの、お互いを一応区別することで、そのすみわけを考えることからどれだけ有益な考えや議論ができるかを追及することが、この芸術娯楽二分論という長ったらしいタイトルの記事の、目的である。
 芸術と娯楽は、よくその境目が分からなくなる。そしてその境目が分からなくなった時に、困ることがいくつかある、と私は思っている。その1つには、およそ産業とか経済の世界が抱える事柄があるだろう。

 例えば、日本の音楽界に、「相対性理論」というロックバンドが存在する。彼らは、06年に結成され、私たち音楽消費者の目の前には08年頃からその顔を見せ始めた(注1)。 
 まだ積極的な活動開始から4年足らずということもあり、あまり多くの人には知られていないアーティストである。聴いたことがない方にはネット検索で彼らの曲や動画でにでも触れて頂けると彼らの曲のカンジがつかめるので、幸い。

 彼らのリリースする楽曲達は、実に不思議なのだ。サブカルチャーにカテゴライズされるいわゆるアニソンの要素がかなり(しかもたぶんに意図的に)含まている、と思いきや、バンドとしての演奏が上品で巧いな、と純粋に思わせる所もたくさんある。

 ここに、「芸術」という名の箱と、「娯楽」という名の箱の2つがあるとして、相対性理論の曲群をいずれかに振り分けないといけないとしよう。 例えば彼らの代表作「LOVEずっきゅん」(アルバム『シフォン主義』(2008、みらいレコーズ)に収録)の、アニソンのようなエンターテイメント性を重視すれば、おそらく「娯楽」の箱に入る。それか、演奏の技巧性や音作りを重視すれば、「芸術」の箱に入るだろう。 はたまた、どっちも欠かせないからということになれば、この曲は分身でもするのであろうか。

 上のような例え話それ自体は空想以上の何の重要性を帯びないが、しかし、相対性理論が放つ「これは娯楽か、それとも音楽作品なのか?」という問いを実質的に考えることには、それなりに意義がある。それは、両者が持つ圧倒的な性質の違いからくるものである。芸術と娯楽はある面ではかなりの共通項を有するにしても、違う部分もたくさん見受けられるのである。 例えば、芸術はその性質上、窮極的に自身の美しさだとか完璧さだとかを志向する。もちろん、芸術と今日呼ばれているもの全てではないが、一般的にはそうなのである。 これとは対照的に、娯楽と呼ばれるものは、普遍性だとか世俗的かどうかだとかを志向する傾向にある。
 これを鑑みると、相対性理論の楽曲が娯楽の分野にからめとられるとすると、演奏の綺麗さとか音の独自性だとかの要素は捨象されることになる。反対に、芸術の分野にのみからめとられるとすると、大衆性だとか歌のキャッチー性だとかの要素もこれまた軽視されがちになる。

 以上は両極端な説明ではあったが、要するに「芸術」と「娯楽」の隣接点を曖昧にしておくと、あるものがどう社会的に捉えられどのように移行していくのか(例え話では、相対性理論というアーティストの曲群の、行く末)、といった現象が見えにくくなるのである。
 相対性理論は、昨今の一部の音楽家達の間に共通して見られるように、テレビやコマーシャルといったメディアへの露出があまりない(それでも最近わずかながらその神秘性が解かれてはいる)。 すると彼らはどちらかというと芸術志向なのか、それとも…? 一例をとっただけでも、芸術と娯楽をいったん区別しておいて、それからある現象を考察することの意義はあるように思われる。

 さて、芸術と娯楽の二分、といったが、それぞれが具体的に何を示しているのかも、一定程度述べないと全体像が見づらい。 これに関しては、本論に入った以降触れるが、ここでは簡単に「芸術=音楽、絵画、学術、文芸等の、文化や文明に資するもの」、「娯楽=遊び、楽しみ、快楽、癒しといった、日常生活に資するもの」としておく。
 ここではまた文化/日常、の区別が問題となるが、それも本論で触れる。


…おおよそは、このような雰囲気で話が進められていくことになると思います。だけんれども(笑)、私は「だから芸術と娯楽は区別すべきなんだってば!」「そもそも区別するべきでない!」とかゆう強い主張とかを、長く述べるつもりではありません(というか、どう考えるべきなのかは知らない)。繰り返し述べるように、一応世の中でも区別されている両者をじっと観察した時、そこから何が社会的に見出だされるかを考え、時に問題提起だけホイッとしようと思ってます。

大体が、この両者の関係なんてのを観念するのが難しい。(笑) 気長に、見守ってやって下さいまし。
まずは、芸術の方面から見ていこうと思います。
ちなみに、はじめにで扱った「相対性理論」のお話は、今後出てくる可能性はおよそゼロに等しいと思われます。(笑)


(注1)相対性理論のバイオグラフィーや作品等の詳細については、彼らのオフィシャルサイトを参照。本記事では、携帯からの投稿のためオフィシャルサイトのソース(アドレス)の提示を省いた。
相対性理論公式サイト http://mirairecords.com/stsr/ 

今回は、ご感想お待ちしています。(笑)
ミスティ @

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J-POP嫌いのリユウ


 休日の昼、とある用事があって隣の町まで出かける。商店街に入ると、知ってる曲・知らない曲が入り混じった有線が流れている。 美術館には何やら有名画家のコレクションがあって人が並んでいる模様。 公園には、大理石で作られた造形物がある。詩を思わせるような広告のキャッチコピーがいたるところに貼られている。

われわれは、日常生活において、上のようなある共通したなんらかのものに絶え間なく触れている。その共通したものが、何やら「芸術」とか「美術」とか言われているようなものらしい。興味の有無に関わらず、社会には諸々の芸術といった制度が往々にして見てとれるのである。

 それでは、その芸術とは一体なんなのか。おそらくこの質問は、「命とは何か」とか「生きること・死ぬことは何なのか」とかと同じくらいの重さを持つ、いわゆる哲学的(非・科学的)な問いである。さらっと答えを出す文脈ではないし、またそうすべきでもない。しかしそれでもこういった同種の問いは我々の頭をかすめ、時には30分も1時間もぼけーと思念を費やしていることが少なくない。
 やはりこういった「定義付け」の問題は何かと面白いものであり、その分野に立ち入れば立ち入るほどその問いの樹海のような深みに囚われ、わけがわからなくなることもある。

 畑は違うが、例えば行政法学界では(注1)、行政概念をめぐる論争つまりは「行政とは何なのか」が語られる事があった。これに対する通説的見解(学説の多元的状況のもとで、多数から支持を得てある程度の妥当性を確保している考え方)は、いわゆる控除説である。

「行政とは、国家作用の中から立法と司法の両機能を控除した残余の機能である」


というのである(大橋、07・稲葉、08等・他多数)。 
法学政治学にたしなみのある人もない人も、これはいつでも本気で笑っていいと思うwww。 だって、身も蓋もない「答えにならない解え」である、立法と司法を外したものそれが行政なのだ~なんて言われても、ちょまwwwwwみたいな。でも多くの学者はこういった争点に対して真面目に時間を割いて考察して、この身も蓋もない解えがイチバン説得的なのである。

 今はこの行政概念をめぐる議論について述べるつもりはないので詳細は省くが、私がこれから述べようとする「J-POP」についても同じような事を観念してしまうのである。J-POPってなんだろう、よく聴きはするけど言われてみたらこのJ-POPってそもそも何?という問いかけに対して、
「J-POPとは、音楽分類の中からロックとジャズとクラシックとダンスミュージックと民族音楽を除いたある一つの音楽形態である」 とかに最終的に落ち着きそうだからである(笑)

 しかし、定義付けの問題は行政概念にしてもJ-POP概念にしても、それだけでは何の意味もない。それを媒体として何かを語る方向に向かう限りにおいて、そういった概念の定義付けは重要かと思われる。

さて、前置きが長くなってしまったが、今回は私のJ-POP嫌い(批判と捉えて下さっても結構)と、それを補完する要するに大変自己完結的なお話をえんえんとする。 とか言ったら誰にも読んでもらえそうにないので、批判可能性・意見確保性がなるたけ望めるような文章にしたいとは思っています、ハイ・・・。あぁ、マジでそこでニコ動画のリンクとかにいかないで! (笑)

(注1)行政法の世界だけに限らず、例えば憲法の世界でも司法府の概念や内閣の概念をめぐる議論はある。がしかし、それも先に見たような「控除説」が一定程度の支配性をおびている。仮に行政・立法・司法それぞれに控除説を適用させたとすると、「国家とは全てであるかもしくは無である」といったような本当に笑えてしまう帰結も導き得るが、記事中にも述べた通り控除説などの議論については考察対象からは除外する。

@J-POP嫌いの私的理由

 なーんでそもそもこんなわざわざブログまで使ってJ-POP嫌いのやつの話なんか聞かないといけないんじゃい!と言われたら、うーん

J-POPなんて大っ嫌いと公言している音楽通みたいな人はたくさんいる気がするけど、その具体的理由ってあんまり聞いたことがない気がするお・・・>゜))))彡

からである。私は、改めて言うが、J-POPなんて大っきらいである。でもそれは、単に好き嫌いの話であって、そういう個人的な嗜好はこんな開かれた場所でそうそういうもんじゃないよって感じなんですが。
とりあええず上の大文字のようなハテナに対して、はいそれでは自らJ-POP批判をする私が個人的な理由をひとまず述べて置こうかと。 ただなんとなく、J-POPはきらいなんだよ!みたいな書き込みは某大型掲示板とかでいっぱい見たり聞いたりするけど、それはJ-POPを愛する人からしたら極めて遺憾であるし腑に落ちないことこの上なしだと思うし。

 
往々にして音楽=思想・感情の表現であることからして、こうした感情的な声しか聞こえないのかもしれないが、それは私はヨクないことだと思います。「嫌いなものは嫌い」を盾にして愛好者を攻めるのは間違っている。ちゃいますか?(・へ・)

で、私の理由は割と簡単で(もしかしたら複雑かもしれない・・・)、各音楽(および各アーティスト、各楽曲)という一つの「価値」の平等の観点からです。えぇとですね、、。

J-POPって、少なからず商業主義が絡んでいて、各アーティストが直接的に関わる側面よりも、そのアーティスト達が所属する大手事務所だとかレーベル会社だとかの方がものすごく関与する側面があるんですよ。なるほど、これ自体は別に悪くないというか、というかそれは商売やってりゃお金が回らないとソモソモ所属アーティストもろとも飢え死にしちゃいますから。
 しかし、その経済的側面が絡んでいる結果、音楽産業にどういう事態が起こり得るかというと、彼らはまず自分たちが抱えているアーティスト達の宣伝ばっか当然やるわけです。コマーシャル宣伝、CMソングに積極的に起用させたりだとか、TV出演をさせたりだとか、芸能界のお仕事をさえたりだとか、いわゆる「純粋な音楽制作・公演活動」(この範囲については、また後ほど。)以外の諸々の活動を、本人の意思をそのまま率直に反映させたとは必ずしも言い切れない所まで本人をしてなさしめているわけです。

 人は基本的に、ある対象に対して見聞きする回数が多ければ多いほどその対象に好感を持ちます(熟知性の原則、注2)。

 ここで仮に、表現力もパフォーマンス力等も特段変わらないAバンドとBバンドがいたとしませう。
さてAバンドは、何らかのキッカケでJ-POPを動かす大手レコード会社RからCDを出してもらえることになりました。レコード会社からしてみれば雇った分は稼いでもらわないと困る(一種の労働契約とも観念できよう)わけですから、R社はバンバン宣伝する。 CDを発売する前に、メディアを通じて広告活動をしまくる。PVがブラウン管の中で何回も放映され、有線ではサビがかかりまくる。
 一方Bバンドは、地道に大きな庇護(patron)も受けずに、某CD屋さんに自主製作のCDを置いてもらえることになりました。

 さて、AバンドとBバンドのCD発売日は同じです。あなたが、キッカリ3000円(ちょうどCD一枚分)持っていたとします。
どっちのCDを買います?
上のような条件がなければ、もともとAバンドもBバンドも表現力やパフォーマンス力などに大きな差異はなかったのですから、どっちを買うかは1:1のハズです(ブリタンのロバ(注3)の論理が働いたり、又は他のCDを買う若しくはCDそのものを買わないといった選択肢はないとしてますよん)

 
しかし実際には、AバンドのCDを手に取ってレジコーナーに行く人が圧倒的に多いのではないでしょうか。Bバンドは名前が知られてないのですから。僕見たく視聴コーナーの前に何分も居座ってある意味ウィンドウショッピングwしているような人種は稀というか、害悪ですww

ここで、初めて僕のだからJーPOPは嫌いだ、という主張(?選好?)が出てきます。 両者にもともとの差異はあまりないのに、そのマーケット(市場)に於いて、商業戦略的な所に多々影響されて音楽という一つの「価値体系」の優先が不当に奪われている(=不平等状態)としかいいようがない。音楽も一つの表現の現れであり、そういった種々の表現が商品化された「CD」のマーケットは、あるでっかい経済的影響力を持つアクターによってかなり左右されている。

具体例に欠けていると思うので、ハーーーッキリ実例を出して申し上げましょう。
ジャニーズ業界が、ほんとうっに大嫌いなんですwwww  畑がそもそもあなたがた、「芸能」プロダクションでしょう、音楽一本でもないでしょうみたいな。
ちなみに、J-POPの根幹の一つになっていると思われる彼らそのものの存在は、必要だと私は考えています。どの時代もアイドル的存在を求めるし、そもそもいないと僕ら一般人が夢とか希望とか見れないし!!($・・)/~~~ だけど、本当にいい夢を見させてくれる「アーティスト」さんは一体どれほど居るんだろうってハナシです。
つまり、数を限れという主張です。なんでもかんでもホイホイCDデビューさせるなって。

 また、J-POP産業には、ある共通項が性質的に見受けられます。それぞれのJ-POPにカテゴライズされる(このカテゴライズの問題も後ほど。)アーティストが同じような内容の「歌」を、手を変え品を変えて、まるで楽曲を「使い捨て商品」のように売り続けていること。たしかに、大事なメッセージをある程度コンスタントに世の中に広く訴えかけていくことはとても大事です。しかし、往々にしてこのJ-POP産業は一大プロジェクトとなり、著作権法の無視もいい所・同じようなメロディとコード進行をちょっと変えただけで使いまわして、精神性の形骸もいい所・本当にその「歌い手」が歌詞内容を大して想いもせずに上っ面だけでパフォーマンスしている楽曲がどれだけ多いことか。それなりの形式(有名演奏家・敏腕プロデゥーサーetc)が整っていれば、本来の実質がどうあろうと、やはり「それなりのもの」に「聴こえてしまう」事はよく起こる現象です。

でも、楽曲って、そんな使い捨て商品みたいなものじゃあ決してないよ。
一曲一曲、どれだけ自分達の心身を削ってまで楽曲を投じて発表しているアーティストがいるのか。

ここは、実例が必要ですか? なくても、思い当たるのではなくて?(=^・・^=)
まぁ敢えて言えば、前者としては、なんか僕が唯一自己に例外を与えている「Every Little Thing」とか(笑) 初期・中期・現在、みたいな形でELTは大きく分けることができると思うのですが、特に初期の後半(五十嵐が脱退するかしないかくらいの時)においてはまぁ楽曲が似たりよったりだとか、ベストアルバムを出しまくったりだとか、「そこまでして新規性とか無視して同じような曲出し続ける積極的必要性あります?」みたいな。
 後者は、イギリスのロックバンドの「Radiohead」とかですかねー。00年代の最高傑作とありとあらゆる所から評価を受けている(しかもこいつらはそういうことに大変無頓着であるし、むしろウザいとコメントしているww)2000年作「KID A」というアルバムがあるのですが、逸話が。 一曲一曲を、メンバーがずっとスタジオに通いつめたりして、約一か月間(1曲に対してですよ!)完成にかけたと。それ×10曲、ですからねぇ、うーんその心身の削り方は想像が及ばない。。


(注2)米心理学者ロバート・ザイアンスが実験によって提唱した論理。
(注3)ブリタンのロバという、今にも空腹で倒れそうなロバと、ロバからそれぞれ反対方向に離れた所に水が入った桶と草が入った桶がある。この時、ロバはどのような行動をとるのかという問いに対してこの論理は、「窮極の二者択一選」の状況」の故、ロバはどっちに行けばいいのか分からず終いにはその場で倒れこんで死ぬという行動を取るもの。うぅむ興味深い。

 話は少しズレますが有吉先生(笑)が、

「クイズクイズって勉強してりゃそれでいーのかよ芸能界!!」
とか暴言吐いてましたがww、

僕は有吉じゃないけど

「話題性だけで売れりゃいいのかよ、売ればそれでいーのかよ音楽産業界!!」

ですねーホントに。。
本質的には、どの音楽を好むか好まないかは、受け手の好き嫌いの話であり、それは平等でしょう。
でも現実には、ある限られたマーケットに於いて、例えば好き・嫌いの認識が入る前に、バイアスをかけておくことで、作られた好き・嫌いになってしまっているんですな。ある程度の好き・嫌いの観念を擬制しておくことは、社会状況に応じて好ましいこともありうるでしょう(要するに必要悪的行為)。でも、今の「とりあえず話題性で売りまくれ」のJ-POP産業界が引き起こしている、音楽のマーケット状況、これは不平等としか言いようがない。
 我々のサイフ(=「芸術」を購入・楽しむ為の金銭的量)には限りがあるわけですから。ある楽曲群だけが過大にプッシュされてて、てそんな寂しいことはない。
 現代社会では、音楽という一つの著作物も、その経済的側面を重視する・させるべき方向にあるのは理由はある(注4)。その合理的理由をあまりにも欠く・又は逸脱しているのが、今の日本の音楽産業状況である、ということだけを述べるに留めておくこととする。

これでも、なにか話が根本的に違うというのであれば、是非反論意見を聞きたいです。
今回はちょっと、いろんなトコで熱が入ったかもしれないので、ごごごめんなさい。。。(@_@;)

話が広がっていきそうですのぉ。参考文献も、読み途中ですし。
次回投稿に、つなげたいと思います。


(注4)中山信弘「著作権法[初版]」(2007,有斐閣)58頁等。ただし中山は、著作権法の保護対象が人格的側面から経済的側面に移行したことのより大きなバックグラウンドとして、現代社会が情報社会・デジタル社会であること等から詳細に根拠づけている。詳細は同著23-9頁等。
(注5) 他の参考文献としては、
・大橋 洋一「行政法[第二版]」(2007、有斐閣) ・稲葉・人見・村上・前田「行政法[第二版]」(2008,有斐閣)
・西村 清和「現代アートの哲学」(2008、産業図書株式会社)

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私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

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misty
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性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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