こんばんは! 連載の、途中ですが、小話を間に入れておきたいと思います。
少し話が抽象的で、分かりづらいかもしれません。
それは、なるべくコンパクトに今からまとめようと思う気持ちのせいからかもしれません笑
「評価」を通じて、芸術作品を語ることの一端に触れたいと思います。
@評価行為とネクスト・ステージ
評価、レビューというものは大変奇妙なものだ。それは、幾つかの点において、奇妙である。
ある作品のレビューをするとして、話を進めていきたい。
まず、評価したくなるような作品と特別、評価する気にはならない作品と分かれる点。
これは言いかえると、評価したくなる気分と評価する気にならない気分との、2つを私たちが持ち合わせているということかもしれない。
すばらしい作品に逢った時は極端である。積極的に評価したいと思うか、若しくはこんなのは表現できないとさじを投げ出してしまうかのどちらかにならないだろうか?
反対に、低劣な作品に出合った時も、同様であるように思われる。 攻撃的に、その低俗さを攻めようとするか、若しくはレビューする気にもならない、といった相反した態度を採るのではなかろうか。
一番レビューしたくなるのは、実は、一見<素晴らしいもの>なのか<低俗なもの>なのか判別がつきにくい作品であると考える。
なぜなら、そういう作品こそ、レビューという手順を踏まえることによって、作品を<素晴らしいもの>か<低劣なもの>か、あるいは別のボックスかに投下するからだ。
レビューは、作品の価値づけのための、ある種の儀礼的な、そして過渡的な作業だとも言える
1。
次に、エクリチュールとの関わり。
エクリチュールとは、書き取るとか書くとかいった事柄をさすが、評価行為が、例えそれが口語であれ書面であれ、このエクリチュールを媒介させなければならないのは事実である。
エクリチュール行為そのものが、評価の方向を決定づけようとする、といった事態も、踏まえておかなければならないのだろう。実際、書き始めたとたんにその言葉達に表現が拘束されているというアイデアは、中々妥当なものだと私は思う。
ここでは、エクリチュールの厳密な意味や広がりを書くことは省くので、次に移る。
3番目に、作品をレビューするというのは、「<私>の中の作品」を出現させる、ということである点だ。
<私>の中にあるというのは、すなわちイメージされた作品ということだ。
そして、私は、この段階における評価行為を、ファースト・ステージと呼ぼうと思う。
ファースト・ステージにおいては、人は、作品を<私>とセットに、つまり一体のものとして扱おうとする。この点は大変に奇妙である。
どう作品をレビューしようかと考えても、<私>と結びつける言葉しか出てこないようなレヴェルがそれに当たる。
しかし、何かをレビューしようと思った時、<私>抜きで語れることがいかに少ないか。
ファースト・ステージでは、特に、作品の、<私>に対する影響などが表現される。例えば音楽作品などの場合、「この曲が<私>の人生を変えた」とか「今までの考えをひっくり返させるかのような曲だった」とか表現するようなのが典型例である。
ファースト・ステージでのレビュー行為を非難しようとか、決してそう言うつもりではない。
そういうものなのだと思う。どうしても作品を語る時は、<私>とセットになった作品、つまり<私>の中において塗り替えられた作品をしか、現出できないのだと思う。
作品はそのように、<私>という一人称との「関係」によって、まずは表現される。そう定義しても良いだろう。
<私>の中でどう響いているか、<私>の中でどう分類されるか、<私>のどの部分に刺激を与えたか、<私>の中でどのような価値づけになったか。 それらを捉えることこそが、第一の、作品に対する評価行為なのである。
本論はここからなのであるが、そのようなファースト・ステージにおける評価行為から、抜け出そうとする動きも幾つか見られる。
それは、まず<私>の放棄
2という事柄によって始まる。これを、セカンド・ステージにおける評価行為としよう。
注1…「儀礼的」とは、<素晴らしいもの>なのか<低劣なもの>なのかすぐさま分からずに、それでも何らかの評価を示してみようとする時に、レビュー行為は一つの儀式として存在するかのごとくである。そして「過渡的」というのは、まさに評価行為そのものによって、その作品に対する価値判断がなされるのであるから(少なくともそう捉えられているから)、評価行為自体は中間的、橋渡し的なものである。
注2…<私>の放棄というのが、どういう事態を示すのかといった、厳密な定義はしない。しかし、ここでは簡単に、<私>という主観性から脱却する、くらいの意味に留めておく。そこから考察する。
ファースト・ステージでは、付属品のような、<私>付きの作品の出現がなされた。この付属品をとっぱらおうとするのが、<私>の放棄である。
つまり、主観性を排して、徹底的に客観に作品を捉えようとするのだ。
客観的に捉えられる作品にまつわる表現の言葉は、しかし、実に様々である。まずは、作品の輪郭(外枠)をなでるような行為からはじめなければならないだろう。
よくある大衆向けの短いレビュー、「青春時代にピッタリの、若者向けの応援ソング…」といった決まり文句は、セカンド・ステージに少なくとも立とうとしたものであると、分類される。
「若者向けの応援ソング」という外枠を探り当てている。その妥当性はさておき、とりあえずそのような輪郭であると判断を下すのである。
しかし、面白いのだが、<私>を徹底的に排除した客観的なレビューというものは、実に無味乾燥なものであるのだ。人間臭さが無い。ファースト・ステージで得られたような、みゃくみゃくしい表現というものが差しあたってない。客観的な視点は、ひたすら作品を冷静にとらえようとし、観察にとどまる。
しかし、評価行為が、徹底された観察行為と同位なのか、と尋ねたら、それは微妙なラインである。それなら、いっそ観察、オブザーヴといってしまった方が早い。
徹底された観察も、評価行為の一つなのか? これは、私にはまだよく分からない。
こうして、ファースト・ステージ、セカンド・ステージを経て、私たちは、次のような事態に出会う―。
ネクスト・ステージ、まだ触れられることのない、しかし評価行為をめぐって必ず目指したくなるようなレヴェルでの評価。 それが、ネクスト・ステージにおける評価である。
ここでは、<私>とセットにさせるのでもない、<私>を放棄するのでもない評価の仕方が問題になる。
人によって意見は違うだろが、私は、作品そのものの「中に」飛びこんで、そこから作品を新たに描き出そうとする行為が、そしてそれが完成、パーフェクトに達成された時が、ネクスト・ステージであると定義したい。
それは、例えば、ある家があってそれを表現したいと思った時、家の周りをウロウロするだけでなく(これは、セカンド・ステージである)、家の中に入ってしまおう、そこからその家を表現しようといった、ある意味「脱構築」的な作業であるのかもしれない。
作品自らに入り込んで、そこから作品が放っている声やエネルギーを、表現させていく―。 これは、実はしかし、私は不可能ではないと思う。可能だと思う。 <私>を一体させずに、しかもなお作品の内なる声を一層華々しく表現させることは、どこか可能であるように思えるのだ。
というのは、現実に、このレヴェルに達したのではないか、と思えるような評価に幾つか出会っているからかもしれない。
しかしその数はやはり大変少ない。それは、評価という作用が、このように順序を追ってその内容を変えていくものであるからだ、と私はどこかで思っている。
作品の、もっと純粋でもっと華々しい内なる声を聞きたい、そう思った瞬間から、人々のネクスト・ステージにおける評価行為への道が用意される。
以上
misty @
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今回はレビューにまつわる話で、私自身、作品を何らかの形でレビューすることが少なくないので、そのような含蓄からこれをかいてみたというのもあって、やはり話が分からないかもしれません。
とにかく、人は、ある時から「より忠実でしかも内容もより面白い」レビューを目指すということ。
そしてそれは論理上可能なのではないかということ。
この二つを、書いてみました。 脱構築の話に近いと言ったら近いのか?笑
それでは。
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