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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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見えないことを信じること 2

(2)見えるということ

わたしたちは、実は案外見えていないと考えられる。見えてはいないが、自分の現状を高めに飲み込もうとするのだ。結果、大して見えなくても、見えたつもりになっているのではないか。

まず、可視的に見えるかどうか、という議論から入っていこう。
目が見える、ということは、しかし、あんがい漠然としたものである。簡単に目がいいから、とか人並みの視力はあるから、いっても、実はそれほど安易に片付けられる話ではない。

まず、私たちの、視野の限界だ。私たちは、目が見えるといっておきながら、実は背後は全く見えていない。180度はがら空きになってしまう。
顔に目がついているのだから、当たり前ではある。しかし、私たちはこの事実をよく消去しがちである。
背後においては不可視的である。そこを、意識が想像物として補う。目の前の景色との一貫性や、あるいはこうであろうとの推測から、それは作られる。背後の世界は、造られたものである。
ゆえに、それは本当の背後と、同じなのかはっきりしない。もしかしたら一致するかもしれないし、もしかしたら全く違うかもしれない。不意を突かれる、というが、基本的には背後から起こることであるのが多いのである。
つまり、私たちは、世界の半分を不確かなものとして、それに半ば脅かされながら生きている、ということはできよう。我々が見ているのは常に半分の世界である。

さらに、集中という事柄がある。私たちは、見えている180度の世界の中でも、実際に意識的に見る景色は部分的なのである。意識は、集中という事態を発生させるので、どうしても不注意な部分が景色の中にできてしまうのである。
凝視する、という言葉はつまり、見えている世界の中からさらに対象をしぼりとって見るということである。つまり対象外の部分については、注意力散漫となる。
いや、全部を凝視できるのだ、との反論はある。しかし、たとい全ての方向を注意したつもりでも、それはあらゆる部分が少しぼけるといったことにしかならない。対象を絞らない分、不明確となるのである。


(3)see

見えるの英語は、seeである。周知の通り、この言葉は「分かる・発見する」という状態・動作をも示す動詞である。
そもそもseeには、分かるという意味ガあった。見えるということは、その内容が見えるということでもある。
未来が見える、という時、それは未来が可視的に見えるのだということを指すのではなく(もしかしたらそのような意味合いを指す場合もあろうが)、未来の内容が分かっている・把握しているということを中心的に示している。
ここで、見える/見えない の区分は、分かる/分からないに移行することにもなる。
人間の知を無限定にとる立場からすると、「分からない」ことは何もないの鴨知れない。
しかし、次のような事実を考えた場合、どうであろうか。
私たちは、何かを分かろうとし、結果そのことについての知識を得た、とする。
すると同時に、また新しく分からないことが、噴出してくることはないだろうか。例えば、ある新種の原子を発見したとする。

すると今度は、どういう環境の元でその原子は姿を表しやすいのか、化学反応は、性質は、他の原子との関係はどうなのか、何を生成するのか、地球上にどれくらい存在するのか、といった具合に、どんどん新しい問いが生まれてくる。発見者は、次はこうした問いにまた答えていく姿勢を見せるであろう。 つまり1つの問いとその答えに対応することは、それを終わらせると共にまた新しい問い(謎・分からないもの)を出現させるのだ。人は新たな問いに一つ一つ答えていく生き物だし、世界は分からないことでうめつくされているのである。
分かることが、一つ増える度に、分からないことが10増える。我々の歴史とは、そういうものであったはずだ。
とすれば、どれだけ分かっているものを分かっている、と豪語するよりも、分からないことを見つめていくことの方がより真摯な姿勢だと私は思う。

ただ、人間は分かることに安住してしまいがちな存在である。分からないことに対しては、腹を立てるのである。

あるいは、分かったふりをする―。分からないと安心できないから、気を休めるために、自分の周りを予測可能な、つまり分かるものだけで埋めようとする。隙間を作ってはならない。隙間は悲劇であり、あってはならないものである(視界には隙間のない、「強い人間」という虚像が作られる。)。


鷲田が次に述べるように、企業戦略の場においては常に「現在から確定されたものとしての未来」が、並べ立てられるのである。
話題は、筆者が企業の活動にあたる言葉を分析していた所からはじまる。

…あるプロジェクトを立ち上げようと提案する。そのプロジェクトの内容を検討するにあたっては、そもそも利益の見込みがあるかどうか、あらかじめチェックしておかなければならない。なんとかいけそうだということになれば、計画に入る。計画が整えば、それに沿って生産体制に入る。途中で進捗状況をチェックする。支払いは約束手形で受ける。そして儲けが出れば、企業は次の投資に向けてさらに前進する。事業を担当した者にはそのあと当然、昇進が待っている……。
 ここでポイントになるいくつかの用語を英語になおしてみる。プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、見込みはプロスペクトである。計画はプログラム作りと言いかえることができる。生産はプロダクション、約束手形はプロミッソリー・ノート、進捗・前進はプログレス、そして昇進はプロモーション。なんと、「プロ」という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである。これらはみな、ギリシャ語やラテン語の動詞に「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)がついてできた言葉である。…(中略)…要するに、すべてが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標のほうから現在なすべきことを規定するというかたちになっている。…
(鷲田清一「「待つ」ということ」17-8頁、角川学芸出版、2006)

  予見可能のもの中で、なるたけ<現在の方>からのみ、物事の判断をしようとする姿が浮かぶ。

しかし、結局それでは本質を掴んだことにはならない。アキレスと亀の話は、線分の交差点までの一部分までしか見てはいなかったのだ。


(4)信じるということ
  信頼社会という言葉がある。信頼社会は崩れている、今の日本は欺瞞に満ちていると、様々な方向から批判されている。

例えば、売買契約においての、当事者の片方の債務不履行について(例えば買主なら、商品を受け取ることの対価として、金銭を支払うこと。)。法律的には、その相手方(売り主)は一定期間付きの催促を請求することができる(条)。
催促は、必要に応じて何回でもできる、とされている。しかし、何回かにも、限度があるであろうことは、冷静さをもっていれば、判別がつくはずである。

当然、催促は法律上も認められた、権利の行使として積極的にすべきである。
しかし、その催促を過剰にやることは、非合理的ではなかろうか。
過剰に催促すると、それはまず1法律上の強迫行為に近いものとなってしまうおそれがある。
それから、2相手方に不必要な焦りを産ませて、心理的負担を加える可能性がある。
また、3潔さの観点からも疑問となる。

しかし現実は、ヤミ金融の取り立てを典型として、過剰催告の例が珍しくない。
この、過剰に相手に「まだなの!?」と催告してしまう行為は、心理的にはどういった状態から来るものなのか。

それは、私は相手を「信頼しきれていない」ことからくる焦燥感や、不安感、疑心暗鬼の現れだと考えている。
決まり文句のように、「あなた、信頼されていないわよ」という言葉は使われるが、実はそれは裏を返せば、「私はあなたを信頼する自信が持てません。」という、―相手の悪さゆえでなく―自己の弱みを表明してしまう言説でもあるのだ。

催告の法律的な制度趣旨(制度の目的)は、相手方に債務の存在を気付かせることで、債務履行の機会を促すことである。そうすることで、私法上の大原則である、取引上の安全の充足に資するからである。
それは、人情的に言えば、思いやりである。反対に、思いやりがなければ相手方の債務履行の機会を与えようなどとはそもそも意図しない。
 現状は、こうした思いやりを欠いた催告行為が多くなっているのだと思う。それは、先程述べたように、相手に対する疑心暗鬼の気持ちからなされている。
 だから、その不安定な気持ちは、相手をも焦らせてしまい、互いを不信にしてしまう。冷めた契約関係に堕落させてしまい、それ以外の所での心のやり取りといったものは全く無くなる。

ところで、信頼できないということは、幾つかの観点と同視できるものがある。
1つは、不安に思うということであった。
上で見たように、不安に思うという事は、相手の力量や行動や誠心を疑うという事でもあるが、自分をも疑ってしまうことの裏返しであった。
そして1つには、「待てない」ということが挙げられるだろう。
引用で引いた鷲田はその著書「『待つ』ということ」の冒頭で、日本社会は待てない社会になったことを指摘している。
我慢や自制が、効かないのである。
耐久力という言葉があるが、それは、人間においては崩壊しているのが今の現状であるのだろう。
その背景には、人々の相互不信やコミュニケーション不全、物欲主義など様々なものの検討の余地があると思われるが、本稿ではその考察には至らないことにする。
相手を信頼できないことの理由を挙げるのは、幾つでもありそうである。相手を信頼できる理由の方が、挙げることの難しくなった社会であるかもしれない。

一つ、この小節で述べておきたいのは、相手が信頼できないというのは、思ったより手強い事態であるということだ。
相手を待てないのは、とりもなおさず、少なくとも「自分」自身は信頼ができるということでありそうである。
しかし、それは違うと思う。
 相手を信頼できないということは、即ち自分自身でさえも信じることができないことを指すのである。
 自分を信頼していないからこそ、相手にも同じように、自分とよく似た部分への不信を示すのだ。

いや、自分だけは信頼できるのだ、という主張があるのかもしれないが、それでは、次の引用を見て4節を閉じることにしよう。
精神分析者のエーリッヒ・フロムの、「利己主義者」についての議論である。すなわち…

…利己主義をよりよく理解するには、たとえば子どもをかまいすぎる母親に見られるような、他人にたいする貪欲な関心と比べてみればいい。そういう母親は、意識のうえでは、心から子どもを愛していると思いこんでいるが、じつは、関心の対象にたいして深く抑圧された憎悪を抱いている。彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているのだ。…
(エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳「愛するということ」98頁、紀伊国屋書店、1991)


(続く
(5) 可視化の幾つかの例

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無題

  • by a
  • 2010/05/23(Sun)16:25
  • Edit
>「見えないものを信じる力」
の前提に「見えるものを信じる力」が存在しているということでしょうか

無題

  • by ミスティ
  • 2010/05/24(Mon)13:16
  • Edit
こんにちは!
そうとも言えるかもしれません。 でも、もしかしたら本稿の目的とはあまり関係が無いと言えるかもしれません。
「見える」ことを信じるのは人々にとって容易いと述べる一方で、「信じる」ことそのものの実質を検討しようとしている(少なくとも私の意図では笑)からです。
他にもお気付きの点があらば教えて下さいm(__)m

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学生をやっております。
*好きなモノ・コト
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音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
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