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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
カテゴリー「時事問題」の記事一覧

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活動としての

KARA騒動、結局は訴訟に発展!事態は最悪方向に…?
http://www.k-plaza.com/news/enter_news_4445

KARAのメンバーは、今後とも生産的な活動をやっていきますと前向きな姿勢を見せ(ようとし)ているのに、

事務所側は、訴訟を提起されるのはホントにごめんだという。。

訴訟「活動」だって、社会生活を実効的に進めていくための立派なそれまた「生産的な活動」ではあるから、
事務所側が主張している困惑というのは、少々的を得ていないなと思いました。


すみません、ぜんっぜん違う記事を投稿する予定だったのですが、取り急ぎ話題のニュースに短絡的に飛びついてみましたww

misty @

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熱狂者の苦難 ーAKBを題材にして

こんぱら! mistyです。

すげーだらだらと、AKBをめぐるファン(熱狂者)とそのアンチの対立構造のことを、思い患っていますww
 かる~く受け止めて下さいww

@ 熱狂者の苦難 ーAKBを題材にして

(1)前置き
 AKB48!! お好きですか、お嫌いですか?
akb48-1.jpg AKB48 公式ホームページ









まず始めに言及すると、私はAKBファンです。  自分で言うのはアレなんですが、ハマり具合はおそらく中程度。 
 ((あと、いわゆる「新規」です(ちなみに、ファン層を古参/新規とするこの区別ほど、無意味で有害なものはないと感じている日々です・・・苦笑))

お好きな方は魅力を語ったりだろうし、嫌いな方は秋元Pのえげつない(笑)商業的手法にホント辟易するわって感じだったり、色々ですよね。

AKB48に限らないのですが、あらゆる選好=好きか/嫌いか、の対象とされるものを取り巻く人間を、

熱狂者 / 無関心者 / アンチ(反抗者)


と便宜上、3者を引き合いに出して整理したいと思います。

もちろん、
 熱狂者=ファン
 無関心者=AKBになーんにも関心を持たない人、或いはちょっとうっとおしく思っている人
 アンチ=「AKB」という単語を聞くだけで寒気と怒りを覚える人

という感じです。

 実は私、AKBのファンだな~と実感するようになったその前までは、「けっこうな無関心者」か、寧ろ「アンチ」に近い感じだったんです。
 よく非難の対象になっている、あの秋元康をプロデューサーとするえげつない売り込み方法、超商業主義的態度。  私もAKBが世間に注目され始めた頃はそういう面に当然注意がいって、「AKB、AKBと世間はアホみたいだな!」とふんぞりかえっていたわけです。


ところが、あらら…。

 いつの間にか、「熱狂者」側に来ていたわけですがww
まぁその過程は、今回記述することではありません。


(2)本題
 私が最近すごく痛ましいと感じているというか、うーんどうしたものかというのは、ネット社会に現れる

「熱狂者VSアンチ ( 無関心者」

この構図なんです。

例えばYoutubeのAKBの関連動画のコメント履歴などを参照して頂ければ、意味していることが一発で分かると思うんですが、本当にすごいんですよね、ファンとアンチのその争いが。。 2ちゃんもすごいです。

(参考までに)【PV】 ヘビーローテーション / AKB48 [公式]

 参考に挙げた「ヘビーローテション公式PV」の動画は、さすがにAKB公式運営から配信されているだけあって、コメントの管理がある程度は行われているのでアレなんですが…。私人が自主的に編集したりして作っている動画のコメント欄は、時にすごい様相を呈しているものがあります。。

 で、こういうのって、AKBに限らず、賛否両論を招く対象事物って、普遍的に存在するじゃないですか。
海老蔵問題(海老蔵を擁護したい人VS すげーバッシングをするメディア・一部の世間)然り、角界崩壊問題(相撲を擁護したい人 VS すげーバッシングをするメディア・一部の世間)然り。

今回の焦点はAKBの熱狂者側から見た、アンチの存在なんですけどね。。

 アンチって、本当に嫌い(生理的に受け付けないとか)だからそういう態度を―反射的にしろ意図的にしろ―取らざるを得ないような人もいて、それは全然わかります。だって嫌いなものは嫌いだし、それを強制的に受容しろと言われても無理は無理ですから! アンチにはアンチなりの存在理由(しかも合理的な)があるし、それは否定するべきものでは全くない。

 しかし、そういうある意味純粋なアンチを除いて考えてみると、よくあるアンチ的態度は、単なる煽りだったりとか、「AKBファンにこういう事言い放ったらきっと争いが起こるぞププ…」みたいな感じで、幼児的な感覚から生まれるものがかなり大半だと思うんですよね。

 だから結論としては、基本的に、アンチに無意味に反応していても、しょうがない。
アンチという存在自体を不可視化するのが、一番良い。スルーが一番良し。


…それは、そうなんです! でも実際には、そういったアンチ的態度をうまく処理できない人、若しくは行為がずっと残存していて、それは途方もない悔しさだとか、何だろうな、水をさされた的な、うまいラーメンに鼻水一滴足らされたー!! みたいな不快感を、生み出しますよね。
 その悔しさなり不快感がまた、アンチに対する冷静な処理を困難にしている。
ますます、アンチと熱狂者の間の溝、不毛な事態は深まり、状況はもやもやする一方。

 ネット社会では、こんな、見ていてすっごく哀しい状態を、すごくよく見かける気がします。。

 ファン=熱狂者は、そういう本来的にはあまり好ましくない事態に直面しながら、熱狂者であることを生きるんですよね。
 本当は、ファンとファンとの間のみで構成される関係の中で、「あっちゃん大好きー!」「えー私も私も! 最高だよね!」と大切な想いと時間を共有できる環境だけを生きることのことが、どれほどいいことか。それは理想です。現実ではありません。 熱狂者が全体を占めるというのは、本稿の前提からするとあり得ないことになります。

((cf. 例えばこれが「無関心者」だったら、そもそも関心がないわけですから、争いに巻き込まれる事はない訳です。中立(的ポジション)。 
 無関心者からみると、この「熱狂者VSアンチ」の下らない争いを、「何やってるんだキミタチは…」という冷めた、冷静な視点で観察することが可能です。

 だからといって、熱狂者→無関心者 への移行は難しい。 無関心者→熱狂者 の移行は全然あるんですがね。。))

 ネット社会の台頭によって、知らず知らずのうちに、私たちはこの下らない争いに巻き込まれる事態によく逢うようになってしまった。 非生産的な争いが、増えてしまった。 私はそう捉えています。それは、「ネットに自ら首を突っ込むからには仕方のないことだ」という完全自己責任主義の態度からだけでは対処しきれない、地獄図だなぁと。


 …かくいう私が、「アンチは絶対スルー」と心に決めておきながら、つい最近不覚にもアンチ態度に行動として反応してしまっりしてて。。はたから見ればそれは微々たるものですが、当事者の立場からすればそれ相応の消耗がお互いに在り。
 それはもちろん例外なく、より不毛な事態を生みだすだけでした。

(3)結び

おっと、AKBからだいぶ焦点がずれましたww

今回は、こういう事態があってただ哀しいな~と強く感じたことを書き連ねてみました。
 対策法の考慮は対象外です。 対策法があるのかどうかは分かりません。
できれば有効な対策法を考える段階に入りたいですが、それはまた機会があったらということで。
ただ一つ言えるのは、私が提起しているこの哀しい事態は、思っている以上に複雑だという事です!

まとまりのない文章ですみません!! それでは。

misty @

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ゆとり


こんばんは。

責任の連載4回、終わりました!
真面目に読むと結構危ない記事です(爆)

要はですね、人が背負う責任の大きさにも限界はあるはずだ、てことですよ。
何でもかんでも因果関係を作出しては、責任を負わせたがる社会なんてことになったら、確実にその社会はつぶれます。

 構成員に対する、もっと分かりやすい愛情が社会にはないと!

今日は短いエッセイです。

@ゆとり

今ちょうど「ゆとり」についてのテレビやってるんですが、

ゆとりはひどいゆとりは失敗だったとぬかしてますが、
 よーそんなに一括にして人をバカにしていられるな、と。

ゆとり世代は、どうやらコミュニケーション不足、態度が悪い、学力が低い、んだそうです。

抽象的な非難だ・・・。
 要は、今の年配に当たる世代が、文化の変化にとまどっているだけで、自分を正当化したいだけじゃないの?
 適当にゆとり世代とくくりを付けては非難をすれば、自己については見られることが無くなりますからね。

例えば、本当にコミュニケーション不足なんでしょうか。
そもそも、コミュニケーションが発達していた時期なんてあったんでしょうか? というか、コミュニケーションという概念自体が比較的最近のものなのではないでしょうか?

別に非難しているわけではないのですが、もう少し仔細な検討を行ってから非難なり激怒なりをしてほしいものです。

この中で、ゆとり世代はダメだという意見の方がいらっしゃったら、次の反論にはどう思うでしょうか(自分の反論が最も正しいとか、そんなバカげたことをおもっているわけでは決してありません汗)。

 年配の世代と、ゆとりの世代には、文化の変化という波を通して、それぞれの価値観・ライフスタイル等に断絶がある。
一方的にゆとり批判をするものの、実際ゆとり世代の方も、年配の世代とはコミュニケーションが取りづらい、生活観念が違う、などと、年配世代と実は同じことを思っているのではないか。
 すると、ここで問題にすべきは、ゆとり世代がどうのこうのというより、それぞれ価値観の違ってしまったもの同士の間のコミュニケーションや社会技術伝達を如何にするか、という問いが積極的に立てられるべきなのではないでしょうか。

私は、ハッキリ言いますが、高度経済成長期を若いころに過ごされた方には、どうも自分達の行動や考えていることが一番エラいのだとの、ある種の頑固さをもっている人が多いような気がしてなりません。

もうひとつキッパリ言うと、伝統を伝えるのと正しい行為を考えるのは、違うことです。私はそう思います。


…なんとなくストレスが溜まっていたので、今日はかなりキツめにぶっちゃけてみましたww
 どーなんでしょうか? ひがみや非難の下はいつも文化意識のズレ、という案は。
 文化意識の違いが分かった所でさあどう歩み寄るのか、というのが最近の議論の中心であるし、私もそのことを積極的に考えていきたいと思っています。
「ゆとり世代」のろくな定義もせずに、度を超えた怒りを言葉の中に込めるようなことがなくなることを願います。
 今回は攻撃的なので、いっそうご意見ご批判お待ちしています。笑

misty @

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iPod片手に歩く若者達 part2続き(完)

 (文字数オーバーとかになったので不本意ながら書き足します笑)

a、騒音
b、物理的(例:可視的)不注意

他にも諸々の類型があると考えられるが、便宜上2つに絞る。

a、騒音問題
 これに関しては、さらに二つに焦点を分けることができる。音量調整と、イヤフォン(ヘッドフォンでもゆい)である。
 前者の音量調整に関しては、およそ「公共の福祉」(日本国憲法11、12条、民事法1条1項等)に反しない限りにおいて、個人の裁量に委ねられるべきと解すべきであろう。
 すなわち、「公共の福祉」に反するような、例えば明らかに周囲の人に不快感を与える程の音量で聴いている、といった場合には、とりあえず不法行為制度(民法709条以下)が妥当するであろう。
 また、不快感という精神的損害に留まらず、身体における傷害など(例えば第三者が、その相手方の騒音によって受動的に聴覚不全に陥るなど)を被った場合にはどうなるか。判例は、(電)車内ではないが、宅地の近隣関係において加害者が大音量でラジオ等の音声を流し続けた結果、被害者が慢性頭痛を患ったという事案に対して、加害者側に傷害罪(刑事法204条)の成立を認めている(最判平成17・3・29)。刑法上の「傷害」の概念については争いはあるが、上の判決でも見たように例えば慢性頭痛、人の「生理的機能」に傷害を与えることが刑法上の傷害であると解すべき、とするのが通説・判例の立場である(注8)。 この見解に従えば、聴覚傷害や頭痛などの具体的な病気を患えば、加害者に対して刑事上の責任(とりあえずは傷害罪)を問うことが可能である。

 さて、後者のイヤフォンというのは、いわゆる製造物の責任の問題である。

注7)どーでもいーが、私は「個人の自由の尊重」という薄っぺらい言葉が大嫌いである。
(注8)これは一般に生理的機能傷害説と呼ばれるが、例えば嫌がる女性の頭髪を切る、という行為に対して、この説は傷害罪の成立を認めない(髪を切った所で頭髪自体はまた生えてくるのが一般的であるから、残る問題は名誉毀損とか慰謝料とかの話になる)。これについて、あなたはどう思うだろうか。くどいが、司法の最高機関である裁判所は女性の頭髪切断行為を傷害とは認めない(事案としては、福岡高裁平成12・5・9等)。

 製造物責任の話については近年ますます各分野から注目が集まり、それだけ議論も分かれている状況であるので大変に簡潔な紹介に留めておく。

 要するに、公共の福祉に反しないよう・又は不注意を惹起させないように予めメーカー側が商品に対して何らかの結果(例として、爆音洩れによる第三者の被害など)回避措置を施すべき!として、利用者のみの過失責任の範囲のみに限らないように働く論理である。

 なるたけ音洩れが生じにくいイヤフォンを製造する努力義務や、音楽を聴いている時に別行動をする場合は速やかに音が自動的に適音になるような機能追加対策とかの努力・注意義務が発生し、それに違反したという構成を採ると、当該製造物を創りだした・提供した企業側にも損害発生に対する責任を求める余地は一定程度あろう。この場合は事案に応じて民事・刑事どちらか又は両方の領域から観念することができる。

b、物理的不注意の問題
 これは、典型例としてはiPodを聴いている人(X)と自転車を走行している人(Y)が道路上でぶつかりそうになって、Yが思わず転倒してケガをした場合のお話である。先ほどと同様、一般的には民事法の世界では不法行為、刑事法の世界では過失傷害罪(刑法209条)などの成立が観念しうる。
 過失の本質の話につながりそうなので、本記事からは詳細な検討の外にある。一般的に言えそうなのは、過失を予見可能性を基盤とした注意義務違反と捉える(民法でも「過失の客観化」などの同様の事態が解釈上生じている)見解が支配的になっている昨今では、209条の罪の成立の余地はひとまず認めてもよいということにはなるだろう。
 

4 終わりに

長くなってしまってすみません。笑

 もとはといえば、iPodとかウォークマン聴きながら歩いている人って確かに表情が全くない、アブナイ顔してるよな(自分も含めて)って、ばななの記述を思い出しながら感慨に耽ってました。けど、ばなな特有の物事を鋭く言い切る、みたいな、そういう表情のない顔した人は可哀そうというあまりに直接的すぎるメッセージに対しては、子供ぢみた反発心が働き、筆をとった次第であります。

 本当は、町中でイヤフォン付けて音楽を聴くべきじゃないかもしれません。でも、それを例えば条例レベルで一律的に禁じられたら、やはり非難の声はどこからともなく飛ぶだろうな、と。
 その非難の声には「個人の自由を尊重すべきやろ!」という、

僕にとっては空き缶くらいの重みしかない言葉以外で反論可能性を探りたい、
と思い、空間論に触れてみました。

注をつけましたが、あらためて、リアルに個人の自由の尊重!とか、簡単に言わないほうがいいです。うむ。こいつはガンみたいなものだ!


感想・批判お待ちしております(´ψψ`)



ミスティ @

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iPod片手に歩く若者達 part2

本稿に入る前に。
 今日のお昼、虫歯の神経を抜いて蓋をしてもらったんですが、何かが悪かったのか今口内が痛くて痛くてたまらない。発熱してるし(_´Д`)ノ~~ バイトを急に代わって下さった先輩、本当に申し訳ありません!m(__) 何故こんな所でも謝るか、それは僕が今からバイトを代わってもらってるのにも係わらずブログ投稿なんてするからです!! 痛くて痛くて眠れもしないので、親指だけせめて動かさせてください!!(切実

さて。
本日投稿した「「わたし」の存在の消去」の後書きも、させて下さい。(苦笑)

@「わたし」の存在の消去 あとがき

 なんでこれを記事にしたかといったら、一番の理由は自殺の問題をむーんと考えていて、それと関連付ける方向にも持っていきたかったからです。

今年、小学校で友達だった同級生が引きこもりの挙げ句、舌を噛み切って自殺しました。ミスティ自身も神経症を患っているからかどうかは知らないけど、「自分を殺したい」とシリアスに考えることも何回かありました。

 でも、なんか生きてて辛い・苦しい→じゃあ自らナイフを向けよう、というのはやっぱ違和を感じてどうしようもありません。
「わたし(自分)」の存在というものは、記事中で述べたように、そもそもが有り得ないくらい脆いものなのです。   早いが話、自殺を考え始めた人は、なんでもいいので精神世界(スピリチュアリズム)の簡単な本を眺めてみてください。 スピリチュアリズムの支配的な見解によれば、私たちの身体が滅んだ後も「意識」というものは依然として残り、別の身体なりに入りこんで新たな道を歩むのだそうです。そしてどうやらそれが半ば連鎖的に続くみたいです。その連鎖的な意識を特に「霊性」だとか呼ぶみたいです。

 ミスティの記事はこの精神世界からの解答とは違う角度によるものです。私たちは先にも述べたように「わたし」以外の人だとか自然だとかとの関係性の中で「生かされて」いる。それは言い換えれば、この「わたし、自分」という存在は他者からの非断続的・瞬間的接触を媒介とすることで辛うじて成り立つものであり、決して積極的・自発的に見出だされるものでもない、と思うのです。 だから、自然(natural)に身を任せるならともかく、飛び降りや首吊りみたいに、人為的(artificial)にわざわざ消去するような代物でもないと思うんです。(苦笑)
 ミスティなんかはハタチ超えていながら人一倍繊細だったりします。わけわからん事に対してわけわからん程悩んだり苦しんだりする時があります。でもなんつーか、そういう苦しみは僕だけに固有のものではなくて、寧ろみんながそれぞれ抱えている「わたし」という意識の付随物だと思うんです。 心が苦しい苦しいと悲鳴を上げているのなら、骨折ったら入院するみたいに、治療すればいい。

 …やはり話はまとまりに欠くので(笑)、真剣に悩んだりまたは興味がある人などいれば、「軽い」精神世界の読書をオススメします。軽い、のがポイントです。入門みたいなのとか、漫画でもいーし。世の常、どの分野でも樹海は待ち構えているので(笑)

※ちなみに、僕の考えでは科学とスピリチュアリズムは対立するものではなく、共通するものもかなり多く見受けられることだけを伝えておきます。
やっっーーと、本記事じゃ!先輩スミマセン!(しつこい)


@iPod片手に歩く若者達 part2

パートワンまでの区切りが歯切れの悪いものであったので、もう一度ここで簡単に話の流れを整理しておきたい。

 iPodをはじめとする携帯音楽機器を持ち歩く人々(特に若年層)が、ますます見受けられるようになったが、この社会的現象は何を意味するのか。それを文化的側面・道徳的側面・法的側面(注4)から順に検討していくのだが、道徳的側面から見た時は日本の小説家吉本ばななの表現が特徴的であった。ばななの問いかけは、いわゆる「公私の分別」という基本的な道徳的要請であるとも読み取れるかたわらで、それだけでは説明がつかない違和を導く所から、別検討を割こうとしていくのがパートワンまでであった。以下、記述をする。

 ※注4 「道徳と法の区別の限界」という形式で、主に哲学・法学から論じられる事が多いように、この両者の区別は簡単ではない。しかしここではさしあたり、法=法律すなわち特定の社会に於いて権限を有する議会によって制定された実定法、の世界で論じられるべき事柄を法的側面とし、個々人が抱える道義的心理の在り方とは一応の区別をしておく。


(3)生産的空間と非生産的空間
 私的/公的、という便宜上の区別のみでは足らない、ということで、労働世界を基本においた「生産の場とそうでない場」を話の引き合いに持ち出したい。
 そもそも、生産=労働の場、というものは歴史的に生まれた産物であった。18世紀後半の産業革命が一例である。イギリスに起こったこの現象は、一般的にはそれまでの手工業制(つまり家の中でも仕事ができる)からマニファクチュア(機械工場制)への大胆な転換、であった。この産業上の転換は、生活上にも影響をもたらした。より効率的な労働による生産を確保するために、当時のイギリスは生産の為だけの場所(工場など)を作り、片一方で非生産的空間をも同時的に作りあげた。
 都市(=第二次産業を基盤とする総和的場所)/村落(田舎、第一次産業を基盤とする総和的場所若しくは家事労働等の非社会生産的場所)の分化と促進は、このような時代背景のもとに生まれた。
 第一次産業革命がもたらした「恵み」は19世紀に入ってからイギリス以外の欧米諸国にも波及し、そして開国後の日本にも産業圏・文化圏・生活圏その他諸々の領域において導入された。

 話を元に戻そう。典型的な都市圏を背景とする空間では、なお一層生産的空間とそうでない場所の区別が要請される。理由は簡単だ。そのほうが効率的だからだ。  例えばメトロポリス東京などではこうして、あのドーナツ化現象が生じたりしている(注5)。
さて、家―街―仕事場、という三者を想像して欲しい。既述の生産的空間論を当てはめると、

非生産的空間―「?」―生産的空間
、の図式になる(注6)。

(注5)もうこの用語法自体がすでに死語ならぬ死法となっていたりするのだろうか…。
(注6)あくまでも「非」生産的空間と呼ぶからといって、家事労働等から生まれる産物をそれとして否定する方向に働かないことに注意する必要がある。ただ単に、家事労働は社会的には生産としては一般的に見られない、というだけである。

 「?」、これを私はグレーゾーンと呼びたい。非生産場所と生産場所には、距離的・システム的相違があるが、例えば普通の会社だとか学校だとかでは、必ずこの両者を行き来する時にグレーゾーンに入りこまざるを得ない(家で宿題をする、とか、職場で休憩する、とかの場合は例外として考察の対象外に置く)。
 生産的空間=仕事場・勉強場では、これまた仕事場の雰囲気といった言葉が語るように、やはり非生産的空間=マンスリーマンション・家とは一定程度区別されるべき「なにか」がある。会社勤めを日常に固定化したお父さんも、その昔入社したての頃は玄関先で「よっしゃ行くぞ!」と意気込んでから(程度の差はあれ)、一歩を踏み出したに違いないのである。

 そして、「街」の空間が支配する移動手段としての場所は、まさにそうした人にとってグレーゾーンであった。ここには、2(2)で述べた公的領域における公共性を帯びた道徳が必然的に要請される…といった事柄が多いに関与してくる。

Aちゃん(大学生・電車通い):今日は大嫌いな科目が5限に入っている…orz

(電車の中に入る)

A:(はあ…この、なんともいえない張り詰めた感じ、嫌なんだよなあ…あたし的には小テストの勉強もしたいっちゃけど、今日はやけに人混んでるしそうそうプリントなんか出せないよ…)


 ※グレーゾーンにて今日も疲れるAさんのたとえ話にちょっと関連したことを言うと、電車内の広告はこうした都会人の「行き場のない」心理状況をうまく利用した、という有名な説がある。何かと目のやり場に困る人々は、文字が書いてある一枚の広告を、その通勤時間だけずーっと眺めるわけだから、それは宣伝としては有効な戦略である。


(4)グレーゾーン
 まさに、このたとえ話が示す電車内の風景は、グレーゾーンに放り込まれた人々達の「成れの果て」なのである。非生産的空間から生産空間へ、生産的空間から非生産的空間へ移動するとき、我々は往々にしてこの公的領域「でも」ある街、を通る。我々はこのグレーゾーンに目的でもおかない限り(街でお買い物・デート、車内でアルバイト等)、全く何をしていいか分からない状況に陥る。

そーこーでー(!笑)、
iPodは成れの果ての人間達へ贈るべきうってつけの商品へと昇華するのである。
 グレーゾーンを排したいのなら、家(=私的領域)から出かける時から音楽を聴いていればよい。そうすることによって、適度に公共に溶け込みながら私的な場所と時間を確保できるのである。
 2(2)で既述したように、イヤホンには外部遮断の機能がある。つまり公的領域においても、完全に私的領域を確保できることになる。 音楽を単に聴いたり、はたまた聞きながら軽いお仕事をしたり。 個人の自由(注7)の尊重という、現代の時代背景にもピッタリである。

 小説アムリタに出てくる「町」とは、公的領域、ではなかった。公共性を帯びながらなお生産的空間と非生産的空間の中途にある、ブラックホールのようなゾーンを持つ場所ないし空間であった。
 「のっぺりとし」た顔が多く出現しても、それはこうした状況を鑑みる上に置いては致し方ないことだろう。中には本当に野生の目を忘れた、つまり当該社会から排除される真性引きこもりや精神病患者はいるが、それはあくまでも例外である。



3 民事法・刑事法の世界

実定法とその運用機関である実務の世界では、問題はある程度類型化しうる。

(part2に続く)

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iPod片手に歩く若者達 part1


 どうもこんにちは、mistyです。
前回の記事ではどうやら名乗ることを忘れてしまっていたようです笑

 さてさて、みなさんは、車でお出かけだとか電車で通学だとかの場面で、手持ちぶ沙汰なとき何をしていますか?( ^)o(^ )
私は、ウォークマンの大ヒット以来より、CDウォークマン→MDウォークマン→iPod(Classic)、と世相にも合う(?笑)形で、ようするにほっとんどの時間、携帯音楽機器を持ち歩いて音楽聴いてました。
中学から高校までが、学校までいつも片道40分という感じだったのでウォークマンを入手した時の喜びはハンパなかったです(笑) やったぁ音楽いつでもどこでも聞けるじゃん! みたいな。

 歩行中でも、よくiPod片手に音楽聴いてます。 で、多分一般的でないというかメチャクチャ特殊だと思うんですけど、私は片耳だけイヤホンつけてもう片方はつけないって癖があって・・・(笑) その癖の理由の一つには、両耳塞ぐよりも片方のほうが周囲の状況をどうやらより感知しやすいから、てのが。 ヴォリューム小で聴くのが基本的にキラいなんですね。(笑) それよりは片耳外してでも、ある程度の音量で・・・!みたいな、やっぱり特殊すぎますね(・へ・)
 でももう一つの個人的な理由があって、それは目の前の風景を音楽を聴くことによって意図的に色づける故というものです。私はこの行為を勝手に「カラーリング」と命名しています。
 なんでしょうね、ふと見渡すと何の感慨もない風景であっても、音楽聴いてるとなんだかその風景が音楽に合わせて色とか物語とかメッセージとかを放つんですよ。 雨の日は、その静けさの中で爆音ロックを選んだりとか、快晴の時にはキラキラしたポップミュージックだとか。 こりゃあ面白いなぁと思って、そんな事を思いながら今に至るわけです。(笑)

はい、だから前置きが長い! 本記事は、以下よりはじまります。笑

iPodを片手に歩く若者達

と題して。
 前置きから話はつながるが、ウォークマンの登場とその爆発的ヒットと共に、街中でも電車の中とかでも携帯音楽機器を持ち、イヤフォンを付けて音楽を聴いている人の姿が多くなった。
 00年代に発売、そしてあっという間に同時代に世間に広まったiPodもその一つである。見渡せば至る所でイヤフォンを付けて街を歩いている、特に若年層が多い。私もご多分に洩れずその一人である(20代は若年層である笑)。
 以下では、iPodも含めた小型携帯用音楽傾聴機器(以下、単に「携帯音楽機器」と略す。)の登場と多くの若者ー若年サラリーマンや、学生を含むーによるその利用形態が、現実にどのような状況を引き起こしているか、1文化面からみたそれ2社会的道徳観念からみたそれ3社会的法観念からみたそれ、を検討し、どういった問題が生じているのかそれにどう対応すべきなのかを簡潔に述べたい。


1、iPodはファッション(文化の一形態)だ!
 ここはとっっってもサックリといきます(笑) 題字でも分かるように、携帯音楽機器を持つことは現代社会において、ある種のファッション性も帯びている、ということを私は鼻から認める。 Apple社が流しているCMの幾つかでは、iPodを片手に歩く若者をオシャレな感じで、平たく言えば一つの「個性」として描写しているものがある。
 現実の状況としては、殊に高齢層ーなぜかこういう時は決まってオジサンオバサン達から提起されるもののようだーから、「けっ変にかっこつけよって!」「なんねあんたそれ、イヤフォン付けっ放しで、耳聞こえん人でもないのに」とある種の不満が投げかけられる。 文化的社会面からこれをみる限りにおいては、「時代の変化と共に文化もいわば当然に変容する」というのが正論であろう。 つまり、単なるカッコつけでもないし、こういうのが端的に(今の)時代の流れの中であるの! と言えば、それでお終いである。
 

2、吉本ばななの記述からの問いかけ ー空間論ー

(1) 私的領域/公的領域
 まず、小説家よしもとばなな著「アムリタ」から、街の人の描写において以下のようなものがある(注1)ので、ひとつ引いておきたい。
(引用)

  ・・・だから、母に置き手紙だけして、彼女が戻る前に弟を連れて家を出た。聞けば、彼はもう一週間も外に出ていないそうだった。空気がおいしい、と彼は言った。
  ずうっと、安全な室内にいると、人間は家に同化して家具のようになってしまう。
町でよく見かける、外にいるのに服装も顔も室内のままな人。のっぺりして反応が鈍く、人の目をみない、ゆるみきった人。野性を忘れてしまった目をしている。
  弟にはそうなってほしくなかった。・・・   (引用終)

 さて、この小説のテクストからは、「室内」と「町」における人の在り様の違いが見てとれる。ばななに言わせれば、「外にいるのに服装も顔も室内のままな人」は、「野性を忘れてしまった」性質らしい。
 ちなみに私がこの小説のこの場面に遭遇したのはもう5,6年も前であったが、当時何となく思い当たる節があって「あぁーそういう表現を使うのかぁ巧いなぁ」と感嘆した記憶がある。

 ここではさしあたり、私的領域と公的領域における個人の態様に対する道徳的観念から見た区別の実益、という形で問題を転換しておくこととする。 つまり、私事(引用文においては、「服装」や「顔」等、つまりは「室内」=私的領域における個人のファッションや態度の取り方)を公的領域(「町」)に、そうそう開けかしてもいいものなのか、という事柄を、社会的道徳の見地からみるとどうなるかを考えたい。

(注1 吉本ばなな「アムリタ上」(2002, 新潮文庫)158頁4-10行より抜粋引用。)

***いったんここでタイピング止めておきます***
***また付けたしますが、終わりにはいかないでしょう(笑)

 早いが話、ばななは、-小説という、論理とは対極の「感覚」をベースとする形式を用いてはいるもののーそういった私的領域ではOKなことでも公的な領域内ではOUTなことがあるんじゃないの、と間接的に疑問を投げかけているのではないか、ということである。確かに、繰り返しになるがあくまで範疇は小説であるため、形式的に解してその小説から汲み取る事柄も所詮憶測に過ぎないという批判も成り立ちうるかもしれない。しかし、社会的引きこもりの問題等を前提としているような文脈(引用文より、「ずぅっと、安全な室内にいると、人間は家に同化して家具のようになってしまう。」のセンテンスなど」)があることを鑑みると、この個所から社会的道徳の観念の事柄を引き出すことに特段の無理はなかろう。

 さて、赤字の部分をもうちょいカタい言葉に置き換えてみる。私的領域/公的領域を便宜上区別したうえで、それぞれの領域で要請される個々人に対する道徳の質が違う、ゆえに「のっぺりとして反応の鈍」い態様は公共性を帯びる公的領域の中では望ましくないのでは、という主張になる。これには、一定程度の妥当性があると評価してよいと思われる。 場のわきまえ、というのはよく個人の道徳の場面でも引き合いに出される話であろう。

(2)社会心理学等のアプローチ

 私がばななの文章を引き合いに出したのは、言うまでもなく、
携帯音楽機器を持ち歩く人には同様の共通点がかなり見てとれる

からだ。 逆に、イヤフォンを付けながら周りに注意深く気を張っている若年層の人をみつけるほうが難しい。
 しかし、括弧1で述べたような、要するに「公」「私」をある程度わきまえろ!という要請からだけでは、この現象を完全に語りきってはいないように個人的に思えた。そのわきまえろ論を仮に推し進めるとすると、iPod身につけて電車の中で音楽聴いたりする人全てが公私の場の区別をわきまえていない、ということにもなりかねず、それはおかしいだろうと思う。

 次に、情報社会に生きる都会の人間を分析したミルグラムの過剰負担環境の話を簡単に紹介する(注2)。地方と都市を比較したとき、人・モノ・広告(普通広告と勧誘行為どちらも含めて)などを媒介として、それらを「情報」と捉える。その時、その総合的情報量は圧倒的に都市での方が多い。こうした情報氾濫の状況下では、人間は短時間処理(最小限の情報だけを伝えようとすること)や情報の排除(自分にとって必要な情報だけ取り入れる)などの行為を取る。そして、そのぶんだけ人的コミュニケーションも地方でのそれに比べると抑えられてしまうので、「都会の人は冷たい」というイメージを形成する、らしい。

 なるほど、この話でいけば、iPodの例は上の「情報の排除」にあたりそうである。イヤフォンを付けるという行為は、自ずから自分の外にある世界とを遮断し、自閉性を獲得する。

心理学とは畑を別にするが、日本哲学者の鷲田清和の身体論なども、まったく同様とは言えないが似たような話を展開する(注3)。

(注2) 渋谷昌三「面白いほどよくわかる! 心理学の本」(2009. 西東社)68-9頁。
(注3) 鷲田の身体論からのアプローチも大変に興味深いが、本記事では便宜上省略する。

(3)から入るので次につなげます~(=^・・^=)

misty @

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「ブランドを示す、ということ」の再思考


*******
こんばんは、せかいのみなさま、mistyです。
「迷惑メール防止対策の法整備とその国の今までの対応への両方へのギモン」の続く前に、またコーヒーブレイクです笑

どんだけコーヒーブレイクやってんだ(笑)
まぁしかし上の迷惑メールのトピックは個人的にも相当シリアスに問題を捉えてるので、おそらく続きもそんなにしない内に投稿させます。というかします、中途半端なトコできったし。

*********
(コーヒーブレイクに入る前の日記)
この1週間体調面的にもかなり弱っていたんですよ。 でも、久しぶりにバイトに入って、そしたらまだ不安定になることもあるにせよ何とか店に相当の支障も来すことなく働けました!!( ^)o(^ )
大将から、「家にジッとこもるってのも体に悪いから、まぁ少々キツくっても大学の図書館に行って、疲れたら辺り歩いて太陽の光なり浴びるなりして、あとは飯をたんと食え!」 と暖かい言葉。。。。あうぅっぅ・・・。(:_;)大将、本当にありがとうございます・・・涙
はやめに上がらせてもらってその後、「This Is It」を先輩と観ることに☆ 中洲200911132056001.jpgの東洋劇場、はじめて行きました!!
 

館内の写真♪おもわず写メ♪www



200911132056000.jpg
東洋劇場に一歩立ち入ると、そこは待ってましたレトロの世界(*^。^*) 古時計一つとっても19世紀末に作られたシロモノだそうで、オーラも大変良い。とってもオシャレな雰囲気でした。
博多が現代化に流される傍ら、未だに守り続けている、「古き善き日本」の一つの姿・形。 本当に、大切なことだと思う。


しかし、なんとこともあろうにこの私、
人生史上初、スクリーンにて1時間爆睡という事態をやらかしてしまったのであった(爆)・・・親父にも殴られたことないのに!(それは何回もあるけど)
故に「This Is It」の内容が頭に残っていない・・・むちゃくちゃ悔しいというかむちゃくちゃ空しい。 東洋劇場のあまりの心地よい椅子のせいか、マイケルジャクソンのビートの心地よさ故か。
なんか知らんけど、何が何でももう一回、絶対観に行ってやるという熱気でいっぱいである。笑

**************

「ブランドを示す、ということ」の再思考
前回、「ブランドを示す、ということ」というエッセイで、いわゆる「ブランドマーク」を身に(この場合、物理的身体にという意味)つけることの意義、ということのテーマというか、それに対するちょっとした批判をした。

前回の記事内容については以下参照。
http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/24/

さて、これに対して、コメント欄を見れば分かるように、「フルハウスの嗤い」開設以来はじめて記事内容に対する意見らしい意見があった。めちゃくちゃうれしいどころではない!笑

その指摘内には(そこのアナタ、ごめんねww これを記事にするに至った理由を書くには避けられんけもうちょっとガマンしてくらはい!不適切だったら内容表現変えます<゜)))彡)、反論・ギロンという形では提出なされていないものの一部分とても核をついた鋭いものがあった。

僕の記述内容の一部に対する、「ステレオタイプ」という見方・定式化である。
(ちなみに、指摘を意見として敢えて(笑)取り上げた場合、それ以外の部分は僕から言わせれば全く見当外れというか否定の方向に働かせる文章形式にはなっていなかったので、本稿からは対象外とする。)

そうなのだ、確かに僕の考えはある意味「ステレオタイプ」なのだ。
その意味内容を、もう少し明確化させることによって、私が提示する「ブランドマークの意義」の射程を改めて思考して、簡単に提示したい。
ゆえに、エッセイから水準をちょっとあげるため、時事問題にカテゴライズさせた。  

個人名を匿名性が付着している形とはいえそれを多々取り上げるのは望ましくないので、以下、述べていく。


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としようとしたのですが、スミマセン、疲れと眠気により、ここでストップかけておきますww

****************************
しかし同日中、僕が映画館で大爆睡したせいかまだちょっと余力があるので、やはり少し続けます笑

1、前提

要するに、このブランドを身に付ける云々で僕があーだこーだふにゃふや考えている裏には、

「南北問題」という極めてクラシカル(ゆえにstereotype=定型)な、しかしだからこそ同時的に大変重要でもある問題がある。

※ちなみに、中卒以上の方で「南北問題」の意味内容を簡潔にでもピンと分からない人なんていないと思っていますが、万が一おられたらそれは大変危険です。 これからの社会問題にぶちあたっていく場面で、南北問題が抱える諸問題は避けて通れないですから!

ことに経済面・界においてのそれは、窮極的に貧困層VS富裕層、の対立の問題に置き換えられる。あくまでも一般的概念としてのそれである。

経済世界においては、近代初期からほんの数年前まで、資本主義が支配的な立場をとっていた。しかし、資本主義が妥当する国・地域の中でも、そこにレッセフェールなどの理念を掲げてあてはめなどしたら実質的な経済格差がますます広がってしまったという歴史背景もあったということを忘れてはならない。

19世紀中葉から、おおよその帝国主義を採択していた近代西洋諸国(英・仏・独・西などが典型例)は経済政策に於いても資本主義を掲げ、そして未開の地域へ植民を進めていった。
20世紀の2つの世界大戦を経験した後、世界は3つに分類された。一つは民主主義・資本主義がひとつのメルクマークとなる「西」側陣営、突出してWW1後華々しく登場した、そして西側陣営に時に対抗するものとしての「東」陣営、そしてインドや中東・アフリカ諸国をはじめとする(帝国主義からの断絶を宣言した)自国民決定主義に裏付けられた「第三世界」の3つである。

いつのころからか、先進国と発展途上国における一般的な経済格差が顕在化しはじめたのは、筆者の記憶力の無さゆえ今思い出せないが、とりあえずそうした世界が3つに分かれた頃以降とここでは定義する。

しかしこの経済格差は、先進国と発展途上国との間に様々な亀裂をもたらすに充分だったのである。
私はことに、民族思想や宗教観の大きな違い・対立もあいまってこの亀裂をさらにややこしくして、両者にとってなかなか解消し得ない大きな「壁」を形成していると考えている。
今でもこの全体としての南北問題を是正・解決しようと、多角的な視点から挑戦が行われてきているのが、その現在に至るまでの効果はやはり相対的に厳しい。解決としては程遠い。

さて、世界的な規模でみたときに、経済格差(貧富差)の問題はこのような形で提出されることとなる。
それは各国が自民族主義を経てナショナリズム(自分達の国のことは、その国内で国民・人民などの社会的構成員のみが主体となって政治経済を決定していこうとする理念)を採択した上でのことである。しかし、このナショナリズムは国それぞれの尊重を認める方向ではきわめて合理的なものであり、それ自体に大きな罪はなく、むしろある地域がある地域を一方的に啓蒙支配していた(帝国主義)時代もあったという歴史観を踏まえれば、それからの大きな脱却という意味合いに於いても、それは評価されるべき事柄であった。
観念的にはそれぞれの国に、主権がそれぞれ平等に与えられたのである。

しかし現実に至っては、戦後の時点での物的・文化的基盤の差異が各国間に於いて前提として在ったのは言うまでもない。しかしナショナリズムを各国が推し進めると、当然にスタートも違えば各国が掲げる政治や経済の理念も違うのだから、結果として経済的成果が大きく異なることも、これまた論理必然的に当たり前と言えば当たり前である。
アメリカもしくはソ連をはじめとする(第一・第ニ世界の主導者である)文字通りの「大国」が戦後から10,20年して気付いたのはそういうことであった。
また、第三世界の(インドなどは農業工業資源が豊富だったことなどもあり例外かもしれない)国側も、この各国間における貧富の差はやはりおかしい、なんとか是正したいと自ずから希求をしたのである。

しかし、いわゆる「相互の歩みより」は、前述したこともあり、その進展はなかなか望めなかった。
結果としては、この世界規模における現実としての貧富差は、事実のそれとしてあり、「なんとかしたいんだけれどもなかなかなんともならない・直ぐには、一義的に解決できない」問題として提起される形となっている。

2、本論

さて、こうした前提を踏まえて、改めてブランドの存在、その出現がもたらす影響を考えてもらいたい。
基本的にブランド(brand)とは、ある定義によると「特に、名の通った銘柄」(広辞苑[第六版]、2008,岩波)である。
銘柄に於いて名が通るということは、
1、歴史慣習上多くの人から昔から支持されてきている物
2、経済面においてその顧客を多く獲得している物

などが考えられそうである。ことに、2の意味におけるブランドは、先進国における資本主義由来の物が多くを占めていそうである。
確かに、自国内・同様概念地域内で、資本主義を背景として自ら勝ち取った社会的地位を声高にあげることには、なんの問題もない。それこそ、資本主義制度が事後的に認めることとなった結果の一つでもあるからである。

しかし、現代におけるグローバリゼーションの流れを無視してはならない。 ソビエト連邦=超大型社会主義国の崩壊後も、アメリカは世界システムのそれとして支配的な立場をとってきたかのように思えたが、00年代に入り、自国内に於ける深刻な経済問題を抱えてしまったことを等に、もはやアメリカ独立支配体制の構造をこれからの世界にあてはめるのは無理となった。 アメリカが以前のような強さを取り戻せていない中、他国のそれぞれの強さをもって、全世界各国に共通となっている問題をそれぞれ各国の協調の視点から解決していこうという理念型がグロバーリゼンーションの一つの帰結としての考えである。それはナショナリズムからの一歩進化・前進した考え・理念だと評価されるべきであると、私は主張したい。

そうした動きを見る中、古典的なブランド志向主義を放任するのは全く望ましくない。もうそれは「過ぎた栄光」「一度冷たく見るべき考え」だとしていかないと、いつまでたっても世界が提起した世界の問題は解決し得ない。

世界問題を、解決しなけれればならない、というこう漠然とした主張には、それがあまりに大きすぎるテーマ設定のせいか、「なぜそうしなければならないのか」の立証部分については争いが激しくあり、確かにその根拠づけを見誤ると、間違った方向にいきかねないだろう。それでもこの考えが多くの人に支持される窮極の理由の一つには、

「世界問題によって世界そのものが物理的・観念的に崩壊してしまうことだけはなんとしてでも避けたい」

というのがあると考えられる。それは妥当であろう。 個人が生きる権利を主張するのは、「死にたくない権利を持ってる故だ」のと同じくらいの、確定である。

このような観念を踏まえ、ブランド志向主義(者)に対しては、私は以下の要請をしたい。

1、前出の通り、クラシカルなそれは「過ぎた栄光」としていったん止める
2、一連の南北問題とグラーバル化が提起する問題を解決する上で有効的に働く、新たなブランド志向主義の提唱・実践

例えば、ヴォルヴィック社。ヴォルヴィック社が販売するミネラルウォーターは、ブランドとしてのステータスを占めている。
しかし、ヴォルヴィックの水が他社の商品よりもなぜ一段階高く価格設定されているか。それは当然、品質へのこだわりの結果でもあるのだが、実は、アメリカがサブプライムローン問題を抱える数年前から、そのヴォルヴィック社が得た利益の一部は、ユニセフを通して、アフリカ地域を始めとする発展途上国の貧困層の事業資金に回されているということをご存知であろうか。
知らずに、買って飲んでいた方はHPへGO!!笑 Volvic Official Site

近年はヴォルヴィック社などを見習って、日本でも、利益の一部を寄付金として貧困地域の活性化としての資金に回すという形態を持つ企業がかなり増えたが、それは前進的にヴォルヴィック社などの活動があって故だということを忘れてはならないだろう。

ほんの一例かもしれないが、これは、新たなブランド志向主義と定義づけてもいいんじゃないかと私は思っている。

能力故、他にどんなブランドに対する志向の裏があったりするのか観念できないのだが、社会に生きる我々としてはそういった大きな問題が抱えているということを意識しつつ我々らしく生きてみる、というのも悪くはないであろう。
ちなみにこういった文脈は時たま、物質主義への批判としてしばしば捉えられる。
ハッキリいって、私自身は物質主義に対して一概には否定の評価をし得ないので、それが正しいのか正しくないのかはよく分からない。 ただ、確かに、思想学からみた「物質主義批判」には、これとリンクする箇所も多々あるのかもしれない。しかし本稿では思想学についてのそれには思考を及ばさせなかったので、省く。

3、結論・結びにかえて

言うまでもなく、つまりは個人主義であってこそすれど利己主義に走るな、というメッセージである。両者は同じようであってマターク違う。

日本は政権交代を選択し、新たに国際世界に於いて一定程度のリーダーシップをとることを掲げた。そんな時代だからこそかもしれない。 変なエリートづら、とすり替えられるとこれまた一番面倒なのであるが、そうではなくて国際社会に強く貢献していける国民としての我々を考える場合、ある程度の責任感と自信を持って、われわれ一人ひとりがそういった社会に身を投じて生きていくのは、とてもカッコいいし、意義に溢れている。

僕の周りは幸いにも、賢くてそうして同時に優しいやつばかりである。南北問題が抱える諸問題に、いずれはそれと直面しなければならないような友達ばっかである(オレはそんな所まで上り詰めるかほとほと分からない・・・orz)。

ひとつ、身の回りにおける小さな事柄を取り上げて、そこから浮かび上がってくる、南北問題が本来的に抱える深い諸問題や、グローバル化の流れを提示して、それに対してどう私たちはあるべきか、簡単に一つの示唆を述べた。

日本の発展を考えながら人生を歩む際にも、世界情勢を考えながら人生を歩む際にも、

さぁあなたはどう生きる? <゜)))彡

とだけ、メッセージを残して本ひとまず筆を下ろすこととする。


でわでわ、ご意見ご感想ご批判、いつでもどこでもお待ちしております♪

misty @

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特定電子メール法等の制度へのギモン


[特定電子メール法等の法制度及び行政処分へのギモン]

0.
結論から言うと、特定電子メール法等の現状の法制度及び、それに対応する行政処分の状況には少しばかりの不備があるを言わざるを言えないと考えられるので、私ことmistyはこのブログを投稿した後関連する総務省・消費者省庁どっちか(或いは両者)にかけあってみる。(笑) イ〇イさんみたいだなww

まぁあと1時間くらいは時間の余裕があるので。
オハヨうございます、せかいのみなさま、mistyです。 私なりの順序でblog投稿は進行していきます。笑

1.はじめに
(1)ことのはじまり
これは私の今の状況なのだが、とにかく私のyahooメルアドに対する迷惑メールの数と質がハンパない!!
見なければいいという話でもあるかもしれない。しかし私がこれから述べようとすることは、そんな短絡な話では解決しえないという考えである。
yahoo!側の措置もあって、予め特定された迷惑メールはボックスに回収されるので、基本的には見ることもない。しかーーし、措置側の機能不全or僕がうまく使いこなせていないのか(重過失までとはいかないと考えられる)はともかくとして、迷惑メールでないメールがそっちのボックスに回されることもしばしばあるので、そんな時は仕方なくそっちのボックスにいってからメールを開く(だってそうするしかないじゃないですか(゜-゜))。

要するに、気分を害する(精神的損害)し、「羞恥心をリアルに害されてる!!」と思うのである。その友人のメールを読むためには、ズラリと並んだ迷惑メールの大変気持ちの悪い、「件名」にどうしても眼は一瞬的にせよ向かってしまう。これを防ごうとしても、物理的にはまず不可能である。

「件名」レヴェルでのわいせつ度もハンパない。酷い。

(2)経過
で、まぁ友人のパソコンの状況も、大概はそんな感じである。迷惑メールが迷惑ボックスにずらり。で、やっぱ聞いてみると、「まぁいい気分ではないよね!」とハゲドウ(激しく同感の意味)。

(3)まとめ
つまり私がこれから述べたいのは、これらの迷惑メールに連関する我々を取り巻く状況が、「法的(legal)」レヴェルで深刻な問題となっていないかという提起である。
私や、その友人たちは、随伴する形で、その「迷惑メール」(または、その「件名部分」)を強制的に見ることになる。そして、一度や二度ならまぁいいかで話はすむものの、何度にも渡ると先ほどのような「精神的損害」と「羞恥心損害」を心理的に負う。 
不法行為が成立しているのは明らかであるし、また刑事的にも例えば「公然わいせつ罪(174条)」を観念することはできないであろうか。
そうしてそうした構成が考えられるうる限り、民間団体などに救済を求めるほか、国レヴェルでの救済措置に訴えかけるのも十二分に考えられる。そうした時、今まで国はどんな対応をとってきたのだろうか、それは十分なものであったのだろうか。

以下より、これらについて、粗雑な所もあるかもしれないが、検討していく。

2、不法行為について(民事)
aこれは、特定メール法が、2条において「特定メール」の定義づけをし、続く3~13条で、国がそういった「不法行為責任者」側に対する、場合に応じての措置を命ずることができる規定を置いている。

b先ほどの私の事例に関して言うと、yahoo!は迷惑メール防止対策の一環として、JEAG(JAPAN E-mail Anti-Abuse Group)と提携を結んでいる。このJEAGという企業が迷惑防止メール対策として設立趣旨に掲げている活動目標を、HPより以下掲載する。

以上の趣旨に基づき、迷惑メールの撲滅のために、サービスプロバイダ同士の協調、迷惑メール情報の共有、迷惑メール防止技術の円滑な適用推進を目的として、
「JEAG(Japan Email Anti-Abuse Group)」
を設立しようとするものであります。

 

 具体的には
- 迷惑メール対策における参加メンバ間の統一した方向性の模索および実施
- 迷惑メール対策技術についての実証実験
- インターネット利用者に対する啓蒙/教育の共同実施
などを当初の目標として活動します

これから読みとれるのは、あくまでJEAGは利用者に対する注意・勧告や、状況を改善していく解決方法を模索するに留まり、法的な権限は与えられていない。
私が解決したいのはあくまで法的方法によるものであり、少なくともJEAG自体が現在の段階で取る活動は、利用者側・企業側に対する「改善への呼びかけ」であり、法的な効果を供わないため期待はかなり薄い。

c. 2aで触れた国が特定の不法行為業者に対して措置を命ずることができるという文脈だが、それでは現在国は今までどのような行政処分を行ってきたか。これについては、次の3章のわいせつ罪等の犯罪が成立し得ないか(刑事)の中で触れることとする。

(時間のため、次投稿へ続く)

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

HN:
misty
年齢:
28
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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