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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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iPod片手に歩く若者達 part2

本稿に入る前に。
 今日のお昼、虫歯の神経を抜いて蓋をしてもらったんですが、何かが悪かったのか今口内が痛くて痛くてたまらない。発熱してるし(_´Д`)ノ~~ バイトを急に代わって下さった先輩、本当に申し訳ありません!m(__) 何故こんな所でも謝るか、それは僕が今からバイトを代わってもらってるのにも係わらずブログ投稿なんてするからです!! 痛くて痛くて眠れもしないので、親指だけせめて動かさせてください!!(切実

さて。
本日投稿した「「わたし」の存在の消去」の後書きも、させて下さい。(苦笑)

@「わたし」の存在の消去 あとがき

 なんでこれを記事にしたかといったら、一番の理由は自殺の問題をむーんと考えていて、それと関連付ける方向にも持っていきたかったからです。

今年、小学校で友達だった同級生が引きこもりの挙げ句、舌を噛み切って自殺しました。ミスティ自身も神経症を患っているからかどうかは知らないけど、「自分を殺したい」とシリアスに考えることも何回かありました。

 でも、なんか生きてて辛い・苦しい→じゃあ自らナイフを向けよう、というのはやっぱ違和を感じてどうしようもありません。
「わたし(自分)」の存在というものは、記事中で述べたように、そもそもが有り得ないくらい脆いものなのです。   早いが話、自殺を考え始めた人は、なんでもいいので精神世界(スピリチュアリズム)の簡単な本を眺めてみてください。 スピリチュアリズムの支配的な見解によれば、私たちの身体が滅んだ後も「意識」というものは依然として残り、別の身体なりに入りこんで新たな道を歩むのだそうです。そしてどうやらそれが半ば連鎖的に続くみたいです。その連鎖的な意識を特に「霊性」だとか呼ぶみたいです。

 ミスティの記事はこの精神世界からの解答とは違う角度によるものです。私たちは先にも述べたように「わたし」以外の人だとか自然だとかとの関係性の中で「生かされて」いる。それは言い換えれば、この「わたし、自分」という存在は他者からの非断続的・瞬間的接触を媒介とすることで辛うじて成り立つものであり、決して積極的・自発的に見出だされるものでもない、と思うのです。 だから、自然(natural)に身を任せるならともかく、飛び降りや首吊りみたいに、人為的(artificial)にわざわざ消去するような代物でもないと思うんです。(苦笑)
 ミスティなんかはハタチ超えていながら人一倍繊細だったりします。わけわからん事に対してわけわからん程悩んだり苦しんだりする時があります。でもなんつーか、そういう苦しみは僕だけに固有のものではなくて、寧ろみんながそれぞれ抱えている「わたし」という意識の付随物だと思うんです。 心が苦しい苦しいと悲鳴を上げているのなら、骨折ったら入院するみたいに、治療すればいい。

 …やはり話はまとまりに欠くので(笑)、真剣に悩んだりまたは興味がある人などいれば、「軽い」精神世界の読書をオススメします。軽い、のがポイントです。入門みたいなのとか、漫画でもいーし。世の常、どの分野でも樹海は待ち構えているので(笑)

※ちなみに、僕の考えでは科学とスピリチュアリズムは対立するものではなく、共通するものもかなり多く見受けられることだけを伝えておきます。
やっっーーと、本記事じゃ!先輩スミマセン!(しつこい)


@iPod片手に歩く若者達 part2

パートワンまでの区切りが歯切れの悪いものであったので、もう一度ここで簡単に話の流れを整理しておきたい。

 iPodをはじめとする携帯音楽機器を持ち歩く人々(特に若年層)が、ますます見受けられるようになったが、この社会的現象は何を意味するのか。それを文化的側面・道徳的側面・法的側面(注4)から順に検討していくのだが、道徳的側面から見た時は日本の小説家吉本ばななの表現が特徴的であった。ばななの問いかけは、いわゆる「公私の分別」という基本的な道徳的要請であるとも読み取れるかたわらで、それだけでは説明がつかない違和を導く所から、別検討を割こうとしていくのがパートワンまでであった。以下、記述をする。

 ※注4 「道徳と法の区別の限界」という形式で、主に哲学・法学から論じられる事が多いように、この両者の区別は簡単ではない。しかしここではさしあたり、法=法律すなわち特定の社会に於いて権限を有する議会によって制定された実定法、の世界で論じられるべき事柄を法的側面とし、個々人が抱える道義的心理の在り方とは一応の区別をしておく。


(3)生産的空間と非生産的空間
 私的/公的、という便宜上の区別のみでは足らない、ということで、労働世界を基本においた「生産の場とそうでない場」を話の引き合いに持ち出したい。
 そもそも、生産=労働の場、というものは歴史的に生まれた産物であった。18世紀後半の産業革命が一例である。イギリスに起こったこの現象は、一般的にはそれまでの手工業制(つまり家の中でも仕事ができる)からマニファクチュア(機械工場制)への大胆な転換、であった。この産業上の転換は、生活上にも影響をもたらした。より効率的な労働による生産を確保するために、当時のイギリスは生産の為だけの場所(工場など)を作り、片一方で非生産的空間をも同時的に作りあげた。
 都市(=第二次産業を基盤とする総和的場所)/村落(田舎、第一次産業を基盤とする総和的場所若しくは家事労働等の非社会生産的場所)の分化と促進は、このような時代背景のもとに生まれた。
 第一次産業革命がもたらした「恵み」は19世紀に入ってからイギリス以外の欧米諸国にも波及し、そして開国後の日本にも産業圏・文化圏・生活圏その他諸々の領域において導入された。

 話を元に戻そう。典型的な都市圏を背景とする空間では、なお一層生産的空間とそうでない場所の区別が要請される。理由は簡単だ。そのほうが効率的だからだ。  例えばメトロポリス東京などではこうして、あのドーナツ化現象が生じたりしている(注5)。
さて、家―街―仕事場、という三者を想像して欲しい。既述の生産的空間論を当てはめると、

非生産的空間―「?」―生産的空間
、の図式になる(注6)。

(注5)もうこの用語法自体がすでに死語ならぬ死法となっていたりするのだろうか…。
(注6)あくまでも「非」生産的空間と呼ぶからといって、家事労働等から生まれる産物をそれとして否定する方向に働かないことに注意する必要がある。ただ単に、家事労働は社会的には生産としては一般的に見られない、というだけである。

 「?」、これを私はグレーゾーンと呼びたい。非生産場所と生産場所には、距離的・システム的相違があるが、例えば普通の会社だとか学校だとかでは、必ずこの両者を行き来する時にグレーゾーンに入りこまざるを得ない(家で宿題をする、とか、職場で休憩する、とかの場合は例外として考察の対象外に置く)。
 生産的空間=仕事場・勉強場では、これまた仕事場の雰囲気といった言葉が語るように、やはり非生産的空間=マンスリーマンション・家とは一定程度区別されるべき「なにか」がある。会社勤めを日常に固定化したお父さんも、その昔入社したての頃は玄関先で「よっしゃ行くぞ!」と意気込んでから(程度の差はあれ)、一歩を踏み出したに違いないのである。

 そして、「街」の空間が支配する移動手段としての場所は、まさにそうした人にとってグレーゾーンであった。ここには、2(2)で述べた公的領域における公共性を帯びた道徳が必然的に要請される…といった事柄が多いに関与してくる。

Aちゃん(大学生・電車通い):今日は大嫌いな科目が5限に入っている…orz

(電車の中に入る)

A:(はあ…この、なんともいえない張り詰めた感じ、嫌なんだよなあ…あたし的には小テストの勉強もしたいっちゃけど、今日はやけに人混んでるしそうそうプリントなんか出せないよ…)


 ※グレーゾーンにて今日も疲れるAさんのたとえ話にちょっと関連したことを言うと、電車内の広告はこうした都会人の「行き場のない」心理状況をうまく利用した、という有名な説がある。何かと目のやり場に困る人々は、文字が書いてある一枚の広告を、その通勤時間だけずーっと眺めるわけだから、それは宣伝としては有効な戦略である。


(4)グレーゾーン
 まさに、このたとえ話が示す電車内の風景は、グレーゾーンに放り込まれた人々達の「成れの果て」なのである。非生産的空間から生産空間へ、生産的空間から非生産的空間へ移動するとき、我々は往々にしてこの公的領域「でも」ある街、を通る。我々はこのグレーゾーンに目的でもおかない限り(街でお買い物・デート、車内でアルバイト等)、全く何をしていいか分からない状況に陥る。

そーこーでー(!笑)、
iPodは成れの果ての人間達へ贈るべきうってつけの商品へと昇華するのである。
 グレーゾーンを排したいのなら、家(=私的領域)から出かける時から音楽を聴いていればよい。そうすることによって、適度に公共に溶け込みながら私的な場所と時間を確保できるのである。
 2(2)で既述したように、イヤホンには外部遮断の機能がある。つまり公的領域においても、完全に私的領域を確保できることになる。 音楽を単に聴いたり、はたまた聞きながら軽いお仕事をしたり。 個人の自由(注7)の尊重という、現代の時代背景にもピッタリである。

 小説アムリタに出てくる「町」とは、公的領域、ではなかった。公共性を帯びながらなお生産的空間と非生産的空間の中途にある、ブラックホールのようなゾーンを持つ場所ないし空間であった。
 「のっぺりとし」た顔が多く出現しても、それはこうした状況を鑑みる上に置いては致し方ないことだろう。中には本当に野生の目を忘れた、つまり当該社会から排除される真性引きこもりや精神病患者はいるが、それはあくまでも例外である。



3 民事法・刑事法の世界

実定法とその運用機関である実務の世界では、問題はある程度類型化しうる。

(part2に続く)

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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