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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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「わたし」の存在の消去


 せかいのみなさまおはようございます、ミスティです(´∀`) お久しぶりなのに、携帯から投稿です(笑) 携帯で英字を打つのはなかなか慣れない→ミスティとカタカナ表記、なわたくし\(^O^)/


@「わたし」の存在の消去
 さて、「私は1人で生きているのではない」、と、プラス方向でドラマや小説などでよく出てくる概念。これをちょっと突いてみたら、「わたしの存在」の危うさが案外簡単に出るのだなあ、と前々から思っていて、iPod~パート2に入る前にそれに関連した小咄を入れておきます(。・ω・。 (笑)

ええとですね。
 話は簡単で、「わたし」というものは、いくら主観的に生きていようが(つまり内心で私は生きているんじゃあ!といくら強く思っていようが)、普通に客観的に捉えてみれば、「風前の灯火」のように薄皮一枚で辛うじて生きているようなもの、なんだなあということ。
 例えば。ミスティが特段誰にも告げずに1人ふらり旅を敢行したとしましょう。たまたま携帯を持ち忘れたことにします。
大好きな山(笑)に数日の間、野宿してみる。携帯を持っていることが現代社会においては、「わたし」の存在を知らしめる一大道具になっている。だから、家族や友達からは、ミスティは生きているか死んでいるか分からない、いわゆるシュレーディンガーの猫みたいな存在にたちまちなるのですな(*´∇`
 ミスティという名前を貼りつけられたこの身体は、旅中では確実に生きて存在しています。ただし、それは条件付き。主観の世界において、ミスティなる身体と意識が存在しているに過ぎません。はたから見れば(=客観的には)、ミスティは死んだも同然。

 恐らく1週間もたてば家族が警察に捜索願いを出しそうです。そして、捜索段階を経てミスティは警察に保護される。(笑)ある1つの社会制度運用によって漸く、「わたし」という存在はあらためて確認される。そして、「わたし」は遡及的に、最後に生きていたとされる時(=たとえ話で言えば、旅に出る直前時)の「前のわたし」と否応なしに連結される。そうして「わたし」は辛うじて「その間も生きていた」のだ、という客観的証明に繋がります。


人間の意識なんて、そんなものみたいです…(_´Д`)ノ~~。

 よくよく考えようが考えまいが、私たちは常にそのような意識下で生活を送っている。わたしの意識の元(=主観の世界下)で存在の確認ができるのは、一番は他ならぬ「自分」。それから、今ここにおいて五感を通じて感知する限りの他者、のみです。少し離れた(場所的・時間的離別)家族や友人の安否なんてのは本当は、私たちは常に知り得ない。こうやって僕が1人下宿先の一室にいる限りは、僕の家族や友達が生きているのかどうかなんて事実知りようがない。もしかしたら生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない(その意味では、わたし以外の他者はみんなシュレーディンガーの猫みたいなもんです、猫だらけwww)。 だけど、私達の無意識という奴は、とりあえず他者を自己の意識の中に「生かして」おく。たとえば、もし僕がリアルに家族の安否を気にすれば、まず一番に取る行動はやはり携帯電話を手に取ることでしょう(´Д`)。 家族が電話に出たら、無意識は「ああやはり生きていたんだな」と認識し、直前の家族が生きていた時とすばやく結び付ける。「すなわち家族は生き続けていた」という証明、こんな荒技を私たちは瞬間的にしかも日常茶飯事にやっている。

 とりあえず死者が蘇るという現象は、現代社会においてはアウトサイド、つまり偽だとか迷信の側の方に位置付けられています(しかもかなり強く)。だからわれわれは、その意識において他者をとりあえず生かしておく。

 この「わたし」という存在は、主観的に消去させるまでせずとも、常にその存在の危機と隣合わせになっているようです。だから、自殺なんてしなくても、「わたし」なんてものは元々が物凄くもろい。言い換えれば、言葉は悪いですが、わたしなんてものは簡単に殺せる。飛び降りなんて勇気出さなくても、ケータイの電源をポチっとな、オフってちょっと社会から離れれば、わたしはたちどころに消去されます。お手軽、わたしの消去法!(爆)(笑)

 よのなかで一番自分勝手なのは自分でもなければ社会でもない、私たちのこの意識のような気がしてきました。(笑) 私たちの意識は、他者というかけがえのない存在そのものを常に生死の天秤にかけている。基本的には「生」の秤に置いておくけど、ちょっとしたことですぐに天秤を揺らし、下手をしたら「死」の秤に載せる。 多くの人が「死」の方に載せだしたら、その他者はとりあえず「死者」と視なされる。その他者がいくら主観的に生きていようが、客観にはあらがえないみたいです。

それが僕らの作った制度(意識的システム)。
 
 この制度のデメリットを挙げれば、無意識が他者の存在を一応生かしておくことによって、私たちは以前よりもより多くの他者との関係の中に放られざるをえなくなった。 グローバリゼーションの拡がりはその典型例ですね。ほんの500年も前だったら、日本人は中東地域の正確な実状なんて知りもしなかった。だから、中東で戦争が起きようが起きまいが、それはそもそも私たち日本人の意識の「外」にあるので、彼らと関係性を持ちようがない。だけど今日国際社会を生きる現代的日本人は、いつテロリズムが世界全体を席巻するんじゃないかとハラハラしている(※別にハラハラしてない人はそれでいいんです。一般論の話です)。

 僕に言わせれば(爆弾発言もいいとこですが笑)、本来的には日本人と中東人には関係がまっっっったくない(文化の輸入だけ例外)。そもそも意識の中に、彼らと彼ら固有の生活圏を生かしておく必要がない(石油なんて輸入せずとも僕達昔から石炭だけで頑張ってきてたじゃん!)。 中東=未知の世界でのテロリズムの情勢を現代的日本人は意識しているがために、偉そうなネーミングをつけては仕事にしたり行動したりする。でも、それは杞憂に過ぎないとも言えるんじゃないか、と思うんです。 大地震や雷は完璧には防げない(「被害」をミニマムにすることは可能でもゼロにはしようがない)。同じく、テロ攻撃も本来的には完璧には防ぎようがない。

ならいっそ、そういう事を意識下の中に入れるのやめて、したらもっと他分野にメス入れれるじゃん! て感じ。

 責務を果たそうとする(平和主義を掲げる日本のこれからの行動?とかかな)姿勢はカッコいいけど、その姿勢を貫こうとするあまりがんじがらめになる必要もまた無い。

 いいじゃん。人間は、どこまでいっても人間だよ。人間には出来ないことを、人間が率先しようとしなくていいと思う。諦めとかペシミズムとかじゃなくって、前向きな方向で。脳という器官はよく暴走するけど、妄想と現実への効果の違いはやっぱり見極めなくちゃいけない。私たち人間がやることを、一歩一歩、そのままやるだけだと思います。

そんなこんな。「わたし」の存在の消去可能性の容易さの話が、こんなに膨らんでしまた(笑)

ミスティ @

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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1989/03/19
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
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