お久しぶりですmistyです!
ここでは、一時的にですが、大学院の修士課程でやろうと考えている、一連の論考を、連載形式で荒っぽい形で残そうと思います。
毎回が紆余曲折になると思います。その上、自分自身が理解していない議論や思考と常に戦っていくので、読むのが難しいと思われます。
しかし、テーマはお堅いにしろ、僕自身はとてもこれからの現代社会に欠かせない作業だと思っています!
その理由(動機)は、この第一回や、後々に触れていくと思います!
それではいきます!
「主権」概念の消滅を目指して(仮) 第一回
本論での著者の出発点は、「これからの現代社会(世界、特に国家)」を考えるに当たり、「主権」という概念は不要なのではないかという動機にある。不要どころか、破棄すべきだとさえ思っている。
それは何故か。
思うに、「主権」という概念は、端的に言ってしまえば、「近代」(modern)の産物なのだ。
そして、私たちは、今、近代の後、すなわち”ポストモダン”の時代を生きている。
近代がなき今、過去の遺物に拘泥することに、どれほどの意義があろうか?
むしろそれはまた、弊害をもたらしはしないか。
もちろん、これは大雑把な理由である。何故に、近代的だというのかは、本稿がこれから明らかにしていくはずであるし、また破壊すべきまでなのかどうかの判断も、性急に求めることは当然できない。lこれからの議論次第にある。
さらに付言すれば、現代がポストモダンであるかどうかも疑わしい状況である。それは、学会が、「ポストモダンをやたらと主張したがる輩は、ただ単に時代の切断を強調し『新しい時代』だといいたいだけなのではないか」と批判されているところからも明らかである。
ここで、筆者はハッキリと明言しておく。 現代は、まぎれもなくポストモダンである。
その論拠は何か。
”ポストモダン”に人々が抱くイメージにも色々あるが、筆者は、「現代、ことに1970年からの社会にあたっては、それまで(=近代)の思考枠組みやパフォーマンスは使いにくくなっている」、といった意味合いで時代の切断を認識点としている。その認識を大きく与えてくれたのは、東浩紀と宇野常寛だ。
現代がポストモダンだと断じる論拠は、従ってまた別の個所で述べることにしよう。
第一回では、筆者が何故に、「主権」概念を近代的だととらえるのか、それを大雑把に述べよう。
その細かな論証については、また第二回以降の探求課題になる。
思うに、「主」権とは、何よりもまず、メタレヴェル=超越論的な視点である。そういったメタレヴェル性は、果たして現実の国家運営を鑑みた場合、機能するのであろうかというのが第一の私の疑いである。
第二に、そして私は思うのだが、「主権」とは何よりもまず「国家」主権のことを指しているのではないか。そして、その国家主権が(どうしても)意味しているのは、専制君主国家としての主権なのではないか。この二つが私の疑義の出発点である。
おそらくこの出発点は、のちの探求により何回も何回も修正され、場合によってはとん挫するか、別の方向にいくだろう。そのことは初めに断わっておきたい。
①主権の「メタレヴェル性=超越論性」 / そのメタレヴェル性の実現可能性(若しくは不可能性)
②主権が前提している「国家」とは、専制君主国家のことではないのか
まず、①の点から長い論証をしていかなければならない。 はじめにいっておくと、この探求は、半年の時間を積み重ねて、暫定的には終了しているのだが、まだツメが甘い。 後々、②と並行しながら加筆することになるだろう。
それでは、第二回以降は、とりあえず「主権」のメタレヴェル性=超越論性を、主にカール・シュミットの一連の著作と、ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』『アウシュビッツの残りのもの』『例外状態』から素描していく。
@ misty
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