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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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<教室的なるもの>

こんぱら!mistyです。

今回は、「思想・哲学」のテーマで! 人が<教室>に居るときの”生”、そのことの意味を考えてみました。
 おそらく、<教室>というのは、ほんとにたくさんあるんだと思います。ある意味、以下で述べる<教室>というのは、一種の権力支配装置です。 権力といえばミシェル・フーコーという感じな気もしますが笑、彼を引用することなどまだまだできませんでした(>_<) おいおいできたらいいな…。

@<教室的なるもの> 

<私>たち、それぞれ肉体に宿っている諸々の意識、それは生きている=存在している。簡単にいえば、私たち人間は通常の社会の中でごく普通に生きているということだ。この省察では、それをとりあえず大前提の事として仮定しておきたい。

その上でである。その上で、<私>たちは、筆者が次のように呼称する空間=世界に、非常に強く拘束を受けている。
 それは、<教室的なるもの>である。

 ここで言う<教室的なるもの>の教室とは、小・中・高・大・専門学校の、あの空間のことだ。教師がいて、生徒がいて、そこでは授業が行われる。 授業には、国語、外国語、算数(数学)、理科社会の他、道徳もあったりする。

 義務教育制度の下では、私たちは実に多くの時間を、教室に捧げることになる。もちろん、学校生活は教室で行われる諸活動だけに限定されるものではない。課外活動があり、体育では運動場に出たり、文化祭・体育祭ではいつもとは違った姿の学校に変容する。

 しかし、筆者は、敢えて、まずあの例の教室で行われる<教師―生徒>の間の関係性、その関係性の中で経験される生、というのを主題化してみたい。
 もう少し、話を具体的に噛み砕いた方がいいのだろうか。

<教室的なるもの>。 そう筆者が呼称するのはつまり、<教師―生徒>の関係において、教師が専ら生徒の現在の/未来の”生”をコントロール(支配、統治)する、それを成り立たしめている空間=世界のことである。義務教育制度の下では、例えば日本では少なくとも実に9年間もの間、人々は毎日学校に通い、そのような<教室的なるもの>にさらされることになる。

 生徒の現在の/未来の”生”とは、こういうことだ。
 例えば国語の時間。 国語の教科書には幾つものテキストが載っていて、それを私たち生徒は朗読したりする。朗読について、教師のチェック・指導が入る。もっと声を大きくして読むようにとか、抑揚をつけて、とかだ。そのことによって<私>たちは、文章の読み方について多大な影響を受けるだろう。 もっと声を大きくして読むようにと言われ続けた生徒は、声の大きさ/小ささというポイントについて、頭を悩ますかもしれない。その後の人生において彼・彼女は、社会生活の上で(どんな種類であれ)テキストを読む際、声を高らかに―あるいは五月蝿いまでに―して喋るくせがつくかもしれない。抑揚をつけてと指導され続けた生徒は、喋るときには抑揚をつけるのが大切なのだ!との認識を絶対的価値の一つにおくかもしれない。その後の人生において彼・彼女は、社会生活の上でテキストを読む際、抑揚というポイントに異常に拘るようになるかもしれない。

 ※ちなみに、テキスト(文章)の読み方などが”生”に関わるものか、という批判は、筆者の見解では無効である。現代社会においては、ありとあらゆるテキストを声に出して読む場面というのは非常に多く(だからこそ義務教育の時の国語の”朗読”の時間もその一役を買う)、そしてテキストの読み方一つは、<私>たちの<生>そのものを構成している。声を大きくしてテキストを読む人は、現代社会では、健康・誠実なイメージを与える(それが実態かどうかは別として)。声に抑揚をつけてテキストを読む人は、おそらくコミュニケーション能力の高さに一石投じている。健康/誠実/コミュニケーション能力、どれをとっても<生>に関わる事柄だ。※

 さて、そこでだ。<教室的なるもの>=空間において、<私>たち=生徒は、どれだけ/どんな拘束を受けるのか。

筆者が問い続けて止まないのは、以下のような事柄だ。

 ”生徒は、<教室的なるもの>=空間に生存している限りにおいて、望む自由(望まない拘束を受けないこと)を獲得することはできるのか?”

 結論からいえば、NOである。生徒=<私>たちは、<教室的なるもの>との関係においては、決して望むようには自由になることができない。
 考えてみよう。
 英語でも何でもいいのだが、とにかく授業が行われている。それは、非常に退屈な授業かもしれない。退屈でつまらない物事に、何故多大な時間とお金をかけてまで付き合わなければならないのか。 そんな時、教師から「Mr/Ms.○○、did you hear that?」と問われたとしよう。

 簡単な反抗=抵抗として、まず、答えない、無視するという選択肢があり得る。しかし、これは一時しのぎにすぎない。
教師は、自らの問いかけを無視した生徒に、マイナスポイントをつける。そして、「これでは成績をつけてあげられない(=学校から卒業できない)なぁ」と一種の脅しをかける。生徒は、退学という最悪のパニッシュメントだけは受けたくない(退学は望んでいない。退学も望むのなら、話は別だ。)。ゆえに、生徒は、そのつまらない英語の授業を、どうにかして真面目に取り組まざるを得ない。

 教室から逃れてはどうか。つまり、「あーもう退屈!」といって、ドラマの展開の如く、教室を飛び出せばいいのでは?
それも、結局は一時しのぎにすぎない。確かに、教室を出ている間だけは、望む自由(例えば、日光が気持ち良ければ素晴らしい昼寝の時間に当てる、とかだ。)を手にすることはできる。しかし、前述の脅しの仕掛けが働き、結局は<教室>に戻らざるをえない。

<教室的なるもの>=空間においては、教師が複数の生徒に対して絶えず監視の目を配らせている。ここで注意したいのは、その教師の監視の目というのは、実に多岐にわたるということだ。つまり、生徒の”生”に関することなら、何でもということだ
。英語の授業なら、英語能力向上における監視だけではないのだ! 英語の授業の時間でも、教師は生徒の”生”を、ありとあらゆる角度から監視しうる(おしゃべりを禁ずる、早弁を禁ずる、居眠りを禁ずる、散漫な行為を禁ずる等)。
 思い返せば、<私>たちは、そんな状況を最低9年間続けていたことになる。

 <教室的なるもの>が圧倒的な変容を迎えるのは、ケースバイケースな側面もあるが、高校・それから特に大学が一般的にそうである。少なくとも、筆者の場合にはそうであった。小学校に見られるような、強度の<教師―生徒>のコントロール関係は、大学では(当然だが)薄れる。
 高校・特に大学生は、自ら望んで、自分の受けたい授業を、お金と時間を犠牲にして受けるのである。実態はどうであれ、建前はそういうことになっている。自ら進んで、<教室的なるもの>と付き合う。

 しかし、小学校・中学校では、場合が違うと筆者は思う。小学生が、自ら望んで算数の授業を受けるだろうか、否、親が算数は大切だと言ってるから、学校に行くのは当たり前でその学校には算数の授業が必ずあるから、だから小学生は算数の授業を受ける。文字通りの受身である。<私>たちは―当たり前かもしれないが―自覚なくして、<教室的なるもの>との関係をとりもなおさず迫られるのである。どこまでいっても逃げる=拘束を逃れることが不可能な、<教室>。逃れてしまったときには既に、人<生>の落伍者として扱われるのが、世の常のようである。

 <教室的なるもの>は、以上のように、非常によくできた人工的装置なのである。それは、<私>たちの”生”をコントロール/管理するのに、非常に便宜的で、かつ効率的な装置だ。<私>たちは、この<教室的なるもの>という装置に規定されて、そしてそこから改めて自分たちの”生”を生きはじめる。この点は、強調してもしすぎることはない。

 最後に、<教室的なるもの>は、おそらく教育機関の領域に限らず、社会の様々な領域において存在する、と筆者は漠然と思う。そえは、社会生活の中で、ありとあらゆる場所に存在する。締めくくりめいた事を言えば、<私>たちは少なくとも、この<教室的なるもの>の匂い、空気を嗅ぎ分けて、自覚なくしてその空間=世界に入る前に、一定の注意をしてしかるべきだ。

以上

@ misty

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誕生日:
1989/03/19
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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