不特定多数の皆さんこんばんわ、mistyです。
この一週間だけで、3曲も曲が産まれました($・・)/~~~ 豊作でんがな!!
では早速、表題の件に関して。
結論から言うと、私の考えではNO!です。
「音楽の力はすごい!」
この言葉は、多分に普遍性・一般性に乏しい。
1、理由としてもっともすぐに思いつくのは、「音楽を嫌いな人にとっては何にもならないから」です。しかしこんなのは当たり前。芸術・文化としての音楽は、当然に好き・嫌いといった感情論で批判される対象になるのが前提となっているからですね。
2a、私が主張したいのは、そうした音楽嫌いの人を排した中でさえも、やはりこの言葉は普遍性に欠けると思うんですよ。
なぜなら。
この言葉の使い方・使われ方は、精神論で片づいてしまっている所が多々ある、と思うから。
ぼくらがこの言葉を口にする時、それは多少なりとも感情のこもり過ぎた状況に陥ってはいまいか。
私は世の中は、悲しくも、感情論・精神論では構成しきれていない。むしろ昨今の現状は、被支配的になっていると考えます。
ちょっとだけ補足説明します。
2b、私は感情論の対極に、「理論」と呼ばれるものを置いています。科学scienceを根本的に支えているものが「理論」だと思っています。
そして、日本においては、開国以来科学と共に理論の世界があらゆる分野で台頭してきたんじゃないかなーって思ってて。
いわゆる化学・物理・生物・地学等のscienceの領域から、従来はあり得ないと考えられていた分野にまで応用されていると思うのです。
簡単な話が、法学。 法=社会秩序の維持に関連する当為の法則(~であるべきだ)は、ざっくばらんにいえば、人の社会生活にあらゆる角度からかかわってきますよね。
法学の基本的・根本的な思考に、有名な「法的三段論法」というのがあります。大前提(人を殺したものは死刑又は無期若しくは5年以上の懲役刑に処する)→小前提(Aは他人であるBを殺害した)→結論(Aは死刑か、無期懲役か、5年以上の懲役刑に処せられる)という極めて明快なものです。 裁判所はこの構成に伴って判決文・理由を言い渡します。学者は一仕事として、大前提である法律以下の法の在り方を検討します。
この思考法はもはや法学の古典的・伝統的な地位を占めています。これをはずしてはもはや「法学」としては完全にアウトです。
2cそして昨今においては、なんと「心理学」というものまで!「無意識」論しかり、「義理と人情」論しかり。 いやはや視覚的に見えないものにまで科学ひいては論理というものは入り込み、そして説得力を以て人々の賞賛を得てきていますね。
3、しかし。世の中、本当に理論が全てなのか?というと、それは違うと主張している方々もたくさんいます。いわゆる「科学万能主義」に対する批判です。私も、理論がすべてではない、と考えています。
問題の焦点は、感情⇔理論、この2つはどのように機能しうるべきなのか、といったことです。
もう一度今までの私の思っていることを要約すると、先進国日本においては、様々な社会問題に対して、理論/理性の力の方がより妥当な解決を得られるとして、歴史的・実践的に支配的な立場をとってきたということです。しかし、科学万能主義の時代はもう瓦解していると感じる。あれほど説得的に行動していたアメリカでさえも、イラク戦争・サブプライムローン問題を経験して、私にはあらら?とどーーしても感じざるを得ないわけです。
何かどこかで、理論の世界に、いわば「先天的」に欠陥があったのが動因なのではないかと。日本は外交を始めとしてアメリカのカルチャーなり政治のシステムなりといったものに少なからず影響されているわけですから、仮にいまいったような欠陥があったのだとすれば、影響される日本における理論の世界も妥当ではあり得ないというのは当然導き出される結論です。日本がアメリカ以上により妥当な理論の使い方を編み出し運用している・できているというのなら例外ですが。
4a、 では、便宜上、ものの考え方を、ざっくばらんに「感情・理論」に二分したとして、どうすればもっと社会問題に対して妥当な道を発見できるのか。
「感情」の功罪面に検討を加えたいと思います。
(続く)
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