発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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@一切は流動する―流動の哲学
『差異と反復』、フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』で語られる大きな一つの主題は、
「流動(流れ)」である。
ドゥルーズは、流動の哲学者と形容してもいいだろう。一切の固定化(コード化、強制化、決めつけ、固定化)を拒否し、実践的に逃走線を引くための。
例えば、<私>は、いったいどこが固定しているというのだろう? 自己同一性(アイデンティティ)はやはり仮象にすぎないのだ、どう考えても。
それよりも、流れの中に、例えば絶えず引いては寄せていく、水の中の世界を想像すればいい。一切は流れる。そこに、<いま・ここ>、<私>という仮象が存在するのだ。
流れる水の中では、全ては未分化だ。身体はまさしく器官なき身体であり、口は裂け、内臓は飛びだし、目玉が出る。様々の器官なき身体同士が絡み、そしてまた離れていく。 現代社会に生きる私たちは、毎日、いや毎瞬間、違う<私>(一瞬の仮象)に出会う。 「新しい私」を探すまでもない。 毎日違う衣服を身につけ、考えも感情も変わり、表情すら違う<私>が、一瞬一瞬存在している。 食物は口を通っては肛門へ流れる、細胞は瞬間瞬間に入れ替わる。
社会もそうだ。 浅田彰が「クラインの壺」で示したあの恐るべき資本主義社会。そこでは、
メタ・レヴェル/オブジェクト・レヴェル といったセミオティクス的な二元値をもいっしょくたにしてしまう。商品は消費されては、生産され、消費されては、生産され…(もっともドゥルーズ=ガタリは「いっさいは生産である」と言っているが)。 「斬新な」商品が、日々取って代わる。音楽のチャートは毎日変動し、慌ただしい姿をさらす。
水の中。それは、母親の子宮内のようにとてつもなく心地よいものでもある。何もかもが未分化なままの状態。
もし、この資本主義社会(柄谷行人の用語でいえば、資本=ネーション=ステートだ。)から離脱したいとでも言えば、どうすればいいのか?
水の中で、水を切っても意味はない。空振りに終わるだけである。どうすればいいか?論理はあまりに明快だ。
上、空に突き抜ける。ただし、空があればの話だ。それでも我々は、もしこの資本主義制近代社会(あるいはポスト[脱]近代社会)から逃走線を鮮やかに引いてみるのであれば、ひたすら上を目指し、泳いでいくほかはない。そこに、根拠はない。”命がけの飛躍”だ。
社会に留まるか離脱するかは、まさに個人の自由である。
misty @
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