こんばんは。
責任の連載4回、終わりました!
真面目に読むと結構危ない記事です(爆)
要はですね、人が背負う責任の大きさにも限界はあるはずだ、てことですよ。
何でもかんでも因果関係を作出しては、責任を負わせたがる社会なんてことになったら、確実にその社会はつぶれます。
構成員に対する、もっと分かりやすい愛情が社会にはないと!
今日は短いエッセイです。
@ゆとり
今ちょうど「ゆとり」についてのテレビやってるんですが、
ゆとりはひどいゆとりは失敗だったとぬかしてますが、
よーそんなに一括にして人をバカにしていられるな、と。
ゆとり世代は、どうやらコミュニケーション不足、態度が悪い、学力が低い、んだそうです。
抽象的な非難だ・・・。
要は、今の年配に当たる世代が、文化の変化にとまどっているだけで、自分を正当化したいだけじゃないの?
適当にゆとり世代とくくりを付けては非難をすれば、自己については見られることが無くなりますからね。
例えば、本当にコミュニケーション不足なんでしょうか。
そもそも、コミュニケーションが発達していた時期なんてあったんでしょうか? というか、コミュニケーションという概念自体が比較的最近のものなのではないでしょうか?
別に非難しているわけではないのですが、もう少し仔細な検討を行ってから非難なり激怒なりをしてほしいものです。
この中で、ゆとり世代はダメだという意見の方がいらっしゃったら、次の反論にはどう思うでしょうか(自分の反論が最も正しいとか、そんなバカげたことをおもっているわけでは決してありません汗)。
年配の世代と、ゆとりの世代には、文化の変化という波を通して、それぞれの価値観・ライフスタイル等に断絶がある。
一方的にゆとり批判をするものの、実際ゆとり世代の方も、年配の世代とはコミュニケーションが取りづらい、生活観念が違う、などと、年配世代と実は同じことを思っているのではないか。
すると、ここで問題にすべきは、ゆとり世代がどうのこうのというより、それぞれ価値観の違ってしまったもの同士の間のコミュニケーションや社会技術伝達を如何にするか、という問いが積極的に立てられるべきなのではないでしょうか。
私は、ハッキリ言いますが、高度経済成長期を若いころに過ごされた方には、どうも自分達の行動や考えていることが一番エラいのだとの、ある種の頑固さをもっている人が多いような気がしてなりません。
もうひとつキッパリ言うと、伝統を伝えるのと正しい行為を考えるのは、違うことです。私はそう思います。
…なんとなくストレスが溜まっていたので、今日はかなりキツめにぶっちゃけてみましたww
どーなんでしょうか? ひがみや非難の下はいつも文化意識のズレ、という案は。
文化意識の違いが分かった所でさあどう歩み寄るのか、というのが最近の議論の中心であるし、私もそのことを積極的に考えていきたいと思っています。
「ゆとり世代」のろくな定義もせずに、度を超えた怒りを言葉の中に込めるようなことがなくなることを願います。
今回は攻撃的なので、いっそうご意見ご批判お待ちしています。笑
misty @
[0回]
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COMMENT
無題
「ゆとり教育」、「ゆとり世代」、その是非を判断するのは、私にはなかなか難しい問題です。
‘ゆとり’という言葉自体は大変良いものだと思いますが、心にゆとりを持った人間を育成すべく、子どもたちに「ゆとり教育」を施したことに対しては、今のところその結果として、どちらかと言うと、良い面よりも悪い面が多く現れ出たというのが実際のところではないでしょうか? 私自身は、感覚的にそんな思いを持っています。
私は、mistyさんを除いてゆとり世代の人々に接したことはありませんし、また、ゆとり教育として学業時間を減らすということ以外にどのような教育を子どもたちに施したのかを実際には知りませんので、私の頭の中で想像するだけの‘ゆとり教育’と‘ゆとり世代’についての意見になってしまいますが、mistyさんが意見を募集しておられましたので、拙いながら私の‘ゆとり’論を書き込みさせていただこうと思います。
基本的に、私は、私たちが生きるこの人間社会において、また、あらゆることに対して、‘ゆとり’を持つことの必要性と重要性を認めます。でも、現在の社会状況と人々の意識の発達の度合いに鑑みて、「ゆとり教育」の実行は、日本では時期尚早であったのではないかと私には思われます。
その理由は、80-90年代にかけて、それまでの知識詰め込み教育が子どもたちには弊害多きものとして言われるようになり、90年代半ば以降にゆとり教育が取り入れられるようになったと思うのですが、ゆとり教育を取り入れたことの結果として、やはり先見の明のある人々が恐れていたように、子どもたちの総体的な学力の低下、及び、塾通いができる子どもたちと、それができない子どもたちとの間での学力差が大きく開いた、という事実も否めないように思いますので、ゆとり教育を実践することの素地が日本ではまだ出来上がってはいなかったと私は考えるからです。
私の個人的見解ですが、子どもたちに「ゆとり教育」を施すには、まずそれ以前に、私たちすべての大人が精神的に或る程度成熟していなければならないと私は考えます。私たちの社会がその精神性において充分に発達していないかぎり、「ゆとり教育」という子どもたちの教育における理想論を掲げてそれを実行しても、それは、大人たちが意図した理想的な方向に向かって動くことは決してないであろうと私には思えます。
なぜなら、もちろんその理想に向かって子どもたちの教育に熱心に取り組む真摯な教育者たちもきっと多く存在するだろうとは思いますが、しかしその一方で、教育者といえども人間ですから、学業時間の縮減を単に自己の労働の軽減に置き換えて、楽ができると考えてしまう人々もいるだろうことは容易に察しがつくからです。
そして、そうした後者のほうが前者よりも数において勝るという推測も、現代社会に生きる人々の意識の程度に照らして、間違ってはいないように思われます。
学校教育に携わるすべての教育者が、上述した前者のような人々であるならば、当然、「ゆとり教育」は何の弊害も欠陥もなく、理想的な教育として子どもたちに有効に機能するでしょうし、またそればかりでなく、想像力と思考力に富む優秀な子どもたちが世に多く輩出されることでしょう。
そもそも「ゆとり教育」は、一部の優れた教育者たちによって提唱された立派な教育理念だと思うのですが、しかし残念なことには、その実践に当たっては、私たち大人の精神性の未熟さ(=エゴ)により、- それは、国の機関や現場に属す教育関係者ばかりでなく、一般大衆を含めてですが、- 結局、理想的な教育成果をもたらすものとはならず、日本人子弟の総体的な学力低下、及び、教育熱心な親たちは子どもたちを塾通いに走らせるだけという結果になってしまったと言ってもよいのではないかと私は思います。
「ゆとり教育」と言いながら、個々の子どもたちの能力を伸ばしたり才能開花を図るといった、子どもたちの知力や想像力と思考力を育成するような真の意味でのゆとり教育ではないゆえに、結果として、子どもたちの学力低下や家庭環境によって子どもたちの間で大きな学力高低差を生じさせてしまったのは、当然の帰結と言えるのではないでしょうか。
もちろん、先天的に才ある有能な子どもたちが、ゆとり教育によってのびのびと思考力と想像力を発達させたという良い例もあるでしょうし、ゆとり教育の恩恵を受けたと感じる子どもたちも、また少なからず存在することだろうとは思います。
しかし、学ぶことに積極的でない子どもたち、あるいは貧困家庭で塾に行けない子どもたちにとっては、或る意味、大人たちの勝手な都合で知識習得の機会が一方的に奪われたと言うことさえ可能であるように私には思えるのです。
私は、すべての子どもたちには勉学の機会が均等に与えられるべきであると考え、その意味からも、裕福な家の子どもも、貧乏人の子どもたちも、塾通いをすることなく、学校で学ぶだけで事足りる教育が理想的であろうと考えます。
しかし、この理想的な教育を実現するためには、まず私たちすべての大人が精神的に成熟することがどうあっても先決であると私は考えるのです。
なぜなら、個々の子どもたちの才能を伸ばすという理想的な「ゆとり教育」を実践するとしたならば、学業時間を縮減したとしても、それに代わって個々の子どもたちに対してよりきめ細かな配慮が必要となり、良心的な教師たちにとっては前以上に過重な労働を強いられることになるのは明白だからです。
利己主義が目に余るほどはびこった現代社会において、教師といえども人間ですから、ひたすら子どもたちのためを思って熱心に教育に専念するという、そのような利己主義を滅して利他精神に則った教師を私たちはそう多くは望めないでしょうから、理想的なゆとり教育を実行し成功させるのは、現在の日本社会の状況と環境では、今のところまだ無理があるように私は考えざるを得ないのです。
次に「ゆとり世代」のことに関して簡単に触れておきますが、私たち大人の側で、精神性を発達させて利己主義を減じた人が社会において多数を占めるようにならないかぎり、子どもたちの利己主義もなくなることもありません。これは誰にでも理解できる当然の理でしょう。従って、ゆとり教育を受けたゆとり世代に属する子どもたちが利己的で悪いということは絶対にあり得ず、責められ、その非を受けて然るべきは、自分たちの利己主義で子どもたちに多大な悪影響と重大な損害を与えた私たち大人のほうであり、大人は、中途半端なゆとり教育によって損害を被ったすべての子どもたちに対して、心底からその非を詫びるべきであるというのが私の考えです。
「ゆとり教育」を実践して成功を収めるためには、まず私たちすべての大人が果たすべきことがあり、それは自分たちの精神性と人間性を高めて、健全な良い社会を作ることが先決であるということです。
私たちの社会が、その精神性において成熟した良い社会となったとき、そのとき子どもたちに対するゆとり教育は素晴らしい成果を上げ、日本の未来を担う優れた子どもたちが多く輩出されることとなって、国はその礎を盤石にすることができ、そしてさらなる進歩発展が約束されることでしょう。
まとまりの悪い文となりましたが、以上が、今私が「ゆとり教育」と「ゆとり」について漠と考えている内容です。
mistyさんに突っ込まれるとメタメタになりそうですから、私は予め、どうかお手柔らかにとお願いしておきたいと思います。
chandi
コメントありがとうございます!
>しかし、この理想的な教育を実現するためには、まず私たちすべての大人が精神的に成熟することがどうあっても先決であると私は考えるのです。
私も、氏の意見に賛同です。
捕捉になりますが、現実を鑑みると、理想の教師像を作ってから真の教育を、とするやり方は恐らく永遠に成立しないことでしょう。教師の至らなさも含めたうえで、教育実質を如何に向上させるかが議論の中心だと思います。
確かに、教師の指導をどうするか、といった議論はあまりなされていませんよね。そこは、かなり大きな問題点だと思います。
定評のある学校のノウハウを他にも伝えていくなどの、方法を考えやりぬくことが大切になってくるでしょうね!