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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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責任 4 (完)

責任 続き 

承前

(4)技術革新と生命の支配不可能性

18世紀末の産業革命(第一次)以降は特に、機械工業がめざましく発展を遂げている。それは今日でも変わらない。
 現代は、機械なしには生活が考えられないほどになっている。

機械というと少々古臭い表現であるが、要は人間の知恵が投入された、システマティックな道具である。
もちろん、ナイフや水車といった原始的なものから、時計やパソコンなどの精密機械まで、実にさまざまのものがある。
 機械工業の移り変わりを、ひとえに技術革新ということができる。
技術革新によって、機械は、どんどん複雑なもの・巧妙なものになっていった。
そしてそれは、人間の産業から生活まで幅広く、半ば無承認的に浸透している、というのが現状である。

おそらく、技術革新は、人間の機械工業に対する一つの夢の現れであろう。
益々の発展と、やむことのない、永遠の革新への願望が、如実に表れている。

たとえば法律は、性社会の役割というテーマにはおずおずとしたものの、技術革新の社会への応用には、ひたすら甘かった。

もしかしたら、である。もしかしたら、人々は、夢(しかも、突き詰めるとあやふやで、独り善がりの妄想)を追いかけるあまり、機械だけが先走りして、それを関係づけることに追い付いていないのかもしれないのではないか。

機械の様々の定義の中から、以下のようなものも導きだせよう。
すなわち、機械とは、人間のコントロール可能な、支配下に在る物体である、と。
事実、機械を支配しているという観念は、支配的であろう。しかし、本当に我々は機械を支配しているのだろうか?
否、機械を支配できるのだろうか?
 おそらく、これを肯定する意見の抜本には、人為に因るものは、人為のコントロールが効く、という前提があるはずである。

しかし、現実を鑑みると、事態はまったく逆である。転倒して、機械が人間を走らせている、不安にさせているという事が如何に多いだろうか。
操作ミスから設計ミス、「思いもよらぬ」トラブルなど、機械に手を焼かない人間がいるだろうか?
人は、やれ機械だからと、さも支配して安心しきった顔をするが、しかしそれが絶対安全だと保証できる根拠は実は大変に乏しいのではなかろうか?

 ところで、飛行機、自動車、電車、これらの交通系機械は特にそうであるが、人間の生命の安全を、それらに乗せている機械は少なくない。

私は常々思うのだが、自動車事故は、限りなくゼロに向けて縮減することはできても、ゼロになることはない。なぜなら、自動車制度自体が、その制度の中にそもそも「事故の犠牲が出る」というシステムを組み込んでいると考えられるからだ。

機械は支配可能であるから、したがって人間の生命を預けても同様に安心―。おそらくこの簡潔な理論で、昨今の交通産業は成り立っているのであろう。
しかし、自動車事故をはじめ、電車の(思いもよらない)脱線事故、飛行機の離着時失敗など、事故が起こらない日を迎えたことはない。

これはおそらく、機械への完全支配可能性というのは、最早神話になっているとみた方が早いであろう。
その神話を以てして、人間の生命を預けているのである。

(5) 神秘性

言いかえると、生命は、機械によって支配可能だとされている。

しかし、生命とは、そんなに簡単に支配できるものであろうか。
この問いに対する私の答えは否である。おそらく、生命というものの不可思議性は、世界が始まるそのころから、ずっと続いてきた性質のものである。 ちょっとやそっとのことで、生命を把握できるなど、おこがましいことでしかなかろう。

つまりである―。 (3)で見たボート事故の例では、機械ミスによって、Yの生命が絶たれた。
しかし、それを、機械の「所為」にすることは、おそらくナンセンスだろうということである。
 なぜなら、機械は生命をコントロールなどできはしないからである。

だとすれば、過失概念を持ってきて、それをさらに機械の所有者であるXに責任転嫁するなど、もってのほかであろう。

これは何も、責任を負わないからといってなんでもかんでも、精密度を問わない機械発明をすればよいという話ではない。むしろ逆である。責任を負える程度を、見極めることが大切なのである。

そうした時に、昨今の技術革新バンザイの声にすぐに傾倒してしまうのは、たいへん恐ろしいということになる。

さて、それでは、(3)のボート事故では、Xは過失がなかったということになるのか。それは、どういった事態を引き起こすのであろうか?

考え方としては、もはやYのYに対する生命を保障する責務は、とりあえず彼以外に負わせるべきではないのであろうか?
 これは、おそらく彼の生命に対して最も適した行動が取れるのは、ほかならぬ彼自身しかいないからである、という風な根拠のもっていきかたになる。
 Yの生命の安否が、ボートに託一時的に託された、とは、すぐさま考えないべきではなかろうか。
事故は、あくまで不慮の事故にあったのではなかろうか?

ルーマンが指摘するように、近代以降の社会は、この不慮という現象をなるべく人為の枠で捉えようとする傾向がある。しかしそれはやはり擬制に過ぎない(「人為」という枠組みの入れ替え)。不慮から人為への転化の作用には、無理が含まれる。

不慮というのは、実に神秘的な事柄だ。 雷、がけ崩れ、津波などの天災というものは、おそよ人知を超えた所にある。 民法に、期間についての天災を考慮した規定があるくらいである。
天災は、どこまでいっても天災でしかない。

そして、不慮の機械ミスによる事故は、どちらかというと、やはり天災に近いものなのではなかろうか。
それは、コントロールの不可能な、しかし起こるべくして起こった不慮の事故なのではなかろうか?
不慮は神秘性故に、ましてや人がその事故の責任を負うなどといったことは、およそ考えられないのではなかろうか。

ここにおいて、事故は起こるべくして起こったのだという、かなり前近代的な考え方ではあるが、一種の宿命の観念を持った方がまだましなのではないか、と私は考える。
過失概念を拡大して責任可能性を追求すると、それではいったい誰が責任を負うべきかといった、ある種のたらい回しのような事態が起こりかねないからである。
帰責性がそもそも内在するのであfれば、それは発見するに困難はないはずなのである。あれこれうーんと考え出した揚句に、「お前に一番帰責性がある」と判断されるようなものではないからである。

そして、技術革新という社会の大きな「波」が、強いて言えば今回の犯人(責任を負うべき主体)である、といえる。しかし、そのような不特定多数の群衆が責任を負うことは、現時点において作業的に不可能である。
ゆえにそれは、前近代的な「不慮」=「神秘的なもの」=「人知をこえたもの」として扱うことも、不可能ではないのではないか。 

技術革新は発展するが、その関係を有する人間は、必ずしも同程度に発展しない。
ゆえに、そのような帰結を考えることは、無意味ではないように思う。

責任、責任というが、これは極めてむずかしく、かつあいまいな概念であり、簡単に「お前に責任があるから」などといった言葉を、本来なら言うのは難しいはずなのである。

(6) まとめ

括弧3で見た事例の法律関係でそれを述べてみる。
つまり、YはXの生命権を、一時的に引き受けたことになる。
しかし、生命権はどこまでいってもY自身のものなのではないか。少なくとも、Yの生命権をXがコントロールすることは、不可能がつきまとうように思われる。
最低限、Yの生命に一番「近い」、Y自身がその権利保障の担い手となる。
そして、終局的には事故によって命を絶ったのは、宿命だと言いきることも必要なのではないか。
コントロール不可能なものを、過失概念の拡張によって、半ば技術的にXに帰責性を負わせるのは、あまりにプログマティックにすぎる。

かつては宿命や不慮と言われた類のものを、解決の方向に向かわせようとしたものは、結局新しい別の問題を引き起こしている。いや、それどころか、益々事態をやっかいなものにさせている。

責任=個別に対応すること。  

技術革新に夢を見てそれを発展させるのは一向に構わない。しかし、技術革新がしいたレールの整備が、中途半端に過ぎる気がする。

事象を不慮や宿命の範囲の方にもっていくことは、決して現代文明の否定ではない。
責任の限界を常に参照し、現代社会のシステムを構築していくことが望まれる。

misty @
(完)

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映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
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