発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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こんばんは!
さっそく、連載第二弾に映りたいと思います。
まだ草稿が手元にあり、書き途中なので順調にのせられるかどうかは怪しいです!
「見る」ことの意義を考えた記事です。
@見えないことを信じること
(1)「見える」ことの恐怖/権威作用
「見える/見えない」ことを、考えていきたいと思う。
何かしらの方法なりやり方なり考え方なりで見えるもの。それは、果たしてどれくらいあるのだろうか。
「見えないものを信じる力」
いつからか、こんな曖昧な概念が、それでも有効性を持って言われたりする。
私は、これからの時代において、この見えないものを信じる力、というのはますます大切なものになってくる、と考えている。何故だろう。
それは、さっきの一番はじめの問いにもリンクしている。
私たちは、この世界で一体どれくらいのものが見えるのだろうか。
ある意味、人間が歩んできた道とは、いかに見えるものを多くするか、という点にリンクしていたのかもしれない。
人は、見えるものをできる限り多くすることに、尽力を尽くしてきたといってもいいくらいだ。
反対に、見えざるものに対しては、一種の恐怖を抱く。未だ知らないものは恐怖の対象であり、また恐怖そのものでもある。化け物と置き換えてもよい。化け物は、普段(通常)は見えないものだからこそ恐ろしい。
従って、見えないものは恐怖に裏付けられた権威である。反対に、見えることも、一つの権威である。見えないことは、ある種の恥であり、不正であり、良くないことでもある(*1)。
「君には見えなかったのか?」 「見えない方がおかしいよ」
こんな言葉は、幾度も聞く。そのことが、見えること/見えないことの、線引き、またはそれらの断然を物語っている。
*1でさりげなく書いてしまったが、〈見える―良いこと、正しいこと、健常なこと /見えない―良くないこと、不正なこと、異常なこと〉 という風に、見える/見えない に、価値判断が従属していることである。見えない<見える、という不等号が一般的には成立しているようにも思われる。
しかし、こうした価値判断は、実に恐ろしいものである。それらの価値付けは、果たして根拠のあるものであるのか。理由あって正当化されている事柄なのか。
価値付け自体が、暴力現象に他ならないのだから、このことはよく考えなければならない。
「目」で見えるものを想像しよう。
ここに、普通に目が見える人と、いない人がいて、A地点とB地点、それから〈あまりそこなわれることのない自由〉があるとしよう。
二人は、A地点―B地点を往来したいという欲求と、自由をひとしく持っている
。このとき、目の見える人は、あまり不自由なく、A地点から出発してB地点にたどりつける。B地点に分かりやすい目印がある。
しかし、目の見えない人は、それほどうまくいかない。しかし、彼が何らかの能力でそこにたどり着く場合はある。
彼が超人的な能力を以てして、B地点にたどりつくのはよい。
しかし残念ながら、超人的能力というのは、普遍的ではないらしい(だから超人と言うのかもしれない)。 なるたけ目の見える人と「同じ」ように往来するためには、どうするのがいいのか?
一つの答えらしきものは、現代社会の中に見出だせるだろう。あたりを見回せば、視覚障害者のための期間や装置などは、いくつか制度化され、運用もされている。点字、点字ブロック、専用杖等々。
だがそれらが、いかに不便に使われているのかも、みおとされている。
「目の見える」人は、わがもの顔にそうした往路を行き来する。そうするのが、さぞ正しいことであるかのように。
これは、私も例外でない。平気で、点字ブロックの上に立っていたりする。
一つだけ取り出せば、地下鉄の設計はほとんどが酷い。点字ブロックの上を平気で踏みつけたりする私の態度とかもふくめて、地下鉄では、まるで健常者でない人はなるべく利用するな、とでも言いたげである。いったん健常者用/非健常者用のコースを分けた上で、しかもそれは必ずしも便宜的でないことを、再確認する必要があろう。
しかも付け加えておきたいのは、たいていの場合、そうした障害者システムは、「配慮」とかいう概念で設計されたりする。
配慮こそ、何か優越的な含み損をもっているし、上位/下位 の区別形成の前提に成り立っている気がしてならない。配慮と労りは似たようで、大違いである。後者は苦しみも共用しようとするが、前者はともすれば、ただの突き放しになってしまいかねない。
このように一例をとっただけでも、「見える」ことには暴力や権威がつきまとっていることが分かる。
見えないことは、負けであり、支配される側にからめとられる。
先ほどは、この見える/見えない に恐怖が働くといったが、これは、根源的な情念(純粋な恐怖を抱く、完全な暗闇にある種の不安や怖さを抱かないものはいないであろう)に加えて、こうした権威/暴力システムから由来する怯え、恐怖も
重なっていると思う。二重に仕立てられているのだ。
この二重構造の前に、あたふたして翻弄しているのが、今日の人間の実体であろう。
(続く
(2) 見えるということ
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