発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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言うまでもなく、近時、”エコ”という言葉が声高に叫ばれている。
そのムーヴメントは、ようやく国民(つまりこれは、「国」から(from)という事を意味しているのであろうか?)の意識の下に浸透してきたようだ。
最近、私の友達が”エコ”という言葉を、ごくナチュラルな感じで発していて、それをごく自然に―この「自然に」という用語法=現象が、本稿が捉えようとする所の一つでもある―受け止めている周囲の反応を見ていて、実感したことである。
”エコ化”の動きが、国を超えて、あらゆる所で、平坦に盛んになってきている。
この時点で、一度はたと止まって、”エコ”の”意義”を再考してみるのも悪くはない。
多様の意見、情動があって然りであるが、私は幾つかの観点から、昨今の”エコ化”の現象に、ちょっとした異を唱えるものである。 それを簡潔に述べておきたい。
”自然に帰れ!”―。 これを唱えたのは、ルソーであった。
自然に帰る、自然の中に今一度「戻」り、その中で人生や価値観やライフスタイルを問い直してみよ―。
これは、自然主義とでも、とりあえず言葉を置きかえることができようか。 精神世界で言う所の、私たち俗世(物質世界)での、生き方を考えるよりも、より”自然”に重点を置く。 人為よりも、自然。 そういう所であろうか。
この自然主義を、(当然ではあるが)、概念としてのエコと関連付けることもできよう。
そこで私は、”真の”エコとは、一体何であろうか? と、問わずにはいられなくなるのである。
エコの一つの定義(原義)を、以下に見ておきたい。
―ECOとは、ひとことでいうと、関係の学問、つながりに気付くということ。
(出典HPアドレス:http://eco.81s.net/concept.html)
つながりに気付く。関係性を意識し、それを強調する。
それはまるで、コミュニケーション論の一つのテーマのようにも思われる。
そうだ、「関係の学問」ということであれば、その関係を結ぶ客体(相手)は、まだ原義からは何も限られていないはずだ。
相手は、生身の人間でもよい。 コンクリートでもいい。美術。衣服。情報。自然環境。
昨今唱えられている”エコ化”のムーヴメントは、この客体の幾つもの選択肢のうち、主に自然環境を捉えているようである。自然環境とわたしたちの関連に気付き、それを大切にする。そういう見地が、今全体として行われつつある。
ここで、さきの自然主義との関連に立ち戻りたい。”自然に帰れ!”と発するこの概念は、実の所、エコの本質なのではなかろうか?
この概念の下での「自然」も、これまた限られていない。そして何より、解放されている。そのことが何よりも重要である。
とすれば、昨今の”エコ”は、真のエコを捉えていない、すなわち、偽のエコだと言わざるを得ないことに私たちは気付くのではなかろうか? 対象を自然環境に絞り、自然環境を”改めて”支配しようとするこの動きは、エコ(関係の学問)の本質から、外れているのではなかろうか?
今のエコ化運動は、自然主義に純粋に基づいてはいないのではないか。
そしてそこには、問題点があるのではなかろうか。
以下の3点を、考察していく。
まず、人為と自然の関係において、そこには<支配―被支配>が成り立ってしまっているのではないか。それは、エコ化運動に於いても同じなのではないか。
ヨーロッパにおける合理主義が、およそ自然物を被支配として取り扱っていたことは、有名な話である。
合理、理にかなうといっても、それは人類に対してのことであった。
自然物に利する、という視点ははじめから抜け落ちていた。
なぜ、自然を被支配の対象としてわたしたちは見るのだろうか。それには、次の3点が絡んでいるように思われる。
・われわれ人間は、人類(ホモ・サピエンス)である。 (これはどう考えてもトートロジーである)
・自然物は、動物若しくは植物又は有機物である。
・人類は上位に位置し、それ以下は下位に位置する。そして、下位の者は、上位の者の犠牲になって構わない。
この3点のわれわれの固定観念はなかなか手ごわいものであるが、これらが総じて人為に対して自然を下位とみなし、そこから支配の意識が生ずるのではなかろうか。
これは典型的な被支配観念のようにも思われるが、事態は近年のエコ化運動の基底においても、さほど変わらない。
「地球にやさしい」「持続可能な発展」
これらのキーワードが、実は自然を俯瞰的に見ていることを物語っている。
つまり、前者のキーワードは、自然物としての地球を、私達人類から引き離しているからこそ、メッセージ足り得る表現となっている。 人類/地球 この両者間に、大きな隔たりを分けているからこそ、「地球にやさしい」などという言葉が成立するのである。
後者は、自然物をもはや経済対象においての資本としかみなしていない。 ここでは自然物=資本、という等号関係が成立してしまっており、それは固定されている。
現代資本主義の考え方に大きく依拠してしまっている。資本は投入されるものであり、限りなく扱われる存在でもある。
われわれ(=人類)が主語で、自然は述語。 人類が第一的であり、自然はセカダリー。 人類が主役であって、自然は被従属物。 こうした観念を、わたしたちは捨てることができないのであろうか?
(2、3の点については後日後述。)
オルタナティヴな力。 つまり、<動>から<静>への移行である。
ありとあらゆる、考えられる色々の手段を使って、静的な力を行使するに至るのである。
ここで、法律=法は、動と静の区分けの指標になりうるかもしれない。 動的と静的は、正と不正に対応する。
つまり、法律すれすれの所で、勝負をかける。
簡単な例を出すと、話が整理しやすい。 例えば、核兵器によるかくらんという手段を用いた場合はどうか。
核兵器は、国ごとによって立法は異なるが、もしそれを使ってしまうという段階に達すると、国際法的にはアウトである。 なぜなら、それの行使によって被る、死者や難民の発生、自然環境の破壊は計り知れないからである。
この意味では、核兵器を使うということは、不正であり、すなわち動的な暴力だということができる。
しかし、核兵器によるかくらん行為はどうか。
かくらん行為には、様々な方法がある。 したがって、法律違反、または国際法やルールに抵触しない方法も、限りなくあるはずである。
文書によるやりとり、諸々の外交官の派遣、メディアを使った広告戦略―。
バックには、核兵器という”動的な暴力”をひそませているかもしれないが、表面上で使っているのはそういう類の力である。
法律違反スレスレの程度で、どこまで動的な暴力をそのまま”率直に”使った場合と同じかそれ以上の効果をもたらすか、ということをめぐって、力の行使の方法が考えられる。
そのとき、それらの同一の種類の力を、動的暴力に対して、静的な暴力と呼ぶことはできないであろうか。
思想戦略は、身体戦略にとってかわって、勢力の誇るものである。いや、そうであるべきであろう。
それは、例えば、WW2以降、表現の自由が、益々尊重されるタテマエをとってきたことが大きく関連すると思われる(表現の自由については、指摘すべきことに事欠かないが、ここでは立ち入らない)。
アメリカは、日本への思想の市場潜入+浸透という行為に、おそらく成功している。
少なくとも依存的でなかった古い日本を、国交なしでは立ちいかないという(国際社会)依存型社会へと日本を向かわせるのに、アメリカは一役どころか、かなりの影響を与えている。
それは、日本人の生活の変化一つとってみても分かることである(朝食はパンしか食べないという人が多数になった、等)。
それらは、ひとへに、アメリカ発の、”思想”の日本市場への輸出(あるいは輸入)、である。
ただ単に運ぶだけではなく、広告を効果的に使ってきたことが注目にあたいする。
広告は、人々の持っているニーズやウォンツを掘り出すという一般的な性質を持っていると、経済学の領域では様々に指摘されているが、それはここでも当てはまるであろう。
最後に、話をたばこ禁煙の話に戻そう。
つまり、たばこを禁煙するべきか/しないべきか の、善悪の判断については、実のところ観念や情念によって決定しているところがわれわれの内においては少なくないのである。
しかし、たばこ禁煙が、本当に”悪”なのか、という事柄についての考慮において、われわれは慎重さをいまひとつ欠いているのではないか?
アメリカが、生活の場面から掘り起こして、わたしたちに思想”戦略”を用いたように、ここでは、静的な”暴力”というものが、多かれ少なかれ働いているのではないか? そしてそれを我々は、しばしば見過ごしているのではないかー? 暴力の行使が起きているにもかかわらず。
暴力は、即発性のあるものである。それらは時に、理性を吹き飛ばす。
結論を述べると、昨今のたばこ禁煙[運動]の中には、少々やり過ぎているものがあるというのを否定しがたい。そうして、多くのやり過ぎていると感じられるものは、広告というものを媒体としたある種の”思想戦略”を行っているのではないかー?
ということである。
程度の差はあるが、アメリカが特に外交の場面で使っている、オルタナティブな力としての静的暴力の行使の構造と類似した― 一つの”力”を。
暴力の行使については、わたしたちは、いまいちど、もう少し敏感になる必要があると私は思っている。
たばこ問題をそういう切り口で開いてみると、見えてくるものはまったく少ないということはない!
以上! あまりまとまらなかったです! ← 笑
misty @
もちろん、この時点で「暴力」だとするのは早計である。
そこで、いくつかある中から、あるひとつの禁煙[運動]の一つの形態を取り上げよう。
大部分かどうかは定かではないが、ある一定の場合に多くみられる形がある。
「広告」(ないし、それを伴った呼びかけ[運動])である。
諸々の個人が手掛けたポスター、それの展覧や諸団体への提供物としての「作品」、たばこ箱に異様に大きく表示されたメッセージ、テレビCMを用いた呼びかけ、新聞に載っているチラシ・・・。
これらは、ひとえに、「広告」として、その性質をまとめることができるだろう。
上のような例は、近日にいたって、本当に多くなっていると実感する所もある。
政府が、2月末に、公共機関での喫煙を原則廃止すると言った案を検討していることが、かなり影響をおよぼしているのかもしれない。
しかし、それ以前から広告を用いた呼びかけ[運動]は、多数に存在していたはずである。
これら広告は、われわれの身体を直接しばりつけるものではない。すぐさま、喫煙者その人から、たばこを奪う、といった物理的力をもつわけではない。
その意味で、これらの[運動]は、決して動的(active)なものではありえない。
しかし、その事実が、一つのことを鮮明に浮かび上がらせる。
「広告」は、人々の身体でなく、人々の心の奥底に忍び込むような力をもっているのである。
それを「精神的(作用・力)」とまとめることもできるだろうが、内容に一歩踏み込むために、その表現をあえて避ける。
時に強烈(それらがしばしシンプルに見えるようなことがあっても)・過激な広告は、何より人々の心奥底へ訴えかける。内心に、ズドンと響かせるようなことを目的としている。
そのために、心に響くためのメッセージが、幾多にもわたって考えられ、そして応用されるに至っている。
何より表現にこだわっている面があるというのは、上のようなことが事実であることを物語っているであろう。
身体に影響をおよばさずとも、精神のもっと深い所へ、攻撃の矛先を向ける。
それゆえ、静的な暴力、というのである。
この時、静的な暴力動的な暴力は、ともに「暴力」であり、それらが力の優位の関係の上に立つものではない、ということを言っておかなければならない。
それらは、内容を同じくするため、ただその表象される様子・原動力・態様が異なると言うだけである。
とりあえず、ポスターやTVCMでの呼びかけといったものを、静的な暴力として呼ぶことを、一応了解されたい。
それでは、静的な暴力とは、どのようなことを意味するのだろうか?
動的な暴力に代わるものとして、静的な暴力がしばしば行使される、ということがあることを、挙げておきたい。
これは、話が飛んでしまうが、諸外国の昨今の外交戦略としてよく用いられているように、私には思われる。
「アメとムチ」という言葉があるが、少し似ているかもしれない。
アメリカは、良くもわるくも、外交戦略に長けた国である。
かつては、アメリカも、動的な暴力のみに頼って、若しくは動的な暴力を主として、外交をすすめていたことがあった。 冷戦期のアメリカ外交は、好例のように思われる。
軍事力。それらは人的資源と物的資源に大別される。兵士・兵隊・司令塔、ゲリラ戦隊等々が前者の場合で、核兵器・ミサイル、爆弾、航空、戦車などが後者の場合にあたる。
ひとつ覚悟して言わなければならないのは、アメリカは、自国の正義のためにしばしば他の一切の正義や善を侵害する傾向がある、ということだ。
それでも、アメリカは、軍事力の直接の行使を差し控えることもある。しかし、重要なのは、それで終わらないということである。
他の国との接触(とくに、緊迫した)を図るとき、たいへんに怖ろしいのだが、彼らの力をもってして、別の、オルタナティヴな行使を実行することがある。
(続く)
misty @
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