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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
カテゴリー「社会問題」の記事一覧

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mement mori

@mement mori
 
メメント・モリと読む。どこの用語法であったかは恥ずかしながら失念してしまったが、意味は「死を想え」ということである。生きながら、その生の中で「死」のことを考えろと問いかけてくる意味の用語である。
 
 生きながら死のことを思うとはどういったことなのか。ここでは、まず俗世間的な視線として<生>と<死>は反対概念としてもちだされる。生きることの反対は死ぬことであり、逆もまた然りである、という(短絡的な)考え方である。
 世俗的観念としての<生>と<死>には、これまた二極的なイメージがどうも付着しやすいようである。<生>には主にプラスのイメージがつきまとう。陽光を浴び讃美歌を口ずさむ人の肖像、などは<生>を肯定しそのことを包括的に善し!と鼓舞する。太陽。日が昇る。木や森が茂る。子どものきらめきが輝く。
 反対に、<死>にはマイナスのイメージが付きやすいようだ。おどろおどろしいガイコツ=髑髏の行進。西洋のペスト大流行時を含意したものとしてよく描かれる(ここでペスト感染がすなわち<恐怖されるべき死>を意味するのは言うまでもない)。月光。日が沈む。幽霊や化け物が死の世界へ誘い、それらを恐れるものともする。黒や灰色の動物が暗喩する。
 
◆ 生(生きること)  ⇔  死(死ぬこと)
 
 なぜ<生>はプラスとして、<死>はマイナスとして観念されるか?
 この答えは幾つかあるだろうし、複層的になっているのだろうが、敢えて一つの答えらしいものを取り上げるとすると、それは<生権力社会>である
[1]だろう。生権力社会とは、すなわち人々の支配の対象が<生>になっている社会のことである。人々は、往々にして、<生きる>ことに支配される。善く生きろ、などと言われることがある。これは、主に倫理的な意味で、その社会・時代において標榜される生き方をなるべく踏襲しろ、と命ずるものである。法律で「善く生きろ」ということが規定されることがないとしても、この標語が掲げられそれが<よい>ものとして作用する限り(近代社会以降において、特に哲学的見地を出発して「より善く生きる」ことを目指す風潮がエネルギッシュとなった)、それは人々の道徳的心理を支配する・縛り上げるものとして働く。<生>とは、先程述べた単純なプラスのイメージではなく、人々の人生を縛り上げるものとして働くという側面を仮定する、というものである。
 生権力社会では、人々は<生>がまるで手錠のようになってそれに惑わされる。こう生きろ、いやこう生きろという無言の圧倒的な命令が社会の随所で鳴り響き、それらに従わなければ社会から排除される―。この、社会からの排除こそが、まるで<死>でもあるかのように。社会的逸脱、アウトサイドはいわんや<死>そのものよりも忌み嫌われるべきものとして現れるのである。
 
 とすると、現代社会は、忌み嫌うべき対象が<単なる死>から<社会的死>へとシフトした社会であるかもしれない。社会に辱められ自己の生を傷つけられるくらいならば、死んだ方がまだマシであるかのような思いとかが、それの特徴を表している。いや、それは現代社会に特有ものでもないのかもしれない。新渡戸稲造の描く「武士像」とは、このように恥ずべきくらいなら死、という様ないさぎのよい侍をも包含していたはずである(それが新渡戸自身が直接意味していたものかどうかは別として)。祖国か死か、チェ・ゲバラのような生き様も、また似ている。ここでは、(何らかの意味において)善く生きることが何よりも重宝され、続いて単なる死が、そして最後に社会的死=排除、逸脱が最後にくることになる。
 
◆ 善く生きること  >  物理的死亡  >  社会的死亡
 
ここで話を戻すとしよう。メメント・モリが示すその広範な意味を捉えることは確かに難しいが、この意味をあえて一歩間違えてみよう。すると、メメント・モリとは実は、人々に<より善く生きろ!>と強制しているようにも聞こえないだろうか? 死を想えの「死」とは、単なる死(=物理的な意味での死、身体の死亡)ではなく、社会的死(被・名誉棄損、堕落した生活、不健康な身体etc)をこそ避けるのだ!と。より善く生きているのならば、別に単に死ぬことは構わない、ただ不名誉な死は避けるのだ、と。
 このようなひねくれた見かたは、しかし、一番最初の段階であった二極対立としての<生>と<死>の観念の差を曖昧にさせる。 生きながらにして死、という新たなレヴェルが登場するからである。
 メメント・モリが本当において人生の何を語っているかは、ここでは重要ではない。その意味の拡張を本稿では標榜している。
 
 死のことを考えながら生きる、というのは、たとえば「人命は知らずともいつかは散っていくものだから、その生を大切にせよ」とでもいうのだろうか。これならば、つまりメメント・モリとは<善く生きろ!>とほとんど同じ意味を担っているのであり、生権力社会に符合する形となる。しかし、そうではない。そうではないというより、それ以上の意味がこのメメント・モリにはあるはずである。
 ここで、はじめに示したファースト・レヴェルとしての<生死>の概念とはおサラバしておこう。死ぬことは、ただのマイナスではない! 思うに、それらはある何らかの意味があるからしてマイナスたりているだけなのだ、と。なぜ死がマイナスとされるかの考察はおくとしても、むやみやたらに忌み嫌われるべき<死>、という概念はとりあえずおいておこう。
 
 私は、生と死は、2極という反対方向に動くものではなく、むしろ同一の所に近くあるものとして捉えた方が妥当であると考えている。それは、生権力社会の描く生死の概念に根拠付けられる。前近代社会や、(問題視されるべき)専制政治などの核には、死が支配する(国の掟を破った者には、無条件に死を処すると威嚇することで、心理的に追いやり、人々を支配の枠の中に入れることなどである)という事柄があった。近代社会以降においては、その支配者が生から死(とくに、社会的死)と変わっただけである。人々の人生を縛り上げるものとしての意味においては、両者は実に異なることがない。
 さらに、<生>と<死>は似たような構造を持つ。支配するだけではなく、人生を燃えたぎるものとしても。現代社会は、前者が燃えたぎる人生だけを価値あるものとしている風もある(太陽の光を浴び、生を肯定することの方が生きやすいといってそれらがあたかも最善であると一部では考えられているように)が、それだけではない。<死>も、同じように人々をエネルギッシュに揺さぶる(例えば心理学用語の<死への衝動>などがそうである。フロイトは<死への衝動>を単なる善悪の概念から外して捉え、中立的な、ある意味では準・事実として<死への衝動>の概念を提唱したはずである)。死へと向かうことは、別にわるいことでも何でもないのだ。というより、善悪の問題ではないかもしれない、というのがポイントである。生きる・死ぬは、この段階において善悪の概念から切り離される。
 
 人は生から出発し、死において到着するという簡単な(それゆえに間違っているかもしれないが)図式を考えてみよう。出発点も到着点もともに人の収束する地点であり、いずれかだけに比重が傾くということを無理にかんがえる必要もない―。というのが、私の持論である。透明な生、透明な死というのは当然あってもいはずだ、と思う。小難しく考えなくても良い生、または死。人は、いつも生死について悩み、ぐだぐだと思考するが、そんなことばかりしなくてもよいのではないだろうか。私はそう思う。だからといって、生死への思考や思いを放棄するわけでもない。
 
 メメント・モリ、特に私にとっての<メメント・モリ>とは(各人のメメント・モリがあっても全く構わない筈である)、単に「善く生きること」を標榜するものでもない、かといってずっと死=恐怖を念頭に置くような鬱っぽい人生を奨励するものでもない、そうではなく生と死の本質を人生と結び付けて時には考えてみるのも手だ、といった意味に捉えている。それくらいの限定を付けくわえても、なおこの用語は重要なものとして私の思考や感情を起伏させる。
 
 
 最後に、メメント・モリをあえて主題にしようと考えたのは、近年の自殺をめぐる人々の思考態様に目をむけてのことであった。自殺はとにかくよくないものと、実に多くの人が思っている。その理由は様々で、どれにもそれなりの説得力があるが、しかし決定的な根拠や正当化までにも至っていない、というのが率直な感想だ。
 実をいうと死=悪、恐怖 というとても強く結び付けられたこの2つのもの、という考え方をあまり否定もできないから、そこから出発して自殺はダメだ!となっている考え方も多いのではないか(例えば、自殺は遺族を悲しませるからダメだ!という考え方は、もっともだと思う反面、それではなぜ遺族は悲しむのか、と問えば、それは一般的に死ぬことが悲しいことと置き換えられているからだ、死=悲愴という単純な構造に支えられているに過ぎないのだ)。
 死=悪 という等号は、必ずしも結びつくものではない。いや、それを積極的に取り外そうとする動きも特段推奨されるものでもないかもしれないが、私はどうも社会の働きに敏感なタチである。
 社会がそれらを等号する―何らかの理由や背景を以て、とあるのならば、それはとりあえず探ってもいいのではないか、というのが私の基本的なスタンスだ。 近年の<自殺はダメだ!>という風潮は、風潮であるがゆえに、その根拠や背景もじっくり考えてみなければならないだろう。
 生命の尊重、という事柄がクローズ・アップされてしかるべきだが、本稿では省かせていただいた。ただ、生命の尊重が実は生権力に裏付けられたものでしかないという事態であるならば、それは本稿でみたような考察も全くの意味をなさないわけではないように考えられる。
 
misty @


[1] 生権力社会とは、私の知識の範囲内においては、フーコーの論ずる主題の中心となっていた概念でもある。私はフーコーの生権力論・生政治論を直接読んだことはない。ここで私がこの用語を用いて念頭に置いているものは、フーコーの生権力論を簡潔に要約した一般的なイメージぐらいである。それくらいの程度で捉えてもらえれば結構である。

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ベーシックインカム-マイノリティたち

こんにちは。
何回も書き直してしまいました、このベーシック・インカム。
それだけ奥が深いってコトで。笑

すみません(平謝り)。

@ベーシックインカム-マイノリティたち

ベーシック・インカムを考えるとき、現代的な「マイノリティ」を考察しておくことは必要不可欠である。
両者は密接に結びついており、深く絡み合っている。

ベーシック・インカムのある一つの構想(※「一つの」、というのはミソである。誰しもが、以下に掲げるような定義をしているわけではない。山森×立岩「ベーシックインカムを要求する者」『現代思想 6月号』(2010、青土社)76頁参照。)には、

「社会構成員すべてに等しく、最低限または少なくともある一定の、所得を付与する」

というものがある。 これを「基本所得」または「ベーシック・インカム」とさしあたり定義しておく。

このようなお金の種類・内容については、それがどのようなものなのかよくよく考えてみなくてはならない。

例えば、これは憲法25条が明記しているような、「健康で文化的な最低限度」のお金、ということになるのであろうか?
もしそうだとすれば、ここで問題となるのは、ある一定程度の金銭は、それが「健康で文化的な最低限度の」生活を送るために必要となる、という前提である。
その目的を達成するためには、お金をかけなければならない。タダでは無理、というのである。

それでは、「健康で文化的な最低限度の」生活とは、具体的に何を指すのであろうか?
ここでその文言を、①健康で②文化的な③最低限度の生活、という風に便宜上分けて論ずる。

(1) ①健康で

健康の概念には、どのようなものが含まれるだろうか?
 それは、病気でないこと、適切な老後生活、幼児期の健やかな成長、精神的健康など、さまざまなものが考えられる。
 中でも、「病気でないこと」は重要である。現代社会は医療社会だといわれるように、人々は病気のない生活を送るためには、人それぞれに違いはあれ、何らかのところで医療にかかわりざるを得なくなってきた面がある。
 大きなケガをすれば、例えば手術が必要になったり、あるいは入院が求められたりする。

そう、ここでのテーマは「医療費」である。
 医療費はタダではない。時には莫大な財産をつぎ込んで病院に世話になることがある。
しかし、医療費には、バラつきがある。個人差がある。
その差には、もちろん偶然的なものもある。 たまたま事故にかかる回数が多かったりだとか、大病に見舞われることが多かったりだとか。
 それらは、後発的事由である。それに対して、先天的事由によるものがある。
ここで登場してくるのが、障害者である。特に、先天的障害者。

@執筆中@

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エコ 続き 完


承前

第二の点。
エコ化は、スリム化と同義であるのか?

キーワードとなるのは、「持続可能な発展」である。
 このキーワードを”自然”に当てはめようとするのが、実はエコ化の正体なのではないか。

これは、スリム化と何も変わらない。
自然を、資源に置き換える。 資源は、使うものであり、使われる対象である。
自然の、資源化である。こうして、資源化された自然を、いかに長く利用できるか、という風に見方を変えるのが、持続可能な発展の考え方のようにも思える。

 見方は、あくまでも資源を長く細く使えるか、ということに集中するので、ここでも、定義されたエコ、つまり繋がりを重視した本来のエコ=自然主義とは、似ても似つかないものになる。

実際、この資源としての自然の見方は、あのエコ化運動に珍しいものではなかろう。
これは第一の点にも通じているが、自然はあくまで利用されるものとして、つまり被従属物として、取り扱われることになる。
 被従属物であることの地位は変わらぬまま、しかしその程度を作用させようとするのが、スリム化の運動である。
 大から小へ、資源の利用形態のレヴェルを下げることで、あくまでも善を見せる。
しかし小といってもあくまで資源利用は資源利用であり、その点でエコ化はスリム化の考えと大して変わらないことになる。

第三の点。 この点は、かなり際どい。
エコを向ける、対象(客体)の問題である。
エコの対象となっているのは、どんなものであろうか?
 汚染されうる空気、伐採に供する森林、木々、プラスチック袋、割り箸、電力(その抑えによる火力発電の資源活用の減少)・・・。

 これらは、一括することができる。つまり、これらはあくまで自然(nature)の一環である。

エコ化の働き手に回るのは、私達人間であって自然ではない。そして、その客体は自然であって人間ではない。
自然はエコ化させるが、人間はエコ化させない。

月刊雑誌『現代思想』の昨年09年度10月から、檜垣達哉が「ヴィータ・テクニカ」で論じている人間、またはアガンベンの議論による人間とは、しかしそれ全てが人為ではなかった。
 人間にも、まったく人為的な所と、まったく人為的でない、自然的な所の両者がそれぞれ見られる。

例えば、鷲田が好んで引く例でもあるが、風邪をひいて体調を悪くした時などのわれわれの体は、ほとんど自然物といって過言ではない。なぜなら、それはまったくコントロールが不可能なものであるからである(ある程度の治し方は分かるが、完全に治癒できるかどうかというラインでは肯定することができない)。

 つまり、実は観察者としての私達も、実は人為の部分だけでなく、自然の部分が多々あるのである。
すると、次のように整理しなおしてみるのは、さして論理が飛躍したものでもない。

われわれは、エコ化運動において、私達の外=OUTの世界にある自然物に対しては、エコの矛先を向けるにも関わらず、私達の中=INの世界にある自然物に対しては、エコ化の矛先を普段当てない。

 これには、もちろん例外がある。例えば、臓器移植である。幾つかの論述で見られるように、臓器移植はある種の、移植される者への資源提供と見ることができる。この意味に於いては、臓器移植を大きな意味でのエコとみなすのも、特段の無理もないように思える。

 しかし私達があくまでエコ化させようとするのは外の世界にある自然物であり、観察者自らの自然物としての”私”は、置き去りにされている。 むしろ、それらを置き去りにして、ひたすら外の世界にのみ目を向ける、といういいかたのほうが正しいのかもしれない。

第四の点。
これは、もっと厳密な意味での自然主義に関わる事柄である。
 自然そのものを崇高しようとする、宗教は特に未開地域やアジア地域などにおいて、よく見られる。
日本人にも、まったく馴染みがないというわけではなかろう。

 自然をある種の神とみなすこと―。それらには、どんな意義があるのだろうか。
一概には言えないが、一つには、自然を信仰の対象とし、それらをあがめたてまつることで、神との一体化を図るという、宗教の普遍的な目的が目指されているのではないか。

自然主義は、宗教とはいかないまでも、その本質的な部分とはだいぶ接点を同じくしているように思われる。
 信仰とかの対象ではないが、尊敬を抱く、という点は非常に似ている。

エコ化運動は、はたしてどうであろうか? そこに、自然への尊敬の眼差しという要素は、あるのであろうか?
 
 これは論者によって異なると思われるが、私はどうも、エコ化運動にはそのようなものは見受けられないと思う。若しくはあっても、建前だけの、仮の形だけのものである気がしてならない。

 根拠をあげるとすれば、例えば商業主義との結びつきである。
普遍的宗教は、一般的に、そこまで商業主義の色彩を帯びずに在ることが前提となっている。
それはなぜかといえば、本質的に、宗教と商業があまり重なり合わないからである。

 しかし、運動化された近年のエコはどうか。
それらは、実に色んな商業によってその結びつきを強めている。
エコを前提とした産業や、商い(排出枠取引、マイバッグ商品の売買etc)が台頭しているのをみると、一目瞭然であろう。
 それらはエコを売りとしながらも、結局はお金儲けという捨てきれない性質を抱いている。
特に、エコ運動の自由経済への浸透という現象には、気をつけなければならないだろう。
 なぜならば、本来的には、エコ(つながり、関係の重視)には、値段による価値の序列化や、ニーズなどとは何の関連性もないはずだからである。

それを、結びつけようとするのは確かに斬新性を獲得することにはつながるかもしれないが、しかしその根本の関連性を考慮することには欠けるであろうことを、十分認識しなければいけないはずである。

 以上のように、エコ化運動には、原理的にいくつもの危機をはらんでいる。
私は、運動そのものには、懐疑を抱くものではない。 賛成を唱えたい。
しかし、現状をみる限り、実にエコ化運動には、向う見ずの所というか、見切り発車的な側面や、商業主義と根強く結びついてしまっている側面などが多々あり、そのたびに本来の”エコ”・”自然主義”とかけ離れていったものになっていることは、認めなければならないことであると思う。

 今一度、これらの事態をじっくり捉えなおしてから、エコを再考するのは、決して無駄でないことであろうと思われる。

msity @

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”エコ” 不快な響き


 言うまでもなく、近時、”エコ”という言葉が声高に叫ばれている。

 そのムーヴメントは、ようやく国民(つまりこれは、「国」から(from)という事を意味しているのであろうか?)の意識の下に浸透してきたようだ。
最近、私の友達が”エコ”という言葉を、ごくナチュラルな感じで発していて、それをごく自然に―この「自然に」という用語法=現象が、本稿が捉えようとする所の一つでもある―受け止めている周囲の反応を見ていて、実感したことである。

 ”エコ化”の動きが、国を超えて、あらゆる所で、平坦に盛んになってきている。

この時点で、一度はたと止まって、”エコ”の”意義”を再考してみるのも悪くはない。

多様の意見、情動があって然りであるが、私は幾つかの観点から、昨今の”エコ化”の現象に、ちょっとした異を唱えるものである。 それを簡潔に述べておきたい。


 ”自然に帰れ!”―。 これを唱えたのは、ルソーであった。
自然に帰る、自然の中に今一度「戻」り、その中で人生や価値観やライフスタイルを問い直してみよ―。

 これは、自然主義とでも、とりあえず言葉を置きかえることができようか。 精神世界で言う所の、私たち俗世(物質世界)での、生き方を考えるよりも、より”自然”に重点を置く。 人為よりも、自然。 そういう所であろうか。

 この自然主義を、(当然ではあるが)、概念としてのエコと関連付けることもできよう。
そこで私は、”真の”エコとは、一体何であろうか? と、問わずにはいられなくなるのである。

 エコの一つの定義(原義)を、以下に見ておきたい。

  ―ECOとは、ひとことでいうと、関係の学問、つながりに気付くということ。
(出典HPアドレス:http://eco.81s.net/concept.html

 つながりに気付く。関係性を意識し、それを強調する。
それはまるで、コミュニケーション論の一つのテーマのようにも思われる。
 そうだ、「関係の学問」ということであれば、その関係を結ぶ客体(相手)は、まだ原義からは何も限られていないはずだ。
 相手は、生身の人間でもよい。 コンクリートでもいい。美術。衣服。情報。自然環境。

 昨今唱えられている”エコ化”のムーヴメントは、この客体の幾つもの選択肢のうち、主に自然環境を捉えているようである。自然環境とわたしたちの関連に気付き、それを大切にする。そういう見地が、今全体として行われつつある。

 ここで、さきの自然主義との関連に立ち戻りたい。”自然に帰れ!”と発するこの概念は、実の所、エコの本質なのではなかろうか?
 この概念の下での「自然」も、これまた限られていない。そして何より、解放されている。そのことが何よりも重要である。

 とすれば、昨今の”エコ”は、真のエコを捉えていない、すなわち、偽のエコだと言わざるを得ないことに私たちは気付くのではなかろうか? 対象を自然環境に絞り、自然環境を”改めて”支配しようとするこの動きは、エコ(関係の学問)の本質から、外れているのではなかろうか?
今のエコ化運動は、自然主義に純粋に基づいてはいないのではないか。
そしてそこには、問題点があるのではなかろうか。

 以下の3点を、考察していく。

まず、人為と自然の関係において、そこには<支配―被支配>が成り立ってしまっているのではないか。それは、エコ化運動に於いても同じなのではないか。

 ヨーロッパにおける合理主義が、およそ自然物を被支配として取り扱っていたことは、有名な話である。
合理、理にかなうといっても、それは人類に対してのことであった。
 自然物に利する、という視点ははじめから抜け落ちていた。

 なぜ、自然を被支配の対象としてわたしたちは見るのだろうか。それには、次の3点が絡んでいるように思われる。
・われわれ人間は、人類(ホモ・サピエンス)である。  (これはどう考えてもトートロジーである)
・自然物は、動物若しくは植物又は有機物である。
・人類は上位に位置し、それ以下は下位に位置する。そして、下位の者は、上位の者の犠牲になって構わない。

 この3点のわれわれの固定観念はなかなか手ごわいものであるが、これらが総じて人為に対して自然を下位とみなし、そこから支配の意識が生ずるのではなかろうか。

 これは典型的な被支配観念のようにも思われるが、事態は近年のエコ化運動の基底においても、さほど変わらない。

「地球にやさしい」「持続可能な発展」

 これらのキーワードが、実は自然を俯瞰的に見ていることを物語っている。
つまり、前者のキーワードは、自然物としての地球を、私達人類から引き離しているからこそ、メッセージ足り得る表現となっている。 人類/地球 この両者間に、大きな隔たりを分けているからこそ、「地球にやさしい」などという言葉が成立するのである。

 後者は、自然物をもはや経済対象においての資本としかみなしていない。 ここでは自然物=資本、という等号関係が成立してしまっており、それは固定されている。
 現代資本主義の考え方に大きく依拠してしまっている。資本は投入されるものであり、限りなく扱われる存在でもある。

 われわれ(=人類)が主語で、自然は述語。 人類が第一的であり、自然はセカダリー。 人類が主役であって、自然は被従属物。 こうした観念を、わたしたちは捨てることができないのであろうか?

(2、3の点については後日後述。)




 

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たばこ禁煙[運動]について ある一つの視点からの考察 その3 (完)


 オルタナティヴな力。 つまり、<動>から<静>への移行である。

 ありとあらゆる、考えられる色々の手段を使って、静的な力を行使するに至るのである。
ここで、法律=法は、動と静の区分けの指標になりうるかもしれない。 動的と静的は、正と不正に対応する。

 つまり、法律すれすれの所で、勝負をかける。
簡単な例を出すと、話が整理しやすい。 例えば、核兵器によるかくらんという手段を用いた場合はどうか。

 核兵器は、国ごとによって立法は異なるが、もしそれを使ってしまうという段階に達すると、国際法的にはアウトである。 なぜなら、それの行使によって被る、死者や難民の発生、自然環境の破壊は計り知れないからである。
 この意味では、核兵器を使うということは、不正であり、すなわち動的な暴力だということができる。

 しかし、核兵器によるかくらん行為はどうか。
かくらん行為には、様々な方法がある。 したがって、法律違反、または国際法やルールに抵触しない方法も、限りなくあるはずである。

 文書によるやりとり、諸々の外交官の派遣、メディアを使った広告戦略―。
バックには、核兵器という”動的な暴力”をひそませているかもしれないが、表面上で使っているのはそういう類の力である。
 法律違反スレスレの程度で、どこまで動的な暴力をそのまま”率直に”使った場合と同じかそれ以上の効果をもたらすか、ということをめぐって、力の行使の方法が考えられる。

 そのとき、それらの同一の種類の力を、動的暴力に対して、静的な暴力と呼ぶことはできないであろうか。

 思想戦略は、身体戦略にとってかわって、勢力の誇るものである。いや、そうであるべきであろう。
それは、例えば、WW2以降、表現の自由が、益々尊重されるタテマエをとってきたことが大きく関連すると思われる(表現の自由については、指摘すべきことに事欠かないが、ここでは立ち入らない)。

 アメリカは、日本への思想の市場潜入+浸透という行為に、おそらく成功している。
少なくとも依存的でなかった古い日本を、国交なしでは立ちいかないという(国際社会)依存型社会へと日本を向かわせるのに、アメリカは一役どころか、かなりの影響を与えている。
 それは、日本人の生活の変化一つとってみても分かることである(朝食はパンしか食べないという人が多数になった、等)。

 それらは、ひとへに、アメリカ発の、”思想”の日本市場への輸出(あるいは輸入)、である。
ただ単に運ぶだけではなく、広告を効果的に使ってきたことが注目にあたいする。

 広告は、人々の持っているニーズやウォンツを掘り出すという一般的な性質を持っていると、経済学の領域では様々に指摘されているが、それはここでも当てはまるであろう。


 最後に、話をたばこ禁煙の話に戻そう。

 つまり、たばこを禁煙するべきか/しないべきか の、善悪の判断については、実のところ観念や情念によって決定しているところがわれわれの内においては少なくないのである。

しかし、たばこ禁煙が、本当に”悪”なのか、という事柄についての考慮において、われわれは慎重さをいまひとつ欠いているのではないか?

 アメリカが、生活の場面から掘り起こして、わたしたちに思想”戦略”を用いたように、ここでは、静的な”暴力”というものが、多かれ少なかれ働いているのではないか? そしてそれを我々は、しばしば見過ごしているのではないかー? 暴力の行使が起きているにもかかわらず。

 暴力は、即発性のあるものである。それらは時に、理性を吹き飛ばす。

結論を述べると、昨今のたばこ禁煙[運動]の中には、少々やり過ぎているものがあるというのを否定しがたい。そうして、多くのやり過ぎていると感じられるものは、広告というものを媒体としたある種の”思想戦略”を行っているのではないかー?
 
 ということである。
程度の差はあるが、アメリカが特に外交の場面で使っている、オルタナティブな力としての静的暴力の行使の構造と類似した― 一つの”力”を。

 暴力の行使については、わたしたちは、いまいちど、もう少し敏感になる必要があると私は思っている。
たばこ問題をそういう切り口で開いてみると、見えてくるものはまったく少ないということはない!

 以上! あまりまとまらなかったです! ← 笑

 misty @



 

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たばこ禁煙[運動]について ある一つの視点からの考察 2


 もちろん、この時点で「暴力」だとするのは早計である。
そこで、いくつかある中から、あるひとつの禁煙[運動]の一つの形態を取り上げよう。

大部分かどうかは定かではないが、ある一定の場合に多くみられる形がある。
 「広告」(ないし、それを伴った呼びかけ[運動])である。

 諸々の個人が手掛けたポスター、それの展覧や諸団体への提供物としての「作品」、たばこ箱に異様に大きく表示されたメッセージ、テレビCMを用いた呼びかけ、新聞に載っているチラシ・・・。

 これらは、ひとえに、「広告」として、その性質をまとめることができるだろう。
上のような例は、近日にいたって、本当に多くなっていると実感する所もある。
 政府が、2月末に、公共機関での喫煙を原則廃止すると言った案を検討していることが、かなり影響をおよぼしているのかもしれない。
 しかし、それ以前から広告を用いた呼びかけ[運動]は、多数に存在していたはずである。

 これら広告は、われわれの身体を直接しばりつけるものではない。すぐさま、喫煙者その人から、たばこを奪う、といった物理的力をもつわけではない。
 その意味で、これらの[運動]は、決して動的(active)なものではありえない。

しかし、その事実が、一つのことを鮮明に浮かび上がらせる。
 「広告」は、人々の身体でなく、人々の心の奥底に忍び込むような力をもっているのである。

それを「精神的(作用・力)」とまとめることもできるだろうが、内容に一歩踏み込むために、その表現をあえて避ける。

 時に強烈(それらがしばしシンプルに見えるようなことがあっても)・過激な広告は、何より人々の心奥底へ訴えかける。内心に、ズドンと響かせるようなことを目的としている。
 そのために、心に響くためのメッセージが、幾多にもわたって考えられ、そして応用されるに至っている。 
何より表現にこだわっている面があるというのは、上のようなことが事実であることを物語っているであろう。

 身体に影響をおよばさずとも、精神のもっと深い所へ、攻撃の矛先を向ける。

それゆえ、静的な暴力、というのである。
この時、静的な暴力動的な暴力は、ともに「暴力」であり、それらが力の優位の関係の上に立つものではない、ということを言っておかなければならない。
 それらは、内容を同じくするため、ただその表象される様子・原動力・態様が異なると言うだけである。

 とりあえず、ポスターやTVCMでの呼びかけといったものを、静的な暴力として呼ぶことを、一応了解されたい。

それでは、静的な暴力とは、どのようなことを意味するのだろうか?


 動的な暴力に代わるものとして、静的な暴力がしばしば行使される、ということがあることを、挙げておきたい。

これは、話が飛んでしまうが、諸外国の昨今の外交戦略としてよく用いられているように、私には思われる。

「アメとムチ」という言葉があるが、少し似ているかもしれない。
 アメリカは、良くもわるくも、外交戦略に長けた国である。
 かつては、アメリカも、動的な暴力のみに頼って、若しくは動的な暴力を主として、外交をすすめていたことがあった。 冷戦期のアメリカ外交は、好例のように思われる。

 軍事力。それらは人的資源と物的資源に大別される。兵士・兵隊・司令塔、ゲリラ戦隊等々が前者の場合で、核兵器・ミサイル、爆弾、航空、戦車などが後者の場合にあたる。

 ひとつ覚悟して言わなければならないのは、アメリカは、自国の正義のためにしばしば他の一切の正義や善を侵害する傾向がある、ということだ。

 それでも、アメリカは、軍事力の直接の行使を差し控えることもある。しかし、重要なのは、それで終わらないということである。
 他の国との接触(とくに、緊迫した)を図るとき、たいへんに怖ろしいのだが、彼らの力をもってして、別の、オルタナティヴな行使を実行することがある。

(続く)

misty @
 

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たばこ禁煙[運動]について ある一つの視点からの考察

こんにちは~。mistyです。

ここ最近の、禁煙[運動]には、少し、ん?、と感じすぎる所があります。
 これはあくまで、個人的な感情です。
まぁつまり、反対をされればされるほど、それは本当に正しい[運動]なのか? 、と。
まぁひねくれ者ではありますから。笑

 僕は、たばこ禁煙[運動]には、そもそも、消極的なんです。
それは、[運動]を推し進めることで、例えば禁煙政策を慣行することなどで、逆に喫煙者の肉体的・精神的な健康を、損なってしまう、と考えるからです。

 割合ではなく、たばこを吸ってそれで生活をしている人は何人も存在します。 禁煙運動は、吸わない人から、吸う人への、暴力的な押しつけ[運動]である、と断言してもいいくらいです。

ちょっと別の視点に入る前に、一つ言っておかなければならないことがあります。
 ちなみに、私は、たばこは吸いません。 しかし、それと私があれこれ言っていることは、あまり関係がありません。
 だって、私がたばこを吸っているか吸っていないかは一要素に過ぎませんから。
もうちょっと言うと。
たばこを吸う人が、反・禁煙的な言説を/ たばこを吸わない人が禁煙的な言説を するべきだ、という構図は、正しくありません。

 ランディ氏が、死刑問題をめぐる賛成派と反対派の[対立]について、同じような構図で彼女自身も述べています。
 ひとえに、大型掲示板に見られる、おそまつで批判にもならない非難言説には、人格と意見をごちゃ混ぜにしてしまっているものが多くあります。いや、現実の会話の交流でさえ、そうなっているものがひじょうに多い。
 人間の意識の、仕掛けの一つのようにも思えます。

 ともかく私はタバコは吸わないのですが、それとの関連を述べるという所から始める気は毛頭ありません。
 現時点において、禁煙[運動]を疑問視する立場にたっていることを表明します。



 さて、禁煙[運動]は、静的な暴力であると言った。これは、的外れなものではないと思う。
[運動]自身には、実に様々な種類のものであるが、この手の[運動]は、性質は静的な暴力である。

 精神的な暴力と言い換えることもできる。われわれの、脳や心の奥底にある、深遠な思念への、静かな、しかし攻撃的な語りかけである。

(続く)

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個人について


こんばんは、遅い時間に、mistyです(*^。^*)

個人について、と題しまして。

最近では、本当によく”個性”の声が上がっています。個性の時代、と言う人まで、増えるようになってきました。

こうした一連の、各人の個性に重きをおく考え方や思いは、個人主義の流れをひいているとみることができます。
個人主義とは、主に戦後からバブル期にまで見られていたとされる、特に行動の場面での、集団主義を反対の極に置く考え方や思いです。

個人主義の内部に、個性主義が内包されている、と説明することもできるかもしれません。
 そして重要な事柄は、この個人主義は深化しているということでしょう。

もうひとつ、最近コエダカニ叫ばれている事柄の中に、”自立性”というものがあります。
説明するまでもないことです。
もうひとつ、”主体性”というものもあります。
 ちなみに主体性については、過去の記事で、簡単な論考をしました。主体性に関しては様々な議論や論考が今でも残っています。

私は、上の、”個性”、”自立性”、”主体性”の、この3つが、ある一つの線・ラインを形成して、個人主義を益々強めているように思います。
これが先に言った、個人主義の”深化”です。

しかし、日本では面白い事に、なおそういった個性をいわば摘み取る、重きを置かない、没個性的主義も残存しています。 「自重」の観念です(これも、主体性についての過去記事で触れました)。

自重主義とでも呼べるのか、様々な局面において、社会では自重することをよく有形的・無形的に要求されます。こういった社会が、日本特有のものであると言ったのが、ルース・ベネディクト「菊と刀」でした。

一方では個人に飛躍を与えるイデオロギーがありながら、他方ではそういった個人を現前化させようとしないイデオロギーもある。
現在の日本は、この2つの異なる要請を持つ声に、翻弄されている社会になっていると、私は思うのです。

そして、ほかならぬ、わたしたち”個人”が、こういった局面において同じように翻弄し、さまよっている。もしくは、さまよわさせられている。これが、現状の姿なのでは、と考えられます。

自重すべきか、それとも現前化させるべきか・・・。この2極をもって、迷ったりするという構造がある。
例えば、今では比較的落ち着いた言葉ですが、2008年くらいのころから「KY(空気読めない)」という言葉が流行ったりしました。 
このKYという概念は、まさに上のような2極の迷いの中で、あったのではないでしょうか。例えば、場の雰囲気を察して、”自分”を出すべきタイミングではなかったにもかかわらず自分を出してしまって、KYだと宣告されるような場合です。

個人主義は、こういった日本”特有”の文化圏の中で、迷いの位置にもあるといえます。自重を重んじる社会では、こういった主義はなじまないどころか、攻撃を受けるからです。

これから、”個性””自立性””主体性”の3点を基軸に置いた個人主義がどうなっていくか、非常に興味深い・懸念されるべき事柄だと思っています。

そんなこんな。

misty @

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貧困社会って、本当にだめなのか?


 あけまして、おめでとうございます、mistyです(*^。^*)
僕のノートパソコンのネットの接合部分がたぶん壊れてしまっていて、だから友達のPCから久しぶりにワイドな画面(笑)でネットを堪能する。 
 年明けてから一発目の投稿は、なんとも・・・な感じになりそうですが。。笑


@貧困社会って、本当にだめなのか?
 について。冒頭からなんですが、実は自分が真に物的貧困に遭遇したことがなかったり、手持ちの資料も特にあるというわけでもなかったりします。ゆえに、上のようなことをあーだこーだ言っても所詮は机上の本当の「空論」と化してしまうでしょうが…(・・;)み、みなさんも一度くらい、格差社会の是非についてうーんと思索を張り巡らしたことがあるでしょう?笑今回は、共産主義(ないし社会主義)から提起される批判と世界の歴史の整理、次に現状を再確認してから、最後に資本社会の前提である人間像の妥当性についてちょこっと述べたいと思います。
 むしろ、みなさんがどう思っているのか・どう考えるべきなのかを聞きたいくらいの気持ちでいきます。(笑)

(1) ユートピア思想
 たとえば、現・日本共産党のポスターの宣伝文句はこれ。

「貧困をなくし、平和な社会と日本へ」

 後半部分は、分からなくもないです。日本は憲法前文でも平和主義を採用しているし、それは国内のみにとどまらず国際関係において見出されるべきものだと思います。
 前半部分は、とりあえずは日本の現状の資本主義社会が生み出す貧困・格差問題への反発、と捉えて構わないでしょう。歴史的にも、まず近代以降資本主義が世界を席巻し、それに対抗する形でいつも共産主義や社会主義があらわれてきたし。
 資本主義の一応の定義は、始原的なものですが「生産手段が少数の資本家に集中し、一方で自分の労働力を売るしか生活手段がない多数の労働者が存在する生産様式」という、マルクスの提唱したものからでいいでしょう。定義から内在的に、少数の資本家と多数の労働者というピラミッドに似た上下構造を付随していることを読み取ります。
 歴史の沿革から見ても、基本的には、労働階級(=下流階級?)の方からの貧困層の流出が顕著になる。反旗を翻す形で共産主義や社会主義が台頭するのが、歴史上の共通項のようです。



 というか、私は共産主義の掲げる平等思想・平和思想そのものはかなり好きなんです。(笑)ユートピアとゆうと、イデオロギーの言葉と等しく、ある何らかの背景を既におっていると前提されがちですが、ここでは単純に理想的、ぐらいに。人格みなが等しくて、給与も一律に等しい。 むしろ人間社会が目指すべき窮極の社会観が「共産主義」であるとさえ思っています。
※歴史の時間的進行性を踏まえて、共産主義は、民主主義・(自由主義)・全体主義・自由民主主義・社会主義ときて、「次」に来るべき新たな社会の体制、という風にみる見地もあるみたいです。※  ただ、ロシアの革命や東欧・中国等のそれは、早すぎた共産主義の到来としてあった。
 共産主義と社会主義の実質について高校世界史レヴェルの知識しかない私が思うのには、
 
まずもって、この主義が実現されるためには、まず人間一人一人がものすごい善のかたまりそのもにならなければならない。加えて、みんなが同じエネルギーで現状(資本主義が一般に各国を席巻している)を打破しなければならない。この2つの圧倒的なエネルギーを誇る制約が、今のところは資本主義をどう組み立てなおしていくか、で経済の議論のほとんどがそれを中心としている大きな原因だと思います。

 文明が発展しても人間は発展するとは限らない、とは言われますが、まぁ実際あと300年くらいあったらできないこともない・・・? このへんはよく分かりません。


(2)貧困社会=格差社会の平等性

 とりあえず、日本や、「社会主義や人民主義を採用していない先進国」内で貧困や格差の問題が訴えられているのは、当該社会が資本主義であることに異論はあまりないハズ。
 (修正されたものであれ)資本主義は、貧困をどんどん生み出す機械みたくなっているじゃないか?

と。
しかし。

貧困社会=格差社会そのものは、極めて平等な社会なのでは?(-"-)
 なんかと僕は思ってしまうわけですが。これはどーなんでしょうか。
 現実をどー見ても、昨今の議論の中心にあるのは、格差社会=絶対悪、と捉えてそもそもの体制批判をするというよりも、格差社会それ自体はいったん是認して、その運用の在り方を巡ってあーだこーだと言っている処にないですかね?(´ψψ`) 以下は、あくまで私の頭の中(だけ)にある考えでが。
 格差社会というのは、大変合理的な人格観を前提として、構築されている。むしろ、非・格差社会こそが、不平等社会に他ならないのでは。かつての、ソ連での市場政策が、歯が立たずついには一国の滅亡という事態を引き起こしたように。


***いったん筆休め***
もちろん、上に述べたように、日本に見られるような格差社会は、その社会の運用状況に解決が施されるべき問題が数ある、と私は思っています。だから、以下では格差社会の是非云々の話ではなく、資本主義をベースとした格差社会が前提としている、人間像の妥当性について、ほんの軽く検討します。


(3) ものさしと均一化

繰り返し述べるように、以下の記述はマルクスやケインズの概念に厳密に沿ったものでもありません。かなり手前勝手なイメージです。
まず、括弧1でゆったように、少なくともマルクスの定義から直接資本主義の構造を引き出す見地に立つと、そこには少数バーサス多数の、ピラミッド型の競争社会がモデルとして置かれてあることを読み取るのにそう無理はありません。 さて、近代社会科学たるところの、近代法や経済は個人に何を与えたか。

共通項としてあるのは、「画一性」ないし「均一性」です。法律は「人」を一律的に定義し(私権の享有は出生にはじまる、年齢20歳をもって成年とする等)、経済は合理的モデルを「人」に求めました(家計の効用最大化行動、企業の利潤最大化行動等)。

(個)人の概念そのものについては、それこそ10人いれば「人って、こういう生き物だ!」と10通りの返事がありそうなもので、要するに多元性を帯びているだと私は捉えています。
だが、個人が上下に動く競争の中では、当然に法や経済などの、社会に馴染む為、個人を何らかの形で固定化するものさしが必要となってきます。そこで、本来多元的である彼らにいろんなものさしを使用する。そうやって、ヒトの画一化・均一化がなされます。 男性/女性の峻別、年齢に基づく役割の振り分け、労働力による差別化…。
そうしてようやく歯車は擬制され、みなが動き出すといったイメージ。歯車が止まった時用の交換制度、各歯=基準測定、の移り変わり等等が制度運用の問題、か。

想像も構想もこの上なくシンプルで、少なくとも景気を考える上には「悪くはない」、概念。


しかし、先ほどもいったように、私の人間観としては、本質的にバラバラ、(だからいいんだ・サラダボウルみたく)だというのがあります。だから、もともと異質なものを画一化ないし均一化しようとする分、その歯車やものさしの測定つまり「個人の何をどのように図るのか」という事柄に常に焦点が合わせられなければならない。
けど、「この歯の図り方はダメだ!」(例えば、所得財産に応じて参政権を付与していた帝国憲法制定初期の男子選挙への不満)と言って、一度使ったものさしで運用させた歯車をまたいちいち図り直して修正するのも、面倒=社会の安定性を重視する立場やコストの見地からは、問題。 ここで悩ましいのでしょう。

ということで最終的にはものさしの話になりました。笑 あの、最後に何ですが、最近古本屋でよく見かける、三浦著「下流社会」(2005、光文社新書)。これを読み終えて、個人的には斬新な視点でものすごく面白かったというのが感想なのですが、本書では今の日本社会に総じて「足りない」ものとして、人生への意欲がない、とか述べていて…

゛意欲゛とはこれまた、どう図るのかと思いきやそこまで踏み切った検討でもなく(ほとんどが独自のアンケートや意識調査に基づく数字によるもの)。。

書物として読むには面白いけど、到底これ1冊では新たなものさしへの提案にすらならないだろうな…などと思いました。
貧困を自動的に生み出す格差社会って、実のトコロどうすればいいんだろう。

ミスティ @

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漢字社会の混迷について

せかいのみなさん、おはようございます、mistyです♪
今朝は、持病のため、具合を悪くしてしまってます。むぅ。。早く治るといいな。

次投稿は「プラマイゼロpart3」か「芸能人の「人権」part4」にするつもりだったのですが、如何せんどちらにせよかなり詳細な記述になるので笑、またコーヒーブレイクさせてください。(笑)

カテゴリは「社会問題」ですが口調はエッセイですからね!(笑)

@漢字社会の混迷について

今日朝の日付で、NHK再放送「日本戦後 漢字事件簿」というドキュメンタリーの放送(※1)があり、興味を抱いたので観た。

短い放送時間にしてはまぁまぁ悪くはないクオリティ(目線が高すぎw)だったと考えられる。
その放送内容の概要、それから私が日頃から抱いていた日本での「漢字の使い方・使われ方」の思いの蓄積、そしてそういった社会に対する私の簡潔な私見を述べてみたい。

1、
日頃から、最近特に若年層による漢字の使い方・使われ方には抵抗感というか、不快感を感じていた。
その内容はとても単純なものだ。
「ロクに書けもしねぇ漢字を軽々しくほいほいとケータイで使うなっつーの!!」

本当に、遺憾の思いである。あまりにも広範囲の若年層が同調行動を取るので、それに対して、ここにいる阿呆丸出しの大学生が、(1)手書きの文化歴史をないがしろにしている(2)自由を超えて利己的な使い方になってしまっている(3)パソコン・ケータイ等の電磁機器に内蔵されている漢字変換機能の利便性にかまけてしまっている、と短絡的に思ってしまう。
それに対して、狭きに失するといった批判をするにははあまりに酷であろう。

2、
「戦後日本 漢字事件簿」の放送では、戦後~現在の日本社会における漢字の使い方・使われ方の歴史をはじめに提示していた。
まず戦後国家による「常用漢字」の「指定(制限とも揶揄)」をとりあげ、次に60年代後半~70年代にかけて、表現の自由の拡張/個人の尊重の概念の広がりとともに、国家による漢字制限批判を随伴する東洋漢字以外のカンジ出現(例えば、「煌煌とした」「悉く」)、そして80年代~90年代、ワープロに続いてパソコンの登場による、一般人へのいわゆる「難しい漢字」の利用の普及、そして00年代、その爆発的広がりと、それに並行した形での再度の「国家による常用漢字の指定」の見直しの動き、を検討していった。

特徴的だったのは、文化庁が一般人に対して以下の意識調査を行った箇所。
・漢字を使い分けることを意識していますか?
→「いいえ」+「よく分からない」と回答した人が実に80%近くであったということ
・難しい漢字(憂鬱、五月蠅い)などを携帯メール・PCなどで使うことに特段抵抗感を感じないと答えた人の、その感じない理由
→「カッコいいから」 「文脈で(意味内容が)読み取れれば問題ないから」 「自分のアイデンティティを発揮する場でもあるから」

こうした爆発的利用の広がりに関して、困った人もいるという内容を、
1、正式に(要するに極めて合法的に)帰化を取得した在日外国人の日常・労働生活における不便さ 2、(なぜか)裁判員制度での「法律(法廷)用語に対して感じる難しさ」 などを例示(なぜに2つだけ?!と思た)して取り上げていた。
1の文脈では、とある介護福祉センターで福祉士として働く女性外国人。確かに「御粥」「石鹸」とかは読みにくいよね・・・と思った。。 2、では、「改悛」「懈怠」などなど。なんかこれに関しては、私も法学部である以上、何故か申し訳ないと思った。法律用語辞典は高いよん!

来年度追加される常用漢字としては、「挨拶」の両者(これは手書きでいけます、そない難しない!)、あとなんやったけ・・・メッチャ分からんのがあった・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/

3、放送に関しての私見
ごくごく端的に述べたい。
放送内容に関してはいろいろ?な部分もあったが最初に述べたとおり放送時間との関係もあるのでとやかく言わない。概要に沿って以下述べる。
まず、一般人の漢字の利用は、一概に絶対的自由と考えるべきではない。
(ア) かな世界の歴史・有効性を、一定程度軽視することにも繋がりかねない
(イ) (ア)に関連して、かな文字で表現できる幅であるにも関わらず、読むのも困難な漢字選択を過多にしてしまって、無用の混乱をきたす
(ウ) 仮にその漢字を(例:「煌煌」)使うことによってしか表現できない意味内容があると仮定する。それでも、一定の場合には(例えば公の場などで多くの人が受信者媒体となる時)、読み手の「分かりやすく享受できる自由」も考慮の要素に入れるのが公平に望ましい

以上の理由が挙げられるからである。 これらの要請からの調整を図ることが、日本漢字社会の文化面・権利面を考えるうえで一つのキーとなると私は主張する。
ここではかな文字(による表現)の見直しを、私は簡単に主張してみたい。
和歌や俳句(それらを基に置いて応用した現代の川柳、詩)などにはかな文字による見事な表現作品がいくつもある。 
特段、「漢字のチカラ」に頼っていない、かな文字が発揮するかな文字らしい表現などが長い歴史・事実上の積み重ねとして日本にはたくさんある。
振り返ってみればそれは中国(唐?それより前?)からの漢字輸入から経過を過ぎて、女性の文通への参入という起点から、「かな文字」は日本独自のものとして生まれてきた。我々独自の文化形成を肯定することは、帰属意識のそれとしても充分に重要である。 

現代における日本での、「紙」「画面」の上における表現言語は、漢字だけでないことは明白である(中国が一般的にそうである)。
基本的に「漢字とかな文字とカタカナ」、加えてアルファベや時たま仏独他諸外国の言語、および各サブカルチャーが産出した慣習文字などが基礎となっている。

それならば、漢字の変換入力の利便性に求めるだけより、別手法による同じ意味内容の表現は誰しでも簡単に、いくらでも思いつくはずでもある。

確かに、表現の「自由」をより尊重する方向に働かせる意味では、様々な表現媒体が多くあること、それ自体に関しては評価すべき所も多くあるだろう。
しかし、その自由を実質的に保障するという見地からは、「表現」の運用の為され方への配慮もまた同程度に慎重になされねばならない。
怪文書と多くの人が捉えかねないような表現が勝手気ままに飛び交っては、社会の取引を阻害する。
また、別な例を挙げておこう。
国際・国内を問わず、著作権法の世界などでは、例えばサンリオ社の商標のキティちゃんの、二次創作などが大きな問題となっている。いわゆる、本来のイメージからは逸脱した(キリング・キティーとか)キティを、商標権を有するサンリオに無断で自社商標としたり、または各個人ほ・法人が無断で販売・流通させたりなどである。流通の優先と相対する著作権法益、考案者の著作権侵害、商標権(イメージ)侵害等に関連する紛争・訴訟はここ数十年にわたって激しい勢いで相次でいる状況を呈している。

これが、漢字の「乱用」の現象が引き起こす「問題」にもつながりかねないと私は思う。「夜露死苦」などの表現は、教育上の問題を一義的に抱えているが、二次的にはその本来の意味内容を持つ著作への侵害行為と、一応法律的には構成できる危険を内包しているのである。

4、最後に
ちなみに、私は少なくとも正式に高校を卒業しており、とくだん国語が苦手だったという意識もない。
また、読書量が人よりも決定的に少なくはないと思う。
それでも、昨今の(特にネット世界や一部の若年層の文化に見られるコミニュケーションとしての)表現に含まれる漢字は、サパーーーーーリ分からん・読めない時がある。(笑)

「酩酊」(法律用語として使われる場面もよくある)。 高校生まででこの漢字の意味内容を答えられる割合が気になる。

「憂鬱」。 これについては、告白しておこう、今だに手で書けないしwww、やっぱり漢字そのものの画数の多さ故か、漢字にした方が「落ち込んでイライラしている状態」を的確に表せている・また表せられていると思うし、mistyは実際漢字で使ってます!笑

ただ前述したとおり、日本社会において、それぞれ「拡がった」漢字には確かに困難性はつきまとっており、それは3(ア)(イ)(ウ)などの見地から考慮した上で、その漢字の利用・運用を適時考えていくのが、妥当であろう。

以上。笑

注1・・・http://www.nhk.or.jp/shiruraku/tue/0909.html#a3 

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私にとっては、新しい試みです。

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misty
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男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
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