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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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mement mori

@mement mori
 
メメント・モリと読む。どこの用語法であったかは恥ずかしながら失念してしまったが、意味は「死を想え」ということである。生きながら、その生の中で「死」のことを考えろと問いかけてくる意味の用語である。
 
 生きながら死のことを思うとはどういったことなのか。ここでは、まず俗世間的な視線として<生>と<死>は反対概念としてもちだされる。生きることの反対は死ぬことであり、逆もまた然りである、という(短絡的な)考え方である。
 世俗的観念としての<生>と<死>には、これまた二極的なイメージがどうも付着しやすいようである。<生>には主にプラスのイメージがつきまとう。陽光を浴び讃美歌を口ずさむ人の肖像、などは<生>を肯定しそのことを包括的に善し!と鼓舞する。太陽。日が昇る。木や森が茂る。子どものきらめきが輝く。
 反対に、<死>にはマイナスのイメージが付きやすいようだ。おどろおどろしいガイコツ=髑髏の行進。西洋のペスト大流行時を含意したものとしてよく描かれる(ここでペスト感染がすなわち<恐怖されるべき死>を意味するのは言うまでもない)。月光。日が沈む。幽霊や化け物が死の世界へ誘い、それらを恐れるものともする。黒や灰色の動物が暗喩する。
 
◆ 生(生きること)  ⇔  死(死ぬこと)
 
 なぜ<生>はプラスとして、<死>はマイナスとして観念されるか?
 この答えは幾つかあるだろうし、複層的になっているのだろうが、敢えて一つの答えらしいものを取り上げるとすると、それは<生権力社会>である
[1]だろう。生権力社会とは、すなわち人々の支配の対象が<生>になっている社会のことである。人々は、往々にして、<生きる>ことに支配される。善く生きろ、などと言われることがある。これは、主に倫理的な意味で、その社会・時代において標榜される生き方をなるべく踏襲しろ、と命ずるものである。法律で「善く生きろ」ということが規定されることがないとしても、この標語が掲げられそれが<よい>ものとして作用する限り(近代社会以降において、特に哲学的見地を出発して「より善く生きる」ことを目指す風潮がエネルギッシュとなった)、それは人々の道徳的心理を支配する・縛り上げるものとして働く。<生>とは、先程述べた単純なプラスのイメージではなく、人々の人生を縛り上げるものとして働くという側面を仮定する、というものである。
 生権力社会では、人々は<生>がまるで手錠のようになってそれに惑わされる。こう生きろ、いやこう生きろという無言の圧倒的な命令が社会の随所で鳴り響き、それらに従わなければ社会から排除される―。この、社会からの排除こそが、まるで<死>でもあるかのように。社会的逸脱、アウトサイドはいわんや<死>そのものよりも忌み嫌われるべきものとして現れるのである。
 
 とすると、現代社会は、忌み嫌うべき対象が<単なる死>から<社会的死>へとシフトした社会であるかもしれない。社会に辱められ自己の生を傷つけられるくらいならば、死んだ方がまだマシであるかのような思いとかが、それの特徴を表している。いや、それは現代社会に特有ものでもないのかもしれない。新渡戸稲造の描く「武士像」とは、このように恥ずべきくらいなら死、という様ないさぎのよい侍をも包含していたはずである(それが新渡戸自身が直接意味していたものかどうかは別として)。祖国か死か、チェ・ゲバラのような生き様も、また似ている。ここでは、(何らかの意味において)善く生きることが何よりも重宝され、続いて単なる死が、そして最後に社会的死=排除、逸脱が最後にくることになる。
 
◆ 善く生きること  >  物理的死亡  >  社会的死亡
 
ここで話を戻すとしよう。メメント・モリが示すその広範な意味を捉えることは確かに難しいが、この意味をあえて一歩間違えてみよう。すると、メメント・モリとは実は、人々に<より善く生きろ!>と強制しているようにも聞こえないだろうか? 死を想えの「死」とは、単なる死(=物理的な意味での死、身体の死亡)ではなく、社会的死(被・名誉棄損、堕落した生活、不健康な身体etc)をこそ避けるのだ!と。より善く生きているのならば、別に単に死ぬことは構わない、ただ不名誉な死は避けるのだ、と。
 このようなひねくれた見かたは、しかし、一番最初の段階であった二極対立としての<生>と<死>の観念の差を曖昧にさせる。 生きながらにして死、という新たなレヴェルが登場するからである。
 メメント・モリが本当において人生の何を語っているかは、ここでは重要ではない。その意味の拡張を本稿では標榜している。
 
 死のことを考えながら生きる、というのは、たとえば「人命は知らずともいつかは散っていくものだから、その生を大切にせよ」とでもいうのだろうか。これならば、つまりメメント・モリとは<善く生きろ!>とほとんど同じ意味を担っているのであり、生権力社会に符合する形となる。しかし、そうではない。そうではないというより、それ以上の意味がこのメメント・モリにはあるはずである。
 ここで、はじめに示したファースト・レヴェルとしての<生死>の概念とはおサラバしておこう。死ぬことは、ただのマイナスではない! 思うに、それらはある何らかの意味があるからしてマイナスたりているだけなのだ、と。なぜ死がマイナスとされるかの考察はおくとしても、むやみやたらに忌み嫌われるべき<死>、という概念はとりあえずおいておこう。
 
 私は、生と死は、2極という反対方向に動くものではなく、むしろ同一の所に近くあるものとして捉えた方が妥当であると考えている。それは、生権力社会の描く生死の概念に根拠付けられる。前近代社会や、(問題視されるべき)専制政治などの核には、死が支配する(国の掟を破った者には、無条件に死を処すると威嚇することで、心理的に追いやり、人々を支配の枠の中に入れることなどである)という事柄があった。近代社会以降においては、その支配者が生から死(とくに、社会的死)と変わっただけである。人々の人生を縛り上げるものとしての意味においては、両者は実に異なることがない。
 さらに、<生>と<死>は似たような構造を持つ。支配するだけではなく、人生を燃えたぎるものとしても。現代社会は、前者が燃えたぎる人生だけを価値あるものとしている風もある(太陽の光を浴び、生を肯定することの方が生きやすいといってそれらがあたかも最善であると一部では考えられているように)が、それだけではない。<死>も、同じように人々をエネルギッシュに揺さぶる(例えば心理学用語の<死への衝動>などがそうである。フロイトは<死への衝動>を単なる善悪の概念から外して捉え、中立的な、ある意味では準・事実として<死への衝動>の概念を提唱したはずである)。死へと向かうことは、別にわるいことでも何でもないのだ。というより、善悪の問題ではないかもしれない、というのがポイントである。生きる・死ぬは、この段階において善悪の概念から切り離される。
 
 人は生から出発し、死において到着するという簡単な(それゆえに間違っているかもしれないが)図式を考えてみよう。出発点も到着点もともに人の収束する地点であり、いずれかだけに比重が傾くということを無理にかんがえる必要もない―。というのが、私の持論である。透明な生、透明な死というのは当然あってもいはずだ、と思う。小難しく考えなくても良い生、または死。人は、いつも生死について悩み、ぐだぐだと思考するが、そんなことばかりしなくてもよいのではないだろうか。私はそう思う。だからといって、生死への思考や思いを放棄するわけでもない。
 
 メメント・モリ、特に私にとっての<メメント・モリ>とは(各人のメメント・モリがあっても全く構わない筈である)、単に「善く生きること」を標榜するものでもない、かといってずっと死=恐怖を念頭に置くような鬱っぽい人生を奨励するものでもない、そうではなく生と死の本質を人生と結び付けて時には考えてみるのも手だ、といった意味に捉えている。それくらいの限定を付けくわえても、なおこの用語は重要なものとして私の思考や感情を起伏させる。
 
 
 最後に、メメント・モリをあえて主題にしようと考えたのは、近年の自殺をめぐる人々の思考態様に目をむけてのことであった。自殺はとにかくよくないものと、実に多くの人が思っている。その理由は様々で、どれにもそれなりの説得力があるが、しかし決定的な根拠や正当化までにも至っていない、というのが率直な感想だ。
 実をいうと死=悪、恐怖 というとても強く結び付けられたこの2つのもの、という考え方をあまり否定もできないから、そこから出発して自殺はダメだ!となっている考え方も多いのではないか(例えば、自殺は遺族を悲しませるからダメだ!という考え方は、もっともだと思う反面、それではなぜ遺族は悲しむのか、と問えば、それは一般的に死ぬことが悲しいことと置き換えられているからだ、死=悲愴という単純な構造に支えられているに過ぎないのだ)。
 死=悪 という等号は、必ずしも結びつくものではない。いや、それを積極的に取り外そうとする動きも特段推奨されるものでもないかもしれないが、私はどうも社会の働きに敏感なタチである。
 社会がそれらを等号する―何らかの理由や背景を以て、とあるのならば、それはとりあえず探ってもいいのではないか、というのが私の基本的なスタンスだ。 近年の<自殺はダメだ!>という風潮は、風潮であるがゆえに、その根拠や背景もじっくり考えてみなければならないだろう。
 生命の尊重、という事柄がクローズ・アップされてしかるべきだが、本稿では省かせていただいた。ただ、生命の尊重が実は生権力に裏付けられたものでしかないという事態であるならば、それは本稿でみたような考察も全くの意味をなさないわけではないように考えられる。
 
misty @


[1] 生権力社会とは、私の知識の範囲内においては、フーコーの論ずる主題の中心となっていた概念でもある。私はフーコーの生権力論・生政治論を直接読んだことはない。ここで私がこの用語を用いて念頭に置いているものは、フーコーの生権力論を簡潔に要約した一般的なイメージぐらいである。それくらいの程度で捉えてもらえれば結構である。

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