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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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エコ 続き 完


承前

第二の点。
エコ化は、スリム化と同義であるのか?

キーワードとなるのは、「持続可能な発展」である。
 このキーワードを”自然”に当てはめようとするのが、実はエコ化の正体なのではないか。

これは、スリム化と何も変わらない。
自然を、資源に置き換える。 資源は、使うものであり、使われる対象である。
自然の、資源化である。こうして、資源化された自然を、いかに長く利用できるか、という風に見方を変えるのが、持続可能な発展の考え方のようにも思える。

 見方は、あくまでも資源を長く細く使えるか、ということに集中するので、ここでも、定義されたエコ、つまり繋がりを重視した本来のエコ=自然主義とは、似ても似つかないものになる。

実際、この資源としての自然の見方は、あのエコ化運動に珍しいものではなかろう。
これは第一の点にも通じているが、自然はあくまで利用されるものとして、つまり被従属物として、取り扱われることになる。
 被従属物であることの地位は変わらぬまま、しかしその程度を作用させようとするのが、スリム化の運動である。
 大から小へ、資源の利用形態のレヴェルを下げることで、あくまでも善を見せる。
しかし小といってもあくまで資源利用は資源利用であり、その点でエコ化はスリム化の考えと大して変わらないことになる。

第三の点。 この点は、かなり際どい。
エコを向ける、対象(客体)の問題である。
エコの対象となっているのは、どんなものであろうか?
 汚染されうる空気、伐採に供する森林、木々、プラスチック袋、割り箸、電力(その抑えによる火力発電の資源活用の減少)・・・。

 これらは、一括することができる。つまり、これらはあくまで自然(nature)の一環である。

エコ化の働き手に回るのは、私達人間であって自然ではない。そして、その客体は自然であって人間ではない。
自然はエコ化させるが、人間はエコ化させない。

月刊雑誌『現代思想』の昨年09年度10月から、檜垣達哉が「ヴィータ・テクニカ」で論じている人間、またはアガンベンの議論による人間とは、しかしそれ全てが人為ではなかった。
 人間にも、まったく人為的な所と、まったく人為的でない、自然的な所の両者がそれぞれ見られる。

例えば、鷲田が好んで引く例でもあるが、風邪をひいて体調を悪くした時などのわれわれの体は、ほとんど自然物といって過言ではない。なぜなら、それはまったくコントロールが不可能なものであるからである(ある程度の治し方は分かるが、完全に治癒できるかどうかというラインでは肯定することができない)。

 つまり、実は観察者としての私達も、実は人為の部分だけでなく、自然の部分が多々あるのである。
すると、次のように整理しなおしてみるのは、さして論理が飛躍したものでもない。

われわれは、エコ化運動において、私達の外=OUTの世界にある自然物に対しては、エコの矛先を向けるにも関わらず、私達の中=INの世界にある自然物に対しては、エコ化の矛先を普段当てない。

 これには、もちろん例外がある。例えば、臓器移植である。幾つかの論述で見られるように、臓器移植はある種の、移植される者への資源提供と見ることができる。この意味に於いては、臓器移植を大きな意味でのエコとみなすのも、特段の無理もないように思える。

 しかし私達があくまでエコ化させようとするのは外の世界にある自然物であり、観察者自らの自然物としての”私”は、置き去りにされている。 むしろ、それらを置き去りにして、ひたすら外の世界にのみ目を向ける、といういいかたのほうが正しいのかもしれない。

第四の点。
これは、もっと厳密な意味での自然主義に関わる事柄である。
 自然そのものを崇高しようとする、宗教は特に未開地域やアジア地域などにおいて、よく見られる。
日本人にも、まったく馴染みがないというわけではなかろう。

 自然をある種の神とみなすこと―。それらには、どんな意義があるのだろうか。
一概には言えないが、一つには、自然を信仰の対象とし、それらをあがめたてまつることで、神との一体化を図るという、宗教の普遍的な目的が目指されているのではないか。

自然主義は、宗教とはいかないまでも、その本質的な部分とはだいぶ接点を同じくしているように思われる。
 信仰とかの対象ではないが、尊敬を抱く、という点は非常に似ている。

エコ化運動は、はたしてどうであろうか? そこに、自然への尊敬の眼差しという要素は、あるのであろうか?
 
 これは論者によって異なると思われるが、私はどうも、エコ化運動にはそのようなものは見受けられないと思う。若しくはあっても、建前だけの、仮の形だけのものである気がしてならない。

 根拠をあげるとすれば、例えば商業主義との結びつきである。
普遍的宗教は、一般的に、そこまで商業主義の色彩を帯びずに在ることが前提となっている。
それはなぜかといえば、本質的に、宗教と商業があまり重なり合わないからである。

 しかし、運動化された近年のエコはどうか。
それらは、実に色んな商業によってその結びつきを強めている。
エコを前提とした産業や、商い(排出枠取引、マイバッグ商品の売買etc)が台頭しているのをみると、一目瞭然であろう。
 それらはエコを売りとしながらも、結局はお金儲けという捨てきれない性質を抱いている。
特に、エコ運動の自由経済への浸透という現象には、気をつけなければならないだろう。
 なぜならば、本来的には、エコ(つながり、関係の重視)には、値段による価値の序列化や、ニーズなどとは何の関連性もないはずだからである。

それを、結びつけようとするのは確かに斬新性を獲得することにはつながるかもしれないが、しかしその根本の関連性を考慮することには欠けるであろうことを、十分認識しなければいけないはずである。

 以上のように、エコ化運動には、原理的にいくつもの危機をはらんでいる。
私は、運動そのものには、懐疑を抱くものではない。 賛成を唱えたい。
しかし、現状をみる限り、実にエコ化運動には、向う見ずの所というか、見切り発車的な側面や、商業主義と根強く結びついてしまっている側面などが多々あり、そのたびに本来の”エコ”・”自然主義”とかけ離れていったものになっていることは、認めなければならないことであると思う。

 今一度、これらの事態をじっくり捉えなおしてから、エコを再考するのは、決して無駄でないことであろうと思われる。

msity @

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