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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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”家族”の閉鎖性 ー開放的な家庭なんてあるのか?ー

 こんぱら、mistyです。

ちょっとふと疑問に思ったことを止めることができなくて、今突発的にブログ書いています。

@”家族”の閉鎖性 ー開放的な家庭なんてあるのか?ー

皆さんに、私が聞きたいことがあります!

「家族というものは、どうして閉鎖的なの?」
法律が「家族は閉鎖的であれ」なんて規定するのは、聞いたこともみたこともありません。法律上の構造が閉鎖性を考慮しているという話は、別の次元のお話です。


もう少し、疑問を限定したいと思います。”教育”という概念を付け加えます。

「家族(家庭)の教育は、どうして他の教育と比べて閉じこもりがちなの?」

こういうことです。まず、私が想定している「他の教育」とはどんなものなのか、示したいと思います。小学校の教育を述べます。
以下は僕自身の経験談なのですが、地元の小学校に通っていた時。
クラスに、新しい担任が入ってきたのですが、そのやり方・口調などが他の先生達と比べても横暴で、一言で言うと恐いのです。
「この担任の指導(=教え方)、嫌だな・・・」
というグチは、まず僕の友達同士によって共有されました。家に帰って、「新しい先生はどんな感じ?」と母親が尋ねてくると、「・・・嫌だ。」と答えます。そしてその、小学生である僕の反応に敏感に応じた親達が、こぞって「ババア連合会」を巷で開きます。そして、「新しい担任の先生には、もう少し生徒への優しい労りの信念を持って、自分の教育に取り組んでもらいたい」との要請が、PTAに対して受け渡されます。苦情を受理したPTAは、それを議題にかけ、最終的に「実行に移すべき案件」との判断を下します。
そうして翌朝、PTAは当該担任の先生を呼び出すことになるのです。「自分の態度を深く改めるように」との通達を受けたその先生は、自分の教育方針をそこで改めて反省し、その日の朝の会で、僕を含めた生徒達にこう告げます。


「おはよう、みんな。先生なぁ、みんなに話さなくちゃいけないことがあるんだ。先生はどうやら、みんなに対して少し厳しすぎる・つらくあたってしまう所があったようだ。先生も、それを十分に反省した。これからは、みんなから優しい先生と言われるよう、努力するから、みんなも先生に言いたいことがあったら構わず何でも言ってくれ。」

こうして、先生の横暴な教育は少しずつ改善され、それが正しかったのかどうかは不明にせよ、先生に対するクラスの生徒の信頼感は客観的に見ても高まっていったのでした・・・。

この体験話は、少々冗長でしたが、私が取り上げたいエッセンスは、「PTA」がこの事例によって果たした役割です。

小学校機関を、とりあえず小学生ら生徒たちと、担任ら先生たちとの二つの構成員からなる団体であると仮定すると(恐らくこの仮定は間違っているか、少なくとも正しい見解ではないでしょう。私は教育のテーマに関してあまりに無知です)、PTAは小学校機関とはある一定の距離を持った、別の機関、つまり外部の機関であると言えます。

(※携帯用サイト「どこでもウィキペディア」を参照すると、PTAとは「各学校ごとに組織された、保護者と教職員による教育関係団体のこと」であります。私の独自の定義、小学校=生徒と教職員からなる機関、という見地から出発しても、PTAはその構成員において、別の/違った 機関 であることが帰結されます。)参照URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/PTA

さらに、同サイトによると、PTAはその活動目的の主たるものに、「教職員を支援すること」を入れています。ここから、PTAとは、生徒と教職員からなる小学校機関に対する上部の機関であり、その監視等を行う機能を有している、と言えます。もっとも、PTAもその教育機関に属するという点では、自己批判システムを有する機関、であると考えます。


端的に言うと、小学校の教育においては、”外の視線”あるいは”自己を客観的に見る視線”が一応確保されているという多々建前ということになっているということです。生徒たちにとってかなり近しい存在になる「担任」の教育方針/行動に問題があれば、体験談ではかなり迂回な道をとったことにななるのですが(僕という生徒→友達→僕の親→親たちの井戸端会議→PTA→当該担任→僕ら生徒)、「あなたは問題になっているよ!」というフィードバックが実行され、担任の教育はかなりの確率で変革されるものになる、ということです。

PTAという上部機関/監視/自己批判機関があることで、つまり「外」の視点があることで、小学校機関における教育は”批判的態度”を有することができる、と言えます。

それでは、家庭における教育の場面ではどうなのか?
結論から言うと、家族の教育は、事実として、閉鎖的なものであり、PTAのような監視/自己批判のような「外」の視線に、さらされることはめったにない、というものです。

以下も私の個人的な体験談になりますが、現在の私の家族では、父親がほぼ一括的に、家庭における権限を掌握しています。家計簿を付ける、等の金銭管理も、以前までは母親が担っていたのですが、つい最近になってそれすらも父親がその権限を奪う、という事態になりました。

さて、最初に明示しておきたいのが、その父親の教育論の一つに、「人生は勉強だけ励め!他のことをやっているお金などもったいないわ!」というのがあります。これは後に述べますが、私としては明らかに間違っていると考えられる教育なのです。

僕自身はもうハタチを超えたので家庭の教育うんぬんという話は直接には関連がないのですが、僕の妹が現在17歳で、高校2年生、ひとまず進路の岐路に立っています。
妹は、まずお小遣いをかなり減じられました。妹が楽しみにしている漫画や服などの「遊び」に類するものは、買ってやらん!少ない小遣いからやりくりしてくれ!それよりもそんなことしてる暇があったら、勉強に励め!ということらしいです。一律的禁止。

これは一見正論のようですが、私の考えとは相容れません。例えば勉強をするということについて、私は、勉強に集中するためには、遊びや余暇も効果的に取り入るべきだ、と常日頃から考えているからです。人間は、ー悲しいことではあるかもしれないけどー、日々様々な欲望に惑わされている存在なので、「勉強」だけに専念しようとするとかえってその禁欲的態度は他の欲望(もっと漫画を買いたい、もっとすてきな服が欲しい!)を高めてしまうということになります。それならばいっそ、ある程度の自由を与えておいて、一定の範囲で様々な欲望をいい具合に満たして、満足させる。満足すると、人は安定する。安定すると、ニガテ意識を持つ勉強にも意欲が少しずつ湧いてくる・・・といったものです。つまり僕の許容主義的考えからすると、父親の教育に関して、「遊びに使うお金を一律的に与えない」という箇所がおかしいのです。

人生は、勉強だけによって豊かになるのではなく、いい意味での遊びをたくさん体験することによって、また勉強とは違った形で豊かになる。そういう点から、長男の私は父親の当該教育をおかしい、と考えます。

しかし、ここからが問題なのです。父親は、頑固なのです。聞く耳をもたないのです。=自己批判をしないのです! 僕がいくら、「妹にはもっと優しくしてやれよ!」と言っても、自らの教育方針を一向にかえようとしないのです。

さて、この家族の教育と言う場面において、小学校機関にあったような「PTA」のような独立/上部/監視/機関は、ご意見を承りそれを審議し、時には実行に移してくれるような直接的な機関は存在するのか? ”家族の教育”に「外」から切り込む権力を有する社会的実体はあるのか?

現在までの所、私の答えでは「ノー」です。誰も、僕の家族の問題に対して外から切り込むようなことはしていません。 母親の友人の奥さんが、その耳になってくれるのでは? 一般的にはそうかもしれませんが、何と家の両親はどちらとも、そういう意味での活発な近所付き合いや、家庭間同士の交流を、現在ほぼ断ち切っているのです。 正直困ります。

誰の意見も受け付けない頑固な父親と、友人をほとんど持たない母親。 私の家庭の教育は、どうやって外部の視線にさらされることができるのでしょうか?

警察に話を持ち込むのか? 家庭児童相談所に話を持ち込むのか? 「はは、そんな話、どこのご家庭だってありますよ。気にしすぎです。」と一蹴されるだけなのでは?

誰か、うちの”親”の教育が間違っている、と摘発する存在は見つかるのか?

本屋に行けば、「家庭の教育論」に関する書物はたくさん並んであります。しかし、当の本人達がそれを手に取って読んでくれないことには、意味がない。長男の私が、「この本読んで!」と言った所で、聞く”耳”持たない父親はそもそもそういう話を受け付けない。

以上、本当に長い私の個人談でしたが、一般的な大衆社会を見た場合も、ここまでとはいかなくとも、以上のような意味における”閉鎖性”を持った家庭が多いんじゃないか、と私は考えます。

それは、”究極の開放的家庭があるのか”ということを考えると、分かります。「ねぇ、見てみて、私の家族の教育。正しい、間違っている? おかしい点があれば、どんどん批判していってよ!」なんて言ってる家庭なんて、果たしてこの日本でどのくらいあるのでしょうか? 「ウチのことは、ウチで考えますから。」 こういう親ばっかりが、いそうな日本です。

「家族(家庭)の教育は、どうして他の教育と比べて閉じこもりがちなの?」

ー最初に提示した疑問です。この答えを、知りたい。「どうして」というより、「いかにして」閉じこもりがちであるのか、もし閉じこもらないようにもすることができるとしたら、それはどんな方法によるのか、も知りたい。

教育に見識のある方、興味のある方、家庭の教育に問題意識を抱いている方、本稿によって少しでも何か考えてくださることがあったら、幸いです。


以上 @ misty

追記: ネットがまともに使える状況になったので、10分間くらいこのことを調べてみました。 「家族 閉鎖的」でググったりして。 例えば以下のような掲示板がありました。 ↓
「ひとりで悩まないで!」 http://katei-nayami.webdeki-bbs.com/

「ひとりで悩まないで!」というタイトルそのものが、閉鎖的なものとしての家族(家族外の誰かとコニュニケーションしづらい)をにおわせるし、実際、掲示板住民は、警察に行ってみました市役所に行ってみましたDV法が制定されました、と、口々に言うものの、悩み続けているという実態が多く見受けられます。

統一的な「救済機関」は、児童相談所 なのか? または、「友人とのまたーりした相談タイム」しか方法は残されていないのか?
 
 何故このようにネット掲示板に集まってくるてんでばらばらの人達は、それにまず駆けこまないのか? 「110番」のような広範な意識に至っていないからか? それが無力なものだと諦観しているからか?

まだ分かりません。

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1989/03/19
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自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
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