というわけで、1週間に1回、つまり月に4回くらいは最低ラインとして投稿してはいきたいですね…。
「ふっ」と疑問に思う事があっても、それを解決するのってすごく時間かかったりすることありますよね。
それは、答え方が一つではないからです。たくさんあります。
一言でいえば、「多様性」です。
それでは、記事へ…
@批判/非難
1.問題提起
2.「批判」とは
3.「非難」とは
4.批判/非難
1.問題提起
この投稿記事が指摘する点は非常に簡潔である。それを最初に断わっておく。つまり、
昨今のメディア社会における
「○○批判」という言葉遣いは、まずもって正しくない!
ということである。例の事件を以て小沢批判~とかいう、そのノリは感性的に理解できるのだが、しかし用語法としては「批判」という言葉を使うのは多くの場合に於いて間違っている。そしてそれはたいてい
、「○○批判」→「○○非難」と置き換えると、用語法上は正しく思われることが実に多いのであるという事。
少なくとも、私が「批判」という言葉が意味しているのは、簡単に言って次のような事柄である。
2.「批判」とは
以下、引用。
「批判とは、単に悪口を言うことではありません。正しいのかどうかを
きちんとチェックしてみる厳しい姿勢を指します。」 小野攻生監修『図解雑学 構造主義』(ナツメ社、2004)pp54
この、「きちんと」という点が、とても重要だと私は考える。上の引用記述は、カントの代表的著作『純粋理性批判』などにおける、カントの理性批判研究の文脈の中で語られている。 カントが人間が有する理性について、どれほど綿密な考察をしているかは、それは本を開けば読まずとも丸分かりだ。
「きちんとチェックする」というのが、「多くの時間をかけてチェックする」ということと同義という事ではない。
しかし、昨今の「○○批判」という言説は、極めて短時間に作られた言葉、もしくはその使われ方としての言説に他ならない。 小沢批判、海老蔵批判、東電批判というのであれば、そこには緻密な検証程度が含まれていなければならないはずである。
現実には、そうでない。東電批判をするのは、ニュースから流れた東電の記者会見の映像を見て、その一事を以てだけして「東電は社会体としてけしからん…!」という。それを「東電批判」と呼ぶならば、それは間違い以外の何物でもない。 そう、引用文の通り!ただの悪口である。
ただし、「東電非難」というのなら、それは正しい用語の使い方である。それを次に見ていく。
cf. カントの著作の一つ、『純粋理性批判』を英訳にすると、”Critique of Pure Reason”であるそうだ。カント的「批判」とは、この「critique(critic)」を指す。
critique(critic)の意味は、名詞で1批評家2粗捜しをする人、などだが、原語では「判断(決定)ができる、批評家」(ギリシア語源)である。
3「非難」とは
辞書的な意味における「非難」とは、次を事柄を指す。
ひなん【非難・批難】 「人の欠点や過失などを取り上げて責めること。『不実な態度をーする』。」 (デジタル大辞泉より)
つまり、(日本語における)「非難」の意味の中心部分は、それが心理的/感情的な態度・行為であるということだ。 バッシングというカタカナが示すものと同類である(バッシングは、もっと強めの「非難」、つまりは程度が強度であるという差異があるのみで基本的には同室の事柄を指すと思っていただければ良い/)。責める、というのは、心理的攻撃の一種である。それはどちらかというと、感性的な行いである。人の態度を見てカッとなったから、「ふざけんなよお前!」と責め立てる。
少なくとも、日本語圏における「非難」とは、上で見たような心理的/感性的態度を示すものだと私は定義付けしておこう。
cf. 英和辞典で調べると、この心理的/感性的態度を示すものとしての「非難」は、さしあたりblameとかattackとかになりそうである。しかし、後にも関連することだが、批判/非難 の両方を指し示すものとして、「criticizm」(critisizeの名詞形)がある。現代英語、辞書的な正解での英語では、批判/非難 は、一般的にはそれほど区別して意識されていないのかもしれない。しかし私は、この両者をとりあえず区別してみよ!と提唱している訳である。
4批判/非難
「批判」という言葉と、「非難」という言葉が指し示すもの、抱えるものを、私は敢えて区別する。超簡単に説明すると以下の事柄になる。
批判:どちらかというと、理性的/長時間的な態度・行為
非難:どちらかというと、感性的/短時間的な態度・行為
どちらも人の頭の中から算出されて示されたり行われたりするものではあるのだが、そこには以上のような決定的な差異がある(と私は提唱する)。
理性的、感性的というのは雰囲気でつかんでいただけると思う。専門家や学者が行うのは、基本的には前者の「批判」の方であり、一般大衆によく見受けられるのは、後者の「非難」である、と説明するのはいささか極端であろうか。 ただし、例えば学者が「○○批判」とかいうタイトルで論文や書物を書いたりするとき、それは短時間の範囲の中では成し遂げ得ない。学者的「批判」は、「しっかりと厳密にチェックすること」であるから、ちょっとやそっとの時間のことでは簡単に行為することのできないものである。
反対に、一般ネットユーザーが「東電批判」とか「海老蔵批判」とかをコメントに書き残す場合、そのほとんどは心理的な動機から生まれ、そしてかつ相対的に短時間の間でなされた態度・行為である。「東電批判」とのネット言説が意図する所は、東電に対する心理的な憎しみや激怒からネット行為者が短時間を通じてエクリチュールしたものではないだろうか。新聞の記事そのものはある程度時間がある範囲内で、理性的に構築されたものであることは伺えるが・・・。
ともかく、安易に批判、批判という言葉を使っている人には、一度でもいいからカントの「純粋理性批判」をググってもらいたい。カント的「批判」が内包するものがどんなものであるか、印象だけでも十分に受け取れるはずである。そこには、おそらく我々がメディア社会において様々に取り交わしているコミュニケーション的行為の、幅の広さを知る契機があるはずである。
最後にではあるが、繰り返し、「批判」と「非難」という単語を英和辞典で調べると、ともに「criticizm」という単語でくくられる。英語圏においては、批判と非難はいっしょくたに使われてんじゃん!じゃあわざわざ区別する必要はないじゃん! と考えることもできようが、本稿では敢えてそれらの諸概念を区別すること、それを始めよと主張するのである。
以上
※ なんか、今回の記事は、従来の「フルハウスは嗤う」らしくない、とてもシンプルな記事でした笑 極度に簡素化したモデルを提示したので、「こいつバカか?」と思われる方も多いんじゃないかなと思います。 久々言いますが、「コメント求ム!」笑
misty @
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