こんにちは、mistyです(*^。^*)
憲法学でも扱われることの多い、「平等」に関連した、とある一つの話を繰り広げたいと思います。
参考文献や判例などを、本来であれば、適時あげたい所ですが、いかんせんややこしくなるので、あまり触れずに論考したくおもいます<(_ _)>
相対的平等の謎
現日本国憲法14条1項に、差別禁止規定が置かれています。 性別や社会的地位などの条件から、差別はしてはならないことを憲法自身が定めているということです。
ちなみに、14条1項に掲げられている条件については、考えようには2つあります。一つ目は、憲法がそれに限って差別することを禁止したというもの(限定列挙説)、もう一つは、歴史的背景をもとにして特にそれらの禁止を定め、広く差別一般を禁止するというもの(例示規定説)、の二つです。
限定列挙説を採れば、14条1項に書かれていること以外の事由に基づく差別は、憲法自身は特に何も言っていないということになります。
おわかりでしょうが、差別禁止規定の読み方に関しては、後者の例示規定説が支配的です。
それは、日本国憲法が築かれるにいたった、特に差別や不平等の歴史・系譜を鑑みてその調合を図ろうとすると、後者の方が妥当となるからです。
つまり、憲法は、広く、差別を一般的に禁止していることになります。
しかし、おかしなことに、日本には、未だあらゆる差別状態・状況が残っています。
しかもそれを、憲法が自ら認めているものもあります。
それらを、相対的平等と呼ぶことがあります。
相対的平等に対置する概念は、言葉返還のみですが、絶対的平等です。
絶対的平等とは、ありとあらゆる差別を禁止すること、平等であることに絶対の重きを置くことです。
14条1項に関連して言えば、読み方としては上述の例示規定説を採りつつも、この文言は絶対的平等を定めているものだ、とする見解と、いや相対的平等を規定するものだ、との、大まかには2つに分かれるようです。
相対的平等とは一体なんなのか?
例を出します。 青少年保護条例に基づく性的自由に対する介入、などがそうです。
人は、性的自由を持っている、とひとまず考えます。
このことは、21条の”自由”を定める条項から導かれる、と考えてもいいと思います。
それでは、青少年(成人に満たない=年齢の幼い”人”)の、性的自由を認めてもいいのか?
ここで、21条の自由規定を重視する立場に立つと、その(性的)自由を、平等に青少年にも押し広げ、彼の自由は尊重される! と考えることはできます。
しかし、それに反対する考えとしては、例えば、青少年に性的自由が与えられることを認めてしまう結果として、彼の適切な育成が阻まれる、と構成するものがあります。
適切な育成ですから・・・憲法としては、13条の幸福追求権条項などがこれを、間接的に保護していると言えなくもないかもしれません。
しかし、より一般的には、11条の「公共の福祉」が、この性的自由に対する、大きな制限(制約)として働く、と説明されます。
つまり、とりあえずは人一般に、性的自由を認める。しかし、例えば青少年などのように、あまりにも幼少の者にそれを認めてしまうことは、適切な育成等の観点から、返って不都合である。
だから、青少年の性的自由に一定の制限を加えてもよい、ということになります。
青少年保護条例は、かかる目的のもとに定められた条例(法的性質を担うものとしての)です。
こういった一連の状況は、ちょっと見方を変えれば、年齢に基づく不平等状態を引き起こしている、とも見ることができます。
なぜなら、彼は、年齢の上下という条件によって、ある人々が享受できる自由の状態を、引き受けていないという見方もできるからです。
14条1項がこのような相対的平等を定めたものだ、とする見解を採ると、この青少年保護条例規定も、憲法は認めていることになります。
相対的平等とは、こういった、ある一定の合理的範囲における差別は認めてもよいとする論理です。
それでは、合理的範囲、とはいったいなんなのでしょうか?
この範囲の確定をめぐって、裁判所や学者たちはそれぞれの判断を下している状況にある、というのが昨今です。
裏をかえせば、合理的範囲の線引きのいかんによって、この相対的平等は内容を変えられることにもなるというのが私の見解です。
上の例でいえば、青少年保護条例は、誰もがみとめる合理的範囲における差別だから、と理由づけをすることによって、事実上は差別に当たっているとしても、それが一応認められる不平等規定である、ということになります。反対に、誰もがそうは考えていないから、と推移すると、この条例の平等/不平等のラインが危うくなります。
ちなみに、判例・学説とも、上の青少年保護条例については、支配的な見解よると相対的平等の範囲内である、と考えられていそうです。
平等か不平等かは、何が合理的差別にあたるかの判断(客観・主観いずれにおいても)によって、とりあえず決められています。 意外に、危ういものです。
絶対的平等などないのだ!との主張は現実的ですが、しかし、その根拠を考え出すとなかなか出てきません。
とりあえずは、合理的差別=平等の定式のもとに、私たちは日常生活を送っているというのが今の日本です。
misty
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