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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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NPOと行政のパートナーシップ??

何回か前の行政学の講義より、ギモンに感じていたことをブログを使ってまとめてみむとす。課題とか一切関係ないけど、すげぇ気になるから書くの!このやろう!

おはようございます、mistyです( ^^) _旦~~
眠すぎですw

NPOと行政のパートナーシップ(協働)?

まー行政学という、政治学の中でも専門といえば専門の話にはなるのかもしれないので、ざっくり簡単にいきます。
問題にいきつくまでに、その経緯とか最初にさらさらっと記述しまっせ。分かる人は飛ばせい

そもそもNPOとはご高名の通りNon-Profit Organizatinの略称であり、非営利組織・団体などと言われることもある。一応のNPOの組織の定義としては、「非営利目的でありかつ公益の実現を目指す組織」である(嶋田、レ13-1)。ここでの公の利益とは、国家側から見たそれではなく、あくまで市民の視点から捉えられるものであることに留意が必要である。

 政治の世界において、政治のアクター(行動主体)が伝統的には国家のみで語られることが多かった。これは、近代における主権国家概念の広がりが関係している。主権国家が成り立つと、統治・支配という政治のはたらきは(この)国家に集中し…法をつくり執行し強制する機能が国全体に及んだので、…「政治は国家をめぐる現象の世界と考えられるようになった」のである(ウェーバー、1919/日本語訳1980)。
 ところが20世紀前半の戦期を経て、主権国家はその概念・事実上の存立ともに危ういものとなってしまった。ここであらためて各国で国の統治システムそのものが見直された。それを反映した形で現代の政治システムがある。さまざまに用いられる「行政サーヴィス」という用語自体が、その反映を物語っているであろう。要するに、福祉国家の量的質的増大に伴う、行政範囲の拡大である。ある説では、1経済成長2人口構成の高齢化3それに伴う社会保障制度の成熟、の3つが福祉国家の主な成立要件とされている(社会経済的要因重要説)が、仮にこの説をそのまま今の国際状況に当てはめれば、現在先進国に数えられるほとんどの国は福祉国家の様相を呈しているということになろう。

 海外では、国つまりフォーマル部門以外の、インフォーマル部門での福祉や教育サーヴィスが積極的に行われている(米、英、北欧などが顕著)。医療・公衆衛生・教育・介護・職業訓練といった各場面においてNPOの活動は、社会的にもかなりの認知を受け、一定程度の評価を受けている。また、それが国(公権力)側にとっても「好ましい状況である」と捉えられているのは、特に注意すべき点であろう。

 現代の日本でも、福祉国家側面の膨張に伴って、その行政サーヴィスの範囲が拡大した(西尾、08,
4-11頁)。要するに増えた仕事分を今まで通り公権力側がやっていたのでは足りないから、そこでドーンと登場してくるのが民間独立機関であるNPOであったというわけである。
法整備もNPOの活動を積極化する方向付けで、NPO支援税制の改正や非営利活動促進法の制定などがなされている(嶋田、レ13-4頁)。

 さて、ここで、そういった国=公権力の活動である行政と、市民の活動であるNPOの「パートナーシップ・協働」とは、一体どのような意義があるのだろうか。先ほど海外でNPOの活動は社会的にも評価を受けていると言ったが、アメリカなどではこのパートナーシップによる実績(たとえばピッツバーグでのNPOタワーなどなど)があり、おそらく日本でもこの協働を前向きに検討している・若しくはスタートを切っている段階であろう。

そこで、ちょっとまったぁ!である(笑)

協働とは文字通り、両者相互が同じ目的を目の前にして、歩み寄ること。
とすれば、まず国と市民が手を取り合ってというそのままの解釈をすると、はなはだおかしいことになる。そもそも、公権力の行使である行政の失敗・不十分性が露呈して始末に負えない(ちなみに日本でのNPO活動が一気に注目を浴びることになったのは、あの1995年の阪神淡路大震災である)ということで、市民が主体となってこの国の阿呆が!という形で行政場面でのアクターとしてNPOの登場が期待されていたのである。 とすれば、お互いが緊張関係にいるこそすれ、歩み寄るとは如何なものか。

嶋田レジュメ(13-pp5-6頁)による、両者の協働の意義を以下省略しつつ引用する。

@NPOにとっての効果・意義
・行政情報の収集が容易になる
・活動資金や信用を得ることができる(あ)
@行政にとっての効果・意義
・市民ニーズを詳細・的確に把握できる(い)
・外の目が入ることで業務改善につながる(う)
・新しい政策・事業の創出につながる
@社会全体にとっての効果・意義
・政府の限界に対する補完
・ボランタリー組織の限界の(政府側からの)補完


***ちょっと休憩させてくださいwww***
休憩終了。
ちなみに、協働形態は、論理的類型的には次の3つに分けられよう(嶋田、レ13-5頁)。
(1)政府が当該NPOを基本的にサポートする形
(2)NPOが政府の政策執行=行政を補助する形
(3)双方が例えば企画立案の時点などから協力して同じ事業を行う形

さてさて、上のように挙げられた様々な意義にものもうそう。
橙色で示した(あ)~(う)のみを取り上げるが、例えば(あ)の活動資金や信用を得ることができる、というNPO側からのメリットは、確かに当該活動をより積極的な方向に働かせることに有効である。しかし、活動資金を一部政府から得る、というのは類型的には(1)か(3)の形式をとることになるが、ここにはよく言われる「
資源依存関係論」が批判の矛先に向く。 活動資金・クレジット等を得るというメリットを巨大視し過ぎると、それは市民側が政府を短絡的に「利用」するという実質になりかねない。政府を短絡的に利用することのデメリットはいうまでもないだろう。

 次に行政側からの視点であるが、(い)の市民ニーズを詳細的確に把握できるというのも、特段このようなパートナーシップを取らずとも解決策はあるであろう。たとえば、あくまで両者は対立関係に置きながらも行政と市民をつなぐラインをより関連政策の強化や法整備等によって明確化する、などである。
 また(う)の「外の目」の確保という課題は、講学上の行政法・行政学にとって大変興味深いテーマである。特に行政活動の透明性を確保する方向で、行政情報に対する市民のアクセスを一般的な形で保障する「情報公開制度」(大橋、07-87頁)の運用とその妥当性が、行政内部でも外部でも今どんどんなされている。これを鑑みると、わざわざ積極的にパートナーシップの形を採用することでその行政サーヴィス活動の外の目を入らせるという文脈は論理必然的には出てこないように思われる。あくまで、結果論として、市民=外、の監視機能が得られるだけにすぎまいか。

 こうしたNPOと行政の協働という論理・実践は、やはりはじめから賞賛を得たきたわけでもない。嶋田レジュメでは、こういった協働形態に対する様々な批判(さきほどの資源依存関係論もその一つ)と、それから改めて協働を肯定するサイドからの再批判の両方を示しているが、嶋田は基本的に肯定の立場をとっている(らしい)。その大きな根拠としては、協働が「NPOの自律性を失わせる」といった批判に対して、
そのようなNPOの被コントロールの問題は、例えば強力な協働条例などを取り結ぶことなどの、ルールを新たに設けることで克服できるということを根本に挙げている(嶋田、レ13-7頁)。

 しかし、私は基本的に協働に?を投げかけるというか、むしろ否定の立場をとる。その大きな理由は、
ズバリ国家(政府)―国民(市民)の2極対立構造の揺らぎの危険性である。

繰り返し述べるが、両者は緊張関係にあるこそすれ手を取り合うなどといった位相ではそもそもないのであるから。 ホッブズ~ルソーの社会契約論を基軸として、近代国家は成立した。国家は市民の信託をcontemporaryに受けることによってパワーを持つにすぎない。そして市民は、その国家のパワーの発動=公権力の行使に対して、常に敵視的でなければならない。国家も拘束なしには暴走する存在だからである。
 とすれば、協働関係に新たなルールを設けるということも、やはり欠点を往々にしてはらんでいる。まずルールを設けるとすれば、それは各当事者間に適用するという限りにおいて個別具体的である。それはすなわち、時間の消費という点を重視する見地からは望ましくない。
 そして何といっても、協働関係をいくら新たなルールで一定程度縛ろうと、結局根っこのところは変わらない。繰り返し述べることになるが、
行政の場面においてはその透明性の確保、が大変な課題になっている。NPOの行動主体である市民と、行政の行動主体である公権力=国家が協働形態を採ることで、逆に行政の実態を見えづらくしないか(市民の視点に立って)。協働が、結果的に「混同」といったマイナスの事態を産みはしないか。

 行政サーヴィスの範囲がいくら拡大しても、そのアクターをなお国家/国民と峻別する実益はなおある、と私は思う。両者を峻別したうえで、各々が、その透明性の確保の問題に対する的確な対処法を模索していくべきである。
partnership.jpgこんなカンジ。やっぱ。












ご批判・ご意見いくらでもどうぞ(●^o^●)

参考文献
・嶋田 暁文 「ーNPO(非営利組織)ー」『行政学講義第13回』(2009、九大内用レジュメ)
・西尾 勝 「行政学[新版]」(2008、有斐閣)
・加茂・大西・石田・伊藤 「現代政治学[第3版]」(2007、有斐閣)
・M.ウェーバー/脇圭平訳 「職業としての政治」(1980,岩波文庫)
・大橋 洋一 「行政法[第二版]」(2007,有斐閣)


※あとがき
同じようなテーゼで政治学が対象とするのは、例えばネオコーポラティズムをめぐる問題であろうか。しかし、パートナーシップとそれは性質がそもそも異なるものであり、十分な吟味をする必要があると思われるので要するに面倒くさいから省きますww

逆説的かどうかは分からないが、ネオ・コーポラティズムの概念それ自体は、結構妥当だと考えられる。打ち倒されたのは、やはり悲しくはあるのぉ。

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無題

  • by ネズミ
  • 2009/12/10(Thu)00:51
  • Edit
同じ講義を取っている人間として・・・(笑

私も同じことを疑問に思いました。
条例とかで縛りをかけるにしても、限界があるのではないかという疑惑は完全に払拭できるものではないと思うから。
でも、読んでてちょっとひっかかったのは、
「国家(政府)―国民(市民)の二極対立構造の揺らぎの危険性」のあたり。
確かに両者は手を取り合う関係ではない。でもそれと協働を否定することとは、当然につながるものではないのでは?ということです。
「協働」と言っても、別に、「手と手を取り合って仲良くやっていこうよ」という趣旨のものではないですよね、この場合。
二極対立構造であることを是認するとして。一般的に、その二極である市民と行政には、明らかな立場の差というか、行政を監視しコントロールする方向のベクトルが弱いところがあるように思います(ここにももちろん議論の余地はあるでしょうが、政治に対する無力感は、誰しも感じたことがあるのではないでしょうか)。
そういう観点から見た時、協働、つまり行政側から対等だと言ってくれているのだから、むしろ市民としてはそれを利用してやるべきだという嶋田先生の考えには、同意できます(まぁ、そこで私が冒頭で言った疑問にまた戻るわけですが)。
この点に対して、「揺らぎの危険性」だけでは少し反論の根拠が甘く感じられますが、いかがですか?

・・・あ、自分の意見を出してなくてすみませんw今回はそこだけ聞いてみたくてカキコしました。

あーあと

  • by misty
  • 2009/12/10(Thu)10:52
  • Edit
>一般的に、その二極である市民と行政には、明らかな立場の差というか、行政を監視しコントロールする方向のベクトルが弱いところがあるように思います(ここにももちろん議論の余地はあるでしょうが、政治に対する無力感は、誰しも感じたことがあるのではないでしょうか)。

 現実の、われわれ市民側の政治的無力感とか政治的疎外感とかを前提にしていると捉えていいっすかね・・・?
 確かに実態を鑑みたら未だそうかもしれませんね。。 ただ論理的には、立法政策や行政側の自己改革制度によって両者のアンバランスはより改善できるはずです。政権交代が関係しているのかは分からないけど、最近になってようやく市民も目覚めて(笑)きたのかなって思って。
 「強い政府・国家」みたいなのは、現代日本では寧ろその要素は薄くなっていくんじゃないかなと思っています。まぁ、そこをユートピアにすぎないとか言われたら、あぁぁとなるしかないんですがwww
こんくらいかなぁ。

無題

  • by misty
  • 2009/12/10(Thu)10:59
  • Edit
投稿順序がギャクになってまってるけど、ごめんね( 一一)

>確かに両者は手を取り合う関係ではない。でもそれと協働を否定することとは、当然につながるものではないのでは?

ここは、「国家存立の危機・革命の危険性」が起こりうることから、協働に否定を投げかけています。国家の存立がそもそも危うくなれば、二極対立構造も論理必然的に崩れますよね。
・・・えー、えっと($・・)/~~~
NPO(法人)も、各々の目的を持って活動する団体であり、決して国民・市民全般の利益を一般代表するような政党等ではありません。その意味で、NPOはある特定された利益集団と僕は考えています。
 仮に、ある有力な団体が、NPO法人をいわば蓑隠れにして、協働形態を利用して国家に結びついたとしましょう。NPO(特定の利益を追求する団体)→国家への強い影響を及ぼす(又は不当に及ぼしてしまう)可能性も、そのNPOの能力に左右されるよね。
 つまり、一般市民にとっては、望ましくない政府の被コントロールが起こり得る。例えば、そのNPOが要求する利益追求が公共政策の第一におかれた結果他の市民から提起される利益だとか人権問題だとかが後回しになるとか。さらには「革命」といった、そもそも国家の存立の危機にさらされる事までも起こる売る現象として孕んでいると僕は思います。
 それが記事中でも述べた、「短絡的に政府を利用すること」のデメリットです。特定の市民層のみが国家に近づくことによって逆に市民一般からは必ずしも望ましくない状況が起こりうるのではないか、そういった見地から安易にパートナーシップ等といった制度を普遍的に認めるのはアブないと考えられます。

 こんな感じやけど、どどうすかね?w
国家をコントロールするためには、その国家自身も同じくその独立性を保たなければソモソモOUTだし。

ちなみに、「二極対立構造を是認するとして・・・」とおっしゃってますが、逆に訊きますがそれ以外の概念・構造で近代~現代の日本社会を有効に語れます?ちょっと気になったので・・・

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