せかいのみなさまこんばんは、mistyです( ^^) _U~~
結構時間が空いた割には、独自である(はずの)芸術論(??)は愚かエッセイレヴェルのことも書く力がないほどなんか画面の前でプハーと疲れている私>゜))))彡 笑。
12月に入っていろいろとか、風邪引いただのとか、あと今個人的に音楽CDを作成中であったりとか、うんまぁなかなかですね。
しかしヴァーヴァル世界の重要性は、決して見落とせない。そこに日記やエッセイやブログや論文や演説台本といった、ある何らかのモノを文字化する根拠はある。ノンヴァーヴァル言語だけでも、世界は掴めないし。
としたら言語社会は、やはり多数者であるところの「視覚健常者」をそのアクターとして前提にしているんだなぁといつもモンモン((+_+))
実は身内のかなり近くに、視力を失うまではいかないけどそれに近いヤツがおって、僕を取り巻く普段の環境(大学、バイト先、家族)にはそういう「マイノリティ」は登場してこないから、余計そのことについて考えます。
視覚障害者に関連する事柄を、マイノリティ問題と一義的に捉えてよいのかどうかということも含めて。
マジョリティとマイノリティ、各々の対立化の問題や、前者の後者に対する社会上・事実上の支配。
それは、どの領域においても、すなわちどの時代にも社会にも見られる。これは、れっきとした「事実」です。
根底には、フロイト達の言葉を借りて言えば、es(id)の暴力性だとかはあるのかもしれないが、心理学が提示する解決策だけでは、ままならない。
私は、多分いろいろな場面に於いてかなりマジョリティの立場にいて、しかも往々にしてそのことに無自覚であると思います。
それをつよく恥じるようになったのは、ある場面において「あ、おれは、マイノリティなんだな(+そのマイノリティであるという位置づけによって、ある程度損害を受けているなぁ)。」とものすごくハッキリとした自覚を持ったことから。
もちろん全部が全部マジョリティに立っている人なんているとは思ってないし、反対に全てマイノリティの立場に立たされたが故にものすごくマイナスなレールがしかれている、とも思わなない。 だけど、多かれ少なかれ社会が同時並行的に作ってきたシャドウの部分には、マイノリティ側から提起されるものすごく危うい事実問題がある、と私は考えています。
人はみんな辛い。いけとしけるものはみんな辛い。
でもその「つらさ」にも種類があって、生きていくうえで欠かせない苦しさみたいな、いわば「必要的辛さ」と、特段受ける・感じる必要はないのに現実上起こり得る「必要じゃない辛さ」みたいなのは混同していると思う。
後者の辛さを、どう解消する方向に働かせるのか。
これは、私は、人間の「アタマ」と「カラダ」を使って解決すべき、問題だと思っています。政治的問題だとか、経済的問題だとかとは別枠に。
そんなこんな~( ^^) _旦~~
misty @
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COMMENT
無題
なんくるないさ~笑
無題
そうねー行きつくところまで行けたらね~( ^^) _U~~