こんぱら!
mistyです。
今回は、第三章「知識」の章を。
読書自体はpp230くらいまでいってるのですが、いかんせん内容が難しくなっている…orz
さて、第三章「知識」。
・知識の位置づけ
この章は、次章の「真理」の伏線にもなっていると考えられ、記述自体比較的短め(pp107-150)です。しかし内容が複雑で、つかみにくいと思われ。
中心的なテーマは、
「『知識』は、環境とシステムとの構造的カップリングによるオートポイエティックなコミュニケーション・システムにとって、基底となっているもの」
ということだと思われます( ^^) _旦~~
基底となるものであるとも同時に、コミュニケーションによって獲得されるもの・増幅されるもの、という指摘も。
ではどうやって知識が獲得されるのか、という事柄の詳細については、読む限りは分かりませんでした…。
まとめの段落に、こういうルーマンの記述があります。
pp147「知識は全体社会システムの構造的カップリングの結果の総体である、と要約できる。」
「結果の総体」…。 直感で飲み込んじゃいましょう(笑)
・知識と真理/非真理との関係
真理/非真理 については次章で触れられるのですが、この章にも真理/非真理に関する記述が散見されます。その中でも特徴的なのは、
知識は、ひとまず「真」の知識として出発するということ。
その際、「真理か非真理か?」という懐疑的態度は、無視できるもの、であるらしいです。
というのも、0次的な世界(生の実在)は、そもそも真理/非真理 の区別を受け付けない(どっちの状態かをハッキリ明言することはできない、これをスペンサー=ブラウンの定義にしたがって「無標状態」と呼びます)ことからくるみたいです。
コミュニケーションという作動によって、最終的にはその当該知識は「非真理」―例えば、銀河系は、地球を中心にして回っている(天動説)というのは、誤りだ―であることが言われるかもしれませんが、始まりはとにかく真理の側から出発するそうです。
・「記憶」の重要性
近代社会とそれ以降を明確に区分けする指標の一つとして、「
印刷術の発明」があります。これは、人々の記憶の諸形態、並びに構造をも変化させてしまったようです。
知識は、絶えず発生し、消え去っていくもの…。 つまり、知識は瞬間性を帯びたものです。
しかし、ある知識が、<文字>として残され、公刊される事で、過去のものだったはずの知識は、いつでも(現在性の方向)に引っ張ってくることができます。
ルーマンは、この記憶(メモリア)の役割付けを、重視せよ! と言ってます。
どんな役割付けなのかは、ハッキリとは書かれていません(多分)。 後々明確になってくるのでしょうか。
以上、「知識」の章についてでしたが、正直残念な気持ちです。だって、よく分かっていないし、まとまりがない(笑)
うーむ。 次の章のがもっと長いし難しいのに…。
misty @
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