やってまいりました、続編です。
今回はpp140くらいまで読みました。
だ、だんだん難しくなる…笑
第二章の「観察」を終えて、第三章の「知識」も終えました。
ところどころ分からない概念が。。
(1) 第二章に行く前の、確認事項
「観察」の章にいく前に、前回分で載せていなかったことを…。
1
まず
、「生物学・心理学・社会学」の3者の違い、若しくは区分、あるいは定義です。
この3者がどのように区別されるのか、改めて考えてみると確かによく分からない人も多いんじゃないでしょうか。そもそも社会学・心理学は比較的若い学問ですし。
こんな対応関係になっております。
生物学 → 「生命」のシステムを解明・研究する
心理学 → 「意識」のシステムを解明・研究する
社会学 → 「コミュニケーション」のシステムを解明・研究する
こんな定義らしいです。ちょっとなるほど。
2
そしてここから話が進むのですが、それでは「生命・意識・コミニュケーション」の共通点は何か??
それが、それらは3つとも「
オート・ポイエティック・システム」であるということです(多分)。
オートポイエティックシステムとはなんぞや。
簡単に言うと、オートポイエティックとは
、「自己が自己を再産出」するもの(他にも要件はありますが、重要な要件はコレです)です。
「自己(主体)」の、20世紀的な定義の仕方。 自己(主体)=オート・ポイエティック・システム。
例えば、20世紀以前の、「近代」においては、「自己」の定義について「
デカルト的主体」が有名です。
私とは何か? と問われれば、この考える私こそが、私に他ならない! 考える私こそが、私=自我なのだ!
デカルトが発見したので、デカルト的主体などと呼ばれています。 しかしこのデカルト的主体の概念はその後様々な批判を経て、脱・デカルト的主体 が目指されました。
オートポイエティックシステムの概念は、その流れの中でも無視できない、新しい「主体(自己)」の定義付けです。
分かりやすいのは、先ほど挙げた3つの中の、「生命」。 神経生理的な図をイメージしてみてください。
生命を構成するところの細胞は、自ら細胞分裂し、新しい細胞を生み出します。その子細胞は、また親細胞となって、新たな子を産みます。これが半永久的に続いていく。この性質を持って、ルーマンは「オートポイエーシス」と呼んでいます(多分)。
神経生理学的な「生命」は、自己と自己以外である外界を(その方法がどうあれ)区分して、例えば外界に二酸化炭素を吐きだして、同時に外界から酸素を取り込み、そして自己を維持します。 細胞は細胞分裂して「自己が自己を絶え間なく産出」していき、DNAも次々と新たなDNAを生産していきます。 親細胞はいつか死に絶え、そのころには子細胞がその親細胞の地位にとって代わって、またその親細胞が死んで…。
こんなイメージ。
それが、人の精神作用である「意識」にも、それから社会の基盤である「コミュニケーション」にも、全く同じことが言えるみたいです。
そして、「社会の科学」では、その3つの内の「コミュニケーション」をシステム論の見地から考察し、よって「社会」を検討していこうとします。
以上が、前提の話です。
(2) 第二章 「観察」
さて、第二章「観察」について。
前回は「観察の観察」という、二次的なステージがキー概念となるといいましたが…。
それが具体的にどのような意味を持つのかと言われると、ちょっと困ってしまいます。
要するに、世界の記述の仕方、それが科学の問題だ、と指摘するのみなのでしょうか…?
曖昧ですみません。 まぁ、これ読書感想ですから笑
次に、「
時間」という概念もキーワードになる感じでした。
つまり、過去・現在・未来という時間が「観察」の現場に持ち込まれることによって、そこから様々な観察が生まれます。 1秒前にみた世界の景色と、1秒後の世界の景色は、全く違うはずです。 そこに、観察の意味がある、といったような論調でした。
そもそも観察とは、絶え間なく更新されていく作動だ、といった要旨もあったように思われます。次から次へと生まれては消え、消えてはまた生まれ、的な。
そういう意味でも、やはり時間が流れることは、重要な意義を持つらしいです。
「こうやって私は世界を観察=記述した、はいおーわり!」じゃなくって、どんどん角度を変えた世界の観察=記述 が生み出されることの、担保になる、といったところでしょうか。
第二章「観察」はこれくらいで勘弁して下さい(笑)
@ misty
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