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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   
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幽霊はこわくない?!

こんにちは。
最近、難しいテーマが続いていたので、肩の力を抜いた気楽なテーマを考えたいと思います@


@幽霊は怖くない?

幽霊・妖怪って、こわくない?
 最近は、幽霊や妖怪を、小説や映画を用いることで「恐怖」の対象として崇めたてまつる一方で、実在としてのそれらを怖く感じなくさせているような雰囲気が、文化の中にある気がします。

逆説的ですが、僕らは霊感でももっていない限りは、幽霊に対面するのは、テレビの画面や映画のスクリーンの中のことが多くなってしまいますよね。 幽霊は、画面の中で映るものだ。ということは、本物の幽霊は存在しない?
 どこか現実味を帯びていない、はではでしいメイクをした化け物は、ますます現実から遠ざかって、想像界の中での産物というキャラクターを推し進めることになります。
これは、ホラーファンにとってはゆゆしき事態です(笑)。
 ホラーを求めるということは、「これってもしかして本当に僕らの身近にある話なのかも…」と、奇妙な後味を残すような映画がやっぱり名作だからです。 これは映画だからと割り切ってしまうと、全然こわくなりません。

ちなみに近年のホラー界は、まさにこの傾向が高い。(笑) おそらく、「その場だけで楽しめる怖さ」を、配給会社・映画監督なども追及しているのだと思います。
 エクソシストやオーメン、さらには日本のリングなどのヒット作は、後味の悪いという点ではズバ抜けていた。当時の観客に、観終わって普通の日常に戻る際も、映画の感覚を引きずらせるという妙技が、当時の文化社会でセンセーションをいずれも引き起こしています。つまり昔は(リングはそんなに昔でもないけど)良かった!


まぁ、前置きはこれくらいにして、ここでは幽霊というものと、特に科学主義との関係を考察しておきたいと思います。 「幽霊」=装置とみなす、ちょっと変わった考え方です。

 「幽霊」に対する見方・考え方を、科学との関係において整理すると、まずは以下のように分けられると思います。

幽霊を非・科学的なものとする見方   ・・・ 消極的見地  A
                         ・・・ 積極的見地  B

幽霊を科学的に説明する見方   C


まず、A。これは、幽霊を消極的に非科学的なものとみなす見地・文化です。どういうことかというと、幽霊や妖怪のような存在は、科学のように合理的に説明できるものではなく、しかし別段科学を意識しないというもの。

 このような観念があったのは、例えば古代・中世の日本などがあげられます。「妖怪・化けもの」がとても人々の生活の身近にあった時代です。梨木さんの小説「家守忌憚」や、水木しげるの妖怪ワールドは、まさにこの範疇にあると言えます。

梨木香歩の「家守忌憚」は、とてもみずみずしい小説です。江戸の半ば・後期に生きる主人公は、冒頭からいきなり死んだはずの友人の幽霊と会話を交わし、しかも主人公はそれを不思議なものと思いつつもわりとすんなり受け入れているのです。そんなおっとりの主人公のもとに、友人以上にミステリアスなキャラクターが彼をとんどん取り巻いていく、というストーリーなのですが、そこには人間と化物が、なんとなく仲良く世界を共有しながら生きているというほのぼの感が漂っています。

古代・中世の日本では、ヨーロッパほど合理的なものの見方が支配的であったわけではなく、幽霊・妖怪といった存在は小説や小話で幾度も幾度も登場して、親しまれてきたけれども、それを理論的に説明するなどといった芸当はほとんど存在しなかったと思われます。それよりも、そういう不可解な存在を受け入れ自分達の生活の中に溶け込ませるという動きの方が多かったのだと思われます。
 水木しげるワールドでは、あずきあらいとかいったんもめんとか、とても人間の生活がしみ込んだものが多い。これは、化け物が人々の日常にとても深くかかわっていたことを反映させていたのだと考えられます。


同じく幽霊を非科学的なものとする方向に於いても、それを積極的に峻別しようとする見方(B)は、Aとはわけが違います。これは、化け物と共存するなんてとんでもない、むしろ科学の方に寄り添ったりして、幽霊をひたすら怖がるといったなどのものです。
 ここでは科学などの化け物以外のものは、依存するべき対象であり、反対に幽霊などは、排除するべき・避けるべき対象であります。

もともとのホラー小説・映画などは、こういった考え方からできたものもあったはずです。幽霊をひたすら「あっち側の」世界に置くことによって、しかしある種の「向こう見たさ」という心理を利用して、恐怖をあおるという。
 
幽霊は非科学的存在であるとともに、ひたすら恐怖の存在でもあります。忌み嫌う、という表現がぴったりか。
Aのようなほのぼの感はみられなく、幽霊なんてとんでもない!
 こんな気持ちを、私たちは抱くことも在り得るのではないでしょうか。ホラーがほんとにダメという人は、この類型に入るのかもしれません。


そして最後に、幽霊までもを科学的世界の範疇におさめようとする見方(C)です。これは、まず幽霊以外のものも科学の世界に支配されているということが前提となっています。
 つまり、幽霊さえも科学的に説明できるはずだ!というスタンスに立つことです。

「心霊家」など、スペシャライズさせるという動きは、この範囲のものといえます。
最近の(ぶっちゃけてしまえば、魂胆がバカバカしい)ホラーTVなどに、よく見られます。

ます、幽霊写真や動画などといって、根源的恐怖心を茶の間にあおりたてる。
この段階では、Bの観念に近いといえましょう。
しかしそれから、心霊家などの専門家が、「不可解とされた事態」に、説明を与えていく。
「これは、3年前にこのアパートで自殺した人の霊です。殺された時の恨みをうったえたくて、この写真に写っているのです。」

…なんとまぁ、合理的な説明! そして、ほっとしてしまう(もしくはそう見せかける)わたしたちのバカバカしさ!
しかしここでは、あくまでそういった「不可解な」事象を、私たちの理解の範疇に寄り添おうとする動きがあるのです。

説明をされて無意識に私たちがほっとしてしまうのは、科学への信仰心が少なからずとも現れていることの裏返しでしょう。信仰心というと語弊があるかもしれません。 この世の中に、科学・合理性の考え方がいかに浸透しているかということです。

よく分からない・非科学的な存在から、科学的な証明へ―。
幽霊は、幽霊的なものを取り上げられていきます。 最近のTVショーなどでは、C的なものの見方が多い。
でもそれは一方で、伝統的なAの見かたをなくしてしまっているのでは?

 それでいいのか日本!(笑)

不可解な存在でさえをも文化の基盤としてしまう、そういった情緒的な民族を、私はやっぱり愛してやまないようです。
最後に一言いえば、幽霊や妖怪に合理的な説明を与え過ぎると、それはいちホラーファンとしての面白さを減らすことにもつながるので(笑)、ほどほどにしてほしいですね…小さい事ですが!笑

それではっ。
misty @

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田んぼが減った


こんにちは、ミスティです(●´∀`●)/ 毎日寒くて寒くて震えています(笑)

@田んぼが減った

(1)倉敷の田んぼ
 太陽がさんさんと輝いて、空も青くて、風が気持ちよくて、緑々とした稲が元気に育っている、そんな夏。こういう昼下がりを、自転車で駆け抜けていくのは、とても気持ちがいいものです。

 また、ちょっと気温も下がる頃、稲穂は実りをつけて、夕暮れ時の暁に染まる。 タハーという何とも言えない気分になりますな(*´∇`)
 私の母方のじいちゃんばあちゃんは農家でもありますが、仕事の合間にこんな四季折木々のちょっとした情緒を身近に感じていたと思います。

 実家は岡山の南、倉敷にあって、岡山平野と呼ばれる広大な平らな土地の上にあります。昔は家の隣はすぐ田んぼ、という感じでした。最近では、実家に戻る度、うちの近くがただの住宅街になっていくのを肌身に感じています。 あちらこちら、宅地になって気付いたら集合住宅やら一軒家が立っています。

…倉敷、いい所でしょ(*´∇`) ←違

 田んぼは、自然である所の山や海までいかなくても、かなりそれに近いです。確かに稲は、季節を通して刈り取られていく運命にはあります。でも、年をめぐってそれは繰り返される。私たちがご馳走さまでした、と感謝する限りにおいて、稲は無邪気な笑顔を見せてくれるような気がします。
田んぼにはそういった稲だけでなく、狭い通りに生えている野種だとか、水田の中にはオタマジャクシやタニシ、運が良ければタガタメなんかもいたりします。 秋に入ると、様々なトンボも飛びかい、夜にはコオロギやスズムシ達が鳴く。 そういった所では、田んぼの周りは、山や海に次ぐ第二の自然です。

 実家の話を取り上げましたが、倉敷でそういった田畑が減少し代わりに宅地やビルの立地が増加するのには、田畑では土地分の収益に見合わない、というのがあるのでしょう。
田んぼや畑の仕事には、ある種の特殊性があります。それは、巧妙な複雑さを要するということです。芋、などはそこまで難しくないでしょうが、稲作は難しいし、かなり手間のかかる仕事です。一期作でさえ、苗植えから脱穀まで、ありとあらゆる手間のかかる作業を連続させなければなりません。

 その手間のかかることを、労働生産性が低いという言葉が支配する。すると、たちまち耕作面積を広くすべきだ、いや機械化を図るべきだ、という考えになる。しかし、稲作の特殊性は、先に述べた通りに巧妙な複雑さを持っているので、機械が完全に入り込むには限界がある。また、日本の平野は山林区域と比べて狭いわけです。
 ならば、ある土地の使い道を考えた場合、そういった労働生産性も低いし収益も上がらないような田んぼを増やすよりは、賃貸として機能させたり、要するにもっと効率の良い他の方法を採用するのでしょう。その連続の結果が、田畑の随分減った倉敷の現状だと思います。

(2)効率化の先
 少しここで、田んぼが減ったことに対する人々の心象風景を考えてみます。
 先ほども言ったように、田んぼもまた人間が和気あいあいと触れ合えるような自然の一部、と言いました。そういった場所がどんどんなくなり、代わりに住宅やビルが建ち並ぶわけです。 ほんのささやかな、植木やガーデニングのみが、自然、しかも相当人工的な自然に触れることのできる場所となります。
ところで、私たち日本人はご飯を前にして、手を合わせて「頂きます」と言います。「食べます」ではありません。そして食事を終えた後は、「ご馳走様でした」とまた合掌していいます。 これには、自然の恵みへの感謝といった、たいへん日本人らしい美しい情緒が見てとれます。食べ物に頂きますと断っているのです。
小説家ランディは、この食べることを、彼女らしくユニークにこんな風に語ります。

…私は他の命(植物や動物)を食べて、そして自分の細胞を総とっかえしながら生きているのではないか! と。身体というものを通して、私たちは他の生き物を取り込んで生きている。一日もおこたることなく食べ続ける。身体とは、そのようにできている。食べないと死ぬ。…

〈田口ランディ「できればムカつかずに生きたい」161頁(2005、新潮社)〉

 田んぼの稲も畑の野菜も、同じ生物という点においては人間と全く同じです。でも、私たちも何か体内に取り込まないことには生きていけない。彼らの命への感謝を頂きます、という言葉に託して私たちは毎日毎日言っている、そう思います。

 さて、上のような一見当然のように思われることでも、田んぼを失った場所に住む人々は忘れることはないのでしょうか。かなりあやしいと思います。欧米的な均質性を備えた植木は、自然にそこからある訳でもない。ガーデニングにしても、全く自ずから育っているわけでもない。
 張られた水中に住む虫達と遊んだり、暁に映える稲穂に目をやったり。少なくとも子供の私にとってはかけがえのない時間と空間だった共有性は、今は残っていません。そして、そういった時間を持たなくなるのは何も田んぼ仕事をやっている人々だけに限らず、帰り路の子供、散歩する大人にも言えることだと私は思います。

(3)幸福のカタチ
 効率化の先は、また人それぞれの幸せだと思います。しかし、効率化による幸せがあるのなら、非効率的な幸せもまたあるのでしょう。お互い、優劣は付けられない外です。だけど、非効率という言葉は、まるで害虫のようにマイナスの響きを持たされています。効率的であるということが、さも絶対に正しいかのように。だが果たして本当にそうなのでしょうか?

 先ほどの例でいうと、地道な手作業の多い稲作仕事や、田んぼの周りの自然へ思いを馳せるといった事柄は、前者でいうと労働生産性が低い(ゆえに機械化を図るべきだ)、後者でいうと、時間の無駄、という意味ではたしかに非効率かもしれません。
でも、非効率的だからといって、それらは淘汰されるべきなのでしょうか。

 農家を営んでいる人達は、ものすごく元気です。私のじいちゃんばあちゃんがいい例です。お互い70を過ぎても、相変わらず受け継いだ土地に朝早く起きては向かう。地道作業に涙することもなく、いつも元気いっぱいです。ちなみにじいちゃんばあちゃんは、お互い農作業以外に会社勤めと高齢介護にも携わっています。なのに元気は枯れない。まるで、田んぼの稲と同じように、太陽や風などから、パワーをもらっているみたいです。

 私は、実体験があるので、農作業というのは大変だけどとても幸せな仕事だと強く思っています。収益が低かろうが、手間がかかろうが、あまり関係のない事柄です。

 効率化の名に蝕まれている社会を生きる私たちにとって、「効率的か非効率的か」の判断枠組みも、また一つの広い意味でのイデオロギーと捉えるのは、マイナスではないように感じられます。人に、こっちのほうが効率的でしょう?て言われて、「うーん確かにそうだね、でも…」と曖昧に受け答えすることがよくあります。この「…」の沈黙の部分に、効率化ということだけでは図りきれない、別のカタチがあるのだと私は感じています。


でわでわ、
ミスティ @

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だから九州人はダメである


朝早くから…おはようございます、ミスティです。 ゼミ発表のためのいい資料が大体やっと見つけられてしかし、執筆提出期日まで残り僅か…ピンチな僕です。(笑)
今あまり頭が働いていないので、コーヒーブレイクでエッセイを投入します。
こんなタイトルで、内容も結構過激です。(笑) 地元が九州のかた、どうぞご感想を(笑)(笑)
本トは芸術論1を投稿するつもりだったんですが。

@だから九州人はダメである
ほんっとに、ダメ。(笑) すごい書き方をすると、本州人および四国人からしたら九州人は使いづらい度ナンバーワンといっても過言でない。それ程、彼らは異質であり、かつダメである。(笑)(笑) ※ちなみに九州人というからには、年配の方だろうが小学生であろうが、とにかく九州地方に10年間以上浸かった人全てを名指しています。(笑)※
具体的に何をもってダメ出しをするかというと、彼らの精神性において、そのフレキシビリティさにあまりに欠ける、所。分かりやすくいうと、融通が利かない。変なところで、他者に対して自己中心的。そして極めつけは、彼らは身を寄り添うようにして九州人同士固まって生活をしているため、外部からしてみれば甚だ迷惑極まりないのである。(笑)

まず、最初の融通がきかないという点に対して。これは、良く言えば、九州男児、という言葉がよく表しているように、心の中心に揺るぎのないものをずしんと据えている人が、九州地方には多い。
外見上は、本州人及び四国人と何ら変わる所のない人でも、ひとたび内側を除けば鉄の固まりのようなズシーンとしたものが構えている。 もちろん、その鉄の色は、(九州)人それぞれだ。淡い柔らかめの色を持つ大学生もいれば、赤くて凛とした色を持つ社会人の方もいる。
だが、彼らは往々にして、人情に基づく文化社会を全面肯定する。というか、それを疑問視さえしないきらいさえこの現代(社会制度が欧米・西欧よりである日本は、科学的思考や手法が1番妥当しており、従って「人情」といった科学とはおよそ相容れないものを基軸に据えた社会などまずもってダメなはずだ。アメリカ社会のように、人情が補完的に働くならまだしも)にあっても見受けられる。 人情ありきでしょ!みたいな。 それは別に構わないのだが、1番困るのが、その人情というのが(実は)九州人各々の捉え方で違っているのだ…。そして、九州人同士はあまりそのことに気が付いていない…(気付いていても、まあそれはいいっかあー(*´∇`)みたいな)。 みかけは同じに見えてもちょっと掘り下げたら統一すらされていないのか…。
次に、変な所で他者に対して自己中心的である、について。
たいがいは、九州人は、日本は九州と沖縄とあと東京(のみ)から成るものだと思っているらしい。他の地域が意識の外に置かれていることが少なくない。しゃあない。だって、それぞれの日本としての規範を擬制した、商業や関西文化の中心街大阪、伝統と歴史を担う京都、んで政治や経済、また生活ブームの中心である東京等からは、いっちばん遠くの場所なのだ。
航空整備や全国統一型メディア社会が普遍するまでは、もの・ひと・かね・情報の伝達がまあおっそいおっそい。 福岡は九州の東京であるというのは正しいどころか、真理とでさえ思ってしまう程である(福岡も東京と同様に、あらゆる産業や文化が集中する都市圏としての機能を担う)。

話はだいぶ逸れたが、まあ今は全国的にいろいろ均質化してきてますから…というのはあるにせよ、ココロというものの均質化はなかなか起こりにくい。そして、九州人は日本は九州と沖縄、そして(基本的にディズニーランド(←千葉)か新宿・渋谷を指す)東京から成っていると思っている。なので、ちょっとした悩み相談でも、どーしても彼ら「固有」の意見とか考えしか出てこない場合が多い(私的に)。 それはそれで構わないんだが、違うアドバイスを求めて、この人は多角的な視野からアドバイスしてくれそうだ、と思って話してみたらおやまあほとんど変わりない!(苦笑) 根っこのトコが、共通みたいである。無理する主義、とか、縦社会に一段とこだわる(九州独自の縦社会である)とか、「結局それはお前の人情がないからだよ」論、とか。あ、あと、意外に他者のことを気にしていない、だとか。(爆)なにかしら、共通するものが見え隠れする。それを以て私は日本人とは言わず「九州人」と敢えてここで連呼してます!(笑) その根っこは、世界中のみんなが持っているものではない、んだよ…(切なる魂の嘆き)
最後に、九州人はたいがい九州人と固まる、というのはとりあえず仕方ない。同じ風土性や性質性を持つ者同士が結託しやすいという説は、わりと正しい。が、何が面倒いかというと、根っこは同じで、でも枝葉は個々様々なのだ。そして、彼ら自身は彼らのそういった内面をほとんど振り返らない(疑問視しないし、そもそもアイデンティティーって何ー?と真面目に訊かれるのだ…)、そんな人種の、集合体。(笑) これに、一介の岡山人が触れると、選択肢は2つしかない!完全に彼らに包摂されるか、はたまた除外というサンクションを受けるか(どちらの選択肢をとっても、九州には文字通り「九州」人しかいない)。 彼らと、さりげない緊密を持つ関係性を作るのが、いかに難しいか、ここに来て重々思い知らされる。 いや、これは逆で、私の方が異端なのだろう。

私の人間関係の基本は、「狭く深く」。もともと社交的でもないし、でも人好きだから浅い付き合いをされると何だか寂しいからデス。でも、いろんな場所に住んでる人や異なる文化・生活・言語圏をバックグラウンドに持つ人と、いやがおうにも交わらないといけない環境では、「広く深く」はとてもとても不可能!できる人は人間性が優れた、ごく一部の人だと思われる。。
九州の人は、たぶん、狭く深くという言葉に説明されるまでもなく、…な。なんか、なんというかそんなカンジなのだ!(笑)そしてそれをあまり疑問視しない。広く浅く、の人間に接しても、「なにあげんしとんとかねー(ふっ)」で終わる、のである。(笑)リアルに。私自身のリアルなのだから、これもまたしょうがないといえばしょうがない。(笑)

最後に言うまでもないが、こんなこといちいちエッセイにするのは多分私もたいがい九州と、九州にいる人が大好きなのだろう。ココロの問題という現代的な現象に関してはもうちょい分かってくれたらな、とは思うのだけれども(笑)、それでもやっぱり九州人は好き。あとこれ、別にフォローでもなんでもないので(笑) さらっさらフォローに回る気すらないし、好き嫌いとダメ出しの話は別です。(笑)
僕は、九州人が、九州から出ることを知ると、いつもその人に言います。

「ホントに気をつけて!(外は異国文化だらけだから)」

ミスティ @

PS 九州だってよく観察すると、内部ではいろんな文化や精神性が…
それは、そうでしょう。どこでもそうでしょう。北海道だろうが、関東だろうが関西だろうが四国だろうが。
ただ、根っこは、福岡・沖縄・鹿児島・熊本・宮崎・大分・長崎にて同じであることが主観的ながら確認済みデス!
県制度でいえば、あと佐賀の人だけだ(´∀`)

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伸びる身体、広がる意識(2)完


(3)伸びる身体、広がる意識
 話を少し変えて、はじめにまず鷲田による身体論を簡単に記述しておきたい。 全体としては、身体というものがいかに意識によって作られた産物であるか、という謎なぞみたいな話ではある。しかし、力点はアイデンティティをめぐる問題、生と死をめぐる問題、そして他者と生きることの何よりの大切さ、等に置かれており大変示唆に満ちている。
 以下、そのほんのごく一部だけを簡単に引用したい。


…身体とは皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これまただれもが自明のことのように言う。が、これもあやしい。たとえばけがをして、いっとき杖をついて歩かなければならなくなったとき、もちなれぬ杖の把手(とって、括弧付引用者)の感触がはじめは気になってしようがない。が、もちなれてくると、掌の感覚は掌と把手との接触点から杖の先に延びて、杖の先で地面の形状や固さを触知している。感覚の起こる場所が掌から杖の先まで延びたのだ。同じようにわたしたちの足裏の感覚は、それがじかに接触している靴の内底においてではなく、地面と接触している靴の裏面で起こる。わたしたちは靴の裏で、道が泥濘(ぬかるみ、括弧付引用者)かアスファルトか砂利道かを即座に感知するのである。…
 
鷲田清一「悲鳴をあげる身体」(1998、PHP研究所)


 早いが話、ジャンプ漫画「ワンピース」の主人公ルフィのゴムゴムの実の写実を想像してもらいたい(びよよーんと腕が伸びるあの姿である。)鷲田はこのテクストでは杖や靴をあげ、杖をつく際は掌が杖の先までびよーんと、靴で歩く際は足裏の皮膚から靴の裏面までびよんと伸びたりすることを述べる。感覚体である所の身体を前提におくと、無理のない解釈だ。
 他にも、例えば朝起きた時は普段の身長よりも少し高くなっている。到底届きそうにない戸棚の中のグラスを取ろうと、気合い入れてうーんと力を入れると、腕がホントに伸びるような気分になる。

 往々にして私たちの身体は、場合に応じていろんな箇所が伸びていくみたいだ。

 意識も、似たような所がある。普段は、意識や心と言われるものは、脳かもしくはハートと呼ばれる内側・インサイドに、あるものと思っている。しかし、空想やだんまりにふけっていて、誰かから呼び止められた時、私たちはよく「はっと意識が戻った」とか言う。戻ったとはさしずめ、どこかに行っていたのか。例えば、「また旅行に行きたいなー」と思ってふと空想の世界に遊ぶ時、その空想上のフィレンツェに「わたし」の意識は確実にその間飛んでいるのである。
 家出る時本当に鍵しめたっけなーとか、明日の京都旅行では、どこの寺から巡ろうかなーとか思っている時、私たちの意識は脳とかハートとか呼ばれるものから外に出て、その家や京都まで広がっているとも言える。

 どうやら私たちの身体や意識というものは、この物理世界における「私」の範囲を越えて、よく伸びたり広がったりするみたいだ。そう私は思う。


(4)地位や身分にいる時のわたしたち/個人主義の再思考
 わたしの親父は、一介の高校の先生である。スーツを来て、ネクタイを締めると顔付きが変わる。

 仕事場で着るスーツや「制」服は、実にタイトなものが多い。寸法を図る時も、皮膚と生地の隙間をあまり許さない場合は多い気がする。
 警察官の制服も、ものすごくタイトだ。
 だが、一面でこんなことは考えられないだろうか。教師や警察官としての「彼」は、タイトな衣服をつけた瞬間、シュッとその衣服の中に身体がおさまる。同時に意識も完全にその仕事モードになる。彼が彼の職務を、なるたけこなしやすいように。
 (3)で私たちの身体や意識は、往々にして伸びたり広がったりするといったが、私たちはある意味、地位や身分をいわば媒介として、フニャフニャとした私たちをシュッと引き戻しているのではなかろうか。強いゴムは伸びた後、必ず同じ力量で元に戻る。

 近代以降、身分から解放された個人。しかし、「裸の個人」という言葉が語るように、剥き出しの私たちをそのまま曝け出すことは、基本的に隠したり嫌がったりする。口内や汚物を普通他人に見せないのと同じように。


…隠居という慣習がリタイアするというよりもむしろアイデンティティの別のステージへの乗り換えを意味したように、つまり隠居とはなにもしなくなるということではなく、別のことを開始するということだったように、あるいは改名の慣習というものがひとには生涯複数のアイデンティティがあって当然だとみなす社会のそれであったように、アイデンティティが単一である、という固定観念こそが、この生活はくずれるのではないか、つまりは〈わたし〉がこわれるのではないかといった不安を煽ることになっているのではないか。…
(鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」1996、講談社)


 冒頭の、なんで僕はいろんな役割をこなしていくんだろう、僕は僕でしかないのに。こんな不思議感は、もう今ではすっかり解消された。

 身分や地位、共同体に囲まれて暮らす時代、それを転回させる形での、個人の尊厳やアイデンティティを尊重する近代~現代。 どっちに生きる方がいいかなんてのは、まったくもってそれこそ「個人」が自由に思う範囲であり、ましてや社会問題でもない。 でも、哲学。

 最後に付け加えれば、まず現代社会でも先天的に与えられ疑問を挟む余地がない(実に心地のよい)身分や、小さな共同体は依然として残存する。現代(あるいはポストモダン、か。)に生きるからこそ私たちは時として、身体と意識がシュッと、あるべき方向へ収まるような器としての身分や地位を余計欲しがる。他者との関係で生き、「わたし・自分」という存在が心地よく溶解しやすい共同体へのノスタルジアも起こる。(2)で述べたり返しの内容の飛躍にはなるが、もしかしたら2010年代は往々にして、個人主義ならぬ孤立主義の再検討が、いろんな分野で見直される時代になるかもしれない。

少なくとも、これ以上、良くない10年間になりませんように!神様仏様大魔王様!



それでは、よいお年を!(´∀`)
ミスティ @

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伸びる身体・広がる意識(1)

せかいのみなさまこんちには、ミスティです(^O^) えーもう今年も早いもので、あっという間に残りわずかですね。
この年末になって、記事をまたおそろしい程投入したので笑、お暇な方はいつでもどこでも読んで下さいまし。一度投稿した記事は削除いたしません(*´∇`)

一応今年最後のしめくくり(?)として。


@伸びる身体、広がる意識

(1)複数の「わたし」
 中学の頃くらい、一度にいろんな事を違った角度から見はじめる時期に思っていたのことの一つ。私は「わたし」という一つの個人でありながら、いわば多重人格を生きている。そのことが不思議で不思議でならなかった。
「あだ名」の複数性が例えばそうだ。戸籍上では一つの名前が確固としてあり、学校の先生達からはその名前で呼ばれ続けた。しかし、同級の友達からは、実にいろんなあだ名で呼ばれる。でも、私たちは普段何の意識もすることなく、あだ名で呼ぶ友達に向かって「なにー?」と受け答えする。
 また、第三者としての大人から見れば、当時の僕は「中学生」と呼称されては、「最近の中学生・高校生はマナーがなってない」とか言われたものだ。
 家に帰れば、親からは「息子」妹からは「にいちゃん」、そしてばあちゃんからは「孫」として扱われる。

 私たちは、いつも一つではない、複数の地位や役割を与えられて生きている。

(2)帰属体への欲求
 江戸幕府が崩壊し明治という新しい時期に移行した時、「藩籍奉還」の実施や「四民平等」が唄われた。第二次世界対戦後には、日本国民は14条によってあらゆる社会的身分と門地から開放された(日本国憲法14条1項)。「裸の個人」の出現である。

 だが、僕は個人を解放させたことによって逆に、帰る場所、拠り所みたいなものを私たちはどんどん求めるようにならざるを得なくなった(新たに見つけなくてはならざるをえなかった)気がしてならない。

 例えば同じ14条1項の中でも「性別」に基づく差別禁止規定が書かれてあるが、いわゆるあの例のジェンダーという概念がフェミニスト達から仕切りに主張されたことも起因し、「男女雇用機会均等法」などは制定の目を見た。現憲法の制定・施行から40年近く後のことであった。いずれにせよ女性の様々な場所での社会への登場・活躍は増え続けている(時に男性よりすげえと思うことも多々ある笑)。近所さんとの生々しい付き合いもいいけど、それだけじゃなく例えば仕事場で自分の能力も活かしてみたい!、的。
 日本社会には、ほんの150年前くらいには強い血縁的共同体や、士農工商などの身分の中に一生を生きるという習慣があったはずなのである。

**また休憩させて下さい笑**

 武士は武士として生きるのが当たり前、治安や政治をおこない、食べ物は農民から得る米。 あまり誰もが、その慣習自体に違和をそもそも覚えなかった節がある。

*余談:歴史を振り返ると、えてして革命や反逆は外来の文化や学問を学ぶことから端を発するのが多いみたいだ。イギリスの清教徒革命・名誉革命とジョン・ロック、フランスの1789年革命とアベ・シエイエス、江戸幕府の揺らぎと大塩平八郎。勉強して得た知恵を潔く実行に用いるのが格好良い。 *

 繰り返しになるが、日本国民は最高法規(憲98条1項)である所に規定されている14条1項を読む限り、とりあえず社会的身分や門地から差別を受けるべきではない(らしい)。しかし現実には社会背景もあいまって、殊に労働世界における雇用者と被雇用者の事実的支配関係、法人(中間団体)の権力の増大などの現象は未だに拭い切れていない問題として残っていることを、書き留めておく。

 より自由でかつ平等になったはずの個人は、しかし結果として新たな不自由や不平等を受けざるを得なくなった。すると。

 個人はまた、昔にあった筈の、自らを先天的に縛りつけてくれていた身分や地位、そしていろんな共同体への帰属を、夢みることに繋がることもあるのではなかろうか。

 資格ブームや検定ブーム、あれは単に流行現象として起こったのではなく、もしかしたら自分が(比較的楽に)得ることのできる地位や資格を、内面の欲求そのものが欲していたのかもしれない。

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人の舌/日記というもの



せかいのみなさまこんにちは、またまた携帯から投稿のミスティです(_´Д`)ノ~~ 一つはなっがい日記、あとの一つはかなり短いエッセイ。





@人の舌


 昨日の虫歯治療の時に、あーらーたーめーてー思ったんです。口内ってやっぱりアレな感じだ!(爆弾発言)


※あなたの妄想力を駆使して、「アレ」へに対する、ある概念の適切な当てはめをお願い致します笑


普段覆われている・かくされているものとは、つくづくアレな場合のことが多々ある。笑 「隠す」行為の動機には、恥じらいだったり機密性ゆえだったり悪の正当化だったりホント色々だ。





付け加えて思ったのが、人の舌ってよく考えたら気持ち悪っ!!笑 虫歯の治療中、自分の意志とは関係なくよーあちこち動きよる。器具で「ベロちょっと押しますよー」と押さえ付けられないと止まらない。


…ほんまに、なめくじみたいだと心の底から思いました。(爆) こんなものが口内に当たり前のように付いてて、その暴れを私たちはマナーの名のもと普段は隠す(*´∇`)。


なめくじとかゴキちゃんとかクモとか、たいがい「女子」から圧倒的に嫌われるもの達、よ。笑 私は3歳から親父に名もなき山に拉致られては、昆虫採集の名のもと武者修行を勉めてきたものですから、たいがいの下等生物はオッケーなんです。笑でも、最近粘着性が強いいきものに対してはなんか愛が減ってきたみたいだ。笑





なめくじ(繰り返しこの用語自体で気分を害される方はすみませんm(__)m)といえば、手塚治虫作「火の鳥 未来編(宇宙編、だったかも…笑)」を思い出すなあ。 あれは、30世紀とかそこらになって人類が滅びて、そこで火の鳥が人類から1人の人物(まあゆうて主人公なんですが)を選び出し、「創造主」だとか呼ばれる役割を与えた。


彼は新たな生命の発展を見守るのだが、なんと地球を新たに支配したのは下等生物から進化を遂げた「なめくじ」だったんですよ。 手塚も発想が発想で笑、ちょまwwwみたいな。でも、とにかくそのお話の中では、地球の今のところ人類が腰を据えているような位置に彼らは同じように立った。そこで、試しにもともとは人間だった主人公が、コンタクトを試みるシーンがあって。


 君たちの前、地球を支配していた人類は、自ら戦争によって滅んだよ、と。君たちなめくじは、正しい道を歩いてくれるか? と。  彼らの解答は実にシンプルで、われわれはその人間だとかいう奴より賢い。だから、そんなことで世界を滅ぼしませんよ、と。





手塚は後生はほとんどが仏教的観念に基づいてその作家人生を生きた人です。このマンガ、読んだことのない人もこの後の話のオチは大体予想が付くと思います(だから書きません、そもそも大枠のあらすじ書いてまたし笑笑笑)。





ちょっと語り口調がオカルトっぽくてうさんくさかったですかね?(苦笑)


まあ、穏健に言えば、人の中にはムツゴロウさんみたいな変人もたくさんいます笑 そして僕もご多分に洩れずムツゴロウサイドの人間やと思ってます笑。  クモやマイマイカブリを愛おしく思う人種って、どうよ??とミスティの内心の声自体ゆってます笑笑


でも、それが物心つくかつかないか頃からの親父による「教育」だったし、実際今でも山に行けば、リアルにゾーエが樹とか石とかに反応して、意識とか無くなるのを自分でも感じるし。ある種のエクスタシー(快感)を得られるしのお(*´∇`)。


(ゾーエってなによ?て感じですね。哲学者アガンベンによれば、ゾーエとは身体の、意味を全く有さない自然的質量性の部分のことで、それに対置するのがビオスという、ほんま何のキャタクラー名やねんと突っ込みを入れたくなるようなものらしいです。ゾーエの典型例が、アウシュビッツの犠牲者の肉塊や、脳死と判断された者の身体部分、とかとか。)





はい、日記はおしまい。笑





@日記の性質から鑑みた例の表現の自由の運用状況


…だからミスティの日記って話があちこち飛んで全く読んでいて面白くない!!笑なんやねんゾーエ、お前歯医者の話しとったんやないかい!笑


でも私を実際知っているひとの中には、ミスティは普段から話が飛ぶのもいいところな奴だとゆうことを重々ご存知でせう。笑それ即ち、たいがい僕の頭はこんがらがってでっかち状況になってるからです\(^O^)/


 日記は、一般的に(もともとが)ごちゃごちゃした頭の中のなにかを、その時その時・ある種ごほっと吐き出すような場所でもあるでしょう。論文作成段階で言えば、アブストラクトのアブストラクト、みたいな…?


とりあえずごちゃごちゃしたものは、整理をせずに放ったらかしにして溜まると、男子の1人部屋みたく挙げ句の果てには凄いことになります。笑 だからいつでも、コンスタントに整理したほうがいいですよね。そういう空間ないし場所を、状況に応じて社会が積極的に作っていくスタンスはある程度評価できると思います。


しかし、あんまりにもごちゃごちゃしたもの(この記事が好例、本人としては自覚はあまりない笑)を赤の他人がみる、というのは、如何なものか。


部屋の片付けをしていて、「ねーこの整理でいいかなー」「うーんお前がいいと思うのならそれでいいよ、だってお前の部屋だろ」「そうかーでもでもねー、何かが違うんよねー…」


 「…(知るか!!)」





っという話です。笑 親密な間柄ならともかく、よく見も知りもしない人の部屋の片付けに、口出しなんてとてもとても。


もうお分かりでしょうが、焦点としての社会現象は、mixiその他のSNSコミニティ等に散見される、「ブログ・日記」と名付けられた一部の表現内容の爆発的増加ことです。 はじめにゆっておくと、「僕」の日記の定義は、「1名宛人(つまりコミニュケーションの相手)を特段必要としない、2雑で一貫性には乏しい、しかも3かなり自己完結的な4文章」です。


 例のいくつかの日記を読んでいて、分かっちゃいるけどどうしようもなくイライラする時があります。無意識が、ネット世界でそんな片付け状況積極的に見せんなや、てイライラしていると思うんです。意識では、「あー、ネット環境ってゆう大衆が非断続的に集まる処でも、そういった文章書く人は案外いるんだなあ。」くらいのつもりなんですが(・・;)。


 僕が人の文章を読んでてちょっとイラッとくるのは決まって、その文章が読み手側のリアクトを一見欲しいとしているのかどうか判別しにくいものです。平たく言えば小悪魔的日記だな。笑 多分欲しいんだろうなと判断してリアクトしたら、無反応。欲しくないんだろうなと思って沈黙(そういう時は顔合わせて話聞くのがよかったりする)したら、泣き出す。


自分の空気読めない感にも飽きれるが、同時にこの人はインターネット上のコミニュケーションを何だと思っているんだろう…と、イライラする時がある。


間違っても、私的領域「のみ」を増加させるような空間にさする「べきではない」、というのがミスティの割とシリアスな見解です。





うーん、今日のエッセイは、後味が悪い…。笑 ご意見ご感想お待ちしております(。・ω・。)


ミスティ @


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好きとか嫌いとか


宮内庁問題(ヤフーニュースより)
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/imperial_family/?1260843439

で、民主の小沢さんが宮内庁長官に対して事実上の辞任を求める行為があったってことなんだけども、、

はぁ。。。小沢さんが嫌いになってしまったよ((+_+))
そういう長官の言動は、「日本国憲法と民主主義をまったく理解していない。そうでしょ?」と、もっともらしく言ってる箇所があって。
 なにそれ、あなたがまるで日本国憲法の最高有権解釈者みたいな態度。
天皇の政治的問題にまつわる憲法問題に解しては、種々の解釈があってしかるべきだし。
もっとも、ちょっとだけ私が口を出せば、「天皇(の自律的行為)を尊重する」方向に働く小沢さんの意見も、宮内庁長官の「天皇は一般的に政治に中立的であるべし」という立場も、特段峻別・対立するものではない。むしろ、両者の天皇制の前提の考え方は共通している。

のに、なぁ・・・。

 ブラウン管の向こう側で映っていた記者会見の時の、小沢さんの脅迫じみたそのセリフと雰囲気には、げーーと思ってしまった。

本論はここからなんですがww、 こういう「好き・嫌い」って感情は、改めてメリットがあるなぁと思ったのです。
 だって、「好き・嫌い・どちらでもない」、で物事を片付けておいたら、それはまた「変わる可能性」があるんだもの。
 上の例でいったら、こういったことでドヨーンと小沢さんを嫌いになってしまった僕でも、-反対にどんどん嫌いになっていく可能性はここでは省略してw-、たとえばこれからの彼の政治活動等を通して、私の心象にプラスを与えかねていくかもしれない。んで、総選挙の時までには、「好」の印象もあいまって、そちらのほうに投票を・・・という結果も、起こりうるかもしれない。
 別に単なる妄想ではなくて。よくあるでしょう、理屈や理論で決めた物事よりも、「好き嫌い」の感情論で決めた物事のほうが、時間を経てみれば変わってたりとか。 昔は大嫌いだったおふくろの聴いていた氷川きよしが、最近になってあぁー彼も演歌界の一大ホープでやってんじゃん歌もいいじゃんみたいなの(じゃあ好きになったのか?と問われれば、「どちらでもない」と答えると思うw)。

 
 時間の経過が、好き⇔嫌いの変動の要因として大きなものの一つかとおもわれます(=^・・^=)

 繰り返しになるけど、妥当である(又は正しい)⇔妥当でない(又は正しくない)、の変動は、一旦おりゃ!という感じでその意見に辿り着けば、ちょっとやそっとのことでは中々根本の意識は変わらない。 時間の経過とか、そういうのとは少し位相が違う気がします(もちろん時間を経る中で、あぁやっぱりこの意見が根底としている意識は妥当でないのかも、みたいなのはあるにはあるかもしれんが・・・。)

 とすれば、「好き・嫌い」の処理のメリットと関連して、一つだけ別の事柄をカンタンに。
「世論」。
この野郎は、用語法的には「論」と後ろに名前が付いてるくせに、理屈や理論のみから形成されるものじゃない!
例えば、鳩山政権について。発足当時は、自民党の野党からの脱退という歴史的にも大転換の背景があるだけに、そりゃもう元々民主の人・そうでない人からも、圧倒的に世論は「好意」を示していた。

 だけど、さぁ溜まってきた日本のダム工事問題をめぐる国交省の言動だとか、行政刷新委員会(ワタシ、これについては具体的運用の仕方に問題があると思われ・・・)による事業仕分けがスタートしてだとか、普天間基地問題をめぐる外交の動向だとか。 はや3カ月そこそこで、とりあえず新聞やニュースなどによれば鳩山政権に対する世論は一色好意ではない(西日本新聞、09.12.13、3面記事)、みたい。

 でも、これもいいことなんじゃないかって思う。世論は、そういう風に「好き・嫌い」の選好の枠組みとして、そこから形成される側面を有している。だからこそ、いい意味で「流されやすくもある」、のだ。

ちなみに、そういった「流されやすい世論」に対する国家自身がとかマスメディアがとかの心理的コントロール、を論じようとしているわけでもない。 私が思うのには、国や地域の政治だとか経済問題だとかを考えるにあたって、真に自身が深く関わっている・関わるべきである事柄に対しては、理屈や理論も備えて慎重・強力な姿勢を持っておくべきだ。 しかし、そうでない事柄に対しては、「好き・嫌い」のレヴェルに「留めておく」。深入りしない。 「鳩山の奥さんなんかスキ!期待できそう!」とかでいいと思う。 したら、それは時間の経過とともに妙な固執を産まないし、いつでも弾力的にそういう事柄を整理できることにも繋がる気がする。


そんな感じですが、私は自民党賛成の立場なのです、これがまたw 野党側の自民党は、イイ動きをしてくれてると思うなー。

misty @

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マジョリティとマイノリティ


せかいのみなさまこんばんは、mistyです( ^^) _U~~
結構時間が空いた割には、独自である(はずの)芸術論(??)は愚かエッセイレヴェルのことも書く力がないほどなんか画面の前でプハーと疲れている私>゜))))彡 笑。
12月に入っていろいろとか、風邪引いただのとか、あと今個人的に音楽CDを作成中であったりとか、うんまぁなかなかですね。

しかしヴァーヴァル世界の重要性は、決して見落とせない。そこに日記やエッセイやブログや論文や演説台本といった、ある何らかのモノを文字化する根拠はある。ノンヴァーヴァル言語だけでも、世界は掴めないし。

としたら言語社会は、やはり多数者であるところの「視覚健常者」をそのアクターとして前提にしているんだなぁといつもモンモン((+_+))
実は身内のかなり近くに、視力を失うまではいかないけどそれに近いヤツがおって、僕を取り巻く普段の環境(大学、バイト先、家族)にはそういう「マイノリティ」は登場してこないから、余計そのことについて考えます。
視覚障害者に関連する事柄を、マイノリティ問題と一義的に捉えてよいのかどうかということも含めて。

マジョリティとマイノリティ、各々の対立化の問題や、前者の後者に対する社会上・事実上の支配。
それは、どの領域においても、すなわちどの時代にも社会にも見られる。これは、れっきとした「事実」です。
根底には、フロイト達の言葉を借りて言えば、es(id)の暴力性だとかはあるのかもしれないが、心理学が提示する解決策だけでは、ままならない。

私は、多分いろいろな場面に於いてかなりマジョリティの立場にいて、しかも往々にしてそのことに無自覚であると思います。
それをつよく恥じるようになったのは、ある場面において「あ、おれは、マイノリティなんだな(+そのマイノリティであるという位置づけによって、ある程度損害を受けているなぁ)。」とものすごくハッキリとした自覚を持ったことから。 
もちろん全部が全部マジョリティに立っている人なんているとは思ってないし、反対に全てマイノリティの立場に立たされたが故にものすごくマイナスなレールがしかれている、とも思わなない。 だけど、多かれ少なかれ社会が同時並行的に作ってきたシャドウの部分には、マイノリティ側から提起されるものすごく危うい事実問題がある、と私は考えています。

人はみんな辛い。いけとしけるものはみんな辛い。
でもその「つらさ」にも種類があって、生きていくうえで欠かせない苦しさみたいな、いわば「必要的辛さ」と、特段受ける・感じる必要はないのに現実上起こり得る「必要じゃない辛さ」みたいなのは混同していると思う。
後者の辛さを、どう解消する方向に働かせるのか。
これは、私は、人間の「アタマ」と「カラダ」を使って解決すべき、問題だと思っています。政治的問題だとか、経済的問題だとかとは別枠に。

そんなこんな~( ^^) _旦~~

misty @

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学問と道

こんにちは、ミスティです@

電車で50分バスで15分かかる大学祭があるキャンパスまでの片道の中で、ケータイから投稿です。

そうそう、このブログは携帯からアクセスするとコメント機能がついてないですね汗 携帯からのコメントは便利だと思ったので、また直しておきますm(__)m ある方が、過去記事の私なりのブランド志向主義批判をめぐって、意見を語って下さって、ブログは決して自己完結的じゃなくてやっぱ外部効があるんだな、と改めて自負と遣り甲斐と責任感。匿名性にはかまけない。

情報社会(のマイナス面がある)からこそ、それをいわば「逆手にとっ」て、情報社会の重要性を正しく訴えていくと共に社会問題を考えていく、と改めて胸に! このブログはそんなブログです、なぜならブログを含むインターネット世界ですら、芸術が抱える大きな世界の枠組みにずしんと構えているからです。



今回は、短いエッセイをば。



@学問と道

私は、学問も一つの大きな道であると思っています(数学→数道、語学→言語道、医学→医療道くらいの用語法があってもいいと思えるくらい(笑))。

反対に、終局的には、人生もまた学ぶという「道」だと思っています。意識してもしなくとも、年齢に関係なく、私達は日々学んではその知識や知恵を修得しては、社会に還元する。そんな構造が大前提にある気がする。



今回は、前半のトコについてちょっと記述をば。



小学校・中学等の義務教育~大学・大学院・専門学校や民間学習企業までの専門教育過程まで、僕らはあらゆる「学問」に出会う。 算数は必死に6年間やったかて思うと、数学と名前を変えてコレマタ6年間。

語学、とくに英語なんかは、ある子は生まれて間もなくして児童向けの塾にいったりとかして、義務教育レベルでも、ビッシリ時間割にある。



僕が一番伝えたいのは、そうそう時間割に出てくる算数とか体育とか道徳とか化学とか、みんな、「それぞれの道」であって、ものすごく大切なんだからできる以上は頑張って取り組む姿勢を持つこと。

もちろん、センセイの喋り方が…とか、これはアタシに全く向いてない、机に向かっても時間の無駄になるだけだ、というのはあると思います。



でも、その時間割に組み込まれたそれぞれの科目を、じーーっと、見て。そしたら、それは、その世界への「扉」になっていませんか??



日本人は、昔から、なんでも生きる職業を、人生の「道」と捉えては極めて子孫へ子孫へ語り継いできた。「剣道」とか、「兵道」とか、「華道」とか。華に生きた人々は、自らそれを一つの大切な「ミチ」と見立てて、全人生をそこに注いで捧げて伝え伝え続けた。



「香道」ってのも、スゴい!嗅覚から捉えられる香りって、近代科学がアプローチしやすそうなのに、日本人は昔から独自の観点で「香りを創る人生の道」を、既に確立していたんだなあ。



したら、学問も、西洋から受け継いでいるとはいえ、全く同質量なんだ。 医学と法学と神学の3つが、アカデミックなそれとして最も古来のものだけど、それに先行したギリシャローマ時代からのプラトンやアリストテレスが編み出した数学や哲学。





要するに、それぞれの科目は、各々の学問という、「道」に匹敵するくらいの、関心の宝庫だと思うんです。

どうしても、「義務」教育過程の中にいては、プログラムされた作業をたんたんとこなしていく、みたいな感じもあると思います。かつてのぼくもそうだった。

でも、学「問」ていうのは、それこそ何千年もの気が遠くなるような時間性の中で、たくさんの人がその思索を重ねに重ね、身を削り、そして次の人に残しては肉体を消していった。

苦手意識がどうしても消えない、教師の教え方が微妙だ、そういった学問という扉に至る前の段階にでさえ、その享受の制限を無意識に受けている、という印象を受けるわけです。

いったい、どれほどの人達が、各学問というミチに生きたかは、計りしれない。でも、なんでもいい、一般書店に置いてあるような「これで分かる!数学の全て」みたいなキャッチコピーがついているのでもいい。何か手にとって、5分間くらい最初の「はしがき」を阿呆みたいに真面目に読んでみる。
どれほどその学問の考え方なり概念やり姿勢が、社会に影響を及ぼし続けているか、それを教える側のほうからも、教えられる側のほうからも、意識してほしい。

そして、もう一生やりたくない!ぐらいの気持ちで、勉強してみる。それから、やっぱりその学問が大嫌いになるか、それともわりと良かったなと思うかは選択の自由だ。

それでも(時間的・精神的コストの消費)、「食わず嫌い」よりは明らかにマシだと私は思います。

中学の勉強は、やれ小テストだ宿題だ中間考査だと、ため息をつく場面も多々。でも、そういった歴史的大バックグラウンドのもとに、実はそういう教育という「制度」の一環があるんだよ、ということ。

人間、human raceとしてではなく、「人」間らしく生きたい、生きていくと思うときがある。

そんなときの第一の着手が、学問という一つの生きる道の、それぞれの扉だ。
扉は、きらきらしていて、最初だからこそ、奥深くて楽しいのだ。
と思う、ずっと。

ミスティ @

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エンターテイメントとしての「芸術」/情報享受の手法


ぬーん。
せかいのみなさまこんばんは。

このblog、筆記者及び管理者の定義によれば、「芸術の在り方を検討することで、社会問題を考察する」ことを目的として掲げているハズですよね。

過去の記事のトラックバック。
芸術の、「げ」の字も未だ現われていない笑

みっともない言い訳をさせていただきますと、まず、今割ける時間が確保しづらい。それから、まだ、出発点としての「芸術の検討」を決めかねている(まだ思考体系になっていないということですw)

ふざけてるよ、このブログ。
ということで、少なめですがエッセイとしてその出発点の出発点をごく端的に述べたいと思います。

その前に一つ。

@情報享受の手法
当然、自分にとって重要な情報は、知りたいと思う訳だし、道徳としての法に抵触しない限りに於いて、正しくそういった情報を集めたい。

「知る権利」として、そもそも「権利化」する必要があるのかどうか、という問題については、ものすごく深いものがありますが、今回はそんな事柄じゃなくって単に上のようなこと。
んでですね。

私は、前、どっかの記事で、マスメディア「嫌い」故、情報の(勝手な)流出だと構成して、ひとまず遮断をかけてる状況なんですよ。今。 新聞一つ、NHK放送、そして民放番組をたまに1つか2つ、で数的に打ち切ってます(アホみたいな報道番組は見る時間がもったいないから(゜-゜))
http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/16/   (ここで、西日本新聞と、NHK総合と、それから民放番組の一つ二つといってました)
で、私的には、

少ない情報源 → 「自己」の頭ですんなり整理 

という定式化をとって今生活送ってる(つもり)なのですが、みなさんはどんな感じですか?
境遇は違うと思いますが、情報の享受の仕方って、いろいろあると思うんですよ。
例えば理論的には、

・まったくないにひとしいほどの情報源(若しくは、情報「源」などと本人が捉えない) → なんとなく生きてる中で情報にぶちあたる

・多くの情報源 → そのまま受け取る(馬耳東風につながる可能性も含めて)
          → 整理してストックしておく 

どうですかねー?  新聞を2つ以上とってらっしゃるかたとか、いますか? どんな風にして、自分にとって重要な情報収集をしていますか?

@エンターテイメントとしての「芸術」

最近、芸術(art)とエンターテイメント(entertainment、娯楽)が一部でごっちゃになってる気がしてならない。

それは、Art側、つまり、芸術家や、それを庇護する団体・人物(patron)の問題なのかもしれない。
例えば、極端すぎる例で申し訳ないが、「魂」を売り渡した、みたいな。 アーティストとしての歴史性や自負をいったん、そういった娯楽の世界に提供する場面。

また反対に、娯楽側、「娯楽」を創出している側の問題なのかもしれない。
これまた極端な例で恐縮だが、そのだれだかわからないけど確かに娯楽世界を操る「なにもの」かが、芸術文化や芸術歴史を無理やり取りこむ。 おらおらおら、と。

こんな二分論意外にも、相互関係の問題なのかもしれない。 昔から、「芸術」と「娯楽」 はいかなる関係にあったのか。 峻別されるものだったのか、はたまたお互いになじむものだったのか。

そして、日本の今の芸術及び今の娯楽の現状は? 

何故こんな事を敢えて「問題視」したいかといえば、勘としては(だから今ちゃんと換言できてない・・・orz)以下のようなものが私からの提起としてある。

(1) 娯楽世界は今や日本に於いては、資本主義と第三次産業の多様化拡大化にともなってますます「カネとモノ」の世界になりつつあり、娯楽を娯楽として捉えられない

(2)芸術は、その担い手(=芸術家)としては、生活つまりは生きる死ぬの問題でもある。
残念ながら、今の日本の現状を見た限り、たぐいまれなる才能を持った人がたくさんいながら、評価されず、それでもアルバイトなどの低所得労働をしながら並行してその道を進む人が多い。
これは、芸術・芸術家の本質の在り方から見れば、いったいどういうことなんだろうか。


私が、生まれてから、3歳でピアノをはじめ、高2までの14年間ピアノを続け、そしてバンド活動も5年間続けてきたことと関係がある。 大学に入って専門勉強をしながらも音楽活動に身を投じて、そして切々と、どこからかいつも感じる「もやっと感」であった。 単なる個人的なそれなら特段問題はないのだが、個人的な問題としては割り切れないと感じる場面が多々あった。


こんな感じである。 これはただのエッセイだが、いつも反芻することになるだろう。

徐々に、しかし慎重に、検討してみたい。

最後に、これはれっきとした一つの「事実」であるということを、アタリマエだがア軽いことじゃないんだよ!ということを示しておく。

芸術は、その社会の諸問題をリアルに映す格好の鏡である。


このことから、実質的な考察がはじまるのかな・・・。長くなりそ・・・。

 misty @




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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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