せかいのみなさまこんにちは、またまた携帯から投稿のミスティです(_´Д`)ノ~~ 一つはなっがい日記、あとの一つはかなり短いエッセイ。
@人の舌
昨日の虫歯治療の時に、あーらーたーめーてー思ったんです。口内ってやっぱりアレな感じだ!(爆弾発言)
※あなたの妄想力を駆使して、「アレ」へに対する、ある概念の適切な当てはめをお願い致します笑
普段覆われている・かくされているものとは、つくづくアレな場合のことが多々ある。笑 「隠す」行為の動機には、恥じらいだったり機密性ゆえだったり悪の正当化だったりホント色々だ。
付け加えて思ったのが、人の舌ってよく考えたら気持ち悪っ!!笑 虫歯の治療中、自分の意志とは関係なくよーあちこち動きよる。器具で「ベロちょっと押しますよー」と押さえ付けられないと止まらない。
…ほんまに、なめくじみたいだと心の底から思いました。(爆) こんなものが口内に当たり前のように付いてて、その暴れを私たちはマナーの名のもと普段は隠す(*´∇`)。
なめくじとかゴキちゃんとかクモとか、たいがい「女子」から圧倒的に嫌われるもの達、よ。笑 私は3歳から親父に名もなき山に拉致られては、昆虫採集の名のもと武者修行を勉めてきたものですから、たいがいの下等生物はオッケーなんです。笑でも、最近粘着性が強いいきものに対してはなんか愛が減ってきたみたいだ。笑
なめくじ(繰り返しこの用語自体で気分を害される方はすみませんm(__)m)といえば、手塚治虫作「火の鳥 未来編(宇宙編、だったかも…笑)」を思い出すなあ。 あれは、30世紀とかそこらになって人類が滅びて、そこで火の鳥が人類から1人の人物(まあゆうて主人公なんですが)を選び出し、「創造主」だとか呼ばれる役割を与えた。
彼は新たな生命の発展を見守るのだが、なんと地球を新たに支配したのは下等生物から進化を遂げた「なめくじ」だったんですよ。 手塚も発想が発想で笑、ちょまwwwみたいな。でも、とにかくそのお話の中では、地球の今のところ人類が腰を据えているような位置に彼らは同じように立った。そこで、試しにもともとは人間だった主人公が、コンタクトを試みるシーンがあって。
君たちの前、地球を支配していた人類は、自ら戦争によって滅んだよ、と。君たちなめくじは、正しい道を歩いてくれるか? と。 彼らの解答は実にシンプルで、われわれはその人間だとかいう奴より賢い。だから、そんなことで世界を滅ぼしませんよ、と。
手塚は後生はほとんどが仏教的観念に基づいてその作家人生を生きた人です。このマンガ、読んだことのない人もこの後の話のオチは大体予想が付くと思います(だから書きません、そもそも大枠のあらすじ書いてまたし笑笑笑)。
ちょっと語り口調がオカルトっぽくてうさんくさかったですかね?(苦笑)
まあ、穏健に言えば、人の中にはムツゴロウさんみたいな変人もたくさんいます笑 そして僕もご多分に洩れずムツゴロウサイドの人間やと思ってます笑。 クモやマイマイカブリを愛おしく思う人種って、どうよ??とミスティの内心の声自体ゆってます笑笑
でも、それが物心つくかつかないか頃からの親父による「教育」だったし、実際今でも山に行けば、リアルにゾーエが樹とか石とかに反応して、意識とか無くなるのを自分でも感じるし。ある種のエクスタシー(快感)を得られるしのお(*´∇`)。
(ゾーエってなによ?て感じですね。哲学者アガンベンによれば、ゾーエとは身体の、意味を全く有さない自然的質量性の部分のことで、それに対置するのがビオスという、ほんま何のキャタクラー名やねんと突っ込みを入れたくなるようなものらしいです。ゾーエの典型例が、アウシュビッツの犠牲者の肉塊や、脳死と判断された者の身体部分、とかとか。)
はい、日記はおしまい。笑
@日記の性質から鑑みた例の表現の自由の運用状況
…だからミスティの日記って話があちこち飛んで全く読んでいて面白くない!!笑なんやねんゾーエ、お前歯医者の話しとったんやないかい!笑
でも私を実際知っているひとの中には、ミスティは普段から話が飛ぶのもいいところな奴だとゆうことを重々ご存知でせう。笑それ即ち、たいがい僕の頭はこんがらがってでっかち状況になってるからです\(^O^)/
日記は、一般的に(もともとが)ごちゃごちゃした頭の中のなにかを、その時その時・ある種ごほっと吐き出すような場所でもあるでしょう。論文作成段階で言えば、アブストラクトのアブストラクト、みたいな…?
とりあえずごちゃごちゃしたものは、整理をせずに放ったらかしにして溜まると、男子の1人部屋みたく挙げ句の果てには凄いことになります。笑 だからいつでも、コンスタントに整理したほうがいいですよね。そういう空間ないし場所を、状況に応じて社会が積極的に作っていくスタンスはある程度評価できると思います。
しかし、あんまりにもごちゃごちゃしたもの(この記事が好例、本人としては自覚はあまりない笑)を赤の他人がみる、というのは、如何なものか。
部屋の片付けをしていて、「ねーこの整理でいいかなー」「うーんお前がいいと思うのならそれでいいよ、だってお前の部屋だろ」「そうかーでもでもねー、何かが違うんよねー…」
「…(知るか!!)」
っという話です。笑 親密な間柄ならともかく、よく見も知りもしない人の部屋の片付けに、口出しなんてとてもとても。
もうお分かりでしょうが、焦点としての社会現象は、mixiその他のSNSコミニティ等に散見される、「ブログ・日記」と名付けられた一部の表現内容の爆発的増加ことです。 はじめにゆっておくと、「僕」の日記の定義は、「1名宛人(つまりコミニュケーションの相手)を特段必要としない、2雑で一貫性には乏しい、しかも3かなり自己完結的な4文章」です。
例のいくつかの日記を読んでいて、分かっちゃいるけどどうしようもなくイライラする時があります。無意識が、ネット世界でそんな片付け状況積極的に見せんなや、てイライラしていると思うんです。意識では、「あー、ネット環境ってゆう大衆が非断続的に集まる処でも、そういった文章書く人は案外いるんだなあ。」くらいのつもりなんですが(・・;)。
僕が人の文章を読んでてちょっとイラッとくるのは決まって、その文章が読み手側のリアクトを一見欲しいとしているのかどうか判別しにくいものです。平たく言えば小悪魔的日記だな。笑 多分欲しいんだろうなと判断してリアクトしたら、無反応。欲しくないんだろうなと思って沈黙(そういう時は顔合わせて話聞くのがよかったりする)したら、泣き出す。
自分の空気読めない感にも飽きれるが、同時にこの人はインターネット上のコミニュケーションを何だと思っているんだろう…と、イライラする時がある。
間違っても、私的領域「のみ」を増加させるような空間にさする「べきではない」、というのがミスティの割とシリアスな見解です。
うーん、今日のエッセイは、後味が悪い…。笑 ご意見ご感想お待ちしております(。・ω・。)
ミスティ @
[0回]
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COMMENT
無題
について一つ質問があります。
毎度毎度、ご意見ご感想をお待ちしていらっしゃるそうですね。
しかしながら、このブログに書かれている文章の分かりにくさときたら半端ではないのです。
特に使う必要のない専門用語が使われていたり、高い格式の獲得を目的としたと思われる文体であったり。
こういうところをみると、この人は読み手のことを考えていないな、と感じたり、この人は「自分はこんな難しい文章が書けるんだぞー」という自己顕示欲の旺盛な人なんだ、というように見えます。
少なくとも私には。
必要もないのに、他人が明らかに難しいと感じる(少なくとも到底分かりやすく書いているとは思えない)ような書き方で文章を書いておいて、その上で「リアクションを待っている」というスタンス。
そして
>僕が人の文章を読んでてちょっとイラッとくるのは決まって、その文章が読み手側のリアクトを一見欲しいとしているのかどうか判別しにくいものです。
この発現。
ある種矛盾にも似た構造があると感じたのですが、そこについてはいかがお考えでしょうか。
おそらく、「僕ってそういう支離滅裂な人間なんです(笑)」的な発現がなされるとは思いますが。
ご意見ご感想お待ちしております(。・ω・。)
無題
あの、もしかしたらお節介かもしれないんですが、もしや分かりづらすぎる他人の書いた文章を無理にイライラしてまで読もうとしていらっしゃるなら、どうぞこんなカスみたいなブログのことは忘れて下さい…。付き合う必要もない存在と接するのは、マイナスに向かう方が多いです。
以下、いちおう質問に簡単にお答えしておきます(。・ω・。)
1、まず、私にとって学問そのものが生きる喜びにもなってしまっているので、文章を書くことによって快感を得ようとしていることも最初から認めます。目的と手段が時おり錯綜しています、私の場合。あと、「お前の文章は何か分かるけど分かりづらいんぢゃあ!」と方々から非難の声を受けていて、いやーまずいなーと改めて文章の書き方を模索中です。私の場合、性格も起因していて、「全員に伝わらずとも一般に伝わればいいや」と思っているので、だから伝えきれなかったことに対する反省もあまり起きません。そもそも大衆向けブログじゃありません。
あと少し気になったんですが、文調を整えようとすることがそもそも大変間違っている姿勢だとお考えなのでしょうか…?文章社会においては、何らかの形式にのっとることが効率的です(私のは社会科学チックです)。
2、専門用語を使うことのメリット・デメリットについてお考えになったことはありますか。
私は端的には、「高度に複雑化した社会」が、学問における分化(理系学問の1分野である工学でも、電情だったり機会航空だったり様々です)を必然的に生み出したと思っています。
例えば、「ネオ・コーポラティズム」という概念。法学政治学入門の分類で、あとがき付けでこの言葉を使ったんですが。ネオ・コーポラティズムの一応の定義とは、「20世紀後半の北欧等にある期間見られた、労働者団体・利益団体・政府の政治の場における協調主義」(現代政治学入門、2007)です。長いのでこれを仮に「みんなで協調しようぜ主義」とかに置き換えたとします。すると、ある団体からは「みんなってそもそも誰?」「協調にもいろんな形があるけど具体的に何なの?」と、公的な場では具体性を疑問する声が飛ばざるを得ません。
わかりくい言葉が必ずしも難解なことを説明できないのと同じようにまた、わかりやすい言葉でシンプルなことを説明するのも必ずしも成功するとは限りません。
齟語をなるべく避けようとするのは、どの社会においても見られることでしょう。私はそこで、比較的難しいかもしれない言葉を使う学問、赤でメディアの立場を採っています。それだけのことです。
反省の色がまったく見えなくて、申し訳ありません…。どうぞ、ご返事を(^O^)
Re:無題
> あの、もしかしたらお節介かもしれないんですが、もしや分かりづらすぎる他人の書いた文章を無理にイライラしてまで読もうとしていらっしゃるなら、どうぞこんなカスみたいなブログのことは忘れて下さい…。付き合う必要もない存在と接するのは、マイナスに向かう方が多いです。
> 以下、いちおう質問に簡単にお答えしておきます(。・ω・。)
> 1、まず、私にとって学問そのものが生きる喜びにもなってしまっているので、文章を書くことによって快感を得ようとしていることも最初から認めます。目的と手段が時おり錯綜しています、私の場合。あと、「お前の文章は何か分かるけど分かりづらいんぢゃあ!」と方々から非難の声を受けていて、いやーまずいなーと改めて文章の書き方を模索中(1/10人前意識くらい)です。私の場合、性格も起因していて、「全員に伝わらずとも一般に伝われば上出来だ」と思っているので、だから伝えきれなかったことに対する反省もあまり起きません。そもそも大衆向けブログでもありません。
> あと少し気になったんですが、文調を整えようとすることがそもそも大変間違っている姿勢だとお考えなのでしょうか…?文章社会においては、何らかの形式にのっとることが効率的です(私のは社会科学チックです)。
> 2、専門用語を使うことのメリット・デメリットについてお考えになったことはありますか。
> 私は端的には、「高度に複雑化した社会」が、学問における分化(理系学問の1分野である工学でも、電情だったり機会航空だったり様々です)を必然的に生み出したと思っています。
> 例えば、「ネオ・コーポラティズム」という概念。法学政治学入門の分類で、あとがき付けでこの言葉を使ったんですが。ネオ・コーポラティズムの一応の定義とは、「20世紀後半の北欧等にある期間見られた、労働者団体・利益団体・政府の政治の場における協調主義」(現代政治学入門、2007)です。長いのでこれを仮に「みんなで協調しようぜ主義」とかに置き換えたとします。すると、ある団体からは「みんなってそもそも誰?」「協調にもいろんな形があるけど具体的に何なの?」と、公的な場では具体性を疑問する声が飛ばざるを得ません。決定が求めらる場等で、齟語が起きやすくなります。その点、専門用語の使用は、予備知識があるといちいち了解をしなくても議論が進みやすいので、そこがメリットの大きな1つです。
> わかりくい言葉が必ずしも難解なことを説明できないのと同じようにまた、わかりやすい言葉でシンプルなことを説明するのも必ずしも成功するとは限りません。
> 齟語をなるべく避けようとするのは、どの社会においても見られることでしょう。私はそこで、比較的難しいかもしれない言葉を使う学問、アカデメディアの立場を採っています。ただそれだけのことです。
>
> 反省の色がまったく見えなくて、申し訳ありません…。どうぞ、ご返事気長にお待ちしております(^O^)
無題
すみません、一番肝要な質問に答えていませんでした汗
自分が同じようなことやっているのに、公的に人にそれを禁止するよう求めるのは宜しくないと私が述べている、それについて私がどう考えているか、といった感じでさしあたり捉えておきます。
結論から言うと、閉鎖的日記やブログが増えれば増える程、益々「ネットの危険性」の意識が人々に働きかける、しかしそれは決して望ましくないと私は考えています。ミスティは、ネットの危険性よりも、あらたな有効性を模索してます。新しいコミニュケーションツールとして折角登場し、多くの人が関与しているのだから、有効に使える方法を考えてみたいんです。
ちょっと話が逸れますが、某大型掲示板に代表される表現の場は、どう見てもマイナスの面が多いと感じざるを得ません。現実世界の人間の間同士では到底、出てこないような憎しみとか怒りとかの悪感情の吹きだめと化しているからです。もちろん、それだけではない面もたくさんあります。まあ得てして、かの掲示板の運用状況のみをもってして「ネットは危険、ネットは危険」と意識している人が多くなったなあと感じています。
さて、一連の閉鎖的日記には、別にある共通項が見てとれます。悪感情の、投げっぱなしです。本質的には書き手の内面に向けられていると考えられますが、読み手にとっては、時に「何となく自分にも向けられている…?」と錯覚することが往々にしてあります。
今回のエッセイは、「イライラ」という言葉を使って私も悪感情を投げつけました。それは否定しません。ただ、悪感情をネット上に投げつけるだけの行為は、相手のシリアスな内面に影響することが少なくないです。
例えば、「だから人間はこうこうこういう理由でダメなんだよ…」みたいな嘆きの日記を読んだとき、自分もまるで同じように、人間はダメだなあと同化して嘆いていることがありませんか?
繰り返しになりますが、それは本来書き手固有の一感情であったに過ぎません。なのに他人の読み手の中にその書き手の悪感情が遠慮なく入りこんでしまっている。別人固有の感情に、自分が支配される。思春期に多いみたいです、心理学によると。
以上です。ちなみに、私がいつもいつもリアクトを敢えて求めるのは、このテーマについて興味関心ある人は気ままに議論しようよ~(´∀`)というお気楽スタイルです。NO NAMEさんからは、「分かりづらい文章スタイルで人の気を引こうとするべきではない」、という風に受け止めました! 長くなってすみません!m(__)m
ミスティ @