発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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どうもこんにちは、mistyです。
前回の記事ではどうやら名乗ることを忘れてしまっていたようです笑
さてさて、みなさんは、車でお出かけだとか電車で通学だとかの場面で、手持ちぶ沙汰なとき何をしていますか?( ^)o(^ )
私は、ウォークマンの大ヒット以来より、CDウォークマン→MDウォークマン→iPod(Classic)、と世相にも合う(?笑)形で、ようするにほっとんどの時間、携帯音楽機器を持ち歩いて音楽聴いてました。
中学から高校までが、学校までいつも片道40分という感じだったのでウォークマンを入手した時の喜びはハンパなかったです(笑) やったぁ音楽いつでもどこでも聞けるじゃん! みたいな。
歩行中でも、よくiPod片手に音楽聴いてます。 で、多分一般的でないというかメチャクチャ特殊だと思うんですけど、私は片耳だけイヤホンつけてもう片方はつけないって癖があって・・・(笑) その癖の理由の一つには、両耳塞ぐよりも片方のほうが周囲の状況をどうやらより感知しやすいから、てのが。 ヴォリューム小で聴くのが基本的にキラいなんですね。(笑) それよりは片耳外してでも、ある程度の音量で・・・!みたいな、やっぱり特殊すぎますね(・へ・)
でももう一つの個人的な理由があって、それは目の前の風景を音楽を聴くことによって意図的に色づける故というものです。私はこの行為を勝手に「カラーリング」と命名しています。
なんでしょうね、ふと見渡すと何の感慨もない風景であっても、音楽聴いてるとなんだかその風景が音楽に合わせて色とか物語とかメッセージとかを放つんですよ。 雨の日は、その静けさの中で爆音ロックを選んだりとか、快晴の時にはキラキラしたポップミュージックだとか。 こりゃあ面白いなぁと思って、そんな事を思いながら今に至るわけです。(笑)
はい、だから前置きが長い! 本記事は、以下よりはじまります。笑
iPodを片手に歩く若者達
と題して。
前置きから話はつながるが、ウォークマンの登場とその爆発的ヒットと共に、街中でも電車の中とかでも携帯音楽機器を持ち、イヤフォンを付けて音楽を聴いている人の姿が多くなった。
00年代に発売、そしてあっという間に同時代に世間に広まったiPodもその一つである。見渡せば至る所でイヤフォンを付けて街を歩いている、特に若年層が多い。私もご多分に洩れずその一人である(20代は若年層である笑)。
以下では、iPodも含めた小型携帯用音楽傾聴機器(以下、単に「携帯音楽機器」と略す。)の登場と多くの若者ー若年サラリーマンや、学生を含むーによるその利用形態が、現実にどのような状況を引き起こしているか、1文化面からみたそれ2社会的道徳観念からみたそれ3社会的法観念からみたそれ、を検討し、どういった問題が生じているのかそれにどう対応すべきなのかを簡潔に述べたい。
1、iPodはファッション(文化の一形態)だ!
ここはとっっってもサックリといきます(笑) 題字でも分かるように、携帯音楽機器を持つことは現代社会において、ある種のファッション性も帯びている、ということを私は鼻から認める。 Apple社が流しているCMの幾つかでは、iPodを片手に歩く若者をオシャレな感じで、平たく言えば一つの「個性」として描写しているものがある。
現実の状況としては、殊に高齢層ーなぜかこういう時は決まってオジサンオバサン達から提起されるもののようだーから、「けっ変にかっこつけよって!」「なんねあんたそれ、イヤフォン付けっ放しで、耳聞こえん人でもないのに」とある種の不満が投げかけられる。 文化的社会面からこれをみる限りにおいては、「時代の変化と共に文化もいわば当然に変容する」というのが正論であろう。 つまり、単なるカッコつけでもないし、こういうのが端的に(今の)時代の流れの中であるの! と言えば、それでお終いである。
2、吉本ばななの記述からの問いかけ ー空間論ー
(1) 私的領域/公的領域
まず、小説家よしもとばなな著「アムリタ」から、街の人の描写において以下のようなものがある(注1)ので、ひとつ引いておきたい。
(引用)
・・・だから、母に置き手紙だけして、彼女が戻る前に弟を連れて家を出た。聞けば、彼はもう一週間も外に出ていないそうだった。空気がおいしい、と彼は言った。
ずうっと、安全な室内にいると、人間は家に同化して家具のようになってしまう。
町でよく見かける、外にいるのに服装も顔も室内のままな人。のっぺりして反応が鈍く、人の目をみない、ゆるみきった人。野性を忘れてしまった目をしている。
弟にはそうなってほしくなかった。・・・ (引用終)
さて、この小説のテクストからは、「室内」と「町」における人の在り様の違いが見てとれる。ばななに言わせれば、「外にいるのに服装も顔も室内のままな人」は、「野性を忘れてしまった」性質らしい。
ちなみに私がこの小説のこの場面に遭遇したのはもう5,6年も前であったが、当時何となく思い当たる節があって「あぁーそういう表現を使うのかぁ巧いなぁ」と感嘆した記憶がある。
ここではさしあたり、私的領域と公的領域における個人の態様に対する道徳的観念から見た区別の実益、という形で問題を転換しておくこととする。 つまり、私事(引用文においては、「服装」や「顔」等、つまりは「室内」=私的領域における個人のファッションや態度の取り方)を公的領域(「町」)に、そうそう開けかしてもいいものなのか、という事柄を、社会的道徳の見地からみるとどうなるかを考えたい。
(注1 吉本ばなな「アムリタ上」(2002, 新潮文庫)158頁4-10行より抜粋引用。)
***いったんここでタイピング止めておきます***
***また付けたしますが、終わりにはいかないでしょう(笑)
早いが話、ばななは、-小説という、論理とは対極の「感覚」をベースとする形式を用いてはいるもののーそういった私的領域ではOKなことでも公的な領域内ではOUTなことがあるんじゃないの、と間接的に疑問を投げかけているのではないか、ということである。確かに、繰り返しになるがあくまで範疇は小説であるため、形式的に解してその小説から汲み取る事柄も所詮憶測に過ぎないという批判も成り立ちうるかもしれない。しかし、社会的引きこもりの問題等を前提としているような文脈(引用文より、「ずぅっと、安全な室内にいると、人間は家に同化して家具のようになってしまう。」のセンテンスなど」)があることを鑑みると、この個所から社会的道徳の観念の事柄を引き出すことに特段の無理はなかろう。
さて、赤字の部分をもうちょいカタい言葉に置き換えてみる。私的領域/公的領域を便宜上区別したうえで、それぞれの領域で要請される個々人に対する道徳の質が違う、ゆえに「のっぺりとして反応の鈍」い態様は公共性を帯びる公的領域の中では望ましくないのでは、という主張になる。これには、一定程度の妥当性があると評価してよいと思われる。 場のわきまえ、というのはよく個人の道徳の場面でも引き合いに出される話であろう。
(2)社会心理学等のアプローチ
私がばななの文章を引き合いに出したのは、言うまでもなく、
携帯音楽機器を持ち歩く人には同様の共通点がかなり見てとれる
からだ。 逆に、イヤフォンを付けながら周りに注意深く気を張っている若年層の人をみつけるほうが難しい。
しかし、括弧1で述べたような、要するに「公」「私」をある程度わきまえろ!という要請からだけでは、この現象を完全に語りきってはいないように個人的に思えた。そのわきまえろ論を仮に推し進めるとすると、iPod身につけて電車の中で音楽聴いたりする人全てが公私の場の区別をわきまえていない、ということにもなりかねず、それはおかしいだろうと思う。
次に、情報社会に生きる都会の人間を分析したミルグラムの過剰負担環境の話を簡単に紹介する(注2)。地方と都市を比較したとき、人・モノ・広告(普通広告と勧誘行為どちらも含めて)などを媒介として、それらを「情報」と捉える。その時、その総合的情報量は圧倒的に都市での方が多い。こうした情報氾濫の状況下では、人間は短時間処理(最小限の情報だけを伝えようとすること)や情報の排除(自分にとって必要な情報だけ取り入れる)などの行為を取る。そして、そのぶんだけ人的コミュニケーションも地方でのそれに比べると抑えられてしまうので、「都会の人は冷たい」というイメージを形成する、らしい。
なるほど、この話でいけば、iPodの例は上の「情報の排除」にあたりそうである。イヤフォンを付けるという行為は、自ずから自分の外にある世界とを遮断し、自閉性を獲得する。
心理学とは畑を別にするが、日本哲学者の鷲田清和の身体論なども、まったく同様とは言えないが似たような話を展開する(注3)。
(注2) 渋谷昌三「面白いほどよくわかる! 心理学の本」(2009. 西東社)68-9頁。
(注3) 鷲田の身体論からのアプローチも大変に興味深いが、本記事では便宜上省略する。
(3)から入るので次につなげます~(=^・・^=)
misty @
休日の昼、とある用事があって隣の町まで出かける。商店街に入ると、知ってる曲・知らない曲が入り混じった有線が流れている。 美術館には何やら有名画家のコレクションがあって人が並んでいる模様。 公園には、大理石で作られた造形物がある。詩を思わせるような広告のキャッチコピーがいたるところに貼られている。
われわれは、日常生活において、上のようなある共通したなんらかのものに絶え間なく触れている。その共通したものが、何やら「芸術」とか「美術」とか言われているようなものらしい。興味の有無に関わらず、社会には諸々の芸術といった制度が往々にして見てとれるのである。
それでは、その芸術とは一体なんなのか。おそらくこの質問は、「命とは何か」とか「生きること・死ぬことは何なのか」とかと同じくらいの重さを持つ、いわゆる哲学的(非・科学的)な問いである。さらっと答えを出す文脈ではないし、またそうすべきでもない。しかしそれでもこういった同種の問いは我々の頭をかすめ、時には30分も1時間もぼけーと思念を費やしていることが少なくない。
やはりこういった「定義付け」の問題は何かと面白いものであり、その分野に立ち入れば立ち入るほどその問いの樹海のような深みに囚われ、わけがわからなくなることもある。
畑は違うが、例えば行政法学界では(注1)、行政概念をめぐる論争つまりは「行政とは何なのか」が語られる事があった。これに対する通説的見解(学説の多元的状況のもとで、多数から支持を得てある程度の妥当性を確保している考え方)は、いわゆる控除説である。
「行政とは、国家作用の中から立法と司法の両機能を控除した残余の機能である」
というのである(大橋、07・稲葉、08等・他多数)。
法学政治学にたしなみのある人もない人も、これはいつでも本気で笑っていいと思うwww。 だって、身も蓋もない「答えにならない解え」である、立法と司法を外したものそれが行政なのだ~なんて言われても、ちょまwwwwwみたいな。でも多くの学者はこういった争点に対して真面目に時間を割いて考察して、この身も蓋もない解えがイチバン説得的なのである。
今はこの行政概念をめぐる議論について述べるつもりはないので詳細は省くが、私がこれから述べようとする「J-POP」についても同じような事を観念してしまうのである。J-POPってなんだろう、よく聴きはするけど言われてみたらこのJ-POPってそもそも何?という問いかけに対して、
「J-POPとは、音楽分類の中からロックとジャズとクラシックとダンスミュージックと民族音楽を除いたある一つの音楽形態である」 とかに最終的に落ち着きそうだからである(笑)
しかし、定義付けの問題は行政概念にしてもJ-POP概念にしても、それだけでは何の意味もない。それを媒体として何かを語る方向に向かう限りにおいて、そういった概念の定義付けは重要かと思われる。
さて、前置きが長くなってしまったが、今回は私のJ-POP嫌い(批判と捉えて下さっても結構)と、それを補完する要するに大変自己完結的なお話をえんえんとする。 とか言ったら誰にも読んでもらえそうにないので、批判可能性・意見確保性がなるたけ望めるような文章にしたいとは思っています、ハイ・・・。あぁ、マジでそこでニコ動画のリンクとかにいかないで! (笑)
(注1)行政法の世界だけに限らず、例えば憲法の世界でも司法府の概念や内閣の概念をめぐる議論はある。がしかし、それも先に見たような「控除説」が一定程度の支配性をおびている。仮に行政・立法・司法それぞれに控除説を適用させたとすると、「国家とは全てであるかもしくは無である」といったような本当に笑えてしまう帰結も導き得るが、記事中にも述べた通り控除説などの議論については考察対象からは除外する。
@J-POP嫌いの私的理由
なーんでそもそもこんなわざわざブログまで使ってJ-POP嫌いのやつの話なんか聞かないといけないんじゃい!と言われたら、うーん
J-POPなんて大っ嫌いと公言している音楽通みたいな人はたくさんいる気がするけど、その具体的理由ってあんまり聞いたことがない気がするお・・・>゜))))彡
からである。私は、改めて言うが、J-POPなんて大っきらいである。でもそれは、単に好き嫌いの話であって、そういう個人的な嗜好はこんな開かれた場所でそうそういうもんじゃないよって感じなんですが。
とりあええず上の大文字のようなハテナに対して、はいそれでは自らJ-POP批判をする私が個人的な理由をひとまず述べて置こうかと。 ただなんとなく、J-POPはきらいなんだよ!みたいな書き込みは某大型掲示板とかでいっぱい見たり聞いたりするけど、それはJ-POPを愛する人からしたら極めて遺憾であるし腑に落ちないことこの上なしだと思うし。
往々にして音楽=思想・感情の表現であることからして、こうした感情的な声しか聞こえないのかもしれないが、それは私はヨクないことだと思います。「嫌いなものは嫌い」を盾にして愛好者を攻めるのは間違っている。ちゃいますか?(・へ・)
で、私の理由は割と簡単で(もしかしたら複雑かもしれない・・・)、各音楽(および各アーティスト、各楽曲)という一つの「価値」の平等の観点からです。えぇとですね、、。
J-POPって、少なからず商業主義が絡んでいて、各アーティストが直接的に関わる側面よりも、そのアーティスト達が所属する大手事務所だとかレーベル会社だとかの方がものすごく関与する側面があるんですよ。なるほど、これ自体は別に悪くないというか、というかそれは商売やってりゃお金が回らないとソモソモ所属アーティストもろとも飢え死にしちゃいますから。
しかし、その経済的側面が絡んでいる結果、音楽産業にどういう事態が起こり得るかというと、彼らはまず自分たちが抱えているアーティスト達の宣伝ばっか当然やるわけです。コマーシャル宣伝、CMソングに積極的に起用させたりだとか、TV出演をさせたりだとか、芸能界のお仕事をさえたりだとか、いわゆる「純粋な音楽制作・公演活動」(この範囲については、また後ほど。)以外の諸々の活動を、本人の意思をそのまま率直に反映させたとは必ずしも言い切れない所まで本人をしてなさしめているわけです。
人は基本的に、ある対象に対して見聞きする回数が多ければ多いほどその対象に好感を持ちます(熟知性の原則、注2)。
ここで仮に、表現力もパフォーマンス力等も特段変わらないAバンドとBバンドがいたとしませう。
さてAバンドは、何らかのキッカケでJ-POPを動かす大手レコード会社RからCDを出してもらえることになりました。レコード会社からしてみれば雇った分は稼いでもらわないと困る(一種の労働契約とも観念できよう)わけですから、R社はバンバン宣伝する。 CDを発売する前に、メディアを通じて広告活動をしまくる。PVがブラウン管の中で何回も放映され、有線ではサビがかかりまくる。
一方Bバンドは、地道に大きな庇護(patron)も受けずに、某CD屋さんに自主製作のCDを置いてもらえることになりました。
さて、AバンドとBバンドのCD発売日は同じです。あなたが、キッカリ3000円(ちょうどCD一枚分)持っていたとします。
どっちのCDを買います?
上のような条件がなければ、もともとAバンドもBバンドも表現力やパフォーマンス力などに大きな差異はなかったのですから、どっちを買うかは1:1のハズです(ブリタンのロバ(注3)の論理が働いたり、又は他のCDを買う若しくはCDそのものを買わないといった選択肢はないとしてますよん)
しかし実際には、AバンドのCDを手に取ってレジコーナーに行く人が圧倒的に多いのではないでしょうか。Bバンドは名前が知られてないのですから。僕見たく視聴コーナーの前に何分も居座ってある意味ウィンドウショッピングwしているような人種は稀というか、害悪ですww
ここで、初めて僕のだからJーPOPは嫌いだ、という主張(?選好?)が出てきます。 両者にもともとの差異はあまりないのに、そのマーケット(市場)に於いて、商業戦略的な所に多々影響されて音楽という一つの「価値体系」の優先が不当に奪われている(=不平等状態)としかいいようがない。音楽も一つの表現の現れであり、そういった種々の表現が商品化された「CD」のマーケットは、あるでっかい経済的影響力を持つアクターによってかなり左右されている。
具体例に欠けていると思うので、ハーーーッキリ実例を出して申し上げましょう。
ジャニーズ業界が、ほんとうっに大嫌いなんですwwww 畑がそもそもあなたがた、「芸能」プロダクションでしょう、音楽一本でもないでしょうみたいな。
※ちなみに、J-POPの根幹の一つになっていると思われる彼らそのものの存在は、必要だと私は考えています。どの時代もアイドル的存在を求めるし、そもそもいないと僕ら一般人が夢とか希望とか見れないし!!($・・)/~~~ だけど、本当にいい夢を見させてくれる「アーティスト」さんは一体どれほど居るんだろうってハナシです。
つまり、数を限れという主張です。なんでもかんでもホイホイCDデビューさせるなって。
また、J-POP産業には、ある共通項が性質的に見受けられます。それぞれのJ-POPにカテゴライズされる(このカテゴライズの問題も後ほど。)アーティストが同じような内容の「歌」を、手を変え品を変えて、まるで楽曲を「使い捨て商品」のように売り続けていること。たしかに、大事なメッセージをある程度コンスタントに世の中に広く訴えかけていくことはとても大事です。しかし、往々にしてこのJ-POP産業は一大プロジェクトとなり、著作権法の無視もいい所・同じようなメロディとコード進行をちょっと変えただけで使いまわして、精神性の形骸もいい所・本当にその「歌い手」が歌詞内容を大して想いもせずに上っ面だけでパフォーマンスしている楽曲がどれだけ多いことか。それなりの形式(有名演奏家・敏腕プロデゥーサーetc)が整っていれば、本来の実質がどうあろうと、やはり「それなりのもの」に「聴こえてしまう」事はよく起こる現象です。
でも、楽曲って、そんな使い捨て商品みたいなものじゃあ決してないよ。
一曲一曲、どれだけ自分達の心身を削ってまで楽曲を投じて発表しているアーティストがいるのか。
ここは、実例が必要ですか? なくても、思い当たるのではなくて?(=^・・^=)
まぁ敢えて言えば、前者としては、なんか僕が唯一自己に例外を与えている「Every Little Thing」とか(笑) 初期・中期・現在、みたいな形でELTは大きく分けることができると思うのですが、特に初期の後半(五十嵐が脱退するかしないかくらいの時)においてはまぁ楽曲が似たりよったりだとか、ベストアルバムを出しまくったりだとか、「そこまでして新規性とか無視して同じような曲出し続ける積極的必要性あります?」みたいな。
後者は、イギリスのロックバンドの「Radiohead」とかですかねー。00年代の最高傑作とありとあらゆる所から評価を受けている(しかもこいつらはそういうことに大変無頓着であるし、むしろウザいとコメントしているww)2000年作「KID A」というアルバムがあるのですが、逸話が。 一曲一曲を、メンバーがずっとスタジオに通いつめたりして、約一か月間(1曲に対してですよ!)完成にかけたと。それ×10曲、ですからねぇ、うーんその心身の削り方は想像が及ばない。。
(注2)米心理学者ロバート・ザイアンスが実験によって提唱した論理。
(注3)ブリタンのロバという、今にも空腹で倒れそうなロバと、ロバからそれぞれ反対方向に離れた所に水が入った桶と草が入った桶がある。この時、ロバはどのような行動をとるのかという問いに対してこの論理は、「窮極の二者択一選」の状況」の故、ロバはどっちに行けばいいのか分からず終いにはその場で倒れこんで死ぬという行動を取るもの。うぅむ興味深い。
話は少しズレますが有吉先生(笑)が、
「クイズクイズって勉強してりゃそれでいーのかよ芸能界!!」
とか暴言吐いてましたがww、
僕は有吉じゃないけど
「話題性だけで売れりゃいいのかよ、売ればそれでいーのかよ音楽産業界!!」
ですねーホントに。。
本質的には、どの音楽を好むか好まないかは、受け手の好き嫌いの話であり、それは平等でしょう。
でも現実には、ある限られたマーケットに於いて、例えば好き・嫌いの認識が入る前に、バイアスをかけておくことで、作られた好き・嫌いになってしまっているんですな。ある程度の好き・嫌いの観念を擬制しておくことは、社会状況に応じて好ましいこともありうるでしょう(要するに必要悪的行為)。でも、今の「とりあえず話題性で売りまくれ」のJ-POP産業界が引き起こしている、音楽のマーケット状況、これは不平等としか言いようがない。
我々のサイフ(=「芸術」を購入・楽しむ為の金銭的量)には限りがあるわけですから。ある楽曲群だけが過大にプッシュされてて、てそんな寂しいことはない。
現代社会では、音楽という一つの著作物も、その経済的側面を重視する・させるべき方向にあるのは理由はある(注4)。その合理的理由をあまりにも欠く・又は逸脱しているのが、今の日本の音楽産業状況である、ということだけを述べるに留めておくこととする。
これでも、なにか話が根本的に違うというのであれば、是非反論意見を聞きたいです。
今回はちょっと、いろんなトコで熱が入ったかもしれないので、ごごごめんなさい。。。(@_@;)
話が広がっていきそうですのぉ。参考文献も、読み途中ですし。
次回投稿に、つなげたいと思います。
(注4)中山信弘「著作権法[初版]」(2007,有斐閣)58頁等。ただし中山は、著作権法の保護対象が人格的側面から経済的側面に移行したことのより大きなバックグラウンドとして、現代社会が情報社会・デジタル社会であること等から詳細に根拠づけている。詳細は同著23-9頁等。
(注5) 他の参考文献としては、
・大橋 洋一「行政法[第二版]」(2007、有斐閣) ・稲葉・人見・村上・前田「行政法[第二版]」(2008,有斐閣)
・西村 清和「現代アートの哲学」(2008、産業図書株式会社)
misty @
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