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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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人の舌/日記というもの



せかいのみなさまこんにちは、またまた携帯から投稿のミスティです(_´Д`)ノ~~ 一つはなっがい日記、あとの一つはかなり短いエッセイ。





@人の舌


 昨日の虫歯治療の時に、あーらーたーめーてー思ったんです。口内ってやっぱりアレな感じだ!(爆弾発言)


※あなたの妄想力を駆使して、「アレ」へに対する、ある概念の適切な当てはめをお願い致します笑


普段覆われている・かくされているものとは、つくづくアレな場合のことが多々ある。笑 「隠す」行為の動機には、恥じらいだったり機密性ゆえだったり悪の正当化だったりホント色々だ。





付け加えて思ったのが、人の舌ってよく考えたら気持ち悪っ!!笑 虫歯の治療中、自分の意志とは関係なくよーあちこち動きよる。器具で「ベロちょっと押しますよー」と押さえ付けられないと止まらない。


…ほんまに、なめくじみたいだと心の底から思いました。(爆) こんなものが口内に当たり前のように付いてて、その暴れを私たちはマナーの名のもと普段は隠す(*´∇`)。


なめくじとかゴキちゃんとかクモとか、たいがい「女子」から圧倒的に嫌われるもの達、よ。笑 私は3歳から親父に名もなき山に拉致られては、昆虫採集の名のもと武者修行を勉めてきたものですから、たいがいの下等生物はオッケーなんです。笑でも、最近粘着性が強いいきものに対してはなんか愛が減ってきたみたいだ。笑





なめくじ(繰り返しこの用語自体で気分を害される方はすみませんm(__)m)といえば、手塚治虫作「火の鳥 未来編(宇宙編、だったかも…笑)」を思い出すなあ。 あれは、30世紀とかそこらになって人類が滅びて、そこで火の鳥が人類から1人の人物(まあゆうて主人公なんですが)を選び出し、「創造主」だとか呼ばれる役割を与えた。


彼は新たな生命の発展を見守るのだが、なんと地球を新たに支配したのは下等生物から進化を遂げた「なめくじ」だったんですよ。 手塚も発想が発想で笑、ちょまwwwみたいな。でも、とにかくそのお話の中では、地球の今のところ人類が腰を据えているような位置に彼らは同じように立った。そこで、試しにもともとは人間だった主人公が、コンタクトを試みるシーンがあって。


 君たちの前、地球を支配していた人類は、自ら戦争によって滅んだよ、と。君たちなめくじは、正しい道を歩いてくれるか? と。  彼らの解答は実にシンプルで、われわれはその人間だとかいう奴より賢い。だから、そんなことで世界を滅ぼしませんよ、と。





手塚は後生はほとんどが仏教的観念に基づいてその作家人生を生きた人です。このマンガ、読んだことのない人もこの後の話のオチは大体予想が付くと思います(だから書きません、そもそも大枠のあらすじ書いてまたし笑笑笑)。





ちょっと語り口調がオカルトっぽくてうさんくさかったですかね?(苦笑)


まあ、穏健に言えば、人の中にはムツゴロウさんみたいな変人もたくさんいます笑 そして僕もご多分に洩れずムツゴロウサイドの人間やと思ってます笑。  クモやマイマイカブリを愛おしく思う人種って、どうよ??とミスティの内心の声自体ゆってます笑笑


でも、それが物心つくかつかないか頃からの親父による「教育」だったし、実際今でも山に行けば、リアルにゾーエが樹とか石とかに反応して、意識とか無くなるのを自分でも感じるし。ある種のエクスタシー(快感)を得られるしのお(*´∇`)。


(ゾーエってなによ?て感じですね。哲学者アガンベンによれば、ゾーエとは身体の、意味を全く有さない自然的質量性の部分のことで、それに対置するのがビオスという、ほんま何のキャタクラー名やねんと突っ込みを入れたくなるようなものらしいです。ゾーエの典型例が、アウシュビッツの犠牲者の肉塊や、脳死と判断された者の身体部分、とかとか。)





はい、日記はおしまい。笑





@日記の性質から鑑みた例の表現の自由の運用状況


…だからミスティの日記って話があちこち飛んで全く読んでいて面白くない!!笑なんやねんゾーエ、お前歯医者の話しとったんやないかい!笑


でも私を実際知っているひとの中には、ミスティは普段から話が飛ぶのもいいところな奴だとゆうことを重々ご存知でせう。笑それ即ち、たいがい僕の頭はこんがらがってでっかち状況になってるからです\(^O^)/


 日記は、一般的に(もともとが)ごちゃごちゃした頭の中のなにかを、その時その時・ある種ごほっと吐き出すような場所でもあるでしょう。論文作成段階で言えば、アブストラクトのアブストラクト、みたいな…?


とりあえずごちゃごちゃしたものは、整理をせずに放ったらかしにして溜まると、男子の1人部屋みたく挙げ句の果てには凄いことになります。笑 だからいつでも、コンスタントに整理したほうがいいですよね。そういう空間ないし場所を、状況に応じて社会が積極的に作っていくスタンスはある程度評価できると思います。


しかし、あんまりにもごちゃごちゃしたもの(この記事が好例、本人としては自覚はあまりない笑)を赤の他人がみる、というのは、如何なものか。


部屋の片付けをしていて、「ねーこの整理でいいかなー」「うーんお前がいいと思うのならそれでいいよ、だってお前の部屋だろ」「そうかーでもでもねー、何かが違うんよねー…」


 「…(知るか!!)」





っという話です。笑 親密な間柄ならともかく、よく見も知りもしない人の部屋の片付けに、口出しなんてとてもとても。


もうお分かりでしょうが、焦点としての社会現象は、mixiその他のSNSコミニティ等に散見される、「ブログ・日記」と名付けられた一部の表現内容の爆発的増加ことです。 はじめにゆっておくと、「僕」の日記の定義は、「1名宛人(つまりコミニュケーションの相手)を特段必要としない、2雑で一貫性には乏しい、しかも3かなり自己完結的な4文章」です。


 例のいくつかの日記を読んでいて、分かっちゃいるけどどうしようもなくイライラする時があります。無意識が、ネット世界でそんな片付け状況積極的に見せんなや、てイライラしていると思うんです。意識では、「あー、ネット環境ってゆう大衆が非断続的に集まる処でも、そういった文章書く人は案外いるんだなあ。」くらいのつもりなんですが(・・;)。


 僕が人の文章を読んでてちょっとイラッとくるのは決まって、その文章が読み手側のリアクトを一見欲しいとしているのかどうか判別しにくいものです。平たく言えば小悪魔的日記だな。笑 多分欲しいんだろうなと判断してリアクトしたら、無反応。欲しくないんだろうなと思って沈黙(そういう時は顔合わせて話聞くのがよかったりする)したら、泣き出す。


自分の空気読めない感にも飽きれるが、同時にこの人はインターネット上のコミニュケーションを何だと思っているんだろう…と、イライラする時がある。


間違っても、私的領域「のみ」を増加させるような空間にさする「べきではない」、というのがミスティの割とシリアスな見解です。





うーん、今日のエッセイは、後味が悪い…。笑 ご意見ご感想お待ちしております(。・ω・。)


ミスティ @


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iPod片手に歩く若者達 part2続き(完)

 (文字数オーバーとかになったので不本意ながら書き足します笑)

a、騒音
b、物理的(例:可視的)不注意

他にも諸々の類型があると考えられるが、便宜上2つに絞る。

a、騒音問題
 これに関しては、さらに二つに焦点を分けることができる。音量調整と、イヤフォン(ヘッドフォンでもゆい)である。
 前者の音量調整に関しては、およそ「公共の福祉」(日本国憲法11、12条、民事法1条1項等)に反しない限りにおいて、個人の裁量に委ねられるべきと解すべきであろう。
 すなわち、「公共の福祉」に反するような、例えば明らかに周囲の人に不快感を与える程の音量で聴いている、といった場合には、とりあえず不法行為制度(民法709条以下)が妥当するであろう。
 また、不快感という精神的損害に留まらず、身体における傷害など(例えば第三者が、その相手方の騒音によって受動的に聴覚不全に陥るなど)を被った場合にはどうなるか。判例は、(電)車内ではないが、宅地の近隣関係において加害者が大音量でラジオ等の音声を流し続けた結果、被害者が慢性頭痛を患ったという事案に対して、加害者側に傷害罪(刑事法204条)の成立を認めている(最判平成17・3・29)。刑法上の「傷害」の概念については争いはあるが、上の判決でも見たように例えば慢性頭痛、人の「生理的機能」に傷害を与えることが刑法上の傷害であると解すべき、とするのが通説・判例の立場である(注8)。 この見解に従えば、聴覚傷害や頭痛などの具体的な病気を患えば、加害者に対して刑事上の責任(とりあえずは傷害罪)を問うことが可能である。

 さて、後者のイヤフォンというのは、いわゆる製造物の責任の問題である。

注7)どーでもいーが、私は「個人の自由の尊重」という薄っぺらい言葉が大嫌いである。
(注8)これは一般に生理的機能傷害説と呼ばれるが、例えば嫌がる女性の頭髪を切る、という行為に対して、この説は傷害罪の成立を認めない(髪を切った所で頭髪自体はまた生えてくるのが一般的であるから、残る問題は名誉毀損とか慰謝料とかの話になる)。これについて、あなたはどう思うだろうか。くどいが、司法の最高機関である裁判所は女性の頭髪切断行為を傷害とは認めない(事案としては、福岡高裁平成12・5・9等)。

 製造物責任の話については近年ますます各分野から注目が集まり、それだけ議論も分かれている状況であるので大変に簡潔な紹介に留めておく。

 要するに、公共の福祉に反しないよう・又は不注意を惹起させないように予めメーカー側が商品に対して何らかの結果(例として、爆音洩れによる第三者の被害など)回避措置を施すべき!として、利用者のみの過失責任の範囲のみに限らないように働く論理である。

 なるたけ音洩れが生じにくいイヤフォンを製造する努力義務や、音楽を聴いている時に別行動をする場合は速やかに音が自動的に適音になるような機能追加対策とかの努力・注意義務が発生し、それに違反したという構成を採ると、当該製造物を創りだした・提供した企業側にも損害発生に対する責任を求める余地は一定程度あろう。この場合は事案に応じて民事・刑事どちらか又は両方の領域から観念することができる。

b、物理的不注意の問題
 これは、典型例としてはiPodを聴いている人(X)と自転車を走行している人(Y)が道路上でぶつかりそうになって、Yが思わず転倒してケガをした場合のお話である。先ほどと同様、一般的には民事法の世界では不法行為、刑事法の世界では過失傷害罪(刑法209条)などの成立が観念しうる。
 過失の本質の話につながりそうなので、本記事からは詳細な検討の外にある。一般的に言えそうなのは、過失を予見可能性を基盤とした注意義務違反と捉える(民法でも「過失の客観化」などの同様の事態が解釈上生じている)見解が支配的になっている昨今では、209条の罪の成立の余地はひとまず認めてもよいということにはなるだろう。
 

4 終わりに

長くなってしまってすみません。笑

 もとはといえば、iPodとかウォークマン聴きながら歩いている人って確かに表情が全くない、アブナイ顔してるよな(自分も含めて)って、ばななの記述を思い出しながら感慨に耽ってました。けど、ばなな特有の物事を鋭く言い切る、みたいな、そういう表情のない顔した人は可哀そうというあまりに直接的すぎるメッセージに対しては、子供ぢみた反発心が働き、筆をとった次第であります。

 本当は、町中でイヤフォン付けて音楽を聴くべきじゃないかもしれません。でも、それを例えば条例レベルで一律的に禁じられたら、やはり非難の声はどこからともなく飛ぶだろうな、と。
 その非難の声には「個人の自由を尊重すべきやろ!」という、

僕にとっては空き缶くらいの重みしかない言葉以外で反論可能性を探りたい、
と思い、空間論に触れてみました。

注をつけましたが、あらためて、リアルに個人の自由の尊重!とか、簡単に言わないほうがいいです。うむ。こいつはガンみたいなものだ!


感想・批判お待ちしております(´ψψ`)



ミスティ @

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iPod片手に歩く若者達 part2

本稿に入る前に。
 今日のお昼、虫歯の神経を抜いて蓋をしてもらったんですが、何かが悪かったのか今口内が痛くて痛くてたまらない。発熱してるし(_´Д`)ノ~~ バイトを急に代わって下さった先輩、本当に申し訳ありません!m(__) 何故こんな所でも謝るか、それは僕が今からバイトを代わってもらってるのにも係わらずブログ投稿なんてするからです!! 痛くて痛くて眠れもしないので、親指だけせめて動かさせてください!!(切実

さて。
本日投稿した「「わたし」の存在の消去」の後書きも、させて下さい。(苦笑)

@「わたし」の存在の消去 あとがき

 なんでこれを記事にしたかといったら、一番の理由は自殺の問題をむーんと考えていて、それと関連付ける方向にも持っていきたかったからです。

今年、小学校で友達だった同級生が引きこもりの挙げ句、舌を噛み切って自殺しました。ミスティ自身も神経症を患っているからかどうかは知らないけど、「自分を殺したい」とシリアスに考えることも何回かありました。

 でも、なんか生きてて辛い・苦しい→じゃあ自らナイフを向けよう、というのはやっぱ違和を感じてどうしようもありません。
「わたし(自分)」の存在というものは、記事中で述べたように、そもそもが有り得ないくらい脆いものなのです。   早いが話、自殺を考え始めた人は、なんでもいいので精神世界(スピリチュアリズム)の簡単な本を眺めてみてください。 スピリチュアリズムの支配的な見解によれば、私たちの身体が滅んだ後も「意識」というものは依然として残り、別の身体なりに入りこんで新たな道を歩むのだそうです。そしてどうやらそれが半ば連鎖的に続くみたいです。その連鎖的な意識を特に「霊性」だとか呼ぶみたいです。

 ミスティの記事はこの精神世界からの解答とは違う角度によるものです。私たちは先にも述べたように「わたし」以外の人だとか自然だとかとの関係性の中で「生かされて」いる。それは言い換えれば、この「わたし、自分」という存在は他者からの非断続的・瞬間的接触を媒介とすることで辛うじて成り立つものであり、決して積極的・自発的に見出だされるものでもない、と思うのです。 だから、自然(natural)に身を任せるならともかく、飛び降りや首吊りみたいに、人為的(artificial)にわざわざ消去するような代物でもないと思うんです。(苦笑)
 ミスティなんかはハタチ超えていながら人一倍繊細だったりします。わけわからん事に対してわけわからん程悩んだり苦しんだりする時があります。でもなんつーか、そういう苦しみは僕だけに固有のものではなくて、寧ろみんながそれぞれ抱えている「わたし」という意識の付随物だと思うんです。 心が苦しい苦しいと悲鳴を上げているのなら、骨折ったら入院するみたいに、治療すればいい。

 …やはり話はまとまりに欠くので(笑)、真剣に悩んだりまたは興味がある人などいれば、「軽い」精神世界の読書をオススメします。軽い、のがポイントです。入門みたいなのとか、漫画でもいーし。世の常、どの分野でも樹海は待ち構えているので(笑)

※ちなみに、僕の考えでは科学とスピリチュアリズムは対立するものではなく、共通するものもかなり多く見受けられることだけを伝えておきます。
やっっーーと、本記事じゃ!先輩スミマセン!(しつこい)


@iPod片手に歩く若者達 part2

パートワンまでの区切りが歯切れの悪いものであったので、もう一度ここで簡単に話の流れを整理しておきたい。

 iPodをはじめとする携帯音楽機器を持ち歩く人々(特に若年層)が、ますます見受けられるようになったが、この社会的現象は何を意味するのか。それを文化的側面・道徳的側面・法的側面(注4)から順に検討していくのだが、道徳的側面から見た時は日本の小説家吉本ばななの表現が特徴的であった。ばななの問いかけは、いわゆる「公私の分別」という基本的な道徳的要請であるとも読み取れるかたわらで、それだけでは説明がつかない違和を導く所から、別検討を割こうとしていくのがパートワンまでであった。以下、記述をする。

 ※注4 「道徳と法の区別の限界」という形式で、主に哲学・法学から論じられる事が多いように、この両者の区別は簡単ではない。しかしここではさしあたり、法=法律すなわち特定の社会に於いて権限を有する議会によって制定された実定法、の世界で論じられるべき事柄を法的側面とし、個々人が抱える道義的心理の在り方とは一応の区別をしておく。


(3)生産的空間と非生産的空間
 私的/公的、という便宜上の区別のみでは足らない、ということで、労働世界を基本においた「生産の場とそうでない場」を話の引き合いに持ち出したい。
 そもそも、生産=労働の場、というものは歴史的に生まれた産物であった。18世紀後半の産業革命が一例である。イギリスに起こったこの現象は、一般的にはそれまでの手工業制(つまり家の中でも仕事ができる)からマニファクチュア(機械工場制)への大胆な転換、であった。この産業上の転換は、生活上にも影響をもたらした。より効率的な労働による生産を確保するために、当時のイギリスは生産の為だけの場所(工場など)を作り、片一方で非生産的空間をも同時的に作りあげた。
 都市(=第二次産業を基盤とする総和的場所)/村落(田舎、第一次産業を基盤とする総和的場所若しくは家事労働等の非社会生産的場所)の分化と促進は、このような時代背景のもとに生まれた。
 第一次産業革命がもたらした「恵み」は19世紀に入ってからイギリス以外の欧米諸国にも波及し、そして開国後の日本にも産業圏・文化圏・生活圏その他諸々の領域において導入された。

 話を元に戻そう。典型的な都市圏を背景とする空間では、なお一層生産的空間とそうでない場所の区別が要請される。理由は簡単だ。そのほうが効率的だからだ。  例えばメトロポリス東京などではこうして、あのドーナツ化現象が生じたりしている(注5)。
さて、家―街―仕事場、という三者を想像して欲しい。既述の生産的空間論を当てはめると、

非生産的空間―「?」―生産的空間
、の図式になる(注6)。

(注5)もうこの用語法自体がすでに死語ならぬ死法となっていたりするのだろうか…。
(注6)あくまでも「非」生産的空間と呼ぶからといって、家事労働等から生まれる産物をそれとして否定する方向に働かないことに注意する必要がある。ただ単に、家事労働は社会的には生産としては一般的に見られない、というだけである。

 「?」、これを私はグレーゾーンと呼びたい。非生産場所と生産場所には、距離的・システム的相違があるが、例えば普通の会社だとか学校だとかでは、必ずこの両者を行き来する時にグレーゾーンに入りこまざるを得ない(家で宿題をする、とか、職場で休憩する、とかの場合は例外として考察の対象外に置く)。
 生産的空間=仕事場・勉強場では、これまた仕事場の雰囲気といった言葉が語るように、やはり非生産的空間=マンスリーマンション・家とは一定程度区別されるべき「なにか」がある。会社勤めを日常に固定化したお父さんも、その昔入社したての頃は玄関先で「よっしゃ行くぞ!」と意気込んでから(程度の差はあれ)、一歩を踏み出したに違いないのである。

 そして、「街」の空間が支配する移動手段としての場所は、まさにそうした人にとってグレーゾーンであった。ここには、2(2)で述べた公的領域における公共性を帯びた道徳が必然的に要請される…といった事柄が多いに関与してくる。

Aちゃん(大学生・電車通い):今日は大嫌いな科目が5限に入っている…orz

(電車の中に入る)

A:(はあ…この、なんともいえない張り詰めた感じ、嫌なんだよなあ…あたし的には小テストの勉強もしたいっちゃけど、今日はやけに人混んでるしそうそうプリントなんか出せないよ…)


 ※グレーゾーンにて今日も疲れるAさんのたとえ話にちょっと関連したことを言うと、電車内の広告はこうした都会人の「行き場のない」心理状況をうまく利用した、という有名な説がある。何かと目のやり場に困る人々は、文字が書いてある一枚の広告を、その通勤時間だけずーっと眺めるわけだから、それは宣伝としては有効な戦略である。


(4)グレーゾーン
 まさに、このたとえ話が示す電車内の風景は、グレーゾーンに放り込まれた人々達の「成れの果て」なのである。非生産的空間から生産空間へ、生産的空間から非生産的空間へ移動するとき、我々は往々にしてこの公的領域「でも」ある街、を通る。我々はこのグレーゾーンに目的でもおかない限り(街でお買い物・デート、車内でアルバイト等)、全く何をしていいか分からない状況に陥る。

そーこーでー(!笑)、
iPodは成れの果ての人間達へ贈るべきうってつけの商品へと昇華するのである。
 グレーゾーンを排したいのなら、家(=私的領域)から出かける時から音楽を聴いていればよい。そうすることによって、適度に公共に溶け込みながら私的な場所と時間を確保できるのである。
 2(2)で既述したように、イヤホンには外部遮断の機能がある。つまり公的領域においても、完全に私的領域を確保できることになる。 音楽を単に聴いたり、はたまた聞きながら軽いお仕事をしたり。 個人の自由(注7)の尊重という、現代の時代背景にもピッタリである。

 小説アムリタに出てくる「町」とは、公的領域、ではなかった。公共性を帯びながらなお生産的空間と非生産的空間の中途にある、ブラックホールのようなゾーンを持つ場所ないし空間であった。
 「のっぺりとし」た顔が多く出現しても、それはこうした状況を鑑みる上に置いては致し方ないことだろう。中には本当に野生の目を忘れた、つまり当該社会から排除される真性引きこもりや精神病患者はいるが、それはあくまでも例外である。



3 民事法・刑事法の世界

実定法とその運用機関である実務の世界では、問題はある程度類型化しうる。

(part2に続く)

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「わたし」の存在の消去


 せかいのみなさまおはようございます、ミスティです(´∀`) お久しぶりなのに、携帯から投稿です(笑) 携帯で英字を打つのはなかなか慣れない→ミスティとカタカナ表記、なわたくし\(^O^)/


@「わたし」の存在の消去
 さて、「私は1人で生きているのではない」、と、プラス方向でドラマや小説などでよく出てくる概念。これをちょっと突いてみたら、「わたしの存在」の危うさが案外簡単に出るのだなあ、と前々から思っていて、iPod~パート2に入る前にそれに関連した小咄を入れておきます(。・ω・。 (笑)

ええとですね。
 話は簡単で、「わたし」というものは、いくら主観的に生きていようが(つまり内心で私は生きているんじゃあ!といくら強く思っていようが)、普通に客観的に捉えてみれば、「風前の灯火」のように薄皮一枚で辛うじて生きているようなもの、なんだなあということ。
 例えば。ミスティが特段誰にも告げずに1人ふらり旅を敢行したとしましょう。たまたま携帯を持ち忘れたことにします。
大好きな山(笑)に数日の間、野宿してみる。携帯を持っていることが現代社会においては、「わたし」の存在を知らしめる一大道具になっている。だから、家族や友達からは、ミスティは生きているか死んでいるか分からない、いわゆるシュレーディンガーの猫みたいな存在にたちまちなるのですな(*´∇`
 ミスティという名前を貼りつけられたこの身体は、旅中では確実に生きて存在しています。ただし、それは条件付き。主観の世界において、ミスティなる身体と意識が存在しているに過ぎません。はたから見れば(=客観的には)、ミスティは死んだも同然。

 恐らく1週間もたてば家族が警察に捜索願いを出しそうです。そして、捜索段階を経てミスティは警察に保護される。(笑)ある1つの社会制度運用によって漸く、「わたし」という存在はあらためて確認される。そして、「わたし」は遡及的に、最後に生きていたとされる時(=たとえ話で言えば、旅に出る直前時)の「前のわたし」と否応なしに連結される。そうして「わたし」は辛うじて「その間も生きていた」のだ、という客観的証明に繋がります。


人間の意識なんて、そんなものみたいです…(_´Д`)ノ~~。

 よくよく考えようが考えまいが、私たちは常にそのような意識下で生活を送っている。わたしの意識の元(=主観の世界下)で存在の確認ができるのは、一番は他ならぬ「自分」。それから、今ここにおいて五感を通じて感知する限りの他者、のみです。少し離れた(場所的・時間的離別)家族や友人の安否なんてのは本当は、私たちは常に知り得ない。こうやって僕が1人下宿先の一室にいる限りは、僕の家族や友達が生きているのかどうかなんて事実知りようがない。もしかしたら生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない(その意味では、わたし以外の他者はみんなシュレーディンガーの猫みたいなもんです、猫だらけwww)。 だけど、私達の無意識という奴は、とりあえず他者を自己の意識の中に「生かして」おく。たとえば、もし僕がリアルに家族の安否を気にすれば、まず一番に取る行動はやはり携帯電話を手に取ることでしょう(´Д`)。 家族が電話に出たら、無意識は「ああやはり生きていたんだな」と認識し、直前の家族が生きていた時とすばやく結び付ける。「すなわち家族は生き続けていた」という証明、こんな荒技を私たちは瞬間的にしかも日常茶飯事にやっている。

 とりあえず死者が蘇るという現象は、現代社会においてはアウトサイド、つまり偽だとか迷信の側の方に位置付けられています(しかもかなり強く)。だからわれわれは、その意識において他者をとりあえず生かしておく。

 この「わたし」という存在は、主観的に消去させるまでせずとも、常にその存在の危機と隣合わせになっているようです。だから、自殺なんてしなくても、「わたし」なんてものは元々が物凄くもろい。言い換えれば、言葉は悪いですが、わたしなんてものは簡単に殺せる。飛び降りなんて勇気出さなくても、ケータイの電源をポチっとな、オフってちょっと社会から離れれば、わたしはたちどころに消去されます。お手軽、わたしの消去法!(爆)(笑)

 よのなかで一番自分勝手なのは自分でもなければ社会でもない、私たちのこの意識のような気がしてきました。(笑) 私たちの意識は、他者というかけがえのない存在そのものを常に生死の天秤にかけている。基本的には「生」の秤に置いておくけど、ちょっとしたことですぐに天秤を揺らし、下手をしたら「死」の秤に載せる。 多くの人が「死」の方に載せだしたら、その他者はとりあえず「死者」と視なされる。その他者がいくら主観的に生きていようが、客観にはあらがえないみたいです。

それが僕らの作った制度(意識的システム)。
 
 この制度のデメリットを挙げれば、無意識が他者の存在を一応生かしておくことによって、私たちは以前よりもより多くの他者との関係の中に放られざるをえなくなった。 グローバリゼーションの拡がりはその典型例ですね。ほんの500年も前だったら、日本人は中東地域の正確な実状なんて知りもしなかった。だから、中東で戦争が起きようが起きまいが、それはそもそも私たち日本人の意識の「外」にあるので、彼らと関係性を持ちようがない。だけど今日国際社会を生きる現代的日本人は、いつテロリズムが世界全体を席巻するんじゃないかとハラハラしている(※別にハラハラしてない人はそれでいいんです。一般論の話です)。

 僕に言わせれば(爆弾発言もいいとこですが笑)、本来的には日本人と中東人には関係がまっっっったくない(文化の輸入だけ例外)。そもそも意識の中に、彼らと彼ら固有の生活圏を生かしておく必要がない(石油なんて輸入せずとも僕達昔から石炭だけで頑張ってきてたじゃん!)。 中東=未知の世界でのテロリズムの情勢を現代的日本人は意識しているがために、偉そうなネーミングをつけては仕事にしたり行動したりする。でも、それは杞憂に過ぎないとも言えるんじゃないか、と思うんです。 大地震や雷は完璧には防げない(「被害」をミニマムにすることは可能でもゼロにはしようがない)。同じく、テロ攻撃も本来的には完璧には防ぎようがない。

ならいっそ、そういう事を意識下の中に入れるのやめて、したらもっと他分野にメス入れれるじゃん! て感じ。

 責務を果たそうとする(平和主義を掲げる日本のこれからの行動?とかかな)姿勢はカッコいいけど、その姿勢を貫こうとするあまりがんじがらめになる必要もまた無い。

 いいじゃん。人間は、どこまでいっても人間だよ。人間には出来ないことを、人間が率先しようとしなくていいと思う。諦めとかペシミズムとかじゃなくって、前向きな方向で。脳という器官はよく暴走するけど、妄想と現実への効果の違いはやっぱり見極めなくちゃいけない。私たち人間がやることを、一歩一歩、そのままやるだけだと思います。

そんなこんな。「わたし」の存在の消去可能性の容易さの話が、こんなに膨らんでしまた(笑)

ミスティ @

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iPod片手に歩く若者達 part1


 どうもこんにちは、mistyです。
前回の記事ではどうやら名乗ることを忘れてしまっていたようです笑

 さてさて、みなさんは、車でお出かけだとか電車で通学だとかの場面で、手持ちぶ沙汰なとき何をしていますか?( ^)o(^ )
私は、ウォークマンの大ヒット以来より、CDウォークマン→MDウォークマン→iPod(Classic)、と世相にも合う(?笑)形で、ようするにほっとんどの時間、携帯音楽機器を持ち歩いて音楽聴いてました。
中学から高校までが、学校までいつも片道40分という感じだったのでウォークマンを入手した時の喜びはハンパなかったです(笑) やったぁ音楽いつでもどこでも聞けるじゃん! みたいな。

 歩行中でも、よくiPod片手に音楽聴いてます。 で、多分一般的でないというかメチャクチャ特殊だと思うんですけど、私は片耳だけイヤホンつけてもう片方はつけないって癖があって・・・(笑) その癖の理由の一つには、両耳塞ぐよりも片方のほうが周囲の状況をどうやらより感知しやすいから、てのが。 ヴォリューム小で聴くのが基本的にキラいなんですね。(笑) それよりは片耳外してでも、ある程度の音量で・・・!みたいな、やっぱり特殊すぎますね(・へ・)
 でももう一つの個人的な理由があって、それは目の前の風景を音楽を聴くことによって意図的に色づける故というものです。私はこの行為を勝手に「カラーリング」と命名しています。
 なんでしょうね、ふと見渡すと何の感慨もない風景であっても、音楽聴いてるとなんだかその風景が音楽に合わせて色とか物語とかメッセージとかを放つんですよ。 雨の日は、その静けさの中で爆音ロックを選んだりとか、快晴の時にはキラキラしたポップミュージックだとか。 こりゃあ面白いなぁと思って、そんな事を思いながら今に至るわけです。(笑)

はい、だから前置きが長い! 本記事は、以下よりはじまります。笑

iPodを片手に歩く若者達

と題して。
 前置きから話はつながるが、ウォークマンの登場とその爆発的ヒットと共に、街中でも電車の中とかでも携帯音楽機器を持ち、イヤフォンを付けて音楽を聴いている人の姿が多くなった。
 00年代に発売、そしてあっという間に同時代に世間に広まったiPodもその一つである。見渡せば至る所でイヤフォンを付けて街を歩いている、特に若年層が多い。私もご多分に洩れずその一人である(20代は若年層である笑)。
 以下では、iPodも含めた小型携帯用音楽傾聴機器(以下、単に「携帯音楽機器」と略す。)の登場と多くの若者ー若年サラリーマンや、学生を含むーによるその利用形態が、現実にどのような状況を引き起こしているか、1文化面からみたそれ2社会的道徳観念からみたそれ3社会的法観念からみたそれ、を検討し、どういった問題が生じているのかそれにどう対応すべきなのかを簡潔に述べたい。


1、iPodはファッション(文化の一形態)だ!
 ここはとっっってもサックリといきます(笑) 題字でも分かるように、携帯音楽機器を持つことは現代社会において、ある種のファッション性も帯びている、ということを私は鼻から認める。 Apple社が流しているCMの幾つかでは、iPodを片手に歩く若者をオシャレな感じで、平たく言えば一つの「個性」として描写しているものがある。
 現実の状況としては、殊に高齢層ーなぜかこういう時は決まってオジサンオバサン達から提起されるもののようだーから、「けっ変にかっこつけよって!」「なんねあんたそれ、イヤフォン付けっ放しで、耳聞こえん人でもないのに」とある種の不満が投げかけられる。 文化的社会面からこれをみる限りにおいては、「時代の変化と共に文化もいわば当然に変容する」というのが正論であろう。 つまり、単なるカッコつけでもないし、こういうのが端的に(今の)時代の流れの中であるの! と言えば、それでお終いである。
 

2、吉本ばななの記述からの問いかけ ー空間論ー

(1) 私的領域/公的領域
 まず、小説家よしもとばなな著「アムリタ」から、街の人の描写において以下のようなものがある(注1)ので、ひとつ引いておきたい。
(引用)

  ・・・だから、母に置き手紙だけして、彼女が戻る前に弟を連れて家を出た。聞けば、彼はもう一週間も外に出ていないそうだった。空気がおいしい、と彼は言った。
  ずうっと、安全な室内にいると、人間は家に同化して家具のようになってしまう。
町でよく見かける、外にいるのに服装も顔も室内のままな人。のっぺりして反応が鈍く、人の目をみない、ゆるみきった人。野性を忘れてしまった目をしている。
  弟にはそうなってほしくなかった。・・・   (引用終)

 さて、この小説のテクストからは、「室内」と「町」における人の在り様の違いが見てとれる。ばななに言わせれば、「外にいるのに服装も顔も室内のままな人」は、「野性を忘れてしまった」性質らしい。
 ちなみに私がこの小説のこの場面に遭遇したのはもう5,6年も前であったが、当時何となく思い当たる節があって「あぁーそういう表現を使うのかぁ巧いなぁ」と感嘆した記憶がある。

 ここではさしあたり、私的領域と公的領域における個人の態様に対する道徳的観念から見た区別の実益、という形で問題を転換しておくこととする。 つまり、私事(引用文においては、「服装」や「顔」等、つまりは「室内」=私的領域における個人のファッションや態度の取り方)を公的領域(「町」)に、そうそう開けかしてもいいものなのか、という事柄を、社会的道徳の見地からみるとどうなるかを考えたい。

(注1 吉本ばなな「アムリタ上」(2002, 新潮文庫)158頁4-10行より抜粋引用。)

***いったんここでタイピング止めておきます***
***また付けたしますが、終わりにはいかないでしょう(笑)

 早いが話、ばななは、-小説という、論理とは対極の「感覚」をベースとする形式を用いてはいるもののーそういった私的領域ではOKなことでも公的な領域内ではOUTなことがあるんじゃないの、と間接的に疑問を投げかけているのではないか、ということである。確かに、繰り返しになるがあくまで範疇は小説であるため、形式的に解してその小説から汲み取る事柄も所詮憶測に過ぎないという批判も成り立ちうるかもしれない。しかし、社会的引きこもりの問題等を前提としているような文脈(引用文より、「ずぅっと、安全な室内にいると、人間は家に同化して家具のようになってしまう。」のセンテンスなど」)があることを鑑みると、この個所から社会的道徳の観念の事柄を引き出すことに特段の無理はなかろう。

 さて、赤字の部分をもうちょいカタい言葉に置き換えてみる。私的領域/公的領域を便宜上区別したうえで、それぞれの領域で要請される個々人に対する道徳の質が違う、ゆえに「のっぺりとして反応の鈍」い態様は公共性を帯びる公的領域の中では望ましくないのでは、という主張になる。これには、一定程度の妥当性があると評価してよいと思われる。 場のわきまえ、というのはよく個人の道徳の場面でも引き合いに出される話であろう。

(2)社会心理学等のアプローチ

 私がばななの文章を引き合いに出したのは、言うまでもなく、
携帯音楽機器を持ち歩く人には同様の共通点がかなり見てとれる

からだ。 逆に、イヤフォンを付けながら周りに注意深く気を張っている若年層の人をみつけるほうが難しい。
 しかし、括弧1で述べたような、要するに「公」「私」をある程度わきまえろ!という要請からだけでは、この現象を完全に語りきってはいないように個人的に思えた。そのわきまえろ論を仮に推し進めるとすると、iPod身につけて電車の中で音楽聴いたりする人全てが公私の場の区別をわきまえていない、ということにもなりかねず、それはおかしいだろうと思う。

 次に、情報社会に生きる都会の人間を分析したミルグラムの過剰負担環境の話を簡単に紹介する(注2)。地方と都市を比較したとき、人・モノ・広告(普通広告と勧誘行為どちらも含めて)などを媒介として、それらを「情報」と捉える。その時、その総合的情報量は圧倒的に都市での方が多い。こうした情報氾濫の状況下では、人間は短時間処理(最小限の情報だけを伝えようとすること)や情報の排除(自分にとって必要な情報だけ取り入れる)などの行為を取る。そして、そのぶんだけ人的コミュニケーションも地方でのそれに比べると抑えられてしまうので、「都会の人は冷たい」というイメージを形成する、らしい。

 なるほど、この話でいけば、iPodの例は上の「情報の排除」にあたりそうである。イヤフォンを付けるという行為は、自ずから自分の外にある世界とを遮断し、自閉性を獲得する。

心理学とは畑を別にするが、日本哲学者の鷲田清和の身体論なども、まったく同様とは言えないが似たような話を展開する(注3)。

(注2) 渋谷昌三「面白いほどよくわかる! 心理学の本」(2009. 西東社)68-9頁。
(注3) 鷲田の身体論からのアプローチも大変に興味深いが、本記事では便宜上省略する。

(3)から入るので次につなげます~(=^・・^=)

misty @

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好きとか嫌いとか


宮内庁問題(ヤフーニュースより)
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/imperial_family/?1260843439

で、民主の小沢さんが宮内庁長官に対して事実上の辞任を求める行為があったってことなんだけども、、

はぁ。。。小沢さんが嫌いになってしまったよ((+_+))
そういう長官の言動は、「日本国憲法と民主主義をまったく理解していない。そうでしょ?」と、もっともらしく言ってる箇所があって。
 なにそれ、あなたがまるで日本国憲法の最高有権解釈者みたいな態度。
天皇の政治的問題にまつわる憲法問題に解しては、種々の解釈があってしかるべきだし。
もっとも、ちょっとだけ私が口を出せば、「天皇(の自律的行為)を尊重する」方向に働く小沢さんの意見も、宮内庁長官の「天皇は一般的に政治に中立的であるべし」という立場も、特段峻別・対立するものではない。むしろ、両者の天皇制の前提の考え方は共通している。

のに、なぁ・・・。

 ブラウン管の向こう側で映っていた記者会見の時の、小沢さんの脅迫じみたそのセリフと雰囲気には、げーーと思ってしまった。

本論はここからなんですがww、 こういう「好き・嫌い」って感情は、改めてメリットがあるなぁと思ったのです。
 だって、「好き・嫌い・どちらでもない」、で物事を片付けておいたら、それはまた「変わる可能性」があるんだもの。
 上の例でいったら、こういったことでドヨーンと小沢さんを嫌いになってしまった僕でも、-反対にどんどん嫌いになっていく可能性はここでは省略してw-、たとえばこれからの彼の政治活動等を通して、私の心象にプラスを与えかねていくかもしれない。んで、総選挙の時までには、「好」の印象もあいまって、そちらのほうに投票を・・・という結果も、起こりうるかもしれない。
 別に単なる妄想ではなくて。よくあるでしょう、理屈や理論で決めた物事よりも、「好き嫌い」の感情論で決めた物事のほうが、時間を経てみれば変わってたりとか。 昔は大嫌いだったおふくろの聴いていた氷川きよしが、最近になってあぁー彼も演歌界の一大ホープでやってんじゃん歌もいいじゃんみたいなの(じゃあ好きになったのか?と問われれば、「どちらでもない」と答えると思うw)。

 
 時間の経過が、好き⇔嫌いの変動の要因として大きなものの一つかとおもわれます(=^・・^=)

 繰り返しになるけど、妥当である(又は正しい)⇔妥当でない(又は正しくない)、の変動は、一旦おりゃ!という感じでその意見に辿り着けば、ちょっとやそっとのことでは中々根本の意識は変わらない。 時間の経過とか、そういうのとは少し位相が違う気がします(もちろん時間を経る中で、あぁやっぱりこの意見が根底としている意識は妥当でないのかも、みたいなのはあるにはあるかもしれんが・・・。)

 とすれば、「好き・嫌い」の処理のメリットと関連して、一つだけ別の事柄をカンタンに。
「世論」。
この野郎は、用語法的には「論」と後ろに名前が付いてるくせに、理屈や理論のみから形成されるものじゃない!
例えば、鳩山政権について。発足当時は、自民党の野党からの脱退という歴史的にも大転換の背景があるだけに、そりゃもう元々民主の人・そうでない人からも、圧倒的に世論は「好意」を示していた。

 だけど、さぁ溜まってきた日本のダム工事問題をめぐる国交省の言動だとか、行政刷新委員会(ワタシ、これについては具体的運用の仕方に問題があると思われ・・・)による事業仕分けがスタートしてだとか、普天間基地問題をめぐる外交の動向だとか。 はや3カ月そこそこで、とりあえず新聞やニュースなどによれば鳩山政権に対する世論は一色好意ではない(西日本新聞、09.12.13、3面記事)、みたい。

 でも、これもいいことなんじゃないかって思う。世論は、そういう風に「好き・嫌い」の選好の枠組みとして、そこから形成される側面を有している。だからこそ、いい意味で「流されやすくもある」、のだ。

ちなみに、そういった「流されやすい世論」に対する国家自身がとかマスメディアがとかの心理的コントロール、を論じようとしているわけでもない。 私が思うのには、国や地域の政治だとか経済問題だとかを考えるにあたって、真に自身が深く関わっている・関わるべきである事柄に対しては、理屈や理論も備えて慎重・強力な姿勢を持っておくべきだ。 しかし、そうでない事柄に対しては、「好き・嫌い」のレヴェルに「留めておく」。深入りしない。 「鳩山の奥さんなんかスキ!期待できそう!」とかでいいと思う。 したら、それは時間の経過とともに妙な固執を産まないし、いつでも弾力的にそういう事柄を整理できることにも繋がる気がする。


そんな感じですが、私は自民党賛成の立場なのです、これがまたw 野党側の自民党は、イイ動きをしてくれてると思うなー。

misty @

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(アリガチたいとる)便利な法律用語10コ厳選!!


 こんにちは、mistyです。

 行政学の議論は、まだ展開の余地があるのかなと思うので反応待ち中です笑 というか、全部の記事に対して、いつでも反応待ち中ですww 文章とインターネットの利便性のいい所は、この一定程度の保存性に限りなく担保されているとこだと思います(●^o^●)
 社会芸術論(勝手に命名)については、昨日投稿した折にふれた、「J-POP」にまつわる問題からある程度順序立てて投稿するつもりです。 私的にはとても楽しい=他者からしたらとってもつまらない、という構造に陥る危険が(笑)。 まぁ、みんな硬いものばっか勉強とかしてないで、普段触れている絵画だとかゲームだとか音楽だとかについてちょっと思念してみるというのも、まぁ人間の行為の範囲内かなと(笑) 暇だからやってるわけじゃありません。そこに何らかの意義があると考えてるからです!(娯楽に興じるのは楽しい事この上ないがそれを思考するということは、必ずしも楽しくはないw) 

んで、この放置された悲しい二つの記事。
特定電子メール法等の制度へのギモン   http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/30/
「芸能人の「人権」」 part3  続き1 」  http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/21/

もうこいつらは結論が主観的に見えているというか、その過程を書くのがとっても面倒なので、しばらく放置させます。でも消さないけど。

 今回は、コーヒーブレイクですけど、本当におせっかいじゃなくて単に知っていればまず損は絶対しないという法律用語・概念10コ厳選!
 あのね、他学部の人と話してて、う~ん今の教養制度がいかにロクなものじゃないかということを何度も思い知らされるww 他方で、法(学)にまつわる話はいつだって関係してますから。あなたが社会的人間である限りは。 だって人間社会関係を規律・統制しているものそれが「法」なんですもの、気がついても気がつかなくとも触れていますよ。

というわけで、法学部以外の方、以下の10コのキーワードでピンとこないものがあったら、暇なときにググったりウィキったりすべし!!今すぐ!www

・善意と悪意

・当事者・第三者

・判決と判例の違い

・通説・有力説・多数説・少数説

・当為の法則と絶対の法則

・パターナリズム

・法律と法の違い

・法治主義と法の支配の違い

・立憲主義

・不動産と動産

(オマケ→民主主義と自由主義と全体主義の違い)←これは法学にも通じるが講学上は政治学の入り口で説明されることがオオい。


 よい休日を~★

misty @

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J-POP嫌いのリユウ


 休日の昼、とある用事があって隣の町まで出かける。商店街に入ると、知ってる曲・知らない曲が入り混じった有線が流れている。 美術館には何やら有名画家のコレクションがあって人が並んでいる模様。 公園には、大理石で作られた造形物がある。詩を思わせるような広告のキャッチコピーがいたるところに貼られている。

われわれは、日常生活において、上のようなある共通したなんらかのものに絶え間なく触れている。その共通したものが、何やら「芸術」とか「美術」とか言われているようなものらしい。興味の有無に関わらず、社会には諸々の芸術といった制度が往々にして見てとれるのである。

 それでは、その芸術とは一体なんなのか。おそらくこの質問は、「命とは何か」とか「生きること・死ぬことは何なのか」とかと同じくらいの重さを持つ、いわゆる哲学的(非・科学的)な問いである。さらっと答えを出す文脈ではないし、またそうすべきでもない。しかしそれでもこういった同種の問いは我々の頭をかすめ、時には30分も1時間もぼけーと思念を費やしていることが少なくない。
 やはりこういった「定義付け」の問題は何かと面白いものであり、その分野に立ち入れば立ち入るほどその問いの樹海のような深みに囚われ、わけがわからなくなることもある。

 畑は違うが、例えば行政法学界では(注1)、行政概念をめぐる論争つまりは「行政とは何なのか」が語られる事があった。これに対する通説的見解(学説の多元的状況のもとで、多数から支持を得てある程度の妥当性を確保している考え方)は、いわゆる控除説である。

「行政とは、国家作用の中から立法と司法の両機能を控除した残余の機能である」


というのである(大橋、07・稲葉、08等・他多数)。 
法学政治学にたしなみのある人もない人も、これはいつでも本気で笑っていいと思うwww。 だって、身も蓋もない「答えにならない解え」である、立法と司法を外したものそれが行政なのだ~なんて言われても、ちょまwwwwwみたいな。でも多くの学者はこういった争点に対して真面目に時間を割いて考察して、この身も蓋もない解えがイチバン説得的なのである。

 今はこの行政概念をめぐる議論について述べるつもりはないので詳細は省くが、私がこれから述べようとする「J-POP」についても同じような事を観念してしまうのである。J-POPってなんだろう、よく聴きはするけど言われてみたらこのJ-POPってそもそも何?という問いかけに対して、
「J-POPとは、音楽分類の中からロックとジャズとクラシックとダンスミュージックと民族音楽を除いたある一つの音楽形態である」 とかに最終的に落ち着きそうだからである(笑)

 しかし、定義付けの問題は行政概念にしてもJ-POP概念にしても、それだけでは何の意味もない。それを媒体として何かを語る方向に向かう限りにおいて、そういった概念の定義付けは重要かと思われる。

さて、前置きが長くなってしまったが、今回は私のJ-POP嫌い(批判と捉えて下さっても結構)と、それを補完する要するに大変自己完結的なお話をえんえんとする。 とか言ったら誰にも読んでもらえそうにないので、批判可能性・意見確保性がなるたけ望めるような文章にしたいとは思っています、ハイ・・・。あぁ、マジでそこでニコ動画のリンクとかにいかないで! (笑)

(注1)行政法の世界だけに限らず、例えば憲法の世界でも司法府の概念や内閣の概念をめぐる議論はある。がしかし、それも先に見たような「控除説」が一定程度の支配性をおびている。仮に行政・立法・司法それぞれに控除説を適用させたとすると、「国家とは全てであるかもしくは無である」といったような本当に笑えてしまう帰結も導き得るが、記事中にも述べた通り控除説などの議論については考察対象からは除外する。

@J-POP嫌いの私的理由

 なーんでそもそもこんなわざわざブログまで使ってJ-POP嫌いのやつの話なんか聞かないといけないんじゃい!と言われたら、うーん

J-POPなんて大っ嫌いと公言している音楽通みたいな人はたくさんいる気がするけど、その具体的理由ってあんまり聞いたことがない気がするお・・・>゜))))彡

からである。私は、改めて言うが、J-POPなんて大っきらいである。でもそれは、単に好き嫌いの話であって、そういう個人的な嗜好はこんな開かれた場所でそうそういうもんじゃないよって感じなんですが。
とりあええず上の大文字のようなハテナに対して、はいそれでは自らJ-POP批判をする私が個人的な理由をひとまず述べて置こうかと。 ただなんとなく、J-POPはきらいなんだよ!みたいな書き込みは某大型掲示板とかでいっぱい見たり聞いたりするけど、それはJ-POPを愛する人からしたら極めて遺憾であるし腑に落ちないことこの上なしだと思うし。

 
往々にして音楽=思想・感情の表現であることからして、こうした感情的な声しか聞こえないのかもしれないが、それは私はヨクないことだと思います。「嫌いなものは嫌い」を盾にして愛好者を攻めるのは間違っている。ちゃいますか?(・へ・)

で、私の理由は割と簡単で(もしかしたら複雑かもしれない・・・)、各音楽(および各アーティスト、各楽曲)という一つの「価値」の平等の観点からです。えぇとですね、、。

J-POPって、少なからず商業主義が絡んでいて、各アーティストが直接的に関わる側面よりも、そのアーティスト達が所属する大手事務所だとかレーベル会社だとかの方がものすごく関与する側面があるんですよ。なるほど、これ自体は別に悪くないというか、というかそれは商売やってりゃお金が回らないとソモソモ所属アーティストもろとも飢え死にしちゃいますから。
 しかし、その経済的側面が絡んでいる結果、音楽産業にどういう事態が起こり得るかというと、彼らはまず自分たちが抱えているアーティスト達の宣伝ばっか当然やるわけです。コマーシャル宣伝、CMソングに積極的に起用させたりだとか、TV出演をさせたりだとか、芸能界のお仕事をさえたりだとか、いわゆる「純粋な音楽制作・公演活動」(この範囲については、また後ほど。)以外の諸々の活動を、本人の意思をそのまま率直に反映させたとは必ずしも言い切れない所まで本人をしてなさしめているわけです。

 人は基本的に、ある対象に対して見聞きする回数が多ければ多いほどその対象に好感を持ちます(熟知性の原則、注2)。

 ここで仮に、表現力もパフォーマンス力等も特段変わらないAバンドとBバンドがいたとしませう。
さてAバンドは、何らかのキッカケでJ-POPを動かす大手レコード会社RからCDを出してもらえることになりました。レコード会社からしてみれば雇った分は稼いでもらわないと困る(一種の労働契約とも観念できよう)わけですから、R社はバンバン宣伝する。 CDを発売する前に、メディアを通じて広告活動をしまくる。PVがブラウン管の中で何回も放映され、有線ではサビがかかりまくる。
 一方Bバンドは、地道に大きな庇護(patron)も受けずに、某CD屋さんに自主製作のCDを置いてもらえることになりました。

 さて、AバンドとBバンドのCD発売日は同じです。あなたが、キッカリ3000円(ちょうどCD一枚分)持っていたとします。
どっちのCDを買います?
上のような条件がなければ、もともとAバンドもBバンドも表現力やパフォーマンス力などに大きな差異はなかったのですから、どっちを買うかは1:1のハズです(ブリタンのロバ(注3)の論理が働いたり、又は他のCDを買う若しくはCDそのものを買わないといった選択肢はないとしてますよん)

 
しかし実際には、AバンドのCDを手に取ってレジコーナーに行く人が圧倒的に多いのではないでしょうか。Bバンドは名前が知られてないのですから。僕見たく視聴コーナーの前に何分も居座ってある意味ウィンドウショッピングwしているような人種は稀というか、害悪ですww

ここで、初めて僕のだからJーPOPは嫌いだ、という主張(?選好?)が出てきます。 両者にもともとの差異はあまりないのに、そのマーケット(市場)に於いて、商業戦略的な所に多々影響されて音楽という一つの「価値体系」の優先が不当に奪われている(=不平等状態)としかいいようがない。音楽も一つの表現の現れであり、そういった種々の表現が商品化された「CD」のマーケットは、あるでっかい経済的影響力を持つアクターによってかなり左右されている。

具体例に欠けていると思うので、ハーーーッキリ実例を出して申し上げましょう。
ジャニーズ業界が、ほんとうっに大嫌いなんですwwww  畑がそもそもあなたがた、「芸能」プロダクションでしょう、音楽一本でもないでしょうみたいな。
ちなみに、J-POPの根幹の一つになっていると思われる彼らそのものの存在は、必要だと私は考えています。どの時代もアイドル的存在を求めるし、そもそもいないと僕ら一般人が夢とか希望とか見れないし!!($・・)/~~~ だけど、本当にいい夢を見させてくれる「アーティスト」さんは一体どれほど居るんだろうってハナシです。
つまり、数を限れという主張です。なんでもかんでもホイホイCDデビューさせるなって。

 また、J-POP産業には、ある共通項が性質的に見受けられます。それぞれのJ-POPにカテゴライズされる(このカテゴライズの問題も後ほど。)アーティストが同じような内容の「歌」を、手を変え品を変えて、まるで楽曲を「使い捨て商品」のように売り続けていること。たしかに、大事なメッセージをある程度コンスタントに世の中に広く訴えかけていくことはとても大事です。しかし、往々にしてこのJ-POP産業は一大プロジェクトとなり、著作権法の無視もいい所・同じようなメロディとコード進行をちょっと変えただけで使いまわして、精神性の形骸もいい所・本当にその「歌い手」が歌詞内容を大して想いもせずに上っ面だけでパフォーマンスしている楽曲がどれだけ多いことか。それなりの形式(有名演奏家・敏腕プロデゥーサーetc)が整っていれば、本来の実質がどうあろうと、やはり「それなりのもの」に「聴こえてしまう」事はよく起こる現象です。

でも、楽曲って、そんな使い捨て商品みたいなものじゃあ決してないよ。
一曲一曲、どれだけ自分達の心身を削ってまで楽曲を投じて発表しているアーティストがいるのか。

ここは、実例が必要ですか? なくても、思い当たるのではなくて?(=^・・^=)
まぁ敢えて言えば、前者としては、なんか僕が唯一自己に例外を与えている「Every Little Thing」とか(笑) 初期・中期・現在、みたいな形でELTは大きく分けることができると思うのですが、特に初期の後半(五十嵐が脱退するかしないかくらいの時)においてはまぁ楽曲が似たりよったりだとか、ベストアルバムを出しまくったりだとか、「そこまでして新規性とか無視して同じような曲出し続ける積極的必要性あります?」みたいな。
 後者は、イギリスのロックバンドの「Radiohead」とかですかねー。00年代の最高傑作とありとあらゆる所から評価を受けている(しかもこいつらはそういうことに大変無頓着であるし、むしろウザいとコメントしているww)2000年作「KID A」というアルバムがあるのですが、逸話が。 一曲一曲を、メンバーがずっとスタジオに通いつめたりして、約一か月間(1曲に対してですよ!)完成にかけたと。それ×10曲、ですからねぇ、うーんその心身の削り方は想像が及ばない。。


(注2)米心理学者ロバート・ザイアンスが実験によって提唱した論理。
(注3)ブリタンのロバという、今にも空腹で倒れそうなロバと、ロバからそれぞれ反対方向に離れた所に水が入った桶と草が入った桶がある。この時、ロバはどのような行動をとるのかという問いに対してこの論理は、「窮極の二者択一選」の状況」の故、ロバはどっちに行けばいいのか分からず終いにはその場で倒れこんで死ぬという行動を取るもの。うぅむ興味深い。

 話は少しズレますが有吉先生(笑)が、

「クイズクイズって勉強してりゃそれでいーのかよ芸能界!!」
とか暴言吐いてましたがww、

僕は有吉じゃないけど

「話題性だけで売れりゃいいのかよ、売ればそれでいーのかよ音楽産業界!!」

ですねーホントに。。
本質的には、どの音楽を好むか好まないかは、受け手の好き嫌いの話であり、それは平等でしょう。
でも現実には、ある限られたマーケットに於いて、例えば好き・嫌いの認識が入る前に、バイアスをかけておくことで、作られた好き・嫌いになってしまっているんですな。ある程度の好き・嫌いの観念を擬制しておくことは、社会状況に応じて好ましいこともありうるでしょう(要するに必要悪的行為)。でも、今の「とりあえず話題性で売りまくれ」のJ-POP産業界が引き起こしている、音楽のマーケット状況、これは不平等としか言いようがない。
 我々のサイフ(=「芸術」を購入・楽しむ為の金銭的量)には限りがあるわけですから。ある楽曲群だけが過大にプッシュされてて、てそんな寂しいことはない。
 現代社会では、音楽という一つの著作物も、その経済的側面を重視する・させるべき方向にあるのは理由はある(注4)。その合理的理由をあまりにも欠く・又は逸脱しているのが、今の日本の音楽産業状況である、ということだけを述べるに留めておくこととする。

これでも、なにか話が根本的に違うというのであれば、是非反論意見を聞きたいです。
今回はちょっと、いろんなトコで熱が入ったかもしれないので、ごごごめんなさい。。。(@_@;)

話が広がっていきそうですのぉ。参考文献も、読み途中ですし。
次回投稿に、つなげたいと思います。


(注4)中山信弘「著作権法[初版]」(2007,有斐閣)58頁等。ただし中山は、著作権法の保護対象が人格的側面から経済的側面に移行したことのより大きなバックグラウンドとして、現代社会が情報社会・デジタル社会であること等から詳細に根拠づけている。詳細は同著23-9頁等。
(注5) 他の参考文献としては、
・大橋 洋一「行政法[第二版]」(2007、有斐閣) ・稲葉・人見・村上・前田「行政法[第二版]」(2008,有斐閣)
・西村 清和「現代アートの哲学」(2008、産業図書株式会社)

misty @

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NPOと行政のパートナーシップ??

何回か前の行政学の講義より、ギモンに感じていたことをブログを使ってまとめてみむとす。課題とか一切関係ないけど、すげぇ気になるから書くの!このやろう!

おはようございます、mistyです( ^^) _旦~~
眠すぎですw

NPOと行政のパートナーシップ(協働)?

まー行政学という、政治学の中でも専門といえば専門の話にはなるのかもしれないので、ざっくり簡単にいきます。
問題にいきつくまでに、その経緯とか最初にさらさらっと記述しまっせ。分かる人は飛ばせい

そもそもNPOとはご高名の通りNon-Profit Organizatinの略称であり、非営利組織・団体などと言われることもある。一応のNPOの組織の定義としては、「非営利目的でありかつ公益の実現を目指す組織」である(嶋田、レ13-1)。ここでの公の利益とは、国家側から見たそれではなく、あくまで市民の視点から捉えられるものであることに留意が必要である。

 政治の世界において、政治のアクター(行動主体)が伝統的には国家のみで語られることが多かった。これは、近代における主権国家概念の広がりが関係している。主権国家が成り立つと、統治・支配という政治のはたらきは(この)国家に集中し…法をつくり執行し強制する機能が国全体に及んだので、…「政治は国家をめぐる現象の世界と考えられるようになった」のである(ウェーバー、1919/日本語訳1980)。
 ところが20世紀前半の戦期を経て、主権国家はその概念・事実上の存立ともに危ういものとなってしまった。ここであらためて各国で国の統治システムそのものが見直された。それを反映した形で現代の政治システムがある。さまざまに用いられる「行政サーヴィス」という用語自体が、その反映を物語っているであろう。要するに、福祉国家の量的質的増大に伴う、行政範囲の拡大である。ある説では、1経済成長2人口構成の高齢化3それに伴う社会保障制度の成熟、の3つが福祉国家の主な成立要件とされている(社会経済的要因重要説)が、仮にこの説をそのまま今の国際状況に当てはめれば、現在先進国に数えられるほとんどの国は福祉国家の様相を呈しているということになろう。

 海外では、国つまりフォーマル部門以外の、インフォーマル部門での福祉や教育サーヴィスが積極的に行われている(米、英、北欧などが顕著)。医療・公衆衛生・教育・介護・職業訓練といった各場面においてNPOの活動は、社会的にもかなりの認知を受け、一定程度の評価を受けている。また、それが国(公権力)側にとっても「好ましい状況である」と捉えられているのは、特に注意すべき点であろう。

 現代の日本でも、福祉国家側面の膨張に伴って、その行政サーヴィスの範囲が拡大した(西尾、08,
4-11頁)。要するに増えた仕事分を今まで通り公権力側がやっていたのでは足りないから、そこでドーンと登場してくるのが民間独立機関であるNPOであったというわけである。
法整備もNPOの活動を積極化する方向付けで、NPO支援税制の改正や非営利活動促進法の制定などがなされている(嶋田、レ13-4頁)。

 さて、ここで、そういった国=公権力の活動である行政と、市民の活動であるNPOの「パートナーシップ・協働」とは、一体どのような意義があるのだろうか。先ほど海外でNPOの活動は社会的にも評価を受けていると言ったが、アメリカなどではこのパートナーシップによる実績(たとえばピッツバーグでのNPOタワーなどなど)があり、おそらく日本でもこの協働を前向きに検討している・若しくはスタートを切っている段階であろう。

そこで、ちょっとまったぁ!である(笑)

協働とは文字通り、両者相互が同じ目的を目の前にして、歩み寄ること。
とすれば、まず国と市民が手を取り合ってというそのままの解釈をすると、はなはだおかしいことになる。そもそも、公権力の行使である行政の失敗・不十分性が露呈して始末に負えない(ちなみに日本でのNPO活動が一気に注目を浴びることになったのは、あの1995年の阪神淡路大震災である)ということで、市民が主体となってこの国の阿呆が!という形で行政場面でのアクターとしてNPOの登場が期待されていたのである。 とすれば、お互いが緊張関係にいるこそすれ、歩み寄るとは如何なものか。

嶋田レジュメ(13-pp5-6頁)による、両者の協働の意義を以下省略しつつ引用する。

@NPOにとっての効果・意義
・行政情報の収集が容易になる
・活動資金や信用を得ることができる(あ)
@行政にとっての効果・意義
・市民ニーズを詳細・的確に把握できる(い)
・外の目が入ることで業務改善につながる(う)
・新しい政策・事業の創出につながる
@社会全体にとっての効果・意義
・政府の限界に対する補完
・ボランタリー組織の限界の(政府側からの)補完


***ちょっと休憩させてくださいwww***
休憩終了。
ちなみに、協働形態は、論理的類型的には次の3つに分けられよう(嶋田、レ13-5頁)。
(1)政府が当該NPOを基本的にサポートする形
(2)NPOが政府の政策執行=行政を補助する形
(3)双方が例えば企画立案の時点などから協力して同じ事業を行う形

さてさて、上のように挙げられた様々な意義にものもうそう。
橙色で示した(あ)~(う)のみを取り上げるが、例えば(あ)の活動資金や信用を得ることができる、というNPO側からのメリットは、確かに当該活動をより積極的な方向に働かせることに有効である。しかし、活動資金を一部政府から得る、というのは類型的には(1)か(3)の形式をとることになるが、ここにはよく言われる「
資源依存関係論」が批判の矛先に向く。 活動資金・クレジット等を得るというメリットを巨大視し過ぎると、それは市民側が政府を短絡的に「利用」するという実質になりかねない。政府を短絡的に利用することのデメリットはいうまでもないだろう。

 次に行政側からの視点であるが、(い)の市民ニーズを詳細的確に把握できるというのも、特段このようなパートナーシップを取らずとも解決策はあるであろう。たとえば、あくまで両者は対立関係に置きながらも行政と市民をつなぐラインをより関連政策の強化や法整備等によって明確化する、などである。
 また(う)の「外の目」の確保という課題は、講学上の行政法・行政学にとって大変興味深いテーマである。特に行政活動の透明性を確保する方向で、行政情報に対する市民のアクセスを一般的な形で保障する「情報公開制度」(大橋、07-87頁)の運用とその妥当性が、行政内部でも外部でも今どんどんなされている。これを鑑みると、わざわざ積極的にパートナーシップの形を採用することでその行政サーヴィス活動の外の目を入らせるという文脈は論理必然的には出てこないように思われる。あくまで、結果論として、市民=外、の監視機能が得られるだけにすぎまいか。

 こうしたNPOと行政の協働という論理・実践は、やはりはじめから賞賛を得たきたわけでもない。嶋田レジュメでは、こういった協働形態に対する様々な批判(さきほどの資源依存関係論もその一つ)と、それから改めて協働を肯定するサイドからの再批判の両方を示しているが、嶋田は基本的に肯定の立場をとっている(らしい)。その大きな根拠としては、協働が「NPOの自律性を失わせる」といった批判に対して、
そのようなNPOの被コントロールの問題は、例えば強力な協働条例などを取り結ぶことなどの、ルールを新たに設けることで克服できるということを根本に挙げている(嶋田、レ13-7頁)。

 しかし、私は基本的に協働に?を投げかけるというか、むしろ否定の立場をとる。その大きな理由は、
ズバリ国家(政府)―国民(市民)の2極対立構造の揺らぎの危険性である。

繰り返し述べるが、両者は緊張関係にあるこそすれ手を取り合うなどといった位相ではそもそもないのであるから。 ホッブズ~ルソーの社会契約論を基軸として、近代国家は成立した。国家は市民の信託をcontemporaryに受けることによってパワーを持つにすぎない。そして市民は、その国家のパワーの発動=公権力の行使に対して、常に敵視的でなければならない。国家も拘束なしには暴走する存在だからである。
 とすれば、協働関係に新たなルールを設けるということも、やはり欠点を往々にしてはらんでいる。まずルールを設けるとすれば、それは各当事者間に適用するという限りにおいて個別具体的である。それはすなわち、時間の消費という点を重視する見地からは望ましくない。
 そして何といっても、協働関係をいくら新たなルールで一定程度縛ろうと、結局根っこのところは変わらない。繰り返し述べることになるが、
行政の場面においてはその透明性の確保、が大変な課題になっている。NPOの行動主体である市民と、行政の行動主体である公権力=国家が協働形態を採ることで、逆に行政の実態を見えづらくしないか(市民の視点に立って)。協働が、結果的に「混同」といったマイナスの事態を産みはしないか。

 行政サーヴィスの範囲がいくら拡大しても、そのアクターをなお国家/国民と峻別する実益はなおある、と私は思う。両者を峻別したうえで、各々が、その透明性の確保の問題に対する的確な対処法を模索していくべきである。
partnership.jpgこんなカンジ。やっぱ。












ご批判・ご意見いくらでもどうぞ(●^o^●)

参考文献
・嶋田 暁文 「ーNPO(非営利組織)ー」『行政学講義第13回』(2009、九大内用レジュメ)
・西尾 勝 「行政学[新版]」(2008、有斐閣)
・加茂・大西・石田・伊藤 「現代政治学[第3版]」(2007、有斐閣)
・M.ウェーバー/脇圭平訳 「職業としての政治」(1980,岩波文庫)
・大橋 洋一 「行政法[第二版]」(2007,有斐閣)


※あとがき
同じようなテーゼで政治学が対象とするのは、例えばネオコーポラティズムをめぐる問題であろうか。しかし、パートナーシップとそれは性質がそもそも異なるものであり、十分な吟味をする必要があると思われるので要するに面倒くさいから省きますww

逆説的かどうかは分からないが、ネオ・コーポラティズムの概念それ自体は、結構妥当だと考えられる。打ち倒されたのは、やはり悲しくはあるのぉ。

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マジョリティとマイノリティ


せかいのみなさまこんばんは、mistyです( ^^) _U~~
結構時間が空いた割には、独自である(はずの)芸術論(??)は愚かエッセイレヴェルのことも書く力がないほどなんか画面の前でプハーと疲れている私>゜))))彡 笑。
12月に入っていろいろとか、風邪引いただのとか、あと今個人的に音楽CDを作成中であったりとか、うんまぁなかなかですね。

しかしヴァーヴァル世界の重要性は、決して見落とせない。そこに日記やエッセイやブログや論文や演説台本といった、ある何らかのモノを文字化する根拠はある。ノンヴァーヴァル言語だけでも、世界は掴めないし。

としたら言語社会は、やはり多数者であるところの「視覚健常者」をそのアクターとして前提にしているんだなぁといつもモンモン((+_+))
実は身内のかなり近くに、視力を失うまではいかないけどそれに近いヤツがおって、僕を取り巻く普段の環境(大学、バイト先、家族)にはそういう「マイノリティ」は登場してこないから、余計そのことについて考えます。
視覚障害者に関連する事柄を、マイノリティ問題と一義的に捉えてよいのかどうかということも含めて。

マジョリティとマイノリティ、各々の対立化の問題や、前者の後者に対する社会上・事実上の支配。
それは、どの領域においても、すなわちどの時代にも社会にも見られる。これは、れっきとした「事実」です。
根底には、フロイト達の言葉を借りて言えば、es(id)の暴力性だとかはあるのかもしれないが、心理学が提示する解決策だけでは、ままならない。

私は、多分いろいろな場面に於いてかなりマジョリティの立場にいて、しかも往々にしてそのことに無自覚であると思います。
それをつよく恥じるようになったのは、ある場面において「あ、おれは、マイノリティなんだな(+そのマイノリティであるという位置づけによって、ある程度損害を受けているなぁ)。」とものすごくハッキリとした自覚を持ったことから。 
もちろん全部が全部マジョリティに立っている人なんているとは思ってないし、反対に全てマイノリティの立場に立たされたが故にものすごくマイナスなレールがしかれている、とも思わなない。 だけど、多かれ少なかれ社会が同時並行的に作ってきたシャドウの部分には、マイノリティ側から提起されるものすごく危うい事実問題がある、と私は考えています。

人はみんな辛い。いけとしけるものはみんな辛い。
でもその「つらさ」にも種類があって、生きていくうえで欠かせない苦しさみたいな、いわば「必要的辛さ」と、特段受ける・感じる必要はないのに現実上起こり得る「必要じゃない辛さ」みたいなのは混同していると思う。
後者の辛さを、どう解消する方向に働かせるのか。
これは、私は、人間の「アタマ」と「カラダ」を使って解決すべき、問題だと思っています。政治的問題だとか、経済的問題だとかとは別枠に。

そんなこんな~( ^^) _旦~~

misty @

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私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

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misty
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性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
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読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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