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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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sかいのりこsかいのりこ

世界の皆様こんにちは。

前回、元来、というか、物事を理性的に考えると、消耗の度合いが激しいんです。(笑) こんな(笑)みたいな記号もそうそう簡単に使えませんからね。(笑)

最近マスメディア嫌いがどんどん激しくなっています。とにかくうるさい! マスメディアの存在自体に異論はないんですけど、actor多すぎ! 特に民間の報道機関って、当然企業として活動していくわけですから、視聴率取らないと活動が困難になるし、資本投下は分かるんです。

けど、正直、最近マスコミやたらうるさいって感じませんか?(笑)

僕はとにかく五月蝿いと感じざるをえません。資本投下して、でもその後ある程度のリターンがあるべきじゃないですか。
 何が煩わしいって、まず報道の比重のアンバランス。何から何でも報道の対象にすりゃいいってもんじゃあない。加えて、各分野への時間配分distribution of timeも、どこか不自然だ。ある程度妥当性を備えてなきゃダメっすよ。どこのだれだか分からないような人物が、我が物顔して何かしらコメントつけて・・・。 いやアナタ専攻が政治でしたら、エンターテイメントの報道に口出す必要ありますか?ってゆう。 逆もまた、あなたエンターテイメントを基盤に活動していらっしゃるのに、「これが国民の感情なんじゃないかなぁとかおもいますぅ、最近の政治はぁなんだかちょっとおかしいとおもいますぅ、えぇそんな実態があったんですかぁ憤慨ですぅ」って一体なんで口出ししてるんでしょうか。責任感あるんでしょうか。芸能人として勝ち取った地位ですか、あなたが発言した時間×約12,000の時間数が我々国民の人生に入ってくるというのに。教養があるなぁって芸能人の方はともかく、そこのオマエ!(笑) 仕事として出演しているんならもっとマシなコメントしろよ!

中間団体=報道機関としての役割は知ってか知らずか、ムチャクチャ脅威のように感じられます。しかし、それは妥当な権威あってこそ正当化されるべき「高尚さ」でしょう。その権威って、次のような所で形面れるんじゃないんですか?マスメディアの本質=「正しい客観的な事実・問題を、公正かつ迅速に伝える」こと。どうなんでしょう? 僕は知り合いの方に、報道機関の上役で働いている方などを存じ上げませんし、お話を聞いたこともありません。このブログを見ていらっしゃる方がいたら、この阿呆な僕のギモンに答えてもらいたいものです。

1、迅速さを重視するあまり、「客観性」「公正さ」をないがしろにしている感じが否めません。 
2、あと、民間報道の数の多さにも正直引きます。多くの情報を提供してくれているなら分かります。しかし、少なくとも私にとっては、各報道機関を通じて総合的に入ってきた情報が、とても整理がついているものになっているとは考えられません。日本の政治を知りたいのなら、ブッチャケ毎日でも国会法廷での視聴をしたいものです。でもそれではボク、ろくに仕事もできそうもなく生きていけません。(笑) 

何となく図式化。
政治(例えば国政)のニュースの伝わり方

リアルタイム国政現場 ⇔(互いに対等に交信できるという意味での記号) 我々国民

これが理想形ですが、上述した通り、数字的にも人口数の多い日本国家ではこういう体制はなじまないというか難しいでしょうね。

現状は、こんな感じでしょうか。

リアルタイムの国政現場 ①⇔ 各種マスメディア ②⇔ 我々国民

二段階に増えた! 伝言ゲームじゃないけど、やはり媒介が入ってくると面倒ですね。

メディアリテラシーとか胡散臭い言葉が飛び交ってますが、上の図式でいえばそれはきっと②の段階で使われるものなんでしょうね。でもそんなマジックワードみたいな抽象的な言葉を以て、、「私達報道機関はこんだけ頑張ってこんなに多くの情報を与えているんだから、あとは国民の皆様の賢慮な判断で正しく情報を受け取って下さいね」と一律的に考えているのであれば、もうそれは正視に堪えられませんね。そんなことないと信じたいですけどね!

しゃあないから僕は、新聞一つと、NHKと、あと民間報道の質の高いもの、以上で情報の享受を打ち切っている状態です<゜)))彡だって、現実に入ってくる情報自体に混雑性が付着してるんだもの。


そーそー最近とにかくうるさいなって思ったのが、さかいのりことおしおまなぶの麻薬事件なんですけど。

やっと一つ謎が解けた気がしました。(笑) 遅いどこまでもノロマなボク(/ロ゜)/
裁判員制度が伴ってどうやら運用面で国と国民の間に齟齬が生じているみたいですが、その関連で、マスメディアは、こんなにも彼らの事件を、いわば「餌」のようにしてこぞって、ちくいーーーーーーち報道してるんですね。なるほど。
最近、訴訟絡みのドラマだとか多いですもんね。訴訟事件に裂く報道時間とか圧倒的に長くなりましたもんね。

さっき某テレビ局ニュース番組のニュースキャスターがわけわからんこと口走ってたから気付けました。

[これで国民にも、裁判にもっと関心を示してもらえばいいですね」

ひょーよく言うよと思ったけど、まぁそれでこんなにうるさく報道してたんだあぁと。 腑に落ちた感じです( ^^) _旦~~


例えば、憲法学の世界では、人権を考察する際に古典的な題目として、「外国人の参政権」というものが挙げられています。 
でも。
この一連のさかいのりこ事件、スッゴイですね。有名人税だかなんだか知らないけど、一個人としての彼らの立場を考えると、僕はとてもじゃないけど彼らの立場には立てないと思う。心折れまくっていると思う。耐えられないよ、こんな視線の多さ。 
憲法を騙る多くの教科書、その一つに「外国人の参政権」で語られえる内容に負けないくらいの、「有名人の人権」みたいなカタログも真面目にあっておかしくないと思いました。


「有名人の人権」。 芸能人の人権。 ひとつ、これを制約する、わりと説得的な論理があります。アメリカ由来ですが。日本ではあまり運用されてません。  次回くらい、語るかもしれません。(笑)

誰もが、裁判事件という一つの「ドラマ」の主人公になる可能性を秘めているのは常識ですが、それが報道機関をはじめとする国家権力以外の中間団体(法人、権利能力なき社団などなど)によって、不当に歪曲化され、当事者および利害関係人の「人権」ーいわゆる二次的な、名誉棄損ーを侵害するのであれば、それは非常識であると思います。

misty@

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「音楽の力はすごい!」はホントか?part3.

えーと、忘れないうちにはやく書いておきます。(笑)

既に表題の件については、検討を終えましたので。
「感情」と「論理」は、どのように在るべきか。4aの箇所で提示したことを、最後に検討して締めくくりたいと思います。
その前に、自分でも若干書いていることがところどころ粗雑だなーと思うので、今まで検討してきた内容と重複しますが整理しておきます。

5a 感情と論理。「感情論」と「理論」でもいいです。あくまで、人間の、社会における行動の原動力のそれとして語っていることに留意して下さい。かるーく、自分なりの言葉の定義をかけておきます。辞書で載っているものとは違うと思いますので。
感情・感情論とは、人間が誰でも持っているものであり(一般的にそう思われる、ということです。全てがといってるわけではありません。)、典型的には喜怒哀楽だとか、人情だとかして語られるソレです。
 論理・理論とは、これもまた人間が普遍的に備えている力であり、物事を理性によって考え、合理的・妥当な解決を導き出すものです。基本的には思考力を必要とし、主張(問題提起)・論証(理由)・結論の3つによって組み立てられるものだとします。

5b 以上の定義による限りにおいて、両者は「いかにそれが説得的・妥当であるか」で評価をされるものです。説得的とは、いかに多くの人に賛同を得られるか、妥当とは本質に近付いているものであるかということです。 たがいがたがいに人間の行動の原動力となりうるものですが、それは今まで話した通り、いくつかの重要な点において性質を異にしています。幾つか列挙しておきます。
1、まず、変化性に富んでいるか、富んでいないか。感情は移ろいやすいものであり、反対に理論(理性)はそうそう簡単に動くものではありません。 評価としては、変化に富んでいるということは、機転が利く分確定性に欠けるということです。変化に富まないことは、機転は効きにくい反面、安定性を備えているということです。
2、上ではどちらも人が普遍的に持つものだと便宜上定義しましたが、実は違うと考えられます。というのは、脳の発達の具合によって両者の成熟度が異なるからです。脳の発達は人間の成長とリンクしてます。幼児~子供は、物事の決定・行動に於いて感情が働く場面が多く、いわゆる「思考力」というのは、先天的に備わっている理性に「勉強」によって磨きをかけ、時間をかけることで成熟するものでしょう。
3、2と関連しますが、時間ーもう少しスケールの小さいーのかかり方です。基本的には、感情はパッと湧くものであり、理論は精密さが求められる場面が多いが故にある程度の時間timeがかかるものと考えられます。もっとも前者にしても、瞬間的に嬉しいだとか悲しいだとか感じても、それがある行動の原動力として備わるかどうかはまた別の問題であり、その意味においては時間がほとんどかからないということではありません。あくまで一般的に、感情によって組み立てる方が早く、理性を発揮して組み立てる方が時間がかかりやすいということです。

5c さて、3と4b以下で、この感情と論理(理論)の功罪について検討をしました。急ぎですが、問題提起に対する、考えられる手段を示しておきます。
(あ)行動の原動力を、「感情・感情論」に置く。
(い)行動の原動力を、「論理・理論」に置く。
以上の2つです。しかし、もうお分かりだと思います。どちらも妥当ではありません。はしょって簡単に論証します。
(あ)・・・ 4章で見たように、感情の「罪」の面として、1、行動の結果がマイナスに働く危機を孕んでいる2、感情だけに頼ると、時に機能不全に陥る3、移ろいやすく、確定性・決定性を欠くといったものがあります。もちろん、裏返しの「功」の面が奏して、結果・解決への道を妥当なものにしていくという可能性も十分にあります。組み体操の直前の掛け声が本当に仲間の「団結心」とやらに響いて、練習の時はうまくいかなかった演技でさえも大成功を迎えた、ということはあると思います。
 ただそれはあくまで「可能性も十分に考えられる」というだけの話であり、マイナスな結果を招くこともまた十分に考えられるのであって、その意味において全く妥当ではありません。
(い)・・・理論は、現実社会を考え見れば、支配的な立場をとっています。ただそれだけです。それが真にーあんまりこんな言葉は濫用したくないのですがー問題解決のファクターとして機能しているかどうかは甚だ疑問です。
理論の国、アメリカ。これは「国家の品格」の著作者として知られる藤原さん【※1】がそれにおいて使っている用語なのですが、そもそもこの論理的な人種結合体であるアメリカ合衆国が00年代に引き起こした、イラク戦争だとかサブプライムローン問題だとかは、びっくりとしかいいようがありません。
 また、2章で触れましたが、日本の裁判所ー権威高いとのイメージも強くある最高裁判所も当然に含めてーは、訴訟に於いて判決を言い渡す時、判決文を読みあげます。その判決文は、法的三段論法(規範定立→事実への当てはめ→結論)に基づいています。しかし現実は、最近どうやらマスメディアがこぞって関心を示したように思われる報道のように、必ずしも妥当な結果を出し続けているというわけではないのです。足利冤罪事件。当時の最高裁判所長官は、極めて妥当な審理であった、と阿呆の報道記者に語っていました。しかしそれは、ある程度に於いて本当です。最高裁判所は下級審が示した事実認定に基づいてしか審理をすることができないのですから。
ただ、結論・結果としては、僕も思うのですが、相当程度誤認の可能性が高いなぁと思っても、「冤罪」という残酷・マイナスな結果が国家レヴェルによって起きているのです。別に冤罪事件だけに限りません。しかしここでは司法への懐疑の話は省かせて頂きます。だって、「司法への懐疑」っていうタイトルはテーマが大きすぎて、一生かかっても論文書ききれそうにありませんもん。(笑)

5d 以上のように、(あ)も(い)も、アウトでした。そして、考えられる次の手法。
(う)感情と理論を巧く使い分ける

はい、いわゆる折衷説とかいわれるようなお話ですね。折衷なんていうと聞こえがいいものの、これじゃあ何の解決にもなりません。
焦点は、「どうやって巧く」使い分けるのか、といった所に移るわけです。


思うに、今まで述べてきたとおり、論理は確定性・根を張っているという所に一つのadvantageがあります。殊に近代西洋から受け継がれているその様々な思考法は、それなりにー少なくとも300年間くらいはー時間をかけられているのであり、いわゆる「重要人物」とよばれるような人々によって様々に運用・検討され、成熟してきました。元来精密さを求められるが故に理性を軸にして思考して構成されるものですから、それが歴史的に見てある程度の長さをもってきたということは、その成熟さは評価していいでしょう。「まぁ、300年間途切れることなく深く考えられてきたモノなら、そらいったんその力は認めてみるのもいいかもな」くらいです。

1、まず、解決を導き出すにあたっての出発点は、論理の場に設定します。感情論ではありません。「絶対大丈夫!」呪文、「音楽の力はすごい!」等の爆発的即効力には、制限をかけるべきだからです。はじめがグラついていると、ツイスターは永遠に完成しません。この出発点としての論理を、なんとなく思い付きで例示します。
(環境汚染が最近大問題だ。解決としてはどうすればいいだろうか。)
ここで、まず環境汚染の引き金となっている要素を抽出することはとても大事な作業だと思います。
(昨今の環境汚染の要因は、、一つは森林伐採か。
     →生態系への悪影響→酸素減少→火災肥大化 → 大気汚染
森林伐採 →森林伐採地域への社会的損失・貧困→ 更なる森林伐採
     →土壌汚染 → 砂漠化現象
     →「焼畑」等によるCO2増加 →酸性雨・二次災害
     →・・・(まだまだありますが地理の記憶がorz)
まだあるよな・・・。 あ、発展途上国の第二次産業化もあるなぁ・・)

そして抽出した後、ストップの方法を論理的に思考します。
主張したいのは、出発点としての理論は、その決定性をできる限り高く高く上げておくことです。 過程の段階で、新たな問題が浮上しても対応できる素材が備わっている可能性が高くなるからです。

過程の段階では、論理の実践に、感情論を加えるのが妥当だと考えられます。
往々にして、理論・論理は、し尽くされてしまうとそれでハイ終わりという感じが否めません。何の為の理論なのでしょうか。問題解決としてのそれでなければ、それは最早理論という名に相応しいとは到底言えない、と私は思います。 時間がかかってコストが合わないのでしょうか、はたまた時間がかかりすぎて本来の目的を忘れるのでしょうか。それなら、コストがなるべく減るような議論法等をまた別個に検討するのが筋ですよね。アメリカでは「議論方法」的な講義が、各大学に普通に設置されているそうです。なんで日本にあまりないんでしょうかね(ウチの大学にはそれっぽいものはあっても、少人数制のマイナー形式をとっていました)。

話が逸れましたが、とにかくハイ終わりという事態をなるべく防がなくてはなりません。さっきも言ったようにコスト消費が甚だしい等でモチベーションが低下するといった現象が起きるのであれば、そこは感情論の出番です。何の為に理論を応用していっているのか、それは・・・! こんなビックリマークがつくぐらいの感情論で、また人々の心に灯をともせばいいわけです。感情の良点、変化性に富むが故になるたけプラスの感情が働いて妥当な結果(エンジンを再起動する、といった意味合いでの)を得ようと模索するのが重要であると思われます。

そして結論に至る最終段階の一歩前では、両者それぞれからもう一度検討し尽くして見るのがいいと思います。論理がいかに成功的であっても、妥当な感情が伴わなければ、より普遍的な”暫定的答え”にはならない。反対に、いかにプラスな感情があったとしても、論理に少しでも破綻があれば地盤は崩れてしまう。

結論を出す段階では、論理をベースにしていくのが妥当であると考えられます。感情論の機能不全の如き、予期し得ない現象を招く思考法ではマズいからです。

6 以上が、いい加減もいい所、感情と理論はどのようにして応用されるべきか、の段階的な検討でした。いい加減もいい所です。5dで提示した私の考えは、恐らく考えている以上に「考え」になっていません。
煎じつめれば、恐らく感情のもっと具体的な定義、理論の定義、そして両者の関係性をもっと深く検討しないと上のような答えでは全然説得力が無いと思います。

それでも、科学万能主義でもない、感情一本でもない、人間らしい、社会問題への妥当な解決への導き方として、もう一度皆さんに考えてもらえる契機にでもなっていただければ、本稿は大成功と言った所でしょう。だってこれ、全然論述じゃないし。(笑) はじめはそのつもりだったんですが、書いている内にこれテーマでかすぎ!となって、もうエッセイみたいな語り口でいくしかないなと思ったんでえすもの。

最後に、「音楽の力はすごい!」 私は、この言葉は拙な表現でいえば、信念としてのそれを支持します。まがいなりにもバンド活動等を5年近くやっていて、それを肌に感じるからです。

しかし、社会問題への解決方法の切り口としては、恐らく相当力に乏しいと思います。一つは、音楽は未だエンターテイメントとしてカテゴライズされ、社会の世界に出てくるファクターとしてはあまり注目されていないと感じるからです。ハッキリ言うと、僕は、音楽はどんどんそのプロパティを広げ続け、いろんな場面ーそれこそ「科学」のようにーで活かされる可能性がいっぱいあると考えています。それについてはまた、この場で発信するかもしれません。 しかし現実は、まだまだですね。

政治・経済、様々の世界に於いて、登場するファクターは今や多様化している。そこに、「音楽」という一つの芸術の大胆な登場・活躍を、私は切に願ってます。むしろそうなるように活動していきたいとさえ思います。

「難しい時代」だからこそ、なんでしょうかね。ちなみに、この言葉、大っきらいです。(笑) 時代に難しいも簡単もくそもあるかい!!!

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「音楽の力はすごい!」は、ホントか? part2.

4b. 感情って、典型的には「喜怒哀楽」ですよね。
私は、この「感情」だとか「人情」だとかいうものも、ある程度の良点・そして(当たり前だが)反面として欠点があると思います。
良い点については、まず、人間の行動の立派な原動力になりうる点です。マンガを描くのが好きで、マンガ家を志望した。イラク戦争の報道を見て憤怒し、戦争反対の運動に目覚めた。つらい恋愛を経験して涙して、結果強い人間になれた。リラックスして、仕事に臨むことができた。
立派な原動力だと思うし、それ自体に、問題は特にないと思います。
 次に、コミュニュケーションの大きな支えになりますよね。「人情」なしでは、人間らしい人間関係は望めない。僕はそう考えてます。ある人が、つらい思いをした。きっと、その人は誰かに悩みを聞いてほしいと思うでしょう。こんな時に、「相談に乗ってあげたい!」とか、「かわいそうだな・・・」っていう人間らしい同情心だとか、親切心だとかが働く人は、悩み相談に付き合ってくれて、つらい思い人をした人は報われたりするでしょう。 はたまた、何人かでなんらかの行動actionを起こす時、いわゆる「一致団結」の心はとっても大事だと思います。互いに互いを支えて、そしてある目標を達成したい。これらは、コミュニケーションを図る上でとっても重要な機能を果たしてくると思います。思いがバラバラでは、組み体操なぞ決して完成することもないでしょう。
「音楽の力はすごい!」ー表題の言葉、私はよくライヴで聴きます。元々ライヴ観戦とか大好きなので、よく足を運びます。ライヴっていうのは、アーティストと観客のコミニュケーションの一つなんですね。とにかく、そのアーティストが大好き!って思ってる人同士が集まると、もう熱気なんかハンパないわけです。あの瞬間だけは、本当に不思議なもので、アーティストがサウンドを鳴らし、僕らが熱狂して、たまにMCで「最近の世の中ってさ、暗い話題が多いよね・・・でも、この空間の熱気を世の中に伝えていこうよ!」とか言われたりすると、とんでもないほどの一体感が生まれるわけです。実際、こういう一体感を味わえるライヴも数は多くはないと思いますが、私が高いお金まで払ってよくライヴ観にいくのはこういう一体感・幸福感を味わっていたい、と思う所に理由の一つがあるのかもしれません。

4c 話が少し逸れました。(笑)では、欠点。良点の性質上、そのまま裏返しです。
まず、原動力になりうること自体は評価できても、その取る行動がプラスでないと妥当ではないんです。楽しむことに没頭して、頑張ることを忘れてしまった。人を愛するあまり、盲目になった。 悲しんで立ち直れずに、自暴自棄になった。 どれも、「マイナス」と社会的には捉えられる結果です。
次に、人間社会における最重要と言ってもいいくらいのファクターであるコミニュケーションへの機能に関しても、問題の焦点はおそらく「感情論」の機能不全です。順を追って説明します。
さっきの例ですが、組み体操。「みんな、絶対に成し遂げようぜ!」「おぉ!」、典型的にはこんなセリフではじまるのではないでしょうか。(笑) しかし、事実、いくらこのとき「団結心」が高まったとしても、演技を左右するのはもちろんそれまでやってきた毎日の練習だとかがより決定的だと思うんです。仮に、めちゃくちゃ練習していたはずの演技が大失敗に終わったとしましょう。なぜ、そんな事が起こりうるのでしょうか。
考えられる要因として、私は「感情論の機能不全」と勝手に命名したものを挙げます。心理学を勉強したことがないのですが、そちらの分野などではちゃんとした学術用語があったりするのでしょうか。
つまり、先程の掛け声ー「みんな、絶対に成し遂げようぜ!」「おぉ!」ーは、団結心を高めるという名目で、実際的には、制約の方面に働いてしまったということです。掛け声で「なんとなく」テンションが上がると、往々にして人は瞬間的にそれまでの不安感だとか恐怖を忘れる。でも事実、心の奥底に残っている。「大丈夫、きっと成功する・・・。」と、心で唱えていると、演技の成功への不安感は一時的に去る。フィルターがかかるんです。でも、ふっとそのフィルターが外れる。例えば別の感情がおそってきたときなどです。「ここまでうまくいったぞ!・・・あれ、次はどうやるんだっけ?」と思った瞬間、「絶対大丈夫」の暗号に縛られていた不安感・恐怖が、新たなる恐怖によって呼び起されるわけです。「あれ、さっきまで大丈夫や思ってたのに・・・」。
さらに厄介な事に、この呼び覚まされた不安感は、他人へ伝導します。強度の「団結心」の一致を目標とした瞬間、それは「もろ刃の刃」となります。みなさんも、経験はないでしょうか。たとえば、テニスの団体戦。自分の出番は、三番手。一番手、二番手は学校も誇るめちゃくちゃ強い憧れの先輩。でも、なんと最初の試合で先輩が負けてしまった。胸がなんとなくざわつきます。そして二番手の先輩も負けてしまった。不安感でいっぱいです。「よりによってあの先輩が負けるなんて・・・。自分は・・・」という思いは、不安へと変化し、やがて緊張感など様様なマイナス感情を伴って、結果、自分も負けてしまう。こんな時、団体戦で必要となる「団結」は脆くも崩れ、人から人へとマイナス要素が伝導していくわけです。
 
 組み体操の例だと、ピラミッドに登る時、なんとなしにいつもの練習でうまくいかなかったことを思い出した・またはコツを度忘れしてしまった。顔が曇っているのか、なんとなく他の仲間も不安そうだ。そして、結果失敗に至るわけです。

4d 「団結力→団体競技の成功」というこの定式化は、明快このうえなしです。しかし実際には、より複雑で、団結心は度を過ぎた自信に繋がり、それが盲目となり、そして別の要因で不安・恐怖・マイナスの感情を呼び起こし、他人に伝導し、団結力は瓦解してしまうという構造です。私は、経験則上こういったものを何回か知っています。

では、団結力がそんな簡単に壊れないように、もっと日々の練習だとかで磨けばいいじゃないか。そんな返しもあるとは思います。しかし、「どのように」磨くのかがまさに問題なのであって、例えば「毎日必死に練習すればきっと成功するよ」といった理想に過ぎない思いで取り組んでいたのでは、恐らく同じ事が起きる可能性は高いでしょう。

そして1点目、2点目を踏まえて、「感情」の大きなマイナス面だと考えられるものが、移ろいやすいということです。文学面では、日本でも平安時代から今に至るまで、「情緒ある」「趣のある」として評価されていますし、また僕も日本文学は好きですし、そういった心情の移ろいを重視する立場は評価できると思います。しかしそれはあくまで文学の範疇であって、社会的には困ったことです。否恐らく「社会が」困ったことにしているという要素もあると僕は考えているのですが、本稿ではその検討は省きます。
移ろいやすい、変化性の過多というのは、物事を確定させる性質としてのprojectには、実に不便です。勉強は予習復習が大事!と思って最初は熱心に取り組んでいた小学生も、3日後には机に向かう姿勢すらなし。社長がこれ以上仕事を突き詰めるのは僕にとって酷だから、といって会社がいちいち倒産していたのでは、会社員ーだけではないですがーキリがありません。事実、上のような例は別に稀に見る現象ではないと思います。

「音楽の力はすごい!」
この言葉は、このような文脈で一般性にかけます。
前例の、ライヴの件。みんなの大好きなアーティストが、「音楽の力はすごい。この暗い世の中を、音楽の力で変えよう」と言い、僕らが熱狂する。そこにはいわゆるさきほどの「感情論の機能不全」の如きマジックがかかっていたりという危機を孕んでいたりするわけです。「『音楽の力』の社会への強力性→社会問題の解決」、これまた分かりやすい定式化ですが、1そもそも「音楽の力」がどのように働きうるのかといった側面で妥当・妥当でないが評価される、2たった一日で決定的だと確信したそれは、別のファクターによって簡単に打ちのめされる危機を孕んでいる、3そもそも論として「音楽の力」への信頼は、文字通りの『信頼』でしかなく、『信託』のような確定性を備えたものではないーー などの理由で、説得的には程々遠いということです。
それゆえに一般性(不特定多数の人々への働きかけがある程度有効であるということ)に欠けるのです。

表題の件については、これで論証終わりです。
焦点を、再び「感情と理論の機能のさせ方」に移します。

(part3へ続く・・・長い・・・)

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「音楽の力はすごい!」は、ホントか?

不特定多数の皆さんこんばんわ、mistyです。
この一週間だけで、3曲も曲が産まれました($・・)/~~~ 豊作でんがな!!

では早速、表題の件に関して。
結論から言うと、私の考えではNO!です。

「音楽の力はすごい!」

この言葉は、多分に普遍性・一般性に乏しい。
1、理由としてもっともすぐに思いつくのは、「音楽を嫌いな人にとっては何にもならないから」です。しかしこんなのは当たり前。芸術・文化としての音楽は、当然に好き・嫌いといった感情論で批判される対象になるのが前提となっているからですね。

2a、私が主張したいのは、そうした音楽嫌いの人を排した中でさえも、やはりこの言葉は普遍性に欠けると思うんですよ。

なぜなら。
この言葉の使い方・使われ方は、精神論で片づいてしまっている所が多々ある、と思うから。
ぼくらがこの言葉を口にする時、それは多少なりとも感情のこもり過ぎた状況に陥ってはいまいか。

私は世の中は、悲しくも、感情論・精神論では構成しきれていない。むしろ昨今の現状は、被支配的になっていると考えます。
ちょっとだけ補足説明します。

2b、私は感情論の対極に、「理論」と呼ばれるものを置いています。科学scienceを根本的に支えているものが「理論」だと思っています。
そして、日本においては、開国以来科学と共に理論の世界があらゆる分野で台頭してきたんじゃないかなーって思ってて。
いわゆる化学・物理・生物・地学等のscienceの領域から、従来はあり得ないと考えられていた分野にまで応用されていると思うのです。
 簡単な話が、法学。 法=社会秩序の維持に関連する当為の法則(~であるべきだ)は、ざっくばらんにいえば、人の社会生活にあらゆる角度からかかわってきますよね。
法学の基本的・根本的な思考に、有名な「法的三段論法」というのがあります。大前提(人を殺したものは死刑又は無期若しくは5年以上の懲役刑に処する)→小前提(Aは他人であるBを殺害した)→結論(Aは死刑か、無期懲役か、5年以上の懲役刑に処せられる)という極めて明快なものです。 裁判所はこの構成に伴って判決文・理由を言い渡します。学者は一仕事として、大前提である法律以下の法の在り方を検討します。
この思考法はもはや法学の古典的・伝統的な地位を占めています。これをはずしてはもはや「法学」としては完全にアウトです。


2cそして昨今においては、なんと「心理学」というものまで!「無意識」論しかり、「義理と人情」論しかり。 いやはや視覚的に見えないものにまで科学ひいては論理というものは入り込み、そして説得力を以て人々の賞賛を得てきていますね。

3、しかし。世の中、本当に理論が全てなのか?というと、それは違うと主張している方々もたくさんいます。いわゆる「科学万能主義」に対する批判です。私も、理論がすべてではない、と考えています。
問題の焦点は、感情⇔理論、この2つはどのように機能しうるべきなのか、といったことです。
もう一度今までの私の思っていることを要約すると、先進国日本においては、様々な社会問題に対して、理論/理性の力の方がより妥当な解決を得られるとして、歴史的・実践的に支配的な立場をとってきたということです。しかし、科学万能主義の時代はもう瓦解していると感じる。あれほど説得的に行動していたアメリカでさえも、イラク戦争・サブプライムローン問題を経験して、私にはあらら?とどーーしても感じざるを得ないわけです。
何かどこかで、理論の世界に、いわば「先天的」に欠陥があったのが動因なのではないかと。日本は外交を始めとしてアメリカのカルチャーなり政治のシステムなりといったものに少なからず影響されているわけですから、仮にいまいったような欠陥があったのだとすれば、影響される日本における理論の世界も妥当ではあり得ないというのは当然導き出される結論です。日本がアメリカ以上により妥当な理論の使い方を編み出し運用している・できているというのなら例外ですが。

4a、 では、便宜上、ものの考え方を、ざっくばらんに「感情・理論」に二分したとして、どうすればもっと社会問題に対して妥当な道を発見できるのか。
「感情」の功罪面に検討を加えたいと思います。

(続く)

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ほぼ1年ぶり!笑 / これから書く内容について

ほぼ、1年をあけて、しかもまだパスワードを覚えていたので使えるという状況!w
忍者さん、サーバーさーせん(;一_一)

さて。
あと半年後には21歳になるボク。
まだ大学生の身分ではあるけど、社会にある程度の強みのあるメッセージを投げかけたり、現代だからこそよほど必要になっていると思うのですが(これについてはまた後述します)、とにかくそんな事をどんどんやっていこうと日々思います。

そして、それをこのいわゆる「ブログ」にて、発信したいと思います。

テーマは、主に日本の現状について。特にこれといった具体的なモノではないのですが、(旧帝国)大学3年生の私が日々活動している中で感じていることとリンクさせながら、メッセージを送ることに主眼をあてていこうと思います。
あ、私についてのプロフィールはトップページに載せてあるとおりです。大学3年生になったくらいです。
ちなみに、おそらくの専攻としては「憲法」「知的財産法」の2つかもしれませんが、それがどのように関係するかは、まだ今のところ自分でも分かりません。笑

論文にしては参考文献の恐ろしいほどの欠如・思考/遂行時間の少なさ、等々の観点から2,3つレヴェルを落として、また語り口調も楽くしていこうと思っています。

これから書いていくであろうブログの内容について、最初にある程度自己設定をしました!

では本日早速、いきたいと思います!

※ 参考文献等をキッチリ読んだり、そして示したりの作業もちゃんとしたいのですが、全然できない箇所もあって、それは私の能力不足にほかなりません。 それでもちょっとくらい付き合ってやるか、くらいの気持で読んで下さるとうれしい限りです。

批判、指摘、感想、賛同の意見、補足など、いくら書きこんで下さっても構いません( ^)o(^ )

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わーいわーい

ブログ開設!!!
そして眠し。

朝はやっ!さむっ!

昨日はアラレなんかが降ってました。
雪積もるのかなぁ・・・。

mixiから転身してきたのですが、めでたくブログ開設することができました(^_^)/~

無事に続くことを祈るのみです。笑
タイトルの「フルハウスの嗤い」は、柳美里さんの『フルハウス』からイメージをいただきました。
一見すると特段の小説ではないようにも思えるのですが、面白いですよ。リアルな人間の怖さ。

初回から飛ばしても意味ないのでこの辺で。
みなさま末永くお付き合いお願いいたします☆


今日のオススメの1曲:「カニ、兄弟でユートピアを渡る」 by ruruxu/sinn
ギターのフレーズが宇宙まで自由に突き抜ける感じ。また近々ライヴに行きたいなぁ。

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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