忍者ブログ

発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

最近買った・読んでる本

「現代アートの哲学」西村、産業図書
「カルチュラル・スタディーズ入門」上野・毛利、ちくま新書
「文化と両義性」山口、岩波現代文庫
「HAN第2号 芸術・権力・革命」、白順社
「僕のこころを病名で呼ばないで」青木、岩波書店
「知る楽 こだわり人物伝10~11月号」、NHK
「退屈力」斎藤、文春新書
「下流社会」三浦、ちくま新書
「ウエハースの椅子」江國、新潮文庫
「日本の野草300」鈴木、文一総合出版  (登山用!)
「リアル9」井上、集英社  (マンガだw)

あっもういいやめんどうだ(笑)
あいさつがおくれました、こんばんは、ミスティなり( ̄~ ̄)ξ
友達が最近読んでる本一覧みたいなの語ってて、なぞってみました。
法学部らしからぬ…(笑) 図書館の貸す借りるが面倒なので、古本屋などでなるべく低価格で所有権を獲得するごとく、うーん今週はそれにしても読者欲ハンパないな(僕なりに)。

あ、ちなみに、前回の記事の反応は多分これからもずっと待ってるので、お気軽に。あれは、日常レベルの問いかけだし('∀'●)

まああれですね、要するに、僕なんかが今やってる音楽という一つの「芸術」の範疇としての在り方を雑誌・新書・体系書・論文レベルで探し回ってる感じですね。趣味なのに(笑)

一つ感じるのは、同じ「芸術」でも、絵画彫刻関連の評論、文献は多いが、相対的に音楽評論(文献)はホントに探しづらい。人はすぐそこにいて語れるのに文章化がそもそも積極的にアカデミックになされてはいない気がする・・・ 
一般書店で出回ってるのは、「これぞクラシック」だの「ビートルズの功績」だの、つまるところ対象は音楽でも、記述内容が評論じゃなくて多分にエンターテイメントになってるのが大半ですな。。
これもおかしなことですよね。絵画評論家は、よくテレビで見かける気もするけど、「現代ロック評論家」みたいな肩書きはあまり見かけない。

うーん。
勘で思い当たる理由としては、「音楽」は意識レベルにおいて比較的、大衆的・ポップアートと結びつきやすい。
なんか、ピカソだとか、あと同じ音楽でも「クラシック音楽」とかだと、なんとなくある種の高尚さを感じませんか??(。・ω・。
なんなんでしょうね、これは一体~(_´Д`)ノ~~ (笑)
でも私は、音楽も(立派な)芸術の範疇というスタート地点から、社会をあぶっていきまっせ。
前もいったけど、やっぱ最初の課題が「大衆芸術と美学」の線引きの在り方、だな。よしよし。


リアル9、もー涙涙(T_T) なんでこんなに伝わってくるの…

あと、明日山に行ってサバイバル&植物採集行ってきまーす もー久々の山だね、わくわくしっぱなし。
いやー、
人間もやっぱり自然の中にいるとみえて感じてきこえてくるものがあるんですよ!!
どんな事を最近の樹木や草木や昆虫は、語ってくれるかなあ…前みたいに親しくしてくれるかなあ…
山は、優しいんですよ、厳しい時もあるけど。

つーわけで、寝ます、ホントただの一日記でした!!(笑)

ミスティ @

拍手[0回]

PR

傷を、洗い流すか、それとも見守るか。


こんばんは、mistyです。
大変無茶苦茶なお時間でございます。(笑) 理由は色々とあるのですが、まぁ個人的な要因が深いです。
何が個人的かって、、

思索にふけること。(笑)

さて、今回は、きわめて短い疑問を投げかけますが、内容に関しては正直ものすごくリアクションを求めています。
人それぞれが、どういった価値観に立脚しているか。それを知りたいがために、この記事を書いてるにすぎないところもあります。時間のある方はコメント等残していってくださいな($・・)/~~~

訊ねたいのは、これです。

人の「傷」に触れたとき、積極的に洗い流そうとするか、それとも黙って優しく見守るか?

結論から言うと、私は前者の立場に属しています。それにはいろんな理由がありますが、後で述べます。

この訊ね方も少々どうよというところはあると思いますが、そこはご勘弁下さいまし。
この訊ね方で、ずっっっっと生まれてこのかた自らに対して反芻してきたからです。
(そもそも質問の立て方がおかしいよ、という意見は、それがなぜおかしいのかもゆってくれるとわかりやすいです。)

前提としては、私は、まず1誰にしも多かれ少なかれ、いけとしいけるもの、まぁ人間でいいや、人間には目に見えない各々の「傷」を抱えていると思っています。
 ここでの「傷」のとらえ方は、ちょっと変わったものですが、まぁ、ざっくり定義しておくと、当人が抱える大変にpersonalなマイナス要素のことで、非・社会的なものです。
たとえば家族に裏切られただとか、仕事で大失敗をしただとか、友達関係がうまくいかない、理念に中々達成しえない、恋愛がうまくいかないetc。

2そしてそのいろんな「傷」を受けて落ち込んだりそこから立ち上がったりして、人は成長・生きていくというカテゴライズです。つまり「傷」はそれ自体がマイマスですが、未来に向かって倍以上のプラス効果をも生み出す原動力になるもの、です。

そして、そんなときに、「傷を受けた状態」から立ち直る・復活する(こうゆうときに大きな成長が伴ったりする)時、まず往々にしてやるのが、

心の開けた人に対する悩み相談
とかじゃないですか?(●^o^●) 他愛のない話からはじまって、ちょっとしたところで切り出す。「あのさー最近おれさー」
そして、なんとなく救われたような気持ちになるとする。復活やーみたいな。
んでたいがい、逆の立場で今度は自分がその相手をしてくれた人の聞き手側・アドヴァイス側に回ることも多いじゃないですか(違いますか?笑)。

さて、この時ですよ。 私は、傷を「洗い流す」といった手法を基本的にとりたがります。
いわゆる、おせっかいというやつです。 まず、内証的に語ってもらうことで、どこに傷があるのか、どれくらいの大きさなのかをハッキリさせる。んで、そのあとに、どうやったらそれが治癒するか、または回復の方向に向かっていくか、一緒に考える。
今までずっとそうやってきました。
なぜか。
自分も相手も第三者も、みんな共通項としてのそれがあると思っているからです(経験則による類似性)。恋愛話なんかは、自分も恋愛経験あるにはあるから笑笑、わかる範囲で聞き手にまわる。 あ、こいつのいってるこれは、こういうことなんじゃないか、じゃあ、それに対してはこうしてみたり、或いはまた別の方法があったり、こうしてみれば?などの問いかけを応じてしたりもします。もちろん話を聞くだけに回る時にもあるにはあるのですが、それでも「傷」の確定・明確化「作業」にはかなり積極的です。「なんで?なんで?どんな風に?」といった、押しつけがましい時もある。
気が付いたら、そんな風に積極的な動作に走っている自分がいる。 立ち止まらない。立ち止まれない。それが、根本的に悪いのかよいのか、気が付いてみたら自分でもサッパリわからない。

前者の立場は、ただのおせっかいなのか? 時としてうっとおしい、「善意の押しつけ」なのか?
社会にこの問いの正しい答えはないが、哲学領域では常に反芻される問題でもある。

僕は、「人間だれしも弱いところがある」、という意識に強く立脚している。だからこそ、弱さ≒傷を故意に隠したり恥じたりする必要は全くないと思っている。 だれしもがおおかれすくなかれ共有・経験・有しているものだから、時には絆創膏取っ払って、その傷を見せてよ。そんな感じです。。


人を治すのは、悪いことではありません。

赤字のは、田口ランディ著・小説「キュア cure」のキャッチコピーです。 はじめてこのキャッチコピーをみたときはめちゃめちゃゾッとした。 /
・・・・・・・え?? みたいな。(゜-゜)

さあ、法はこの領域にはあまり介入しない。心理学も、「時と場合に応じて」という答えを提示する論者もいる、違う、ここで知りたいのは、他人の痛みに触れた時何故人はその行為をとり、その行為は本質的にどんなものなのか。 人情とか、個人の価値観とか思想とか、そんなものが調整原理として働いている、ととらえることができる。
あなたは、どうしてますか?また、それはなぜですか?(*´∇`)

misty @

拍手[0回]

学問と道

こんにちは、ミスティです@

電車で50分バスで15分かかる大学祭があるキャンパスまでの片道の中で、ケータイから投稿です。

そうそう、このブログは携帯からアクセスするとコメント機能がついてないですね汗 携帯からのコメントは便利だと思ったので、また直しておきますm(__)m ある方が、過去記事の私なりのブランド志向主義批判をめぐって、意見を語って下さって、ブログは決して自己完結的じゃなくてやっぱ外部効があるんだな、と改めて自負と遣り甲斐と責任感。匿名性にはかまけない。

情報社会(のマイナス面がある)からこそ、それをいわば「逆手にとっ」て、情報社会の重要性を正しく訴えていくと共に社会問題を考えていく、と改めて胸に! このブログはそんなブログです、なぜならブログを含むインターネット世界ですら、芸術が抱える大きな世界の枠組みにずしんと構えているからです。



今回は、短いエッセイをば。



@学問と道

私は、学問も一つの大きな道であると思っています(数学→数道、語学→言語道、医学→医療道くらいの用語法があってもいいと思えるくらい(笑))。

反対に、終局的には、人生もまた学ぶという「道」だと思っています。意識してもしなくとも、年齢に関係なく、私達は日々学んではその知識や知恵を修得しては、社会に還元する。そんな構造が大前提にある気がする。



今回は、前半のトコについてちょっと記述をば。



小学校・中学等の義務教育~大学・大学院・専門学校や民間学習企業までの専門教育過程まで、僕らはあらゆる「学問」に出会う。 算数は必死に6年間やったかて思うと、数学と名前を変えてコレマタ6年間。

語学、とくに英語なんかは、ある子は生まれて間もなくして児童向けの塾にいったりとかして、義務教育レベルでも、ビッシリ時間割にある。



僕が一番伝えたいのは、そうそう時間割に出てくる算数とか体育とか道徳とか化学とか、みんな、「それぞれの道」であって、ものすごく大切なんだからできる以上は頑張って取り組む姿勢を持つこと。

もちろん、センセイの喋り方が…とか、これはアタシに全く向いてない、机に向かっても時間の無駄になるだけだ、というのはあると思います。



でも、その時間割に組み込まれたそれぞれの科目を、じーーっと、見て。そしたら、それは、その世界への「扉」になっていませんか??



日本人は、昔から、なんでも生きる職業を、人生の「道」と捉えては極めて子孫へ子孫へ語り継いできた。「剣道」とか、「兵道」とか、「華道」とか。華に生きた人々は、自らそれを一つの大切な「ミチ」と見立てて、全人生をそこに注いで捧げて伝え伝え続けた。



「香道」ってのも、スゴい!嗅覚から捉えられる香りって、近代科学がアプローチしやすそうなのに、日本人は昔から独自の観点で「香りを創る人生の道」を、既に確立していたんだなあ。



したら、学問も、西洋から受け継いでいるとはいえ、全く同質量なんだ。 医学と法学と神学の3つが、アカデミックなそれとして最も古来のものだけど、それに先行したギリシャローマ時代からのプラトンやアリストテレスが編み出した数学や哲学。





要するに、それぞれの科目は、各々の学問という、「道」に匹敵するくらいの、関心の宝庫だと思うんです。

どうしても、「義務」教育過程の中にいては、プログラムされた作業をたんたんとこなしていく、みたいな感じもあると思います。かつてのぼくもそうだった。

でも、学「問」ていうのは、それこそ何千年もの気が遠くなるような時間性の中で、たくさんの人がその思索を重ねに重ね、身を削り、そして次の人に残しては肉体を消していった。

苦手意識がどうしても消えない、教師の教え方が微妙だ、そういった学問という扉に至る前の段階にでさえ、その享受の制限を無意識に受けている、という印象を受けるわけです。

いったい、どれほどの人達が、各学問というミチに生きたかは、計りしれない。でも、なんでもいい、一般書店に置いてあるような「これで分かる!数学の全て」みたいなキャッチコピーがついているのでもいい。何か手にとって、5分間くらい最初の「はしがき」を阿呆みたいに真面目に読んでみる。
どれほどその学問の考え方なり概念やり姿勢が、社会に影響を及ぼし続けているか、それを教える側のほうからも、教えられる側のほうからも、意識してほしい。

そして、もう一生やりたくない!ぐらいの気持ちで、勉強してみる。それから、やっぱりその学問が大嫌いになるか、それともわりと良かったなと思うかは選択の自由だ。

それでも(時間的・精神的コストの消費)、「食わず嫌い」よりは明らかにマシだと私は思います。

中学の勉強は、やれ小テストだ宿題だ中間考査だと、ため息をつく場面も多々。でも、そういった歴史的大バックグラウンドのもとに、実はそういう教育という「制度」の一環があるんだよ、ということ。

人間、human raceとしてではなく、「人」間らしく生きたい、生きていくと思うときがある。

そんなときの第一の着手が、学問という一つの生きる道の、それぞれの扉だ。
扉は、きらきらしていて、最初だからこそ、奥深くて楽しいのだ。
と思う、ずっと。

ミスティ @

拍手[0回]

エンターテイメントとしての「芸術」/情報享受の手法


ぬーん。
せかいのみなさまこんばんは。

このblog、筆記者及び管理者の定義によれば、「芸術の在り方を検討することで、社会問題を考察する」ことを目的として掲げているハズですよね。

過去の記事のトラックバック。
芸術の、「げ」の字も未だ現われていない笑

みっともない言い訳をさせていただきますと、まず、今割ける時間が確保しづらい。それから、まだ、出発点としての「芸術の検討」を決めかねている(まだ思考体系になっていないということですw)

ふざけてるよ、このブログ。
ということで、少なめですがエッセイとしてその出発点の出発点をごく端的に述べたいと思います。

その前に一つ。

@情報享受の手法
当然、自分にとって重要な情報は、知りたいと思う訳だし、道徳としての法に抵触しない限りに於いて、正しくそういった情報を集めたい。

「知る権利」として、そもそも「権利化」する必要があるのかどうか、という問題については、ものすごく深いものがありますが、今回はそんな事柄じゃなくって単に上のようなこと。
んでですね。

私は、前、どっかの記事で、マスメディア「嫌い」故、情報の(勝手な)流出だと構成して、ひとまず遮断をかけてる状況なんですよ。今。 新聞一つ、NHK放送、そして民放番組をたまに1つか2つ、で数的に打ち切ってます(アホみたいな報道番組は見る時間がもったいないから(゜-゜))
http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/16/   (ここで、西日本新聞と、NHK総合と、それから民放番組の一つ二つといってました)
で、私的には、

少ない情報源 → 「自己」の頭ですんなり整理 

という定式化をとって今生活送ってる(つもり)なのですが、みなさんはどんな感じですか?
境遇は違うと思いますが、情報の享受の仕方って、いろいろあると思うんですよ。
例えば理論的には、

・まったくないにひとしいほどの情報源(若しくは、情報「源」などと本人が捉えない) → なんとなく生きてる中で情報にぶちあたる

・多くの情報源 → そのまま受け取る(馬耳東風につながる可能性も含めて)
          → 整理してストックしておく 

どうですかねー?  新聞を2つ以上とってらっしゃるかたとか、いますか? どんな風にして、自分にとって重要な情報収集をしていますか?

@エンターテイメントとしての「芸術」

最近、芸術(art)とエンターテイメント(entertainment、娯楽)が一部でごっちゃになってる気がしてならない。

それは、Art側、つまり、芸術家や、それを庇護する団体・人物(patron)の問題なのかもしれない。
例えば、極端すぎる例で申し訳ないが、「魂」を売り渡した、みたいな。 アーティストとしての歴史性や自負をいったん、そういった娯楽の世界に提供する場面。

また反対に、娯楽側、「娯楽」を創出している側の問題なのかもしれない。
これまた極端な例で恐縮だが、そのだれだかわからないけど確かに娯楽世界を操る「なにもの」かが、芸術文化や芸術歴史を無理やり取りこむ。 おらおらおら、と。

こんな二分論意外にも、相互関係の問題なのかもしれない。 昔から、「芸術」と「娯楽」 はいかなる関係にあったのか。 峻別されるものだったのか、はたまたお互いになじむものだったのか。

そして、日本の今の芸術及び今の娯楽の現状は? 

何故こんな事を敢えて「問題視」したいかといえば、勘としては(だから今ちゃんと換言できてない・・・orz)以下のようなものが私からの提起としてある。

(1) 娯楽世界は今や日本に於いては、資本主義と第三次産業の多様化拡大化にともなってますます「カネとモノ」の世界になりつつあり、娯楽を娯楽として捉えられない

(2)芸術は、その担い手(=芸術家)としては、生活つまりは生きる死ぬの問題でもある。
残念ながら、今の日本の現状を見た限り、たぐいまれなる才能を持った人がたくさんいながら、評価されず、それでもアルバイトなどの低所得労働をしながら並行してその道を進む人が多い。
これは、芸術・芸術家の本質の在り方から見れば、いったいどういうことなんだろうか。


私が、生まれてから、3歳でピアノをはじめ、高2までの14年間ピアノを続け、そしてバンド活動も5年間続けてきたことと関係がある。 大学に入って専門勉強をしながらも音楽活動に身を投じて、そして切々と、どこからかいつも感じる「もやっと感」であった。 単なる個人的なそれなら特段問題はないのだが、個人的な問題としては割り切れないと感じる場面が多々あった。


こんな感じである。 これはただのエッセイだが、いつも反芻することになるだろう。

徐々に、しかし慎重に、検討してみたい。

最後に、これはれっきとした一つの「事実」であるということを、アタリマエだがア軽いことじゃないんだよ!ということを示しておく。

芸術は、その社会の諸問題をリアルに映す格好の鏡である。


このことから、実質的な考察がはじまるのかな・・・。長くなりそ・・・。

 misty @




拍手[0回]

「できればムカつかずに生きたい」


せかいのみなさま、こんばんは、mistyです。

「できればムカつかずに生きたい」。 僕が大好きなエッイスト・小説家田口ランディの著作。

ほんとに、端的にそう思う。
でも、世の中で社会にもまれて暮らしてて、ムカつくことって多かれ少なかれ誰でもある。
ムカつかずに生きるってのは、どれだけ難しいことなんだろう。

たとえば、昔からわけもとくだんになく、いきなり上から頭ごなしに嘲笑されるのは一番不快に感じることであった。
中学くらいから、それは「ムカつく」という言葉と同時に入れ替わるものとなった。
上下関係をありとあらゆる基盤においている所では、何も問題もないのです。だってそういうのとは違うから。

でも、人と普通に他愛のないことしゃべってる日常の生活の中でも、ちょっと心が疲れていた時なんかは、
身体全体が敏感になって、細かいことでムカついてしまうことも多々ある。

でも、ムカつくの先ってなんだろう。
それはやっぱり、まずはその人全体に対する嫌悪感とか、不快感とか、だ。
でもムカついてそういう気持ちのかたまりを投げつけたからって、最終的に帰ってくる所はは自分の胸である。

後で、結局相手に申し訳なかったなーと思ったところで、投げつけた不快感は自分の所に帰ってくる。ますます気持ちが悪くなるし、相手にも自分にもよくない。

だからこその、「できればムカつかずに生きたい」なのだろうか(=^・・^=)
いつもガツンと響くセンテンスを、タイトルに持ってくる不思議な作家である。

手元にそのエッセイがある。いつ読めるかは分からないけど、きっと近い将来には読んでいる。

さぁて、どんな感触を受けている事やら。ワクワク($・・)/~~~
これだから、読書は止まらない♪

misty @

拍手[0回]

「ブランドを示す、ということ」の再思考


*******
こんばんは、せかいのみなさま、mistyです。
「迷惑メール防止対策の法整備とその国の今までの対応への両方へのギモン」の続く前に、またコーヒーブレイクです笑

どんだけコーヒーブレイクやってんだ(笑)
まぁしかし上の迷惑メールのトピックは個人的にも相当シリアスに問題を捉えてるので、おそらく続きもそんなにしない内に投稿させます。というかします、中途半端なトコできったし。

*********
(コーヒーブレイクに入る前の日記)
この1週間体調面的にもかなり弱っていたんですよ。 でも、久しぶりにバイトに入って、そしたらまだ不安定になることもあるにせよ何とか店に相当の支障も来すことなく働けました!!( ^)o(^ )
大将から、「家にジッとこもるってのも体に悪いから、まぁ少々キツくっても大学の図書館に行って、疲れたら辺り歩いて太陽の光なり浴びるなりして、あとは飯をたんと食え!」 と暖かい言葉。。。。あうぅっぅ・・・。(:_;)大将、本当にありがとうございます・・・涙
はやめに上がらせてもらってその後、「This Is It」を先輩と観ることに☆ 中洲200911132056001.jpgの東洋劇場、はじめて行きました!!
 

館内の写真♪おもわず写メ♪www



200911132056000.jpg
東洋劇場に一歩立ち入ると、そこは待ってましたレトロの世界(*^。^*) 古時計一つとっても19世紀末に作られたシロモノだそうで、オーラも大変良い。とってもオシャレな雰囲気でした。
博多が現代化に流される傍ら、未だに守り続けている、「古き善き日本」の一つの姿・形。 本当に、大切なことだと思う。


しかし、なんとこともあろうにこの私、
人生史上初、スクリーンにて1時間爆睡という事態をやらかしてしまったのであった(爆)・・・親父にも殴られたことないのに!(それは何回もあるけど)
故に「This Is It」の内容が頭に残っていない・・・むちゃくちゃ悔しいというかむちゃくちゃ空しい。 東洋劇場のあまりの心地よい椅子のせいか、マイケルジャクソンのビートの心地よさ故か。
なんか知らんけど、何が何でももう一回、絶対観に行ってやるという熱気でいっぱいである。笑

**************

「ブランドを示す、ということ」の再思考
前回、「ブランドを示す、ということ」というエッセイで、いわゆる「ブランドマーク」を身に(この場合、物理的身体にという意味)つけることの意義、ということのテーマというか、それに対するちょっとした批判をした。

前回の記事内容については以下参照。
http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/24/

さて、これに対して、コメント欄を見れば分かるように、「フルハウスの嗤い」開設以来はじめて記事内容に対する意見らしい意見があった。めちゃくちゃうれしいどころではない!笑

その指摘内には(そこのアナタ、ごめんねww これを記事にするに至った理由を書くには避けられんけもうちょっとガマンしてくらはい!不適切だったら内容表現変えます<゜)))彡)、反論・ギロンという形では提出なされていないものの一部分とても核をついた鋭いものがあった。

僕の記述内容の一部に対する、「ステレオタイプ」という見方・定式化である。
(ちなみに、指摘を意見として敢えて(笑)取り上げた場合、それ以外の部分は僕から言わせれば全く見当外れというか否定の方向に働かせる文章形式にはなっていなかったので、本稿からは対象外とする。)

そうなのだ、確かに僕の考えはある意味「ステレオタイプ」なのだ。
その意味内容を、もう少し明確化させることによって、私が提示する「ブランドマークの意義」の射程を改めて思考して、簡単に提示したい。
ゆえに、エッセイから水準をちょっとあげるため、時事問題にカテゴライズさせた。  

個人名を匿名性が付着している形とはいえそれを多々取り上げるのは望ましくないので、以下、述べていく。


****************************
としようとしたのですが、スミマセン、疲れと眠気により、ここでストップかけておきますww

****************************
しかし同日中、僕が映画館で大爆睡したせいかまだちょっと余力があるので、やはり少し続けます笑

1、前提

要するに、このブランドを身に付ける云々で僕があーだこーだふにゃふや考えている裏には、

「南北問題」という極めてクラシカル(ゆえにstereotype=定型)な、しかしだからこそ同時的に大変重要でもある問題がある。

※ちなみに、中卒以上の方で「南北問題」の意味内容を簡潔にでもピンと分からない人なんていないと思っていますが、万が一おられたらそれは大変危険です。 これからの社会問題にぶちあたっていく場面で、南北問題が抱える諸問題は避けて通れないですから!

ことに経済面・界においてのそれは、窮極的に貧困層VS富裕層、の対立の問題に置き換えられる。あくまでも一般的概念としてのそれである。

経済世界においては、近代初期からほんの数年前まで、資本主義が支配的な立場をとっていた。しかし、資本主義が妥当する国・地域の中でも、そこにレッセフェールなどの理念を掲げてあてはめなどしたら実質的な経済格差がますます広がってしまったという歴史背景もあったということを忘れてはならない。

19世紀中葉から、おおよその帝国主義を採択していた近代西洋諸国(英・仏・独・西などが典型例)は経済政策に於いても資本主義を掲げ、そして未開の地域へ植民を進めていった。
20世紀の2つの世界大戦を経験した後、世界は3つに分類された。一つは民主主義・資本主義がひとつのメルクマークとなる「西」側陣営、突出してWW1後華々しく登場した、そして西側陣営に時に対抗するものとしての「東」陣営、そしてインドや中東・アフリカ諸国をはじめとする(帝国主義からの断絶を宣言した)自国民決定主義に裏付けられた「第三世界」の3つである。

いつのころからか、先進国と発展途上国における一般的な経済格差が顕在化しはじめたのは、筆者の記憶力の無さゆえ今思い出せないが、とりあえずそうした世界が3つに分かれた頃以降とここでは定義する。

しかしこの経済格差は、先進国と発展途上国との間に様々な亀裂をもたらすに充分だったのである。
私はことに、民族思想や宗教観の大きな違い・対立もあいまってこの亀裂をさらにややこしくして、両者にとってなかなか解消し得ない大きな「壁」を形成していると考えている。
今でもこの全体としての南北問題を是正・解決しようと、多角的な視点から挑戦が行われてきているのが、その現在に至るまでの効果はやはり相対的に厳しい。解決としては程遠い。

さて、世界的な規模でみたときに、経済格差(貧富差)の問題はこのような形で提出されることとなる。
それは各国が自民族主義を経てナショナリズム(自分達の国のことは、その国内で国民・人民などの社会的構成員のみが主体となって政治経済を決定していこうとする理念)を採択した上でのことである。しかし、このナショナリズムは国それぞれの尊重を認める方向ではきわめて合理的なものであり、それ自体に大きな罪はなく、むしろある地域がある地域を一方的に啓蒙支配していた(帝国主義)時代もあったという歴史観を踏まえれば、それからの大きな脱却という意味合いに於いても、それは評価されるべき事柄であった。
観念的にはそれぞれの国に、主権がそれぞれ平等に与えられたのである。

しかし現実に至っては、戦後の時点での物的・文化的基盤の差異が各国間に於いて前提として在ったのは言うまでもない。しかしナショナリズムを各国が推し進めると、当然にスタートも違えば各国が掲げる政治や経済の理念も違うのだから、結果として経済的成果が大きく異なることも、これまた論理必然的に当たり前と言えば当たり前である。
アメリカもしくはソ連をはじめとする(第一・第ニ世界の主導者である)文字通りの「大国」が戦後から10,20年して気付いたのはそういうことであった。
また、第三世界の(インドなどは農業工業資源が豊富だったことなどもあり例外かもしれない)国側も、この各国間における貧富の差はやはりおかしい、なんとか是正したいと自ずから希求をしたのである。

しかし、いわゆる「相互の歩みより」は、前述したこともあり、その進展はなかなか望めなかった。
結果としては、この世界規模における現実としての貧富差は、事実のそれとしてあり、「なんとかしたいんだけれどもなかなかなんともならない・直ぐには、一義的に解決できない」問題として提起される形となっている。

2、本論

さて、こうした前提を踏まえて、改めてブランドの存在、その出現がもたらす影響を考えてもらいたい。
基本的にブランド(brand)とは、ある定義によると「特に、名の通った銘柄」(広辞苑[第六版]、2008,岩波)である。
銘柄に於いて名が通るということは、
1、歴史慣習上多くの人から昔から支持されてきている物
2、経済面においてその顧客を多く獲得している物

などが考えられそうである。ことに、2の意味におけるブランドは、先進国における資本主義由来の物が多くを占めていそうである。
確かに、自国内・同様概念地域内で、資本主義を背景として自ら勝ち取った社会的地位を声高にあげることには、なんの問題もない。それこそ、資本主義制度が事後的に認めることとなった結果の一つでもあるからである。

しかし、現代におけるグローバリゼーションの流れを無視してはならない。 ソビエト連邦=超大型社会主義国の崩壊後も、アメリカは世界システムのそれとして支配的な立場をとってきたかのように思えたが、00年代に入り、自国内に於ける深刻な経済問題を抱えてしまったことを等に、もはやアメリカ独立支配体制の構造をこれからの世界にあてはめるのは無理となった。 アメリカが以前のような強さを取り戻せていない中、他国のそれぞれの強さをもって、全世界各国に共通となっている問題をそれぞれ各国の協調の視点から解決していこうという理念型がグロバーリゼンーションの一つの帰結としての考えである。それはナショナリズムからの一歩進化・前進した考え・理念だと評価されるべきであると、私は主張したい。

そうした動きを見る中、古典的なブランド志向主義を放任するのは全く望ましくない。もうそれは「過ぎた栄光」「一度冷たく見るべき考え」だとしていかないと、いつまでたっても世界が提起した世界の問題は解決し得ない。

世界問題を、解決しなけれればならない、というこう漠然とした主張には、それがあまりに大きすぎるテーマ設定のせいか、「なぜそうしなければならないのか」の立証部分については争いが激しくあり、確かにその根拠づけを見誤ると、間違った方向にいきかねないだろう。それでもこの考えが多くの人に支持される窮極の理由の一つには、

「世界問題によって世界そのものが物理的・観念的に崩壊してしまうことだけはなんとしてでも避けたい」

というのがあると考えられる。それは妥当であろう。 個人が生きる権利を主張するのは、「死にたくない権利を持ってる故だ」のと同じくらいの、確定である。

このような観念を踏まえ、ブランド志向主義(者)に対しては、私は以下の要請をしたい。

1、前出の通り、クラシカルなそれは「過ぎた栄光」としていったん止める
2、一連の南北問題とグラーバル化が提起する問題を解決する上で有効的に働く、新たなブランド志向主義の提唱・実践

例えば、ヴォルヴィック社。ヴォルヴィック社が販売するミネラルウォーターは、ブランドとしてのステータスを占めている。
しかし、ヴォルヴィックの水が他社の商品よりもなぜ一段階高く価格設定されているか。それは当然、品質へのこだわりの結果でもあるのだが、実は、アメリカがサブプライムローン問題を抱える数年前から、そのヴォルヴィック社が得た利益の一部は、ユニセフを通して、アフリカ地域を始めとする発展途上国の貧困層の事業資金に回されているということをご存知であろうか。
知らずに、買って飲んでいた方はHPへGO!!笑 Volvic Official Site

近年はヴォルヴィック社などを見習って、日本でも、利益の一部を寄付金として貧困地域の活性化としての資金に回すという形態を持つ企業がかなり増えたが、それは前進的にヴォルヴィック社などの活動があって故だということを忘れてはならないだろう。

ほんの一例かもしれないが、これは、新たなブランド志向主義と定義づけてもいいんじゃないかと私は思っている。

能力故、他にどんなブランドに対する志向の裏があったりするのか観念できないのだが、社会に生きる我々としてはそういった大きな問題が抱えているということを意識しつつ我々らしく生きてみる、というのも悪くはないであろう。
ちなみにこういった文脈は時たま、物質主義への批判としてしばしば捉えられる。
ハッキリいって、私自身は物質主義に対して一概には否定の評価をし得ないので、それが正しいのか正しくないのかはよく分からない。 ただ、確かに、思想学からみた「物質主義批判」には、これとリンクする箇所も多々あるのかもしれない。しかし本稿では思想学についてのそれには思考を及ばさせなかったので、省く。

3、結論・結びにかえて

言うまでもなく、つまりは個人主義であってこそすれど利己主義に走るな、というメッセージである。両者は同じようであってマターク違う。

日本は政権交代を選択し、新たに国際世界に於いて一定程度のリーダーシップをとることを掲げた。そんな時代だからこそかもしれない。 変なエリートづら、とすり替えられるとこれまた一番面倒なのであるが、そうではなくて国際社会に強く貢献していける国民としての我々を考える場合、ある程度の責任感と自信を持って、われわれ一人ひとりがそういった社会に身を投じて生きていくのは、とてもカッコいいし、意義に溢れている。

僕の周りは幸いにも、賢くてそうして同時に優しいやつばかりである。南北問題が抱える諸問題に、いずれはそれと直面しなければならないような友達ばっかである(オレはそんな所まで上り詰めるかほとほと分からない・・・orz)。

ひとつ、身の回りにおける小さな事柄を取り上げて、そこから浮かび上がってくる、南北問題が本来的に抱える深い諸問題や、グローバル化の流れを提示して、それに対してどう私たちはあるべきか、簡単に一つの示唆を述べた。

日本の発展を考えながら人生を歩む際にも、世界情勢を考えながら人生を歩む際にも、

さぁあなたはどう生きる? <゜)))彡

とだけ、メッセージを残して本ひとまず筆を下ろすこととする。


でわでわ、ご意見ご感想ご批判、いつでもどこでもお待ちしております♪

misty @

拍手[0回]

特定電子メール法等の制度へのギモン


[特定電子メール法等の法制度及び行政処分へのギモン]

0.
結論から言うと、特定電子メール法等の現状の法制度及び、それに対応する行政処分の状況には少しばかりの不備があるを言わざるを言えないと考えられるので、私ことmistyはこのブログを投稿した後関連する総務省・消費者省庁どっちか(或いは両者)にかけあってみる。(笑) イ〇イさんみたいだなww

まぁあと1時間くらいは時間の余裕があるので。
オハヨうございます、せかいのみなさま、mistyです。 私なりの順序でblog投稿は進行していきます。笑

1.はじめに
(1)ことのはじまり
これは私の今の状況なのだが、とにかく私のyahooメルアドに対する迷惑メールの数と質がハンパない!!
見なければいいという話でもあるかもしれない。しかし私がこれから述べようとすることは、そんな短絡な話では解決しえないという考えである。
yahoo!側の措置もあって、予め特定された迷惑メールはボックスに回収されるので、基本的には見ることもない。しかーーし、措置側の機能不全or僕がうまく使いこなせていないのか(重過失までとはいかないと考えられる)はともかくとして、迷惑メールでないメールがそっちのボックスに回されることもしばしばあるので、そんな時は仕方なくそっちのボックスにいってからメールを開く(だってそうするしかないじゃないですか(゜-゜))。

要するに、気分を害する(精神的損害)し、「羞恥心をリアルに害されてる!!」と思うのである。その友人のメールを読むためには、ズラリと並んだ迷惑メールの大変気持ちの悪い、「件名」にどうしても眼は一瞬的にせよ向かってしまう。これを防ごうとしても、物理的にはまず不可能である。

「件名」レヴェルでのわいせつ度もハンパない。酷い。

(2)経過
で、まぁ友人のパソコンの状況も、大概はそんな感じである。迷惑メールが迷惑ボックスにずらり。で、やっぱ聞いてみると、「まぁいい気分ではないよね!」とハゲドウ(激しく同感の意味)。

(3)まとめ
つまり私がこれから述べたいのは、これらの迷惑メールに連関する我々を取り巻く状況が、「法的(legal)」レヴェルで深刻な問題となっていないかという提起である。
私や、その友人たちは、随伴する形で、その「迷惑メール」(または、その「件名部分」)を強制的に見ることになる。そして、一度や二度ならまぁいいかで話はすむものの、何度にも渡ると先ほどのような「精神的損害」と「羞恥心損害」を心理的に負う。 
不法行為が成立しているのは明らかであるし、また刑事的にも例えば「公然わいせつ罪(174条)」を観念することはできないであろうか。
そうしてそうした構成が考えられるうる限り、民間団体などに救済を求めるほか、国レヴェルでの救済措置に訴えかけるのも十二分に考えられる。そうした時、今まで国はどんな対応をとってきたのだろうか、それは十分なものであったのだろうか。

以下より、これらについて、粗雑な所もあるかもしれないが、検討していく。

2、不法行為について(民事)
aこれは、特定メール法が、2条において「特定メール」の定義づけをし、続く3~13条で、国がそういった「不法行為責任者」側に対する、場合に応じての措置を命ずることができる規定を置いている。

b先ほどの私の事例に関して言うと、yahoo!は迷惑メール防止対策の一環として、JEAG(JAPAN E-mail Anti-Abuse Group)と提携を結んでいる。このJEAGという企業が迷惑防止メール対策として設立趣旨に掲げている活動目標を、HPより以下掲載する。

以上の趣旨に基づき、迷惑メールの撲滅のために、サービスプロバイダ同士の協調、迷惑メール情報の共有、迷惑メール防止技術の円滑な適用推進を目的として、
「JEAG(Japan Email Anti-Abuse Group)」
を設立しようとするものであります。

 

 具体的には
- 迷惑メール対策における参加メンバ間の統一した方向性の模索および実施
- 迷惑メール対策技術についての実証実験
- インターネット利用者に対する啓蒙/教育の共同実施
などを当初の目標として活動します

これから読みとれるのは、あくまでJEAGは利用者に対する注意・勧告や、状況を改善していく解決方法を模索するに留まり、法的な権限は与えられていない。
私が解決したいのはあくまで法的方法によるものであり、少なくともJEAG自体が現在の段階で取る活動は、利用者側・企業側に対する「改善への呼びかけ」であり、法的な効果を供わないため期待はかなり薄い。

c. 2aで触れた国が特定の不法行為業者に対して措置を命ずることができるという文脈だが、それでは現在国は今までどのような行政処分を行ってきたか。これについては、次の3章のわいせつ罪等の犯罪が成立し得ないか(刑事)の中で触れることとする。

(時間のため、次投稿へ続く)

拍手[0回]

強制執行。


せかいのみなさま、こんばんは、mistyです。

さきほど、もう耐えられなくなって、高校~大学の頭良い友達に「ここのブログみたって!」と強制メール送りつけました。笑

というのが、これ、少なくとも私的には「blog」(何らかの情報をある一定の社会に対して向ける・投げかける発信の場)であり、おそらくとりあげているテーマもそれ自体は、あながち昨今の日本社会を考える上でつまらないものではないと思うんですよ。

ある仕掛けをしておりまして。
前々から言ってるのですが、そのおのおののテーマを取り上げて私見を発信しているワケですが、よくよく考えてもなくても、阿呆な僕がばーばー言ってるその裏には論理破綻している箇所がいくつもあるわけっすよ。 だから、一般人が読めばすぐ気付く又は反論可能な箇所を幾つも残してます。

反論=攻撃、ではなく、一つの社会に対するメッセージをより妥当なものにするための超ありがたい思考的知的資源。意見、感想、批判も全部然り。

ネットサーフィンしてる方も、こんなblog、タイトルからしてあほそうだから読む気にもならんわ・・・。とか思われてるのでしょーか?内装が悪い?はたまた僕の論理破綻を抱えている私見がそれなりに妥当なのでしょうか?


後者は、決してありえません!(笑) あまり思考経過時間と厳密な資料分析をふまえずに投稿した記事もたくさんあるので。(爆)

となるとやっぱり、論理破綻をパッと見つけるその前に何かの障碍があるのか・・・? もしや文字が薄い・小さくて読みづらい・・・?内装がオシャレでない・・・? うーんそこまででもないと思う気もするんだが・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/


まぁ、とりあえず、学歴はハンパない友人にかなり無礼な手段で声かけを一時的にしたので、そのreactionを待ちたいと思います。笑

以上、コーヒーブレイクのコーヒーブレイクでした(爆)

misty @

拍手[0回]

漢字社会の混迷について

せかいのみなさん、おはようございます、mistyです♪
今朝は、持病のため、具合を悪くしてしまってます。むぅ。。早く治るといいな。

次投稿は「プラマイゼロpart3」か「芸能人の「人権」part4」にするつもりだったのですが、如何せんどちらにせよかなり詳細な記述になるので笑、またコーヒーブレイクさせてください。(笑)

カテゴリは「社会問題」ですが口調はエッセイですからね!(笑)

@漢字社会の混迷について

今日朝の日付で、NHK再放送「日本戦後 漢字事件簿」というドキュメンタリーの放送(※1)があり、興味を抱いたので観た。

短い放送時間にしてはまぁまぁ悪くはないクオリティ(目線が高すぎw)だったと考えられる。
その放送内容の概要、それから私が日頃から抱いていた日本での「漢字の使い方・使われ方」の思いの蓄積、そしてそういった社会に対する私の簡潔な私見を述べてみたい。

1、
日頃から、最近特に若年層による漢字の使い方・使われ方には抵抗感というか、不快感を感じていた。
その内容はとても単純なものだ。
「ロクに書けもしねぇ漢字を軽々しくほいほいとケータイで使うなっつーの!!」

本当に、遺憾の思いである。あまりにも広範囲の若年層が同調行動を取るので、それに対して、ここにいる阿呆丸出しの大学生が、(1)手書きの文化歴史をないがしろにしている(2)自由を超えて利己的な使い方になってしまっている(3)パソコン・ケータイ等の電磁機器に内蔵されている漢字変換機能の利便性にかまけてしまっている、と短絡的に思ってしまう。
それに対して、狭きに失するといった批判をするにははあまりに酷であろう。

2、
「戦後日本 漢字事件簿」の放送では、戦後~現在の日本社会における漢字の使い方・使われ方の歴史をはじめに提示していた。
まず戦後国家による「常用漢字」の「指定(制限とも揶揄)」をとりあげ、次に60年代後半~70年代にかけて、表現の自由の拡張/個人の尊重の概念の広がりとともに、国家による漢字制限批判を随伴する東洋漢字以外のカンジ出現(例えば、「煌煌とした」「悉く」)、そして80年代~90年代、ワープロに続いてパソコンの登場による、一般人へのいわゆる「難しい漢字」の利用の普及、そして00年代、その爆発的広がりと、それに並行した形での再度の「国家による常用漢字の指定」の見直しの動き、を検討していった。

特徴的だったのは、文化庁が一般人に対して以下の意識調査を行った箇所。
・漢字を使い分けることを意識していますか?
→「いいえ」+「よく分からない」と回答した人が実に80%近くであったということ
・難しい漢字(憂鬱、五月蠅い)などを携帯メール・PCなどで使うことに特段抵抗感を感じないと答えた人の、その感じない理由
→「カッコいいから」 「文脈で(意味内容が)読み取れれば問題ないから」 「自分のアイデンティティを発揮する場でもあるから」

こうした爆発的利用の広がりに関して、困った人もいるという内容を、
1、正式に(要するに極めて合法的に)帰化を取得した在日外国人の日常・労働生活における不便さ 2、(なぜか)裁判員制度での「法律(法廷)用語に対して感じる難しさ」 などを例示(なぜに2つだけ?!と思た)して取り上げていた。
1の文脈では、とある介護福祉センターで福祉士として働く女性外国人。確かに「御粥」「石鹸」とかは読みにくいよね・・・と思った。。 2、では、「改悛」「懈怠」などなど。なんかこれに関しては、私も法学部である以上、何故か申し訳ないと思った。法律用語辞典は高いよん!

来年度追加される常用漢字としては、「挨拶」の両者(これは手書きでいけます、そない難しない!)、あとなんやったけ・・・メッチャ分からんのがあった・・・\(゜ロ\)(/ロ゜)/

3、放送に関しての私見
ごくごく端的に述べたい。
放送内容に関してはいろいろ?な部分もあったが最初に述べたとおり放送時間との関係もあるのでとやかく言わない。概要に沿って以下述べる。
まず、一般人の漢字の利用は、一概に絶対的自由と考えるべきではない。
(ア) かな世界の歴史・有効性を、一定程度軽視することにも繋がりかねない
(イ) (ア)に関連して、かな文字で表現できる幅であるにも関わらず、読むのも困難な漢字選択を過多にしてしまって、無用の混乱をきたす
(ウ) 仮にその漢字を(例:「煌煌」)使うことによってしか表現できない意味内容があると仮定する。それでも、一定の場合には(例えば公の場などで多くの人が受信者媒体となる時)、読み手の「分かりやすく享受できる自由」も考慮の要素に入れるのが公平に望ましい

以上の理由が挙げられるからである。 これらの要請からの調整を図ることが、日本漢字社会の文化面・権利面を考えるうえで一つのキーとなると私は主張する。
ここではかな文字(による表現)の見直しを、私は簡単に主張してみたい。
和歌や俳句(それらを基に置いて応用した現代の川柳、詩)などにはかな文字による見事な表現作品がいくつもある。 
特段、「漢字のチカラ」に頼っていない、かな文字が発揮するかな文字らしい表現などが長い歴史・事実上の積み重ねとして日本にはたくさんある。
振り返ってみればそれは中国(唐?それより前?)からの漢字輸入から経過を過ぎて、女性の文通への参入という起点から、「かな文字」は日本独自のものとして生まれてきた。我々独自の文化形成を肯定することは、帰属意識のそれとしても充分に重要である。 

現代における日本での、「紙」「画面」の上における表現言語は、漢字だけでないことは明白である(中国が一般的にそうである)。
基本的に「漢字とかな文字とカタカナ」、加えてアルファベや時たま仏独他諸外国の言語、および各サブカルチャーが産出した慣習文字などが基礎となっている。

それならば、漢字の変換入力の利便性に求めるだけより、別手法による同じ意味内容の表現は誰しでも簡単に、いくらでも思いつくはずでもある。

確かに、表現の「自由」をより尊重する方向に働かせる意味では、様々な表現媒体が多くあること、それ自体に関しては評価すべき所も多くあるだろう。
しかし、その自由を実質的に保障するという見地からは、「表現」の運用の為され方への配慮もまた同程度に慎重になされねばならない。
怪文書と多くの人が捉えかねないような表現が勝手気ままに飛び交っては、社会の取引を阻害する。
また、別な例を挙げておこう。
国際・国内を問わず、著作権法の世界などでは、例えばサンリオ社の商標のキティちゃんの、二次創作などが大きな問題となっている。いわゆる、本来のイメージからは逸脱した(キリング・キティーとか)キティを、商標権を有するサンリオに無断で自社商標としたり、または各個人ほ・法人が無断で販売・流通させたりなどである。流通の優先と相対する著作権法益、考案者の著作権侵害、商標権(イメージ)侵害等に関連する紛争・訴訟はここ数十年にわたって激しい勢いで相次でいる状況を呈している。

これが、漢字の「乱用」の現象が引き起こす「問題」にもつながりかねないと私は思う。「夜露死苦」などの表現は、教育上の問題を一義的に抱えているが、二次的にはその本来の意味内容を持つ著作への侵害行為と、一応法律的には構成できる危険を内包しているのである。

4、最後に
ちなみに、私は少なくとも正式に高校を卒業しており、とくだん国語が苦手だったという意識もない。
また、読書量が人よりも決定的に少なくはないと思う。
それでも、昨今の(特にネット世界や一部の若年層の文化に見られるコミニュケーションとしての)表現に含まれる漢字は、サパーーーーーリ分からん・読めない時がある。(笑)

「酩酊」(法律用語として使われる場面もよくある)。 高校生まででこの漢字の意味内容を答えられる割合が気になる。

「憂鬱」。 これについては、告白しておこう、今だに手で書けないしwww、やっぱり漢字そのものの画数の多さ故か、漢字にした方が「落ち込んでイライラしている状態」を的確に表せている・また表せられていると思うし、mistyは実際漢字で使ってます!笑

ただ前述したとおり、日本社会において、それぞれ「拡がった」漢字には確かに困難性はつきまとっており、それは3(ア)(イ)(ウ)などの見地から考慮した上で、その漢字の利用・運用を適時考えていくのが、妥当であろう。

以上。笑

注1・・・http://www.nhk.or.jp/shiruraku/tue/0909.html#a3 

拍手[0回]

プラマイゼロ part2


(前回「プラマイゼロ」より続き)

でも、しばらくして僕らはまた仲良くなりました。はっきりとは憶えていませんが、まぁ、お互い、「あん時は悪かった!」程度の、子供らしい謝り方をお互いして、元通りになったのでしょう。(笑)

中学の時にも、別の親友と大ゲンカをしたことがあって、めちゃくちゃ傷ついてしまいました(相手もそれ以上にそうだったでしょうが)。 でもそれは小学生の時のような暴力沙汰じゃなくって、彼を、何を血迷ったか精神的に傷つけるような言い方をしてしまったがためにケンカになったんです。。

まぁめちゃくちゃ凹みましたよ。何やってんだよ自分って。大親友を失ったとしばらく鬱。

でも、後々、その親友の方から、「お前のコト、信頼してるから」的なコトを言われて、ほんとっゴメン!!涙!感謝!!(笑) 「こ、こんなオレでもまた仲良くしてくれるかな?」と言って、二人はまた元通りになりました。(笑)
小学生の時の仲直りの仕方とは、少し違いました。「信頼」の言葉をもらって、小学生の時はなんだか少しモヤッとした部分を残しながらも仲直りだったのですが、その「モヤッ」との部分を言葉にしたことによって、あー人と人は信頼でつながれるんやなぁとしみじみと。

高校の時にも、またケンカはありました。(笑) しっかしこれは、なんつーか、お互い、それこそ何時間もいや何日も、喋りまくって喋りまくって内面をさらけ出して、共感に至りました。 ここにきて、いわゆる「無償の愛」、お互い何があっても赦し合えるような関係を一定程度築けたことで、なんつーか、「親しい人」との関係性に於いて、なんだか自信というか、相当のプラスを得てそれは今にも繋がっています。

(2) 同質的・同量的フィードバック

以上のmistyの実際の経験を取り上げて、「人間関係(特に新密度の高いそれ)における人生の経験」値の絶対値総和を図ります。
ちなみに、新密度の高い人間関係は、僕のかけがえのないものの「一つ」になっていることが前提になっています。僕の人生そのものを支えてくれ、時には自らなりふりかまわず投げ出してそこに生き、意義や本当の喜びを噛み締めることも当然あります。「友達ありき」の人生、ですから。mistyの人生はそうなっていると、ご理解下さいませ。
さて、小学生の時のケンカによって引き起こされたトラウマだとかの経験、マイナスを、仮に(-5)と設定します。まぁ本当に、親友との大ゲンカなんてリアルにその当時までは初めてだったもんですから、ホントに傷ついたんですよ。あーもーこれであいつとは終わりなんかなーホンマ寂しすぎるー(p_-)的な。

そして、もやっとしながらの和解によって、一応の回復はしました。でも人間関係における自信全回復には程遠かった。 ゆえに、(+1)としませうか。 ・・・現時点、(-5)+(+1)=-4

中学の時のケンカによって引き起こされた負の値、マイナス3。「お前を信頼してるから!」と言われた時の、救われた感プラス4。 大きかったです。あれだけ精神的に傷つくこと言ってしまっても、こいつはまだ信頼してくれてるんやって思った時は。  ・・・現時点、(-5)+(+1)+(-3)+(+4)=-3

ちょっと回復してますね。
んで、高校の時のそれは、リアルに今のこんぽんてきな基軸としての経験に「なって」います。数値価することにどれだけの意味があるのか(これについては、後の括弧3で記述。)って話ではありますが、プラス10に設定しておきます。  
総括です。 (-5)+(+1)+(-3)+(+4)+(+10)=+7
捨象具合もありますが、おそらく今雰囲気で数値化すると、人間関係における経験値の総和は現時点でプラス7ってことです。

(3)説明

(-5)+(+1)+(-3)+(+4)+(+10)+..............................+?=0

さて、初期に与えられたマイナス5の経験が大ダメージでありました。しかし、それは、後々において、徐々にではありますが、プラスの経験によって「調整」がなされている、との見方もできるというのがこの自論(造語も甚だしいですが)「同質的同量的フィードバック」の考え方です。

はじめにご説明しておきますと、例えばある何らかの痛みを受けた場合、全く同程度・同量程度のプラスが加わってゼロになるという短絡的な話ではございません。
(-5)+........+(+5)=0
 

確かにこういうケースもありうる可能性は肯定しますが、

そんな簡単に人生うまくはいかないでしょう?苦笑


痛みを受けた分同じ程度の幸福が必ず毎回返ってくるのであれば、それはそれでいいと思います。そんな事例もあると思います。ただ、私が例で取り上げた事例はそんなにはシンプルではありませんでした。それでも、結果としては同質・同量程度のフィードバック(つまりマイナスに対するプラス、プラスに対してはマイナス)が起こるという定立です。

話を元に戻しますと、マイナス5の経験は、そののちの「あやふやな仲直り」によって確かに回復は図られています。しかし、完全(+5かそれ以上のプラス)な回復ではありませんでした。
中学の時のプラスは、なかなか大きなものでした。
ここに、徐々なる還元があったと考えることができるのです。
ざっくりいえば、小学生の時に負ったトラウマは、完全には治ってはいなかったものの、時を経て、また回復する機会があったと見るわけです。
現に、小学生の時のもやっとした感じは、確かにこのときの経験によってなくなりました。
そして、高校時っす。これは大きかったです。トラウマを超えて、対極の「自信」に繋がりました。人間、そっとのことでその信頼関係が壊れるものではない、相手に対する思いやり、気持ちが充分にあって実践していけば、必ずいい関係が作れる! との思いに至ったわけですから。 
ここでは、還元以上のプラスを得ました。が、まぁ、都合上総量はプラス7になってますよね。

まだ私もハタチで、むしろこれからの経験だと思ってます。負(マイナス)の経験も、(そして同じようにプラスの経験も)待ち構えてると思います。そして、終局的には、ゼロになると考えます。実にいろんな経験を踏まえた上で、ゼロになるんすよ。

どんな場合であってもそうです。 経験が少なくても、足したらゼロ。
人生というtime accountの量(years)が少なくても多くても、足したらゼロ。
誰の人生においても、足したらゼロ。

そして、便宜上、数を使って説明しましたが、正直、厳密に数値にできるものは決してないです笑 でも、目安としては客観性が図れるという事で、あくまでも分かりやすくするため数字を使いました。

3、プラスとマイナスの客体

さて、例えばなしからずーーーーーーっと、プラスとマイナスの客体を、心理面においていました。(笑)

これ、つまり、裏を返すと、客体の対象をシフト転換することによる応用がきくと私は考えています。
心理面ではあんまあの時の体験から報われてないあぁ・・・とするじゃないですか。じゃあ、おのずから積極的に、その経験の絶対値の対象を切り替えてみればいいんです。
例えばぼくは、本当に恵まれているなぁと多々思うのですが、「親友」となった人とは、やっぱりケンカとかを経ても、今でも親友として相変わらず続いてるんですよね。
でも、終わってた可能性も十分に在りうる。
例えば、中学の時の親友とのケンカの後で、向こうからの切り出しが無かったら或いはリアルに親友の地位は気付けなかったかもしれません。
変な仮定ですが、仮にそういう仲直りの契機がないまま、そいつとは終わってしまった・口をあまりきかない間柄になったとしましょう。
それでもやっぱ、引きずってるんです。
でも、他のどこかで、「人間関係、時には割り切ってみることも大切なんだ!!」ということを学んだとしましょう(事実、メチャクチャ大切な考えだと思いますww)。

そして、あいつとあの時点で切れてしまったのは、きっとこういう事を学ぶ機会でもあったんだと開き直って、クヨクヨ状態から復活したとしましょう。
確かに、新密度の高い人間関係の修復、ことに「その人(the person)」との関係は終わっています。数値的にもマイナスのままです。
しかし、新たな視点(評価の客体)が加わった事で、逆にその経験を活かすことにもつながりました。こういう意味では、プラスになった=調整がなされた、といえます。

プラマイの客体を変える(この場合、人間関係の見方の変化性)ことでも、調整がなされたと考えることは充分にできます。

4、今までのまとめ

以上が、私の私なりの人生観の一つであり、主張したかったことです。
基本定立。 基本的な考え方。 応用。

もちろん、これがすべてであるなんて一つも思っていません。何べんも言うように、思考・実践の蓄積の総体です。これからもその蓄積は溜まっていくという意味で、いわば「絶対的」(そもそもこんなコトバ使いは私はあまり好きではありませんw)な答えなんぞあるはずもありません。

ただ、こう考えることによって、うまくいかないなー最近って時に、なんらかのプラスの作用が少なくとも僕には生まれてから今に至るまで、一定程度有効に働き続けています。

それは、客観的な事実でもあります。 それだけを伝えたくて、二回にわたってお送りしましたー@

それでは、part3に移りまして、最初に述べていた「平等」の原理にもつながるといっていた部分を記述します。
はじめに、のべておきます。
この自論による「平等」観念は、プラマイゼロの観念よりさらに、独りよがりの思考体系です(笑)
 ゆえに自分哲学と定義しておきながら、正直言葉にすることにどれだけ意義があるのか正直私自身が今時点で戸惑っています。(笑) 

まぁ、おそらく鬼畜にしか思えない記述内容になることが容易く予想されますので、そのことだけははじめにことわっておきます(笑)

それでは、part3でまた!
misty @

拍手[0回]

カレンダー

04 2024/05 06
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

フリーエリア


音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

最新コメント

[05/19 backlink service]
[05/05 Kame]
[09/27 misty]
[09/27 A子]
[07/07 misty]

最新トラックバック

プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


バーコード

ブログ内検索

P R

カウンター

アクセス解析

カウンター

Copyright ©  -- フルハウスは嗤う --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]