忍者ブログ

発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

たばこ禁煙[運動]について ある一つの視点からの考察 その3 (完)


 オルタナティヴな力。 つまり、<動>から<静>への移行である。

 ありとあらゆる、考えられる色々の手段を使って、静的な力を行使するに至るのである。
ここで、法律=法は、動と静の区分けの指標になりうるかもしれない。 動的と静的は、正と不正に対応する。

 つまり、法律すれすれの所で、勝負をかける。
簡単な例を出すと、話が整理しやすい。 例えば、核兵器によるかくらんという手段を用いた場合はどうか。

 核兵器は、国ごとによって立法は異なるが、もしそれを使ってしまうという段階に達すると、国際法的にはアウトである。 なぜなら、それの行使によって被る、死者や難民の発生、自然環境の破壊は計り知れないからである。
 この意味では、核兵器を使うということは、不正であり、すなわち動的な暴力だということができる。

 しかし、核兵器によるかくらん行為はどうか。
かくらん行為には、様々な方法がある。 したがって、法律違反、または国際法やルールに抵触しない方法も、限りなくあるはずである。

 文書によるやりとり、諸々の外交官の派遣、メディアを使った広告戦略―。
バックには、核兵器という”動的な暴力”をひそませているかもしれないが、表面上で使っているのはそういう類の力である。
 法律違反スレスレの程度で、どこまで動的な暴力をそのまま”率直に”使った場合と同じかそれ以上の効果をもたらすか、ということをめぐって、力の行使の方法が考えられる。

 そのとき、それらの同一の種類の力を、動的暴力に対して、静的な暴力と呼ぶことはできないであろうか。

 思想戦略は、身体戦略にとってかわって、勢力の誇るものである。いや、そうであるべきであろう。
それは、例えば、WW2以降、表現の自由が、益々尊重されるタテマエをとってきたことが大きく関連すると思われる(表現の自由については、指摘すべきことに事欠かないが、ここでは立ち入らない)。

 アメリカは、日本への思想の市場潜入+浸透という行為に、おそらく成功している。
少なくとも依存的でなかった古い日本を、国交なしでは立ちいかないという(国際社会)依存型社会へと日本を向かわせるのに、アメリカは一役どころか、かなりの影響を与えている。
 それは、日本人の生活の変化一つとってみても分かることである(朝食はパンしか食べないという人が多数になった、等)。

 それらは、ひとへに、アメリカ発の、”思想”の日本市場への輸出(あるいは輸入)、である。
ただ単に運ぶだけではなく、広告を効果的に使ってきたことが注目にあたいする。

 広告は、人々の持っているニーズやウォンツを掘り出すという一般的な性質を持っていると、経済学の領域では様々に指摘されているが、それはここでも当てはまるであろう。


 最後に、話をたばこ禁煙の話に戻そう。

 つまり、たばこを禁煙するべきか/しないべきか の、善悪の判断については、実のところ観念や情念によって決定しているところがわれわれの内においては少なくないのである。

しかし、たばこ禁煙が、本当に”悪”なのか、という事柄についての考慮において、われわれは慎重さをいまひとつ欠いているのではないか?

 アメリカが、生活の場面から掘り起こして、わたしたちに思想”戦略”を用いたように、ここでは、静的な”暴力”というものが、多かれ少なかれ働いているのではないか? そしてそれを我々は、しばしば見過ごしているのではないかー? 暴力の行使が起きているにもかかわらず。

 暴力は、即発性のあるものである。それらは時に、理性を吹き飛ばす。

結論を述べると、昨今のたばこ禁煙[運動]の中には、少々やり過ぎているものがあるというのを否定しがたい。そうして、多くのやり過ぎていると感じられるものは、広告というものを媒体としたある種の”思想戦略”を行っているのではないかー?
 
 ということである。
程度の差はあるが、アメリカが特に外交の場面で使っている、オルタナティブな力としての静的暴力の行使の構造と類似した― 一つの”力”を。

 暴力の行使については、わたしたちは、いまいちど、もう少し敏感になる必要があると私は思っている。
たばこ問題をそういう切り口で開いてみると、見えてくるものはまったく少ないということはない!

 以上! あまりまとまらなかったです! ← 笑

 misty @



 

拍手[0回]

PR

たばこ禁煙[運動]について ある一つの視点からの考察 2


 もちろん、この時点で「暴力」だとするのは早計である。
そこで、いくつかある中から、あるひとつの禁煙[運動]の一つの形態を取り上げよう。

大部分かどうかは定かではないが、ある一定の場合に多くみられる形がある。
 「広告」(ないし、それを伴った呼びかけ[運動])である。

 諸々の個人が手掛けたポスター、それの展覧や諸団体への提供物としての「作品」、たばこ箱に異様に大きく表示されたメッセージ、テレビCMを用いた呼びかけ、新聞に載っているチラシ・・・。

 これらは、ひとえに、「広告」として、その性質をまとめることができるだろう。
上のような例は、近日にいたって、本当に多くなっていると実感する所もある。
 政府が、2月末に、公共機関での喫煙を原則廃止すると言った案を検討していることが、かなり影響をおよぼしているのかもしれない。
 しかし、それ以前から広告を用いた呼びかけ[運動]は、多数に存在していたはずである。

 これら広告は、われわれの身体を直接しばりつけるものではない。すぐさま、喫煙者その人から、たばこを奪う、といった物理的力をもつわけではない。
 その意味で、これらの[運動]は、決して動的(active)なものではありえない。

しかし、その事実が、一つのことを鮮明に浮かび上がらせる。
 「広告」は、人々の身体でなく、人々の心の奥底に忍び込むような力をもっているのである。

それを「精神的(作用・力)」とまとめることもできるだろうが、内容に一歩踏み込むために、その表現をあえて避ける。

 時に強烈(それらがしばしシンプルに見えるようなことがあっても)・過激な広告は、何より人々の心奥底へ訴えかける。内心に、ズドンと響かせるようなことを目的としている。
 そのために、心に響くためのメッセージが、幾多にもわたって考えられ、そして応用されるに至っている。 
何より表現にこだわっている面があるというのは、上のようなことが事実であることを物語っているであろう。

 身体に影響をおよばさずとも、精神のもっと深い所へ、攻撃の矛先を向ける。

それゆえ、静的な暴力、というのである。
この時、静的な暴力動的な暴力は、ともに「暴力」であり、それらが力の優位の関係の上に立つものではない、ということを言っておかなければならない。
 それらは、内容を同じくするため、ただその表象される様子・原動力・態様が異なると言うだけである。

 とりあえず、ポスターやTVCMでの呼びかけといったものを、静的な暴力として呼ぶことを、一応了解されたい。

それでは、静的な暴力とは、どのようなことを意味するのだろうか?


 動的な暴力に代わるものとして、静的な暴力がしばしば行使される、ということがあることを、挙げておきたい。

これは、話が飛んでしまうが、諸外国の昨今の外交戦略としてよく用いられているように、私には思われる。

「アメとムチ」という言葉があるが、少し似ているかもしれない。
 アメリカは、良くもわるくも、外交戦略に長けた国である。
 かつては、アメリカも、動的な暴力のみに頼って、若しくは動的な暴力を主として、外交をすすめていたことがあった。 冷戦期のアメリカ外交は、好例のように思われる。

 軍事力。それらは人的資源と物的資源に大別される。兵士・兵隊・司令塔、ゲリラ戦隊等々が前者の場合で、核兵器・ミサイル、爆弾、航空、戦車などが後者の場合にあたる。

 ひとつ覚悟して言わなければならないのは、アメリカは、自国の正義のためにしばしば他の一切の正義や善を侵害する傾向がある、ということだ。

 それでも、アメリカは、軍事力の直接の行使を差し控えることもある。しかし、重要なのは、それで終わらないということである。
 他の国との接触(とくに、緊迫した)を図るとき、たいへんに怖ろしいのだが、彼らの力をもってして、別の、オルタナティヴな行使を実行することがある。

(続く)

misty @
 

拍手[0回]

たばこ禁煙[運動]について ある一つの視点からの考察

こんにちは~。mistyです。

ここ最近の、禁煙[運動]には、少し、ん?、と感じすぎる所があります。
 これはあくまで、個人的な感情です。
まぁつまり、反対をされればされるほど、それは本当に正しい[運動]なのか? 、と。
まぁひねくれ者ではありますから。笑

 僕は、たばこ禁煙[運動]には、そもそも、消極的なんです。
それは、[運動]を推し進めることで、例えば禁煙政策を慣行することなどで、逆に喫煙者の肉体的・精神的な健康を、損なってしまう、と考えるからです。

 割合ではなく、たばこを吸ってそれで生活をしている人は何人も存在します。 禁煙運動は、吸わない人から、吸う人への、暴力的な押しつけ[運動]である、と断言してもいいくらいです。

ちょっと別の視点に入る前に、一つ言っておかなければならないことがあります。
 ちなみに、私は、たばこは吸いません。 しかし、それと私があれこれ言っていることは、あまり関係がありません。
 だって、私がたばこを吸っているか吸っていないかは一要素に過ぎませんから。
もうちょっと言うと。
たばこを吸う人が、反・禁煙的な言説を/ たばこを吸わない人が禁煙的な言説を するべきだ、という構図は、正しくありません。

 ランディ氏が、死刑問題をめぐる賛成派と反対派の[対立]について、同じような構図で彼女自身も述べています。
 ひとえに、大型掲示板に見られる、おそまつで批判にもならない非難言説には、人格と意見をごちゃ混ぜにしてしまっているものが多くあります。いや、現実の会話の交流でさえ、そうなっているものがひじょうに多い。
 人間の意識の、仕掛けの一つのようにも思えます。

 ともかく私はタバコは吸わないのですが、それとの関連を述べるという所から始める気は毛頭ありません。
 現時点において、禁煙[運動]を疑問視する立場にたっていることを表明します。



 さて、禁煙[運動]は、静的な暴力であると言った。これは、的外れなものではないと思う。
[運動]自身には、実に様々な種類のものであるが、この手の[運動]は、性質は静的な暴力である。

 精神的な暴力と言い換えることもできる。われわれの、脳や心の奥底にある、深遠な思念への、静かな、しかし攻撃的な語りかけである。

(続く)

拍手[0回]

不完全性のなぞなぞ 2 (完)


おはようございます、mistyです。
はやくも(?)、前回の続きです。

8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)

 ・・・どちらがいいか?

 ということですが。
ここで、またある一つの事柄を定立してから話を進めたいと思います。

d: 「人は、なるべく「完全」を手に入れたいと欲する(ものである)」

 これはつまり、0.3よりも0.5、0.7よりも1、1よりも3を選ぶ、といった感じです。このd条件を前提として、さらに

b' 8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /c' 全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの) と記号を置きます。
以下。
 

b' どこかに、完全状態を満たした人と、そうでない人との線引きをするものです。
その、線引きのやり方が、ここでは大きな問題となってきます。

(i) ’理にかなっていること’を重視する社会の場合

 このとき、線引きのやり方は慎重でなければなりません。 8人と2人を区別する方法が、できる限り理にかなっていなければ、「不満」が、遅かれ早かれ出現します。

 前回記事でみたような、ジャンケンはどうか?
 ジャンケンは、ある一つのルールです。 何に対するルールかというと、物事の勝ち負けです。
じゃんけんで負けたからといって、「そんなことはない!」と、現前の事実を否定することはできません。

いわば、強制的な方法です(が故に、決まりやすい、その意味で簡素な方法であると言えるでしょう)。勝ちと負けをはっきり決める。
 決まった後で、不平不満はなかなか言いにくいシステム、ともいえます。

ということは、これは、ジャンケンは、それをする前が大事となってきます。つまり、ジャンケンで本当に決めてよいのか?という問い。

 りんごの例でいえば、これはジャンケンで決めて良い事柄の範囲内とも思えます。
しかし、例えば、国家からの社会保障であればどうか?(月一で、国家保障手当として1万円がもらえるか否か、とか) 参政権の付与であればどうか? 地球環境に対する取り組みを決定する場では?

 このように、人にとっての、重要度の度合いによって、ジャンケンの方法は、疑わしくなったりそうでなかったりします。 つまり、重要度が低いほどジャンケンのような強制的な方法でもいいや、とする一方で、重要度が高いほど、ジャンケンのような粗雑な方法ではいけない、となるような意識システムが働きそうです。

 理にかなっているかどうかを重視する社会では、いわば当然とも言えるかもしれない。

 さて、いずれにせよ、ジャンケンは、このとき多数決の原理と結びつくものでありました。
勝ったものが多く、そしてそのものの完全を獲得できる、負けた者は、少なく、不完全を入手する。
何かを「多いもの」と「少ないもの」と分けるときは、それが理にかなっているか/合理的であるか が、強く問われると言えます。

 逆にいえば、それが理にかなっていると言えるほど、多数決の原理を当てはめた線引きの仕方は、正しく、したがってそれに従わなければならない、ということになります。

選挙、というより投票を例にとって、かなり抽象的に、話の引き合いに出します。
 りんごの場合と同じです。
 投票権が8つあって、人は10人、とします。

ちなみに投票は、今の日本の社会体制では、1人1票が大原則ですから、上の例はすでに「不完全」になっているということができます(しかし現状を見れば、毎回の国会選挙などでは議員不定数問題が起こっているように、この大原則とは必ずしも一致していませんよね。)。

 このもともとが不完全な状況を、分配して、なんとかマシにしようとする中で、完全/不完全 の線引きをハッキリ決める。

 歴史的には、代表的なものとして、年齢をその線引きに使うものが多かったですね。現行法でもそのような態度が、タテマエとしてはとられています(投票権は、成人以上!
今もです。 「青少年には、政治を判断する能力が成人に比べて欠けている」という話をもってくるわけです。

 これを、仕方ない=理にかなっていること、だと、構成員のみんなが認めれば(「みんな」が、という条件は、民主主義の要請に基づくものです、後述。)、OKなわけです。

A、B、C、D、E、F、G、H、I、Jの十人のうち、BとFが非・成人であれば、
残りの8人に投票権を付与し、2人には与えない。 これで、OK(理にかなっている/正しい/合理的である)、となるわけです。

 この投票システムではさらに、民主主義の要請が働きます。 上の、投票権は成人以上のルールに、誰か1人でも不満を抱いている者があれば、それは、その人からみると合理的ではないという状況になるわけです。

 e.:(民主主義の根幹) → 人一人の権利や能力というものは、基本的に同じである。そして諸々の決定の場では、ゆえに、なるべく構成員全員の意見や主張に従う必要がある。

eが崩れている、または存在しない条件下ではどうか。

例えば、身分制。 フランス中世の、アンシャンレジューム等。
アンシャンレジューム(旧体制)下では、第一身分/第二身分/第三身分 と、人が3つに実質的に分かれていたとされます。 つまり、第一身分と第三身分とでは、権利や能力の量と質が異なるわけです。

 第一身分の人の能力を3、第二身分を2、第三身分を1、とします。

先ほどの例ですが、第一身分をA、第二身分をB・C、第三身分をD~Jの5人とします。
ランダムに、配分します。
 例えば、8を、2・2・1・1・1・1に分ける。それを誰かに与える。
A 0 B 2 C 1 D 0 E 1 F 2 G 0 H 1 I 0 J 1

 この場合、完全状態にあるのは、B、E、H、Jの4者/不完全状態にあるのはA、C、D、G、Iの5者/超過にあるのはFの1者となります。

 3・2・1・1・1・1・1に分けてランダムに配置すると、
A 3 B 0 C 1 D 1 E 1 F 0 G 2 H 0 I 1 J 1

 この場合、完全状態にあるのはA、D、E、I、Jの5者/不完全状態にあるのはB、C、F、Hの4者/超過にあるのはGの1者になります。

いずれにしても、ジャンケンの時の8:2にはならず。つまり、決まり方はごちゃごちゃになります。

 重要なのは、繰り返し述べますが、決定の仕方が理にかなっているのかどうかです。
現代においては、参政権の配置の時に、年齢を軸としたある種の差別(区別)をすることは、ある程度合理的だ、という風になっています。
しかし、内容を「参政権」から「平穏の中の生存権」、とかに置き換えたとしましょう。話は違ってくる筈です。
 つまり、平穏の中に生きる権利を、年齢で区別しようとするのは、正しくない、とするのが現代社会の根本にあるはずです。 子供手当て、社会保障、育児制度、介護、などなどの諸々の制度がそれらを物語っています(これらについては、詳細を省きます)。

 b'+dの条件に於いては、必ず決定の仕方に敏感でなければならない、という義務的な縛りないしはルールが、働くことになります。
 そして、そのルールを度外視したもの、ルールから外れたものは、正しくないとか、間違っているとかいう言葉に置き換えられたり攻撃の矛先を向けられたりして、排除の方向に向かわされるということになります。

c' これについては、少々急ぎますが、みんなが不完全状態に陥っているというのが面白いポイントでもあります。

 「みんなで我慢をしよう」「みんな苦しいんだから」
 こんな言葉が使われている、古風な日本の社会にあてはまりそうな状況です。

ただし、私的には、かなり現代的な考えにも読み取れます。
 それは、(行き渡っているのは不完全という状況ながらも)構成員の全員が同じ結果になっている若しくはさせられている、という点です。
 これは、「絶対的平等」(昔の記事を参考)の観念、若しくは相対的平等のそれに通ずるものじゃないでしょうか。
 いずれにせよ、平等思想に近いものと言えます。
そして、平等思想を獲得しようとするのが、現代の社会、だといえると思います。

 平等思想をおしすすめた結果、全員が不完全に陥ってしまった、と読むこともできるでしょう。
b' よりマシになったのか、なってないのか。
 これは論者によって、読み手によって、分かれるところだと思います。


 以上、たいへん粗雑な考察でした。
個人的には、全然書いてないc'の方に、より面白みがあると思ってます。
まぁ、共産的な考え方かもしれません。

 aの条件と現実世界のそれとが異なっている、ということから出発をはじめました。
いわばaの条件は、つまり、人1人それぞれに1つのものでようやく完全、という考え方は、「理想」なのかもしれません。 近代人が思い描いたような。
 わたしたち現代人は、もしかしたら、近代人が思い描いたような図面に従って、あれこれ社会を考えている、つまり方法論を考えるのに傾倒しているのかもしれません。

こんな感じですが。w やはり、あまりうまくはまとまりませんでした。
 もと(条件)が不完全だと「考えられている」ものを、どうやって配分するかというテーマでしたからね。これは、僕にとっては圧倒的に難しかったです。
それではっ!

 misty @

 

拍手[0回]

不完全性のなぞなぞ


こんばんは、mistyです!
俯瞰税! なんだこれは笑、不完全性の「謎」ではありません。

「なぞなぞ」です。
ちょっと、変わった話をしようと思います。つまり、自分でも答えが見つかっていない事柄ですw

以下の、命題(条件に近い)を置きます。

命題:「あるひとつの、不完全な供給ないし需要、または存在(状態)がある、とする。」

 この条件(命題)の下において、人との関わりを考察したいと思います。

ちなみに不完全とは、’完全’、完全に満たされている、の反対の観念。

そしてもう一つ、前提として、10割=完全(な状態)、とします。
つまり、3割も、7割も、不完全であるということになります。
12割、17割などは超過です。

たとえとして、幾つかのりんごと、10人の人々がいたとします。

上より、
前提条件a :「人1人に対して、りんご一個が供給されているのが、完全な状態であるとする。
人1人に対して0.5個は不完全、1.3個は超過である。」

 さて、りんごの数を8個だとします。10人の人々は、りんごの配給をうーんと考えます。
配給方法を、あれこれ考えだします。

大きく、以下の2つの場合を考察することにします。

b:まずは簡単方法 → ’多数決の原理’ を用いる 

 これは、安易ですが中々強力な武器です。困った時の多数決です。

 具体的なシステムとしては、1つはジャンケン。 ジャンケンって、多数決の原理に結びつくことが多いですよね。
 ジャンケンをして、8人が勝って、2人が負ける、そのような状況を作出する。
そして、勝った8人にりんんごを支給し、負けた2人にはおあずけ。

すると、1個=十割のりんごをもらった8人は完全状態を満たし、りんごをもらっていない=0個りんごをもらっている2人は不完全状態になった、と置き換えられます。

8人→ 完全 2人→ 不完全

 完全の方が多いとはいえ、2人の人が不完全に陥っている、ということを指摘します。

c:ちょっとややこしい方法 →全員に平等に行き渡るようにする

これはつまり、8÷10、を意味します。
 ここでもし、命題aで設定した「あるもの」が、もし分離不可であったならば、この割り算は

8÷10=1あまり2、
となり、bでやった方法とあまり変わりがありません。 りんごは切れますw 良かった良かった。

つまり、
8÷10=0.8
 実際には、ちょっと面倒くさそうです。
まず、1個を、じゅうぶんのはち、とじゅうぶんのに、のラインで切って分けます(前者を最初の一人に渡します)。

0.8+0.2

次の人も0.8個もらわないといけないのですから、次のりんごを6:4の所で切らないといけないようです。
さて、そのやりとりをざっと足し算の式で示すと、以下のようになる。

0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8+0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8=10
 

りんご五つ目の所で最初に返りますので、8:2と6:4の切り目を何回か(もうここは数えません笑)入れると、うまく行き渡るようです。

 さて、しかしこの状況は、0.8=不完全を、10人全員が共有している、とも置き換えられます。

10人→ 不完全

 全員が完全ではないのだけれども、その不完全さはかなり完全な状態に近い(8割→10割)ということを指摘しています。

 私達の社会では、いろんな「不幸」のシステムが存在します。その数あるシステムのうちでも、上のb/cのどちらかのケースに類似しているものが多いように思えます。

 b, cどちらの方法をとるにせよ、「不完全」の状態は消えません。
完璧に消去させるとするなら、最初の前提条件a:「人1人に対して1個支給されるのを完全」を操作することです。
もうちょっと詳しく入ると、つまり、上の話では、1人に対して1個のりんごが与えられるのが”少なくとも不幸せではない”状態であったということが、暗黙の了解にあったということです。
 ですからこの暗黙の了解にメスを入れられることができれば、どうにかなるかもしれません。

 しかし、暗黙の了解というのは得てして手ごわいものです。やっぱり人々は、隣の人がりんごをちゃんとまるまる1個もらっているのに自分が半分だったり6割だったり7割だったりすると、不満・不平・疑問・怒りの念を感じずにはいられないわけです。

 さらにここに、もうひとつ別の、暗黙の了解はあります。
「隣の人が1つもらえるのなら、おれも同じように1つもらえるはずだ」
という意識です。
 変な話、隣の人というのが、王様であったり、武士の上の位であったりする人であれば、「王様は2個、自分は1個がアタリマエ」みたいな話になってきそうです。

 しかし考察では、「人」の属性を考察には入れませんでしたので、隣がもらえるならおれもという暗黙の了解は大前提としてあります。

 8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)

 ・・・どちらがいいか?

そんな質問には答えがありませんが、世界はこの2極で案外回っていることも多い気がします。

これを軸に、次回に回したいと思います。

misty @
 

拍手[0回]

相対的平等の謎

こんにちは、mistyです(*^。^*)

憲法学でも扱われることの多い、「平等」に関連した、とある一つの話を繰り広げたいと思います。
参考文献や判例などを、本来であれば、適時あげたい所ですが、いかんせんややこしくなるので、あまり触れずに論考したくおもいます<(_ _)>

相対的平等の謎

 現日本国憲法14条1項に、差別禁止規定が置かれています。 性別や社会的地位などの条件から、差別はしてはならないことを憲法自身が定めているということです。

ちなみに、14条1項に掲げられている条件については、考えようには2つあります。一つ目は、憲法がそれに限って差別することを禁止したというもの(限定列挙説)、もう一つは、歴史的背景をもとにして特にそれらの禁止を定め、広く差別一般を禁止するというもの(例示規定説)、の二つです。

限定列挙説を採れば、14条1項に書かれていること以外の事由に基づく差別は、憲法自身は特に何も言っていないということになります。

おわかりでしょうが、差別禁止規定の読み方に関しては、後者の例示規定説が支配的です。
 それは、日本国憲法が築かれるにいたった、特に差別や不平等の歴史・系譜を鑑みてその調合を図ろうとすると、後者の方が妥当となるからです。

 つまり、憲法は、広く、差別を一般的に禁止していることになります。
しかし、おかしなことに、日本には、未だあらゆる差別状態・状況が残っています。
しかもそれを、憲法が自ら認めているものもあります。

 それらを、相対的平等と呼ぶことがあります。
相対的平等に対置する概念は、言葉返還のみですが、絶対的平等です。
絶対的平等とは、ありとあらゆる差別を禁止すること、平等であることに絶対の重きを置くことです。

 14条1項に関連して言えば、読み方としては上述の例示規定説を採りつつも、この文言は絶対的平等を定めているものだ、とする見解と、いや相対的平等を規定するものだ、との、大まかには2つに分かれるようです。

相対的平等とは一体なんなのか?

例を出します。 青少年保護条例に基づく性的自由に対する介入、などがそうです。
人は、性的自由を持っている、とひとまず考えます。
 このことは、21条の”自由”を定める条項から導かれる、と考えてもいいと思います。

それでは、青少年(成人に満たない=年齢の幼い”人”)の、性的自由を認めてもいいのか?
ここで、21条の自由規定を重視する立場に立つと、その(性的)自由を、平等に青少年にも押し広げ、彼の自由は尊重される! と考えることはできます。

しかし、それに反対する考えとしては、例えば、青少年に性的自由が与えられることを認めてしまう結果として、彼の適切な育成が阻まれる、と構成するものがあります。

適切な育成ですから・・・憲法としては、13条の幸福追求権条項などがこれを、間接的に保護していると言えなくもないかもしれません。
 しかし、より一般的には、11条の「公共の福祉」が、この性的自由に対する、大きな制限(制約)として働く、と説明されます。
つまり、とりあえずは人一般に、性的自由を認める。しかし、例えば青少年などのように、あまりにも幼少の者にそれを認めてしまうことは、適切な育成等の観点から、返って不都合である。
 だから、青少年の性的自由に一定の制限を加えてもよい、ということになります。

青少年保護条例は、かかる目的のもとに定められた条例(法的性質を担うものとしての)です。


こういった一連の状況は、ちょっと見方を変えれば、年齢に基づく不平等状態を引き起こしている、とも見ることができます。
なぜなら、彼は、年齢の上下という条件によって、ある人々が享受できる自由の状態を、引き受けていないという見方もできるからです。
 14条1項がこのような相対的平等を定めたものだ、とする見解を採ると、この青少年保護条例規定も、憲法は認めていることになります。

相対的平等とは、こういった、ある一定の合理的範囲における差別は認めてもよいとする論理です。

それでは、合理的範囲、とはいったいなんなのでしょうか?
この範囲の確定をめぐって、裁判所や学者たちはそれぞれの判断を下している状況にある、というのが昨今です。

裏をかえせば、合理的範囲の線引きのいかんによって、この相対的平等は内容を変えられることにもなるというのが私の見解です。
上の例でいえば、青少年保護条例は、誰もがみとめる合理的範囲における差別だから、と理由づけをすることによって、事実上は差別に当たっているとしても、それが一応認められる不平等規定である、ということになります。反対に、誰もがそうは考えていないから、と推移すると、この条例の平等/不平等のラインが危うくなります。

ちなみに、判例・学説とも、上の青少年保護条例については、支配的な見解よると相対的平等の範囲内である、と考えられていそうです。

平等か不平等かは、何が合理的差別にあたるかの判断(客観・主観いずれにおいても)によって、とりあえず決められています。 意外に、危ういものです。

絶対的平等などないのだ!との主張は現実的ですが、しかし、その根拠を考え出すとなかなか出てきません。
とりあえずは、合理的差別=平等の定式のもとに、私たちは日常生活を送っているというのが今の日本です。

misty

拍手[0回]

個人について


こんばんは、遅い時間に、mistyです(*^。^*)

個人について、と題しまして。

最近では、本当によく”個性”の声が上がっています。個性の時代、と言う人まで、増えるようになってきました。

こうした一連の、各人の個性に重きをおく考え方や思いは、個人主義の流れをひいているとみることができます。
個人主義とは、主に戦後からバブル期にまで見られていたとされる、特に行動の場面での、集団主義を反対の極に置く考え方や思いです。

個人主義の内部に、個性主義が内包されている、と説明することもできるかもしれません。
 そして重要な事柄は、この個人主義は深化しているということでしょう。

もうひとつ、最近コエダカニ叫ばれている事柄の中に、”自立性”というものがあります。
説明するまでもないことです。
もうひとつ、”主体性”というものもあります。
 ちなみに主体性については、過去の記事で、簡単な論考をしました。主体性に関しては様々な議論や論考が今でも残っています。

私は、上の、”個性”、”自立性”、”主体性”の、この3つが、ある一つの線・ラインを形成して、個人主義を益々強めているように思います。
これが先に言った、個人主義の”深化”です。

しかし、日本では面白い事に、なおそういった個性をいわば摘み取る、重きを置かない、没個性的主義も残存しています。 「自重」の観念です(これも、主体性についての過去記事で触れました)。

自重主義とでも呼べるのか、様々な局面において、社会では自重することをよく有形的・無形的に要求されます。こういった社会が、日本特有のものであると言ったのが、ルース・ベネディクト「菊と刀」でした。

一方では個人に飛躍を与えるイデオロギーがありながら、他方ではそういった個人を現前化させようとしないイデオロギーもある。
現在の日本は、この2つの異なる要請を持つ声に、翻弄されている社会になっていると、私は思うのです。

そして、ほかならぬ、わたしたち”個人”が、こういった局面において同じように翻弄し、さまよっている。もしくは、さまよわさせられている。これが、現状の姿なのでは、と考えられます。

自重すべきか、それとも現前化させるべきか・・・。この2極をもって、迷ったりするという構造がある。
例えば、今では比較的落ち着いた言葉ですが、2008年くらいのころから「KY(空気読めない)」という言葉が流行ったりしました。 
このKYという概念は、まさに上のような2極の迷いの中で、あったのではないでしょうか。例えば、場の雰囲気を察して、”自分”を出すべきタイミングではなかったにもかかわらず自分を出してしまって、KYだと宣告されるような場合です。

個人主義は、こういった日本”特有”の文化圏の中で、迷いの位置にもあるといえます。自重を重んじる社会では、こういった主義はなじまないどころか、攻撃を受けるからです。

これから、”個性””自立性””主体性”の3点を基軸に置いた個人主義がどうなっていくか、非常に興味深い・懸念されるべき事柄だと思っています。

そんなこんな。

misty @

拍手[0回]

江戸川乱歩「芋虫」


こにちはっ、ミスティです☆彡今日は江戸川乱歩の作品「芋虫」についてちょっとば(ちょっとば?笑)。

@江戸川乱歩の「芋虫」

とかくこの作品は恐ろしい。江戸川乱歩の風変わりな怪奇文学と言われる所の要素がつまっている、と思います。

以下は、「芋虫」の内容も触れたりするので、た・楽しみがっ!って方はスルーをオススメしておきます笑 はい。


前提として見落としてはいけないのは、乱歩のあまりに豊かな描写です。平面である所の文字体から、五感を、そして更にシックスセンスとでも言われるような、風景描写の怪しい感覚までをも感知させる所があります。
これは、少なくともそう体験させられる読者にとってみれば、並々ならないことです。コミュニケーションの果てを越えている。そこに、文芸ならではの怪談、というスリルを十分に楽しむことができます。

そして、「芋虫」も、その例外ではありません。乱歩が設定したいくつもの事柄、すなわち登場人物の容貌、性格、生い立ち、舞台の外観、語られる物語の前のストーリーなど、幾多にもわたる場所において、その手腕をいかんなく発揮させています。

しかし、この「芋虫」の魅力は、さらに違う所にある。 それは、これを読みおわった後の途方もない気持ち悪さです。その気分の悪さは、確かに描写のあまりの濃厚さゆえの所もあると思います。しかし、次の事柄を忘れてはならないのではないでしょうか。

この主人公は、最後の妻の行為によって、完全に人間性を引き剥がされた…? 心も、そして身体までも?そしてそれが、猿どころか、僕達がしばしば「気持ちの悪いもの」、とイメージを貼っている、うにょうにょと動く「あの」芋虫と等しく同じであると、宣告した…?

これは、大変に恐ろしいです。ここに、乱歩ゆえんの怪談の面白さが最大限にも現れていると考えられます。 つまり、文芸の範疇でありながら、この作品の作者は、どうやら主人公を人間から芋虫のレベルに落とした、見放した、と錯覚してしまうことが起こりうるのです。そして、それを受けてか、読者としての私達も、芋虫と化してしまった、かつては人間であったはずの主人公の成れの果てと、対峙し続けなければなりません。

物語は、容赦しません。芋虫から、私達が抱きがちな「気持ち悪さ」を引き算させることを許しません。かわいらしい芋虫だとか、慣れしたしんだ芋虫とかのイメージ、ラベルに転換させるのは、難儀です。いずれにせよ、物語の中では、「汚いもの」「気味の悪いもの」「触りたくもないもの」といった属性をもつそれのイメージを、人間であるはずの主人公に押し付けます。そこで、読者自身も酔ってしまうわけです。この物語の中で、私は彼が「あの」芋虫になることをまざまざと見せつけられてしまった…、と。

以上のような、マイナスのイメージは、僕らが勝手に芋虫に付けたものです。ただ、そのイメージを付けたことによって、次のような思い・概念が生まれます。「僕らは、「あの」芋虫とは、違う筈だ」。


そしてこのような心象に対して、乱歩は、人間と、それから忌み嫌われるものとしての芋虫の交錯を見事に叩きつけます。だから、後味悪く感じる読者もいるのです。

これは、面白い事柄です。怪談・小説はもちろんフィクション、虚構の世界です。ただ、乱歩が見せた人間倫理観をそれとなく感じとってしまうと、やはり一瞬ではありますが、現実の僕達の倫理観を参照せざるをえなくなります。

だから、この芋虫という話は、怪談話の範囲で実に良かった、とも思えるのです。怪談、フィクションの世界だからこそ僕達読者は楽しむことができる。これは、素晴らしいことだと思います。

特に、登場人物の立場になって読み込もうとする読み方は、この物語にとっては、ある意味危険で、だからそこ楽しいとも言えるでしょう。

ここにおいて、英語圏由来のホラーとは違った概念の、「怪奇」を見いだすことが可能です。驚かせるのでもない。怯えさせるのでもない。
ただ、自分の内面、奥のそのまた奥の方から感じる一緒の気味の悪さが、醍醐味とでも言えるでしょう。世界の乱歩、とかあまり聞きませんが、このような、「ズレた」文芸は、しかし、世界の文学と比べても少しも引けをとらないと思います。

よく似た、怪談ではないのですが、話としては安部公房の「棒」などがあります。これも、恐ろしいです。恐ろしい、ちょっと気分が悪くなる、と感じる読者にとっては、「芋虫」の話と似たような、人間倫理観を、自己の内から問わせるようなオートマチックな仕掛けになっている、と読むことも可能です。

いずれにせよ、それをちゃんとフィクションの世界であるところの「怪奇」に、包み込ませていることはどのみち素晴らしいことでしょう。現実と虚構をいったりきたりさせて、その意味で私達読者の心持ちをある種混乱させ、愉快にさせ、でも最後にはフィクションだからといって現実世界に戻らせてくれる。

純粋で、だからこそ今なお力強い、怪奇・怪談の源泉、それが乱歩の作品だと考えられます。

お終い(*´∇`)
ミスティ

拍手[0回]

主体性批判 続き 完 

主体性批判
(2)からの続き

私たちは、自己の言説において、果たしてどれほどその言説が自己のみからのものに由来するのかという事について、どこまで断言することができるだろうか。事態は、むしろ逆なのではないか。

すなわち、20世紀の初頭の言語学や第二次世界大戦後影響力を高めていった言語論的転回という現象が語っているように、私たちの発する言葉は、何らかの文化によって決定されているのではないか(このブログのこの記事でさえもがそうであるということを述べている)。全般にわたってとはいかないまでも、わたしたちはある程度この事柄を認めることから逃れ得ないのではなかろうか。なるほど、一義的にそう解する事にも同様の無理はあるであろう。しかし、規範としての文化を考察したとき、つまり文化が人々の道徳観念やそれらに基づく感情論を規定するものだと捉えるとき、それらは明らかになってくる

(3)日本の場合 ー恥の文化を例にしてー
たとえば、日本には恥の文化(shame culture)が根付いている、とベネディクトは述べる。彼女の定義によれば恥の文化とは、恥辱感を道徳の基本体系の原動力としている文化のことを示す。そしてそれは、罪意識を道徳観の基本体系の原動力とする「罪の文化」と区別をする。
彼女が、日本人は世間を気にするという時、彼女は同時に世間を気にすることこそが最良の徳のひとつであると述べたことをも忘れてはならない。つまり、他人の顔色を伺ったり、世間体を気にしたりだということがらは、現代社会においては過剰されたもののそれとしてはマイナスイメージが付着しているが、ベネディクトはそうではない、むしろプラスに賞賛される文化社会という神話を日本に見出すのである。彼女はもうひとつ、日本人の道徳観念に通ずる重要な行為として、「自重」(彼女はローマ字Jichoでこれを補足説明している)を挙げる。自重は、世間を意識することによって導かれるものである。彼女は、日本人が「世間などなければ自重しなくてもよいのだが」と言う場合のことを、「極端な言い方」「強烈な反応」だとか記述する。 つまり、彼女は外部化された視点に立っているから、世間体や周りを気にすることをーこれが、たとえば「和の文化」とでもいわれるものなのだろうかー徳と感ずるわたしたち日本人のことを奇異に感じているようである。


(3 加えて、規範としての文化を、複数人の人が共有していることを必要とする。なぜなら、個々が抱く文化と全体としてのそれは、やはり妥当する範囲においても違いがあるからである。
(4 ルース・ベネディクト著「菊と刀」(講談社学術文庫、2005)271-2頁。

 そうしてかようの外面を整えようとする規範文化においては、恥辱感といったものが徳目におかれる限りは、わたしたちは内面のせきららな告白など、しようとはしないのである。自己の外面的要素を価値におくこの恥の文化が妥当する範囲においては、「告白はかえって自ら苦労を求める」とベネディクトは述べるように6、自ら進んで内面的告白などそうそうしない。反対に、「罪の文化」では、徹底的な罪意識などを、例えば懺悔といった習慣・制度が示すように、それはむしろ積極的に告白することで自己が感じる煩悶とかいった苦しみを軽減させることがなされるのである。アメリカ人も普通に恥辱にさいなまれることはあるが、日本人がそれにまとわりついているのとは明らかにレヴェルが下がったものとして日常が営まれているらしい。

(5 前掲脚注4 270-7頁。
(6 前掲脚注4 272頁。



(4) (3)のまとめ
3節での話を主体性への話に戻そう。 つまり、自分の内面的な事柄を告白するか・しないか/だまっているか・言葉に還元させるか、といった内容は、恥の文化が妥当する日本社会においては、大きくかかわってくるファクターなのである。自重という言葉がまさにその字義通り示すとおり、恥の文化内においては、自己の主体性よりも、世間への自重のほうにより比重がはたらく。つまり後者の方がよりよく賞賛され、価値付けられ、高められる。ここでは、自己の主体性といったものは自らが、また文化社会が規定する恥の概念のもとに大きく作用される、といえるのである。

(5)主体性を究極の価値たらしめるもの

往々にしてこの主体性というものは、自由の尊重というひとつの理念に裏付けれている。そして、次のことが重要である。そのように裏付けられた主体性は、いったい何に向かってその価値を最大限のものにあげるのだろうか。

実存主義の提唱者として語られるサルトルは、この自由で主体性をもった人間というものは、えてして歴史の発展、ひいては人類の発展を促す方向に働くものとして重要であると説示する。例えば、19世紀末以降での民主主義と自由主義の結合、革命による社会主義(国)の誕生、そして共産主義を、これをある系譜のもとにすなわち発展していくものとしての見方がある。そして、後者の人類の発展といった事柄については、ダーウィニズム・進化論などが関係している。サルからヒトへ、などといった進歩は、いち学問の中だけに見出すのではなく、人類からその先へと未来に向かって彼の発展を考えるものである。

上のような基盤のもとでは、時間というものは一直線に、しかも上向きに向いてあるとも捉えることが可能である。実存主義は、そういった歴史や人類の向上という所に何よりも意義を見出した。窮極の価値は、そのような上向きのところに伸びているという限りにおいて付与されるものであった。主体性をもって、それらの課題・未来に向かっていく、という限りにおいて、主体性は大切な概念であったのである。

(6)実存主義を超えて
しかし、小節(4)でみたとおり、ある一定の文化の範囲では、主体性が別の理由(自由・不自由、歴の発展等から排されるわけではなかった)によって否定・軽視される。また、2度の20世紀における世界大戦を経て、私たちは一層に、自分達の作り上げた思想や行動を反省する必要に迫られた。
つまり、空間的にも、時間的にも、実存主義、「主体性をもつことによって歴史や人類の向上を目指す」、という神話は、まさに文字通り神話としてみる見地が広がらざるをえなくなった。主体性は、場所的にも時代的にも普遍性を失ったのであった。

現代はポストモダンの時期だといわれるが、実存主義が終焉を迎え、構造主義もいったんの休憩を見、今そういったものを乗り越えての、新たなる統一した世界観が、永らく模索されている。
そして戦後日本においては、個人の尊厳というある一つの理念が、それとして標榜されている。それは、行動の主体を個人に還元させる可能性にも契機を与える。個人主義社会といわれて久しいが、現代を生きていくためには、個人個人がよりいっそう強い軸をもつことを余儀なくされた。その中で、主体性もおおきなひとつとして扱われる。

 私たちがはじめにみたように、わたしたちは常に主体性をもって言葉を話しているとは限らない。同様に、常に主体性を持って各行動をするといった器用な人類でもないのだ。それを、ニヒルに捉えるのではなく、一種の事実として受け止め、私たちがなにができるのかをひとつずつ模索していくのも、また時代の要請であろう。文化人類学者レヴィ=ストロースの、「われわれはてさぐりでやっていくしかない」という言葉には、文化人類学の手法としてのそれだけではなく、私たちが生きていく上での、一つの指標として働くことがある、と言えるだろう。


(7 小野功生監修「図解雑学 構造主義」(2004, ナツメ社)14-7頁。
(8 川田順造「レヴィ=ストロースから学んだもの」『現代思想 1月号』(2010, 青山社)51頁。



@おちまい@

ご意見・ご感想お待ちしております♪
misty @
 

拍手[0回]

主体性批判


 こんばんみ、mistyです。(#^.^#)

今日ひとつ大学の試験がありまして、たった一つ受けただけで消費してしまいました笑
 あー試験勉強なんてものは、あんまり楽しくないなぁ。。

まぁいいや。笑
本当はまだ試験勉強続けるべきなんですが、そういったちょっとした「逃げ」の気持ちから、「主体性批判」なる記事を載せます。(゜-゜)

@主体性批判

(1) わたしたちは、常に主体性を持って言葉を話してはいない

 最近では、よく「主体性」に関する言説などを改めて日本でよく聞く。特に企業での人材育成の場面などで、それは多い。「ちゃんと主体性を持って行動しよう」などといったスローガンである。

しかし、わたしたちはいつでも主体性をもって行動しているわけではない。
この言い方は、よく批判を受ける。反発心が働く。んなわけない、と。 わたしたちは主体性をもって、常に行動している、と。
主体性とはさしずめ、「自分の(よき)主人であること」、である。なるほど、わたしたちは確かに自分のよき主人となり、自らに責任を持って行動していることもあるだろう。しかしわたしたちは、本稿が明らかにするように、いつでもそのような態度と行動を完全には取れはしないのだ。

 このことは、フランス現代思想などでは、20世紀初頭から激しくいい争われていることでもある。
ちなみに、主体性と歴史の発展というシンボルを掲げて広く社会に活動を呼びかけていた、哲学者サルトルなどが提唱したそれを、実存主義と呼ぶことがある。
 同じく20世紀に活躍したガタリに言わせると、フランス思想に於いては、実存主義は「とっくに終わっている」(注1)ものらしい。

(注1) ジル・ドゥルーズ「差異と反復」(財津 理訳、1992、河出書房新社)訳者あとがき509頁。


(2)言葉に関して

 特に、わたしたちが言葉を使ったり(つまり、しゃべったり文字を書いたり、というコミュニケーションの手段として)する時、このことはよく明らかになる。常に自分の動機や意図に基づいて、言葉を発しているという現象を、わたしたちはどう捉えたらよいのか。その自分の動機や意図は、しかし、他者等の媒介がない限り、どうしてそれが動機や意図となりえようか。このことは、自分というものを、少し突き詰めて考えると、それはたちまち雲隠れしてしまうといった事柄によく似ている(注2)。


(注2) これに関しては、過去記事「伸びる身体・広がる意識」(アドレス:http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/47/http://misty8823.blog.shinobi.jp/Entry/48/)や鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」(1996, 講談社)、同氏「悲鳴をあげる身体」(1998, PHP研究所)等を参照。

拍手[0回]

カレンダー

03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30

フリーエリア


音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

最新コメント

[05/19 backlink service]
[05/05 Kame]
[09/27 misty]
[09/27 A子]
[07/07 misty]

最新トラックバック

プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


バーコード

ブログ内検索

P R

カウンター

アクセス解析

カウンター

Copyright ©  -- フルハウスは嗤う --  All Rights Reserved
Design by CriCri / Photo by Geralt / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]