発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。
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オルタナティヴな力。 つまり、<動>から<静>への移行である。
ありとあらゆる、考えられる色々の手段を使って、静的な力を行使するに至るのである。
ここで、法律=法は、動と静の区分けの指標になりうるかもしれない。 動的と静的は、正と不正に対応する。
つまり、法律すれすれの所で、勝負をかける。
簡単な例を出すと、話が整理しやすい。 例えば、核兵器によるかくらんという手段を用いた場合はどうか。
核兵器は、国ごとによって立法は異なるが、もしそれを使ってしまうという段階に達すると、国際法的にはアウトである。 なぜなら、それの行使によって被る、死者や難民の発生、自然環境の破壊は計り知れないからである。
この意味では、核兵器を使うということは、不正であり、すなわち動的な暴力だということができる。
しかし、核兵器によるかくらん行為はどうか。
かくらん行為には、様々な方法がある。 したがって、法律違反、または国際法やルールに抵触しない方法も、限りなくあるはずである。
文書によるやりとり、諸々の外交官の派遣、メディアを使った広告戦略―。
バックには、核兵器という”動的な暴力”をひそませているかもしれないが、表面上で使っているのはそういう類の力である。
法律違反スレスレの程度で、どこまで動的な暴力をそのまま”率直に”使った場合と同じかそれ以上の効果をもたらすか、ということをめぐって、力の行使の方法が考えられる。
そのとき、それらの同一の種類の力を、動的暴力に対して、静的な暴力と呼ぶことはできないであろうか。
思想戦略は、身体戦略にとってかわって、勢力の誇るものである。いや、そうであるべきであろう。
それは、例えば、WW2以降、表現の自由が、益々尊重されるタテマエをとってきたことが大きく関連すると思われる(表現の自由については、指摘すべきことに事欠かないが、ここでは立ち入らない)。
アメリカは、日本への思想の市場潜入+浸透という行為に、おそらく成功している。
少なくとも依存的でなかった古い日本を、国交なしでは立ちいかないという(国際社会)依存型社会へと日本を向かわせるのに、アメリカは一役どころか、かなりの影響を与えている。
それは、日本人の生活の変化一つとってみても分かることである(朝食はパンしか食べないという人が多数になった、等)。
それらは、ひとへに、アメリカ発の、”思想”の日本市場への輸出(あるいは輸入)、である。
ただ単に運ぶだけではなく、広告を効果的に使ってきたことが注目にあたいする。
広告は、人々の持っているニーズやウォンツを掘り出すという一般的な性質を持っていると、経済学の領域では様々に指摘されているが、それはここでも当てはまるであろう。
最後に、話をたばこ禁煙の話に戻そう。
つまり、たばこを禁煙するべきか/しないべきか の、善悪の判断については、実のところ観念や情念によって決定しているところがわれわれの内においては少なくないのである。
しかし、たばこ禁煙が、本当に”悪”なのか、という事柄についての考慮において、われわれは慎重さをいまひとつ欠いているのではないか?
アメリカが、生活の場面から掘り起こして、わたしたちに思想”戦略”を用いたように、ここでは、静的な”暴力”というものが、多かれ少なかれ働いているのではないか? そしてそれを我々は、しばしば見過ごしているのではないかー? 暴力の行使が起きているにもかかわらず。
暴力は、即発性のあるものである。それらは時に、理性を吹き飛ばす。
結論を述べると、昨今のたばこ禁煙[運動]の中には、少々やり過ぎているものがあるというのを否定しがたい。そうして、多くのやり過ぎていると感じられるものは、広告というものを媒体としたある種の”思想戦略”を行っているのではないかー?
ということである。
程度の差はあるが、アメリカが特に外交の場面で使っている、オルタナティブな力としての静的暴力の行使の構造と類似した― 一つの”力”を。
暴力の行使については、わたしたちは、いまいちど、もう少し敏感になる必要があると私は思っている。
たばこ問題をそういう切り口で開いてみると、見えてくるものはまったく少ないということはない!
以上! あまりまとまらなかったです! ← 笑
misty @
もちろん、この時点で「暴力」だとするのは早計である。
そこで、いくつかある中から、あるひとつの禁煙[運動]の一つの形態を取り上げよう。
大部分かどうかは定かではないが、ある一定の場合に多くみられる形がある。
「広告」(ないし、それを伴った呼びかけ[運動])である。
諸々の個人が手掛けたポスター、それの展覧や諸団体への提供物としての「作品」、たばこ箱に異様に大きく表示されたメッセージ、テレビCMを用いた呼びかけ、新聞に載っているチラシ・・・。
これらは、ひとえに、「広告」として、その性質をまとめることができるだろう。
上のような例は、近日にいたって、本当に多くなっていると実感する所もある。
政府が、2月末に、公共機関での喫煙を原則廃止すると言った案を検討していることが、かなり影響をおよぼしているのかもしれない。
しかし、それ以前から広告を用いた呼びかけ[運動]は、多数に存在していたはずである。
これら広告は、われわれの身体を直接しばりつけるものではない。すぐさま、喫煙者その人から、たばこを奪う、といった物理的力をもつわけではない。
その意味で、これらの[運動]は、決して動的(active)なものではありえない。
しかし、その事実が、一つのことを鮮明に浮かび上がらせる。
「広告」は、人々の身体でなく、人々の心の奥底に忍び込むような力をもっているのである。
それを「精神的(作用・力)」とまとめることもできるだろうが、内容に一歩踏み込むために、その表現をあえて避ける。
時に強烈(それらがしばしシンプルに見えるようなことがあっても)・過激な広告は、何より人々の心奥底へ訴えかける。内心に、ズドンと響かせるようなことを目的としている。
そのために、心に響くためのメッセージが、幾多にもわたって考えられ、そして応用されるに至っている。
何より表現にこだわっている面があるというのは、上のようなことが事実であることを物語っているであろう。
身体に影響をおよばさずとも、精神のもっと深い所へ、攻撃の矛先を向ける。
それゆえ、静的な暴力、というのである。
この時、静的な暴力動的な暴力は、ともに「暴力」であり、それらが力の優位の関係の上に立つものではない、ということを言っておかなければならない。
それらは、内容を同じくするため、ただその表象される様子・原動力・態様が異なると言うだけである。
とりあえず、ポスターやTVCMでの呼びかけといったものを、静的な暴力として呼ぶことを、一応了解されたい。
それでは、静的な暴力とは、どのようなことを意味するのだろうか?
動的な暴力に代わるものとして、静的な暴力がしばしば行使される、ということがあることを、挙げておきたい。
これは、話が飛んでしまうが、諸外国の昨今の外交戦略としてよく用いられているように、私には思われる。
「アメとムチ」という言葉があるが、少し似ているかもしれない。
アメリカは、良くもわるくも、外交戦略に長けた国である。
かつては、アメリカも、動的な暴力のみに頼って、若しくは動的な暴力を主として、外交をすすめていたことがあった。 冷戦期のアメリカ外交は、好例のように思われる。
軍事力。それらは人的資源と物的資源に大別される。兵士・兵隊・司令塔、ゲリラ戦隊等々が前者の場合で、核兵器・ミサイル、爆弾、航空、戦車などが後者の場合にあたる。
ひとつ覚悟して言わなければならないのは、アメリカは、自国の正義のためにしばしば他の一切の正義や善を侵害する傾向がある、ということだ。
それでも、アメリカは、軍事力の直接の行使を差し控えることもある。しかし、重要なのは、それで終わらないということである。
他の国との接触(とくに、緊迫した)を図るとき、たいへんに怖ろしいのだが、彼らの力をもってして、別の、オルタナティヴな行使を実行することがある。
(続く)
misty @
おはようございます、mistyです。
はやくも(?)、前回の続きです。
8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)
・・・どちらがいいか?
ということですが。
ここで、またある一つの事柄を定立してから話を進めたいと思います。
d: 「人は、なるべく「完全」を手に入れたいと欲する(ものである)」
これはつまり、0.3よりも0.5、0.7よりも1、1よりも3を選ぶ、といった感じです。このd条件を前提として、さらに
b' 8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /c' 全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの) と記号を置きます。
以下。
b' どこかに、完全状態を満たした人と、そうでない人との線引きをするものです。
その、線引きのやり方が、ここでは大きな問題となってきます。
(i) ’理にかなっていること’を重視する社会の場合
このとき、線引きのやり方は慎重でなければなりません。 8人と2人を区別する方法が、できる限り理にかなっていなければ、「不満」が、遅かれ早かれ出現します。
前回記事でみたような、ジャンケンはどうか?
ジャンケンは、ある一つのルールです。 何に対するルールかというと、物事の勝ち負けです。
じゃんけんで負けたからといって、「そんなことはない!」と、現前の事実を否定することはできません。
いわば、強制的な方法です(が故に、決まりやすい、その意味で簡素な方法であると言えるでしょう)。勝ちと負けをはっきり決める。
決まった後で、不平不満はなかなか言いにくいシステム、ともいえます。
ということは、これは、ジャンケンは、それをする前が大事となってきます。つまり、ジャンケンで本当に決めてよいのか?という問い。
りんごの例でいえば、これはジャンケンで決めて良い事柄の範囲内とも思えます。
しかし、例えば、国家からの社会保障であればどうか?(月一で、国家保障手当として1万円がもらえるか否か、とか) 参政権の付与であればどうか? 地球環境に対する取り組みを決定する場では?
このように、人にとっての、重要度の度合いによって、ジャンケンの方法は、疑わしくなったりそうでなかったりします。 つまり、重要度が低いほどジャンケンのような強制的な方法でもいいや、とする一方で、重要度が高いほど、ジャンケンのような粗雑な方法ではいけない、となるような意識システムが働きそうです。
理にかなっているかどうかを重視する社会では、いわば当然とも言えるかもしれない。
さて、いずれにせよ、ジャンケンは、このとき多数決の原理と結びつくものでありました。
勝ったものが多く、そしてそのものの完全を獲得できる、負けた者は、少なく、不完全を入手する。
何かを「多いもの」と「少ないもの」と分けるときは、それが理にかなっているか/合理的であるか が、強く問われると言えます。
逆にいえば、それが理にかなっていると言えるほど、多数決の原理を当てはめた線引きの仕方は、正しく、したがってそれに従わなければならない、ということになります。
選挙、というより投票を例にとって、かなり抽象的に、話の引き合いに出します。
りんごの場合と同じです。
投票権が8つあって、人は10人、とします。
ちなみに投票は、今の日本の社会体制では、1人1票が大原則ですから、上の例はすでに「不完全」になっているということができます(しかし現状を見れば、毎回の国会選挙などでは議員不定数問題が起こっているように、この大原則とは必ずしも一致していませんよね。)。
このもともとが不完全な状況を、分配して、なんとかマシにしようとする中で、完全/不完全 の線引きをハッキリ決める。
歴史的には、代表的なものとして、年齢をその線引きに使うものが多かったですね。現行法でもそのような態度が、タテマエとしてはとられています(投票権は、成人以上!)
今もです。 「青少年には、政治を判断する能力が成人に比べて欠けている」という話をもってくるわけです。
これを、仕方ない=理にかなっていること、だと、構成員のみんなが認めれば(「みんな」が、という条件は、民主主義の要請に基づくものです、後述。)、OKなわけです。
A、B、C、D、E、F、G、H、I、Jの十人のうち、BとFが非・成人であれば、
残りの8人に投票権を付与し、2人には与えない。 これで、OK(理にかなっている/正しい/合理的である)、となるわけです。
この投票システムではさらに、民主主義の要請が働きます。 上の、投票権は成人以上のルールに、誰か1人でも不満を抱いている者があれば、それは、その人からみると合理的ではないという状況になるわけです。
e.:(民主主義の根幹) → 人一人の権利や能力というものは、基本的に同じである。そして諸々の決定の場では、ゆえに、なるべく構成員全員の意見や主張に従う必要がある。
eが崩れている、または存在しない条件下ではどうか。
例えば、身分制。 フランス中世の、アンシャンレジューム等。
アンシャンレジューム(旧体制)下では、第一身分/第二身分/第三身分 と、人が3つに実質的に分かれていたとされます。 つまり、第一身分と第三身分とでは、権利や能力の量と質が異なるわけです。
第一身分の人の能力を3、第二身分を2、第三身分を1、とします。
先ほどの例ですが、第一身分をA、第二身分をB・C、第三身分をD~Jの5人とします。
ランダムに、配分します。
例えば、8を、2・2・1・1・1・1に分ける。それを誰かに与える。
A 0 B 2 C 1 D 0 E 1 F 2 G 0 H 1 I 0 J 1
この場合、完全状態にあるのは、B、E、H、Jの4者/不完全状態にあるのはA、C、D、G、Iの5者/超過にあるのはFの1者となります。
3・2・1・1・1・1・1に分けてランダムに配置すると、
A 3 B 0 C 1 D 1 E 1 F 0 G 2 H 0 I 1 J 1
この場合、完全状態にあるのはA、D、E、I、Jの5者/不完全状態にあるのはB、C、F、Hの4者/超過にあるのはGの1者になります。
いずれにしても、ジャンケンの時の8:2にはならず。つまり、決まり方はごちゃごちゃになります。
重要なのは、繰り返し述べますが、決定の仕方が理にかなっているのかどうかです。
現代においては、参政権の配置の時に、年齢を軸としたある種の差別(区別)をすることは、ある程度合理的だ、という風になっています。
しかし、内容を「参政権」から「平穏の中の生存権」、とかに置き換えたとしましょう。話は違ってくる筈です。
つまり、平穏の中に生きる権利を、年齢で区別しようとするのは、正しくない、とするのが現代社会の根本にあるはずです。 子供手当て、社会保障、育児制度、介護、などなどの諸々の制度がそれらを物語っています(これらについては、詳細を省きます)。
b'+dの条件に於いては、必ず決定の仕方に敏感でなければならない、という義務的な縛りないしはルールが、働くことになります。
そして、そのルールを度外視したもの、ルールから外れたものは、正しくないとか、間違っているとかいう言葉に置き換えられたり攻撃の矛先を向けられたりして、排除の方向に向かわされるということになります。
c' これについては、少々急ぎますが、みんなが不完全状態に陥っているというのが面白いポイントでもあります。
「みんなで我慢をしよう」「みんな苦しいんだから」
こんな言葉が使われている、古風な日本の社会にあてはまりそうな状況です。
ただし、私的には、かなり現代的な考えにも読み取れます。
それは、(行き渡っているのは不完全という状況ながらも)構成員の全員が同じ結果になっている若しくはさせられている、という点です。
これは、「絶対的平等」(昔の記事を参考)の観念、若しくは相対的平等のそれに通ずるものじゃないでしょうか。
いずれにせよ、平等思想に近いものと言えます。
そして、平等思想を獲得しようとするのが、現代の社会、だといえると思います。
平等思想をおしすすめた結果、全員が不完全に陥ってしまった、と読むこともできるでしょう。
b' よりマシになったのか、なってないのか。
これは論者によって、読み手によって、分かれるところだと思います。
以上、たいへん粗雑な考察でした。
個人的には、全然書いてないc'の方に、より面白みがあると思ってます。
まぁ、共産的な考え方かもしれません。
aの条件と現実世界のそれとが異なっている、ということから出発をはじめました。
いわばaの条件は、つまり、人1人それぞれに1つのものでようやく完全、という考え方は、「理想」なのかもしれません。 近代人が思い描いたような。
わたしたち現代人は、もしかしたら、近代人が思い描いたような図面に従って、あれこれ社会を考えている、つまり方法論を考えるのに傾倒しているのかもしれません。
こんな感じですが。w やはり、あまりうまくはまとまりませんでした。
もと(条件)が不完全だと「考えられている」ものを、どうやって配分するかというテーマでしたからね。これは、僕にとっては圧倒的に難しかったです。
それではっ!
misty @
こんばんは、mistyです!
俯瞰税! なんだこれは笑、不完全性の「謎」ではありません。
「なぞなぞ」です。
ちょっと、変わった話をしようと思います。つまり、自分でも答えが見つかっていない事柄ですw
以下の、命題(条件に近い)を置きます。
命題:「あるひとつの、不完全な供給ないし需要、または存在(状態)がある、とする。」
この条件(命題)の下において、人との関わりを考察したいと思います。
ちなみに不完全とは、’完全’、完全に満たされている、の反対の観念。
そしてもう一つ、前提として、10割=完全(な状態)、とします。
つまり、3割も、7割も、不完全であるということになります。
12割、17割などは超過です。
たとえとして、幾つかのりんごと、10人の人々がいたとします。
上より、
前提条件a :「人1人に対して、りんご一個が供給されているのが、完全な状態であるとする。
人1人に対して0.5個は不完全、1.3個は超過である。」
さて、りんごの数を8個だとします。10人の人々は、りんごの配給をうーんと考えます。
配給方法を、あれこれ考えだします。
大きく、以下の2つの場合を考察することにします。
b:まずは簡単方法 → ’多数決の原理’ を用いる
これは、安易ですが中々強力な武器です。困った時の多数決です。
具体的なシステムとしては、1つはジャンケン。 ジャンケンって、多数決の原理に結びつくことが多いですよね。
ジャンケンをして、8人が勝って、2人が負ける、そのような状況を作出する。
そして、勝った8人にりんんごを支給し、負けた2人にはおあずけ。
すると、1個=十割のりんごをもらった8人は完全状態を満たし、りんごをもらっていない=0個りんごをもらっている2人は不完全状態になった、と置き換えられます。
8人→ 完全 2人→ 不完全
完全の方が多いとはいえ、2人の人が不完全に陥っている、ということを指摘します。
c:ちょっとややこしい方法 →全員に平等に行き渡るようにする
これはつまり、8÷10、を意味します。
ここでもし、命題aで設定した「あるもの」が、もし分離不可であったならば、この割り算は
8÷10=1あまり2、
となり、bでやった方法とあまり変わりがありません。 りんごは切れますw 良かった良かった。
つまり、
8÷10=0.8
実際には、ちょっと面倒くさそうです。
まず、1個を、じゅうぶんのはち、とじゅうぶんのに、のラインで切って分けます(前者を最初の一人に渡します)。
0.8+0.2
次の人も0.8個もらわないといけないのですから、次のりんごを6:4の所で切らないといけないようです。
さて、そのやりとりをざっと足し算の式で示すと、以下のようになる。
0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8+0.8+(0.2+0.6)+(0.4+0.4)+(0.6+0.2)+0.8=10
りんご五つ目の所で最初に返りますので、8:2と6:4の切り目を何回か(もうここは数えません笑)入れると、うまく行き渡るようです。
さて、しかしこの状況は、0.8=不完全を、10人全員が共有している、とも置き換えられます。
10人→ 不完全
全員が完全ではないのだけれども、その不完全さはかなり完全な状態に近い(8割→10割)ということを指摘しています。
私達の社会では、いろんな「不幸」のシステムが存在します。その数あるシステムのうちでも、上のb/cのどちらかのケースに類似しているものが多いように思えます。
b, cどちらの方法をとるにせよ、「不完全」の状態は消えません。
完璧に消去させるとするなら、最初の前提条件a:「人1人に対して1個支給されるのを完全」を操作することです。
もうちょっと詳しく入ると、つまり、上の話では、1人に対して1個のりんごが与えられるのが”少なくとも不幸せではない”状態であったということが、暗黙の了解にあったということです。
ですからこの暗黙の了解にメスを入れられることができれば、どうにかなるかもしれません。
しかし、暗黙の了解というのは得てして手ごわいものです。やっぱり人々は、隣の人がりんごをちゃんとまるまる1個もらっているのに自分が半分だったり6割だったり7割だったりすると、不満・不平・疑問・怒りの念を感じずにはいられないわけです。
さらにここに、もうひとつ別の、暗黙の了解はあります。
「隣の人が1つもらえるのなら、おれも同じように1つもらえるはずだ」
という意識です。
変な話、隣の人というのが、王様であったり、武士の上の位であったりする人であれば、「王様は2個、自分は1個がアタリマエ」みたいな話になってきそうです。
しかし考察では、「人」の属性を考察には入れませんでしたので、隣がもらえるならおれもという暗黙の了解は大前提としてあります。
8人が完全で2人が不完全(その程度は、0割という相当なもの) /全員が不完全(その程度は、8割という限りなく10割に近いもの)
・・・どちらがいいか?
そんな質問には答えがありませんが、世界はこの2極で案外回っていることも多い気がします。
これを軸に、次回に回したいと思います。
misty @
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