(3)伸びる身体、広がる意識
話を少し変えて、はじめにまず鷲田による身体論を簡単に記述しておきたい。 全体としては、身体というものがいかに意識によって作られた産物であるか、という謎なぞみたいな話ではある。しかし、力点はアイデンティティをめぐる問題、生と死をめぐる問題、そして他者と生きることの何よりの大切さ、等に置かれており大変示唆に満ちている。
以下、そのほんのごく一部だけを簡単に引用したい。
…身体とは皮膚に包まれているこの肉の塊のことだ、と、これまただれもが自明のことのように言う。が、これもあやしい。たとえばけがをして、いっとき杖をついて歩かなければならなくなったとき、もちなれぬ杖の把手(とって、括弧付引用者)の感触がはじめは気になってしようがない。が、もちなれてくると、掌の感覚は掌と把手との接触点から杖の先に延びて、杖の先で地面の形状や固さを触知している。感覚の起こる場所が掌から杖の先まで延びたのだ。同じようにわたしたちの足裏の感覚は、それがじかに接触している靴の内底においてではなく、地面と接触している靴の裏面で起こる。わたしたちは靴の裏で、道が泥濘(ぬかるみ、括弧付引用者)かアスファルトか砂利道かを即座に感知するのである。…
鷲田清一「悲鳴をあげる身体」(1998、PHP研究所)
早いが話、ジャンプ漫画「ワンピース」の主人公ルフィのゴムゴムの実の写実を想像してもらいたい(びよよーんと腕が伸びるあの姿である。)鷲田はこのテクストでは杖や靴をあげ、杖をつく際は掌が杖の先までびよーんと、靴で歩く際は足裏の皮膚から靴の裏面までびよんと伸びたりすることを述べる。感覚体である所の身体を前提におくと、無理のない解釈だ。
他にも、例えば朝起きた時は普段の身長よりも少し高くなっている。到底届きそうにない戸棚の中のグラスを取ろうと、気合い入れてうーんと力を入れると、腕がホントに伸びるような気分になる。
往々にして私たちの身体は、場合に応じていろんな箇所が伸びていくみたいだ。
意識も、似たような所がある。普段は、意識や心と言われるものは、脳かもしくはハートと呼ばれる内側・インサイドに、あるものと思っている。しかし、空想やだんまりにふけっていて、誰かから呼び止められた時、私たちはよく「はっと意識が戻った」とか言う。戻ったとはさしずめ、どこかに行っていたのか。例えば、「また旅行に行きたいなー」と思ってふと空想の世界に遊ぶ時、その空想上のフィレンツェに「わたし」の意識は確実にその間飛んでいるのである。
家出る時本当に鍵しめたっけなーとか、明日の京都旅行では、どこの寺から巡ろうかなーとか思っている時、私たちの意識は脳とかハートとか呼ばれるものから外に出て、その家や京都まで広がっているとも言える。
どうやら私たちの身体や意識というものは、この物理世界における「私」の範囲を越えて、よく伸びたり広がったりするみたいだ。そう私は思う。
(4)地位や身分にいる時のわたしたち/個人主義の再思考
わたしの親父は、一介の高校の先生である。スーツを来て、ネクタイを締めると顔付きが変わる。
仕事場で着るスーツや「制」服は、実にタイトなものが多い。寸法を図る時も、皮膚と生地の隙間をあまり許さない場合は多い気がする。
警察官の制服も、ものすごくタイトだ。
だが、一面でこんなことは考えられないだろうか。教師や警察官としての「彼」は、タイトな衣服をつけた瞬間、シュッとその衣服の中に身体がおさまる。同時に意識も完全にその仕事モードになる。彼が彼の職務を、なるたけこなしやすいように。
(3)で私たちの身体や意識は、往々にして伸びたり広がったりするといったが、私たちはある意味、地位や身分をいわば媒介として、フニャフニャとした私たちをシュッと引き戻しているのではなかろうか。強いゴムは伸びた後、必ず同じ力量で元に戻る。
近代以降、身分から解放された個人。しかし、「裸の個人」という言葉が語るように、剥き出しの私たちをそのまま曝け出すことは、基本的に隠したり嫌がったりする。口内や汚物を普通他人に見せないのと同じように。
…隠居という慣習がリタイアするというよりもむしろアイデンティティの別のステージへの乗り換えを意味したように、つまり隠居とはなにもしなくなるということではなく、別のことを開始するということだったように、あるいは改名の慣習というものがひとには生涯複数のアイデンティティがあって当然だとみなす社会のそれであったように、アイデンティティが単一である、という固定観念こそが、この生活はくずれるのではないか、つまりは〈わたし〉がこわれるのではないかといった不安を煽ることになっているのではないか。…
(鷲田清一「じぶん・この不思議な存在」1996、講談社)
冒頭の、なんで僕はいろんな役割をこなしていくんだろう、僕は僕でしかないのに。こんな不思議感は、もう今ではすっかり解消された。
身分や地位、共同体に囲まれて暮らす時代、それを転回させる形での、個人の尊厳やアイデンティティを尊重する近代~現代。 どっちに生きる方がいいかなんてのは、まったくもってそれこそ「個人」が自由に思う範囲であり、ましてや社会問題でもない。 でも、哲学。
最後に付け加えれば、まず現代社会でも先天的に与えられ疑問を挟む余地がない(実に心地のよい)身分や、小さな共同体は依然として残存する。現代(あるいはポストモダン、か。)に生きるからこそ私たちは時として、身体と意識がシュッと、あるべき方向へ収まるような器としての身分や地位を余計欲しがる。他者との関係で生き、「わたし・自分」という存在が心地よく溶解しやすい共同体へのノスタルジアも起こる。(2)で述べたり返しの内容の飛躍にはなるが、もしかしたら2010年代は往々にして、個人主義ならぬ孤立主義の再検討が、いろんな分野で見直される時代になるかもしれない。
少なくとも、これ以上、良くない10年間になりませんように!神様仏様大魔王様!
それでは、よいお年を!(´∀`)
ミスティ @
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