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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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”家族”の閉鎖性 ー開放的な家庭なんてあるのか?ー

 こんぱら、mistyです。

ちょっとふと疑問に思ったことを止めることができなくて、今突発的にブログ書いています。

@”家族”の閉鎖性 ー開放的な家庭なんてあるのか?ー

皆さんに、私が聞きたいことがあります!

「家族というものは、どうして閉鎖的なの?」
法律が「家族は閉鎖的であれ」なんて規定するのは、聞いたこともみたこともありません。法律上の構造が閉鎖性を考慮しているという話は、別の次元のお話です。


もう少し、疑問を限定したいと思います。”教育”という概念を付け加えます。

「家族(家庭)の教育は、どうして他の教育と比べて閉じこもりがちなの?」

こういうことです。まず、私が想定している「他の教育」とはどんなものなのか、示したいと思います。小学校の教育を述べます。
以下は僕自身の経験談なのですが、地元の小学校に通っていた時。
クラスに、新しい担任が入ってきたのですが、そのやり方・口調などが他の先生達と比べても横暴で、一言で言うと恐いのです。
「この担任の指導(=教え方)、嫌だな・・・」
というグチは、まず僕の友達同士によって共有されました。家に帰って、「新しい先生はどんな感じ?」と母親が尋ねてくると、「・・・嫌だ。」と答えます。そしてその、小学生である僕の反応に敏感に応じた親達が、こぞって「ババア連合会」を巷で開きます。そして、「新しい担任の先生には、もう少し生徒への優しい労りの信念を持って、自分の教育に取り組んでもらいたい」との要請が、PTAに対して受け渡されます。苦情を受理したPTAは、それを議題にかけ、最終的に「実行に移すべき案件」との判断を下します。
そうして翌朝、PTAは当該担任の先生を呼び出すことになるのです。「自分の態度を深く改めるように」との通達を受けたその先生は、自分の教育方針をそこで改めて反省し、その日の朝の会で、僕を含めた生徒達にこう告げます。


「おはよう、みんな。先生なぁ、みんなに話さなくちゃいけないことがあるんだ。先生はどうやら、みんなに対して少し厳しすぎる・つらくあたってしまう所があったようだ。先生も、それを十分に反省した。これからは、みんなから優しい先生と言われるよう、努力するから、みんなも先生に言いたいことがあったら構わず何でも言ってくれ。」

こうして、先生の横暴な教育は少しずつ改善され、それが正しかったのかどうかは不明にせよ、先生に対するクラスの生徒の信頼感は客観的に見ても高まっていったのでした・・・。

この体験話は、少々冗長でしたが、私が取り上げたいエッセンスは、「PTA」がこの事例によって果たした役割です。

小学校機関を、とりあえず小学生ら生徒たちと、担任ら先生たちとの二つの構成員からなる団体であると仮定すると(恐らくこの仮定は間違っているか、少なくとも正しい見解ではないでしょう。私は教育のテーマに関してあまりに無知です)、PTAは小学校機関とはある一定の距離を持った、別の機関、つまり外部の機関であると言えます。

(※携帯用サイト「どこでもウィキペディア」を参照すると、PTAとは「各学校ごとに組織された、保護者と教職員による教育関係団体のこと」であります。私の独自の定義、小学校=生徒と教職員からなる機関、という見地から出発しても、PTAはその構成員において、別の/違った 機関 であることが帰結されます。)参照URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/PTA

さらに、同サイトによると、PTAはその活動目的の主たるものに、「教職員を支援すること」を入れています。ここから、PTAとは、生徒と教職員からなる小学校機関に対する上部の機関であり、その監視等を行う機能を有している、と言えます。もっとも、PTAもその教育機関に属するという点では、自己批判システムを有する機関、であると考えます。


端的に言うと、小学校の教育においては、”外の視線”あるいは”自己を客観的に見る視線”が一応確保されているという多々建前ということになっているということです。生徒たちにとってかなり近しい存在になる「担任」の教育方針/行動に問題があれば、体験談ではかなり迂回な道をとったことにななるのですが(僕という生徒→友達→僕の親→親たちの井戸端会議→PTA→当該担任→僕ら生徒)、「あなたは問題になっているよ!」というフィードバックが実行され、担任の教育はかなりの確率で変革されるものになる、ということです。

PTAという上部機関/監視/自己批判機関があることで、つまり「外」の視点があることで、小学校機関における教育は”批判的態度”を有することができる、と言えます。

それでは、家庭における教育の場面ではどうなのか?
結論から言うと、家族の教育は、事実として、閉鎖的なものであり、PTAのような監視/自己批判のような「外」の視線に、さらされることはめったにない、というものです。

以下も私の個人的な体験談になりますが、現在の私の家族では、父親がほぼ一括的に、家庭における権限を掌握しています。家計簿を付ける、等の金銭管理も、以前までは母親が担っていたのですが、つい最近になってそれすらも父親がその権限を奪う、という事態になりました。

さて、最初に明示しておきたいのが、その父親の教育論の一つに、「人生は勉強だけ励め!他のことをやっているお金などもったいないわ!」というのがあります。これは後に述べますが、私としては明らかに間違っていると考えられる教育なのです。

僕自身はもうハタチを超えたので家庭の教育うんぬんという話は直接には関連がないのですが、僕の妹が現在17歳で、高校2年生、ひとまず進路の岐路に立っています。
妹は、まずお小遣いをかなり減じられました。妹が楽しみにしている漫画や服などの「遊び」に類するものは、買ってやらん!少ない小遣いからやりくりしてくれ!それよりもそんなことしてる暇があったら、勉強に励め!ということらしいです。一律的禁止。

これは一見正論のようですが、私の考えとは相容れません。例えば勉強をするということについて、私は、勉強に集中するためには、遊びや余暇も効果的に取り入るべきだ、と常日頃から考えているからです。人間は、ー悲しいことではあるかもしれないけどー、日々様々な欲望に惑わされている存在なので、「勉強」だけに専念しようとするとかえってその禁欲的態度は他の欲望(もっと漫画を買いたい、もっとすてきな服が欲しい!)を高めてしまうということになります。それならばいっそ、ある程度の自由を与えておいて、一定の範囲で様々な欲望をいい具合に満たして、満足させる。満足すると、人は安定する。安定すると、ニガテ意識を持つ勉強にも意欲が少しずつ湧いてくる・・・といったものです。つまり僕の許容主義的考えからすると、父親の教育に関して、「遊びに使うお金を一律的に与えない」という箇所がおかしいのです。

人生は、勉強だけによって豊かになるのではなく、いい意味での遊びをたくさん体験することによって、また勉強とは違った形で豊かになる。そういう点から、長男の私は父親の当該教育をおかしい、と考えます。

しかし、ここからが問題なのです。父親は、頑固なのです。聞く耳をもたないのです。=自己批判をしないのです! 僕がいくら、「妹にはもっと優しくしてやれよ!」と言っても、自らの教育方針を一向にかえようとしないのです。

さて、この家族の教育と言う場面において、小学校機関にあったような「PTA」のような独立/上部/監視/機関は、ご意見を承りそれを審議し、時には実行に移してくれるような直接的な機関は存在するのか? ”家族の教育”に「外」から切り込む権力を有する社会的実体はあるのか?

現在までの所、私の答えでは「ノー」です。誰も、僕の家族の問題に対して外から切り込むようなことはしていません。 母親の友人の奥さんが、その耳になってくれるのでは? 一般的にはそうかもしれませんが、何と家の両親はどちらとも、そういう意味での活発な近所付き合いや、家庭間同士の交流を、現在ほぼ断ち切っているのです。 正直困ります。

誰の意見も受け付けない頑固な父親と、友人をほとんど持たない母親。 私の家庭の教育は、どうやって外部の視線にさらされることができるのでしょうか?

警察に話を持ち込むのか? 家庭児童相談所に話を持ち込むのか? 「はは、そんな話、どこのご家庭だってありますよ。気にしすぎです。」と一蹴されるだけなのでは?

誰か、うちの”親”の教育が間違っている、と摘発する存在は見つかるのか?

本屋に行けば、「家庭の教育論」に関する書物はたくさん並んであります。しかし、当の本人達がそれを手に取って読んでくれないことには、意味がない。長男の私が、「この本読んで!」と言った所で、聞く”耳”持たない父親はそもそもそういう話を受け付けない。

以上、本当に長い私の個人談でしたが、一般的な大衆社会を見た場合も、ここまでとはいかなくとも、以上のような意味における”閉鎖性”を持った家庭が多いんじゃないか、と私は考えます。

それは、”究極の開放的家庭があるのか”ということを考えると、分かります。「ねぇ、見てみて、私の家族の教育。正しい、間違っている? おかしい点があれば、どんどん批判していってよ!」なんて言ってる家庭なんて、果たしてこの日本でどのくらいあるのでしょうか? 「ウチのことは、ウチで考えますから。」 こういう親ばっかりが、いそうな日本です。

「家族(家庭)の教育は、どうして他の教育と比べて閉じこもりがちなの?」

ー最初に提示した疑問です。この答えを、知りたい。「どうして」というより、「いかにして」閉じこもりがちであるのか、もし閉じこもらないようにもすることができるとしたら、それはどんな方法によるのか、も知りたい。

教育に見識のある方、興味のある方、家庭の教育に問題意識を抱いている方、本稿によって少しでも何か考えてくださることがあったら、幸いです。


以上 @ misty

追記: ネットがまともに使える状況になったので、10分間くらいこのことを調べてみました。 「家族 閉鎖的」でググったりして。 例えば以下のような掲示板がありました。 ↓
「ひとりで悩まないで!」 http://katei-nayami.webdeki-bbs.com/

「ひとりで悩まないで!」というタイトルそのものが、閉鎖的なものとしての家族(家族外の誰かとコニュニケーションしづらい)をにおわせるし、実際、掲示板住民は、警察に行ってみました市役所に行ってみましたDV法が制定されました、と、口々に言うものの、悩み続けているという実態が多く見受けられます。

統一的な「救済機関」は、児童相談所 なのか? または、「友人とのまたーりした相談タイム」しか方法は残されていないのか?
 
 何故このようにネット掲示板に集まってくるてんでばらばらの人達は、それにまず駆けこまないのか? 「110番」のような広範な意識に至っていないからか? それが無力なものだと諦観しているからか?

まだ分かりません。

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バランスが取れている人

こんぱら! mistyです。

今更気づきますけど、「エッセイ」というカテゴリのくくり方、かなり自由ですよね。笑 エッセイと名付けることで、いろんな物事を「社説」「論説」よりもずっとずっと軽めに、気軽に語れる。うんうん。

エッセイは、その自由すぎる故に、「この情報を的確に得たい!」という場合には不向きかも知れないけど、時間がある時は手にとって読んでみたいですよね。たくさんのことが、断片的であれ体系的であれ、語られているから(*^。^*)

そんなわけで、今日も短いエッセイ。

@バランスが取れている人

バランス取れてるな、この人! と思う事がよくあります。

それはどういう人なのかというと、簡単にいえば、「切り替えがうまくできている人」。

ゼミナールや会議のように、荘厳さ・厳密さが求められる空気の中では、びしっとした態度で物事を語り、お茶タイムになったら途端、みんなをユーモアで笑わせる。

まったりした話が行われている時は、自らもその流れに沿った話を提供し、キャピキャピした空気の時は、冗談をぶちかまし、相談モードになる時は、表情を変えて真剣に人の話を聞く。

全部、「切り替え」ができている証拠だと思うんですよね。

諸個人の生活の中では、あらゆる場面があって、上記のような荘厳な空気をまとう場面/まったりとした空気をまとう場面、 キャピキャピした雰囲気の場面/真剣真面目モードの場面、といったようにいかようにも分類することは可能であると考えられます。

それぞれの場面の中で、求められる道徳心・行動力・ユーモア・性格など、ハッキリいってぼんやり主義の私から言わせれば、「各々の場面に応じて常に適した(=求められる)行動をやるべき!」なんてのは考えたくもありません。プライベートの場面に「今日のあなたはこんな服装をしてこんな性格をして生活を送るのよ!」という母親には蹴りと咆哮をいれたくなります。

しかし、事実として、ある場面において求められるものを発揮したら、その分だけ効果があるんだ!というのは認めざるをえない。 仕事の場面においては、特にそうでしょう。

生活にはいろんな場面がある。 学生をやっていても、それは実感します。 学生=勉強をやっている人 とはいえども、普段の生活の中で、そりゃあ勉強だけやっていればどれほど単純なことか。
 実際には、家事炊事、友達との交流、郵便局に行く、テレビを観る、「勉強」以外にも様々な生活上の様式がそこにはあります。

バランスが取れている人、すなわち「切り替えがうまい」人は、その点、生活力という観点からおいて、優れているのかなぁと。。

これは、私misty自身が、切り替えるのがへたくそで、故に生活力もその分それほどではない、と自ら思っていることの裏返しでもあります。

楽しい気分の時はいいのですが、暗い気分が襲ってくると、それを駆逐しようとして余計に気が滅入り、ずっと引きずったまんまですからね。 気持ちの切り替えができないというより、それは「うまく」ないんだなぁ、と思うこの頃であります。

一般論として、切り替えがうまい人/下手な人、と分類することができると私は考えます。 前者の方が、生活力の上ではしたがって優れている、というのも、直感的にも論理的にも帰結されうるとも。

私が、切り替えがうまいと思っている当の本人の内心を、私は知りません。機会があったら、聞いてみようかな。
「そんなに意識はしていないですけど…」という答えは返ってきそうです。

切り替えがうまいことが、結果論として自らの生活力の向上につながり、それが派生して周りにもプラスの影響を与えることが、きちんと実証されるのであれば(本稿では、この点におけるちゃんとした論理的考察を行っていないですから)、僕もそれに従ってみようかな…。

とりあえずは、、まずはその人のまねから始めたいと思います。無理しない範囲で。

エッセイというより、日記に近くなってしまったかもしれないですね苦笑 それでは。

misty @

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ベースの話。

こんぱら! mistyです。

関東東北大震災から、はやくも5日が経ちました。

平和な福岡に住み、実家も岡山にある僕は、いわゆる「被災者」ではありません。
でも、ブラウン管やツイッターを通じて映し出されてくる悲鳴や不安の声は、明らかに同じ人間のもの…。
 ほっとけるわけがない。

お世話になっているニコニコ動画や、AKBなどから少額ですが募金活動などをし、どうにか間接的に被災者の方々に力をわけあたえたらな、と思います。

さて、今回は、「ベースの話」です、以下より地震とは全く関係のないお話です苦笑
 不謹慎だと何だと言われようが、確信をもったことはまずやるというのが僕のモットーの一つでもありますから…。
いきます。

お風呂が沸くまでに書き上げる、という圧迫した制約付きの記事ですw

@ベースの話。

今回は、ロックバンドを組んだことのある方に、伝わる内容かもしれません。

mistyは、高2から現在まで、6年間ベースをやってきました。

その6年間の中で、自分が経験して得た体験や知識は、まぁ相応にはあると思います(熟練の方からしたらマダマダだな、ですが)。

このエッセイでは、だから、僕なりの、簡単なベース論・ベーシスト論を、専ら経験論の立場から語らさせて頂きます。

直球で行きましょう。 ベースの役割とは何なのか?

それは、諸々のバンドの形式にもある程度左右されるのですが、一般的には「みんなのまとめ役になる」、ということに尽きると考えられます。

 まず一つには、バンドリーダーは、確かにいろんな人がなっています。しかしそのなかで、ベースを片手に持っている実に多くの人が、ある種のリーダー的役割を発揮しているのは、(私の中では)厳然たる事実です。そしてこの事実は、ベーシストの本質的な役割/機能が、「みんなのまとめ役になる」ということを如実に表している一端と私は考えています。

2つ目。ベースボールベア、毛皮のマリーズ、マスドレなどのバンドが、紅一点の女性をベーシストに置いているのは何なのか?

 一概には言えませんが、私としては、女性一般(年齢等を問わない)が有する、母性=対象を甘い世界に包み込む をポイントに挙げます。 やんわりとした母性が無意識に発揮されていれば、「みんなをやんわりまとめる」ことにつながるからです。

 ベースボールベアや毛皮のマリーズが実際に、女性ベーシストにやんわりまとめられているのかどうかは知りませんが、少なくともベースというポジションに女性が置かれることは、そのような効果を期待することができる、と私は考えています。彼女たちが一見控え目な性格に見える、一歩引いた存在として扱う/扱われているのも、そのことをうかがわせます。


あぁ、風呂がわいてしまいましたww

そうですね、3点目に、ベーシストがどこか一歩引いているように見える、という現象も、大切な点だと考えられます(ちなみに今は、とても一般的・普遍的なロックバンドの中におけるそれまた一般的なベーシストの話をしているので、例外的な話は置いておきます、あくまで原則論です)。

 一歩ひくことで、言いかえれば、エレキギタリストやキーボーディストのように自由変幻に動き回ることなく冷静・俯瞰的な視線を演奏中にも持つことで、「みんなをコントロール」することができるからです。
 ギターやキーボードは、自由勝手に暴れてもらっていいんです。むしろ、パフォーマンス面を彼らにかなりの部分を任せておいて、ベーシストは、全体としてのバンドサウンドを統括するポジションを担う、と言えます。

 また4点目として、ベースは、ドラム(リズム)とギター・キーボード・ボーカル(中高音のメロディ+ハーモニー)を、接続する役割があるんです!このことも重要です。 ベースは、いわゆるリズム隊(ドラムとベースから成る対象をそう呼びます)の中でリズムを刻むことにも貢献しながら、一方で低音を提供することで、メロディ・ハーモニー面にも貢献します。
 そのバランス感覚は、まさに「まとめ役」ならではのもの! 自分の演奏によってもみんなを繋げ、全体=みんなの音としてのバンドサウンドを確立することに苦労する宿命を負っている、と言っても過言ではないでしょう。


ここまでの結論です。大切なのは、

ベーシストの本質的な役割は、「みんなをまとめる」こと。

そのことは、
 ・単にベーシストがバンドリーダーにもなっているという事実が普遍的であること
 ・女性ベーシストを抱えるバンドの例のように、ベーシストが「母性」を有していることがまとめ役にも通ずるものであること
 ・ベーシストは、一般的に一歩引いた存在、言いかえれば冷静・俯瞰的な視点を有していると考えられること
 ・ベースは、リズムとメロディ・ハーモニーを接続する楽器でもあること

などから、裏付けられます!

ふぅ…。 風呂が冷めてしまう汗

んで、こっからは、自分の話を短く。

 結論から言って、私は、自分はあまりベースには向いていないと自分で思っています(!)。
それは、自分が完全にリーダーシップをとる性向ではないから、です。
 まとめ役になるのは好きなのですが、効果的にそのリーダーシップを発揮することにはそこまで自信がありません。

ぶっちゃけ、mistyは、ギタリストやキーボーディストに向いていると思います。
 いい意味で、自由奔放な所があるからです。 リズム隊(ドラム+ベース)ががっしり柱を備えてくれている所に、気ままな音を乗っけたりする自由さ、奔放さが、mistyの生来的な性格にも敵するからです。

かといって、ここで私が、もうベースやーめた! なんて言う筈がありません。笑笑
 ベースの他にキーボードくらいしかやらないので分からないのですが、ベースは以上にも見たように、とってもとっても深く、奥深い楽器・存在なんです。 アニメ「けいおん!」のベースの娘がかなり人気になってしまうのも、こういう観点から頷けなくもないかも?! ベースは、一言では表せない奥深さがある。

だから、これからもベースにはお世話になると思うし、自分でももっともっとベースの可能性を追求していきたいな、と考えています。 簡単にいえば、もっとベースを使いこなせるようになりたいのです。完璧主義者ではないので、適当な所で「これくらいでいいっか」と放り投げてしまうのが私の本当に悪い癖ですが。。笑笑


以上、一般論・個人のお話も含めて、私mistyの、簡単なベース・ベーシストの話でした! バンド経験者の方が読んで下さるととても嬉しいです!

それでは。 misty@

 

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自分の知的関心事

こんぱら、mistyです。

今回は、専ら僕のため(だけ)の内容。

自分が興味・関心を抱いている、最近(いま!)の知的―と呼ばれる―分野を改めて整理して、そこから軌道を明確にしてみよう! という感じです。

以下、関心ごとのある事物

1主にインターネットをその場所とする、「コミュニケーション」とは、社会的にどんな現象であると言えるのか。

2AKBにハマるというのは一種の宗教的な匂いがするが、それは宗教学・宗教社会学諸々の観点から整理した時、「アイドル」にはまるというのはいったいどんな事象であるのか

3経済原論(公務員勉強)

この3つですな。 3の経済原論は、当然公務員勉強でやっていることなので、割愛。


1。 社会的コミュニケーション

私の無学で乱暴な直感でいけば、コミュニケーションとは、互いの心象を互いにぶつけあって、時には何かが減り、時には何かが生まれながら、絶えず続いていく、人間の基礎的な社会的活動の一つ、くらいに考えています。

<私>が抱いたある心象は、<他人>の心意識の中では、どう受け止められるのか。

また、それらの心象のキャッチボールが続くことによって、何が起こり得るのか。

それは、社会的に意義のあることなのか。危険は何か。限界は何か。展望は何か。

そういうのを見とおしてみたい、自分なりに。

最近ではルーマン関連の本を2冊と、「ミーム」に関する書物を1冊読みました。

まだまだ全然、像は浮かび上がってきません。それでも、何かに近づいていく感触はある気がします。
これが1点目。

2.AKB信仰≒ 宗教

これについては、また私の乱暴な直感なので…。

まずは、私にとって、「宗教」というのがあまりなじみのない概念(かもしれない)なので、デュルケームの「宗教社会の原子形態」を手にとって、上巻を読み終えた所です。

他にも、宗教そのものを考察した本は借りましたが…。

他方で、AKBやピンクレディーやモー娘でもなんでもいいんですが、要するにアイドル論。こっちも、借りたり、場合によっては買ったりしてます。

まだピンとは来てない。これが面白い。


そんな感じですかな~。もうちょっと明確にしたほうがいいな!

misty @

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問題解決―科学、哲学、宗教―

どうも、mistyです!

@問題解決―科学、哲学、宗教―

1、諸前提
 私たち人間社会において行われること、行われるべきこと、好んで行われることは、すなわち

①何らかについての(社会的)諸問題に対して、②解決を実行すること

であると、私は考える。これを本稿では単純に「問題解決」と圧縮しておこう。
勿論、人間社会は様々な側面を持つものであるから、一概に問題解決だけがその本質ではない。しかし、問題解決の領域が相当広範であることは、うなずかざるをえないと考えられる。

問題解決=①何らかについての(社会的)諸問題に対して、②解決を実行すること

と抽象的に定義したが、もう少し細かく明らかにしておこう。

まず①の部分に関して。
 私たちが生きるこの・社会には、ありとあらゆる問題が横行していたり、潜んでいたりする。
また、「これは問題だ」と、人が意図的にある事物を「問題」への変換することもある。A君がクラス中のみんなからいじめられていることが発生したら、A君をとりまく家族や教師、学校などが当事者となって、「これはゆゆしき問題である」と宣告する。おそらく、その宣告の時点から、A君がいじめられているという「単なる事実」は当事者の作為的意図によって、「問題」へとその質を発展させる。

また、「殺人はダメ!絶対」というように、かなり古くからの慣習の影響も大きくあって、問題の領域に確定されるものもある。

要するに、社会的諸問題はどのように発生するのか、何が(どのような”現象”が)問題視されるのか、問題となる原因・背景は何なのか、の基礎的な考察・検討が必要とされるのである。

 例えば私が右腕を骨折したとしよう。これはかなり分かりやすい事例であって、骨折をほっておいたら悪化するのは社会の”常識中の常識”であるから、かならずお医者さんのお世話になる。 私やお医者さんが「骨折したこと」を「問題」と視ることによって直ちに、この現象の処理は進行することになる(X線を撮られた後、ギプスをはめて全治3週間と言われる…。)

これが、派遣切り、という現象についてであると、複雑性を呈してくる。 どのような経営判断があったのか、その人の収入状況はどれくらいなのか、精神的ダメージの程は…。 これらの考察を一つ一つ吟味して確定していくことで、「問題化」の処理が進行していくことになる。

 何が問題となるのか、がポイントである。

次に、②について。
①の処理によって確定された問題を、どのように解決するのか。
 先の例え話でいけば、骨折した現象に対しては、お医者さんという専門家の判断・技術の応用等の行為があって初めて、骨折は回復するに至る。
 問題の、解決方法を思考する。そしてできる限り最良の策を選び出し、それを行動に移す。
これが②のステップである。

派遣切りの問題であったら、社会保障の観点から、生活保護をどの程度受けさせるのか、親類の支援は、などといったネットワーク上での解決が試みられるであろう。

 私たち人間社会は、往々にしてこの問題解決の場面に出くわし、または自ら作りだす。
その時、科学・哲学・宗教の3者は、一体どの程度、この問題解決に役割を果たしてあるのだろうか、というのが本稿の記す所であるテーマである。

2、科学


(※続く)

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若年層と幼児の奇妙な関係

 こんぱら! mistyです。


@若年層と幼児の奇妙な関係

若年層(15〜25歳くらいの人)は、幼児(3〜6歳くらいの子)に、多かれ少なかれ、特異な好奇心の眼差しをもって見つめられるー。 これが本稿の出発点であり、私の確信に基づく経験論である。もっぱら私の独自の感じ方というよりも、一般的/普遍的にこの事実命題は当てはまる気がする。

親戚や友人関係でもない、赤の他人という関係性の中ですら、そうである。むしろ、どこのだれだか分からない幼児の好奇心にあふれる視線をたくさん感じるからこそ、私はこの問題に興味関心を抱いているのかもしれない(親戚の子や友達関係の幼児だったらそこに親密な関係性が生まれるのは、アタリマエっぽいからである)。

若者は、幼児から好奇心の眼差しをもって見つめられる。このことを筆者が確信するに至ったのは、高校生のときの家庭科での時間の、「幼稚園に遊びにいこう!」の企画の時であった。とくにこちら側(若年層)が「いまなにしてあそんでたのー?」とか「へーそんなテレビやっているんだねー」とか問いかけなくても、あちら側(幼児)がどんどん勝手に、「お兄ちゃんおんぶして!」「こっちで遊ぼ!」と反応を過大に示してくるのである。若干僕らは戸惑い気味ながら、最後には仲良く・涙までこらえてしまうほどの親密さを気付くに至った、そんな高校授業のプログラムであった。
それ以来、幼少期の子供に会うたび、いろいろちょっかいを出されたり出したりと、面白い交際関係がはじまった。一言で言えば、あまりそれまで関心を向けなかった幼児を、「あぁ普通に可愛いなぁ、結婚したらあんな可愛らしい子供を授かることにもなるのか」という幸福の気持ちで迎えるようになったのである。

それでは何故、若年層は幼児から特別な眼差しをもって見つめられるのだろうか?

パッと思いつくのは、まず私たち若年層が、幼児たちからしてみれば、ものすごく大きい身体をしているのに、同じ生活環境の中に暮らしている存在だから、であるという点。幼児たちにとって一番近しい存在であるお母さん/お父さんもまたそのような特徴を持っているのは言うまでもないが、そのお母さん/お父さん以外にも、自分たちとは到底似ても似つかない身体をもった宇宙人が、あちこちにご飯を食べたり自転車をこいだりしているー。活発な好奇心が自動的に働くのは、どうやら間違いなさそうである。

しかし、その1点だけが本稿の命題の「なぜ?」に回答を示すものだけではない。幼児が好奇心をもつのはいいとして、それが含まれた眼差しを積極的に僕ら若年層に向けてくるー。
これはすなわち、幼児たちが僕らと何らかのコミュニケーションを取りたがっている証拠、と捉えることに格段の無理もないだろう。

得体の知れない宇宙人のような存在と、意思疎通を図ろうとするのは、当然そうしたいという欲求にかられる反面、その危険性/恐ろしさを看過できないところがある。
ここで多少の雑談になるが、物事の危険性/恐ろしさを感じ取ることのできる能力は、年齢が積み重なっていくに従って、どんどん向上していくものである、というのはかなりの妥当性を得ていると考えられる。人生の初期には「赤信号を渡るとどうやら死んじゃうかもしれない」という危険察知能力を獲得し、30代になる頃には「この会社に投資するリスクはどれくらいだろう・・・」と机上で頭を抱えながら数値計算を行うに至るまで、つまり危険性/恐ろしさを感じ取ることのできる力は、大人>子供 という図式が当てはまってしかるべきなのだろう。

幼児が若年層にコミュニケーションを取りたいと欲求するのは、すなわちそのリスクを判断する能力が一般的に低いことからくる、その欲求への制限がさしてない、という消極的な一つの回答が得られる。

幼児は、奇形人のような若年層に、多大な好奇心を寄せる。そして、コミュニケーションしたいと欲求する。その際、その欲求の実行を制限するような、危険察知能力が働く領域は一般的にかなり狭いので、私たち若年層はご飯を食べている間ずっと、彼らから熱い熱い視線をずっと浴びることになる。

さて、その熱い熱い視線を浴びた後、私たち若年層がどういう対応を取って(無視/手のひらをかえす/親しく受け止める)、その後どのような関係性に発展するかは、本稿の対象外である。今後のお楽しみである。

本稿が示した原因以外にも、様々な要因があるにちがいない。それらを探ってみたい。

※ちなみに筆者は、児童心理学等の分野に全く携わったことがないような状態で、思いつきで本稿を書くにあたった。忌憚のない感想や批判を頂ければ幸いである。

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符合へのかろやかな挫折

こんぱら!mistyです。

えー、またまた短編小説を投稿します笑 これ、ブログの意味なしてるんだろうか…笑
「符合へのかろやかな挫折」。 とても速く読めるものだと思うので、お楽しみください♪

***

符合へのかろやかな挫折
 
 僕はちょうど、ジョディー・フォスター演じるクラリス・スターリングが、レクター博士の元を訪ねるために、彼の居る精神病院へと案内されるワンシーンを思い浮かべていた。もっともそれは全く的外れな空想だったし、あんなに重々しい病棟とは似ても似つかないけど。日曜日の大学校舎は、とにかく人気がなく、その空虚な香りをあたりにじゅうぶんに漂わせている。
 大学の研究室での簡単な用事を終えて、僕は一階の渡り廊下まで出て、立ち止まった。灰色のコンクリート仕立ての壁や床は、確かに物語ることがらは少ないのだけれども、僕にある種の安定した柔らかさを与えていた。静けさは、美徳の一つだ、と思うから。
 教授の不敵な笑みに関しては、特に思うこともない。彼と僕との、ひどくつまらない一つの約束を、無難にこなしただけだ。日曜日、ガラガラになった大学校舎の中で一人楽しそうに自分の研究室にこもる教授は、確かに楽しい人生を送っているのかもしれない―。僕の予想できる範囲をはるかに超えた所で。でもそれは、今の僕にとっては何らの影響も及ぼしはしない。今後とも、彼との継続的な関係は続いていくのかもしれないが、それだからといって日頃教授のことを頭の片隅に置きたい願望が起こるわけでもない。
 
さて、図書館にまた戻ろうかな。灰色の床ばかり見つめていた僕は、ふっと上体を起こす様にして体勢を立て直した。視点の右端に、女子高校生―中学生でないのは一目して判別ができるほどの容姿―たちの姿がとまった。
 「えーっと、どこだっけ…」「よく分かんないよ。」「あっちの方向がよかったんじゃない?」
オーソドックスな紺色の制服に、厚手のイエローオーカー色のコートを羽織って、様々のマフラーを首に巻きつけている。背も同じくらいの高さの娘たちが3人集って、日曜日のお暇な大学キャンパス内を、うろうろしていた。
 一応受験シーズンではあるし、はっきりとしたことは分からないけどそれ絡みのことなんだろうな、こんな人気のない日に、本当に珍しい。そう思って、僕はポケットからシルバーの鍵を取り出し、自転車のロックを外した。
 その時僕はふいに、「大学」の英語の綴りがどうだったか、気になった。univercityだったか、universityだったか、univerrcittyだったか…。気にし始めると、それが止まらなくなる。大学生にもなって、「大学」の綴りくらいパッと出てこなくてどうするんだ。
 辞書に頼れば一発だし、でもそんな短絡な解決法で処理をしたくなかった。しょうがないので、自転車にまたがったまま、僕はすぐ近くにある大学掲示板の粗探しをはじめた。「大学」の英語表記があれば、それで問題は解決する。
 リシュウシンセイのお知らせだとか、試験の答案についての注意事項だとか、日本語のみで書かれた非常に面白くないチラシばかりが、そこには無計画的に貼り出されているだけだった。英語表記の紙媒体は、どうやらすぐ近くにはないのかもしれない。
掲示板の前でそうやってうだうだとしていると、さっきの女子高校生たち―3人組―が、ちょうど僕の目の前を通り過ぎた。そのうちの一人の、黒色の長い髪が印象的な娘と瞬間目が合った。純粋で、透明な瞳だったと思う。決して近くない存在。
当然僕は、その娘たちが持っている、脳内にある情報検索システムの利用を考えないわけにはいかなかった。「大学」の綴りが分からない。そんなことは、繰り返す様に辞書で調べてしまうのが一番手っ取り早い。でも、この娘たちに聞けば…。“大学受験で忙しいと思うんだけど、「大学」、ユニバーシティの綴りってどうだっけ?”の入力を行えば、それなりに正当な答えが返ってくるかもしれない。
4年前のあの頃の僕たちと、会話するのなんて、いつ以来だろう。
 
 高校生たちは、べらべらと話を進めながらも、どこかの方向へ向かって歩みをしっかりと進めていた。掲示板の前で立ちすくむ僕は、そこに緊張も不安も一切なく、この問題解決―「大学」の正確な綴りを知りたい―をどうしたものか、と悩むばかりだった。女子高校生たちは、ゆっくりと、慎重に、離れて、遠ざかってゆく。
 
 そうして僕はしばらくたって、いよいよ携帯を取り出した。ネットに接続し、トップ画面から「大学 英語 綴り」と入れて検索をする。すると、どこかしらの大学の携帯サイトにつながって、○○ university の画面に辿りついた。
 あっけらかんとして、こんな小さな度忘れは10秒もすれば解決をする。それに、早く図書館に戻って中断していた作業を再開もさせたかったし。
 自転車のハンドルを握って、キャンパスの門に向かった。そこで、おそらく最初で最後の、女子高生たちとの邂逅を目の当たりにする。相変わらず笑いの絶えない彼女らに、僕は、何かしら声をかけようとした。
「こんにちは、大学を探検しにきたんですか?」
だけど、ついにこの言葉は僕の口から発せられることなく、僕が彼女らの意識を引く前に彼女らは僕が進むべき方向とは違う道に、歩みを寄せていた。僕は門のほうを真っ直ぐ向いて、ややもして自転車を勢いよく漕ぎだした。
 
 彼女らの頭の中にあったであろう、彼女たち自身の「大学」の綴り方は、それでも気になった。もし僕らの会話が成立していたならば、彼女たちはどんな答え方を示してくれただろう。
 今日は曇り空。空虚なキャンパスの中で、人間は閉鎖的で同時に開放的な関係の中をあわただしく過ごしている。(終)
 
 
***

misty @

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ガラスの街(超短編小説)

こんぱら、mistyです!!

ていうかなんか今、あのマイケル・サンデルがテレビに出て相撲の八百長問題について対話形式をとりながら講義してます!

なかなか面白いことも遣ってくれるもんだ、日本のTV業界!


さて、ここからはアレなんですが、misty、いよいよブログのネタもなかなかないので、超短編小説をうpしたいと思います爆 ww

一体何のブログか分かんないぜ・・・クレイジー。
出来たてほやほやです!20分くらいで仕上げた、本当に短いストーリーです。

お楽しみください♪ 「ガラスの街」


***
ガラスの街
 
 ちょっとした、でも確かに冷たい温度で私の中心をひどくしばりつける、胸の痛み。
もう、これ以上何も傷つきたくないというのに。
 
 寒空が街を支配する、その地面に近い所で、私は自転車を漕いでいる。一心不乱に、時に漕いでることなど忘れてしまいそうで、でも思い返したらとにかく一生懸命にペダルに体重を乗せて。私を襲うこの確かな痛みと共に。
 グリーンの塗装に包まれた自転車のボディも、この暗闇の中ではその存在感をあらわすことはない。むしろ、冷たさと暗さの圧倒的な空気に飲み込まれてしまっていて、その色すら物悲しい表情を作っている。少なくとも今の私にはそう見える、そしてそれ以外の他には何もない。
 自転車が、信号の目の前で止まる。赤のライトの点滅は、大した意味もなく視覚をいたずらに刺激する。何を、何を止めろっていうの? 私の痛みを? 私の存在を?
 こんな片田舎のこんな遅い時間帯なので、人どころか車通りでさえ少ない。それでも赤信号に止まらざるを得なかったのは、痛みを抑えたくて抑えたくて、それでも止まらないこの冷たさをどうにかしたかったから。哀しくて。
 
 人間関係は、少なくとも今までの人生の中ではうまくやってきた―そしてこれからも―はずだった。だから、私は、裕のことが理解できない。少なくとも、私の知っていた、あの優しくて情緒深い性格だったはずの、裕ではない。
 
―「お前に、何が分かるんだ!」―
 
 私に何が分かるかって? 全部よ、全部。私に見えるものの範囲の中でなら、全部。そう言いきれるくらい、私は裕の事を分かっているつもりだったし、優しくしてきたはずだった。
 なのに。
 
―「お前に、何が分かるんだ!」―
 
 その言葉を放った時の裕の表情を思いだそうとするが、できない。頭と心が拒否しているのかもしれない。思い出すな、敵の顔を。
 敵。たった一瞬で、友達と言うものは敵になってしまうものなの?
 私たち人間の関係というものは、そんなにも儚くて、そして哀しいものなの?
 
 信号が緑に切り替わって、またペダルに足をかけて、自転車を漕ぐ。
今日はどうやら風が吹かない。街そのものが、静まり返った感じ。わずかに、CDレンタル屋さんのけばけばしい電光板の光や、暗闇にひっそりと生える植木の緑たちが、私の視界と心にただただ意味もなく流れ込んでくるだけ。
 
 …痛い、っ。
 
 身体と心というものを完全に分けることができないのだとしたら、心の痛みは身体の痛みに決して劣ることはないだろう。裕との―一瞬の―亀裂を目の当たりにしてしまった私は、多分未だにその事実の重みを把握できていなくて、それでも衝撃だけが私の頭の中をかけぐりまわって、そうして冷たさと暗闇の深みに接している。
 
 痛みを抱えた自転車は、ガラスでできた冷たい街の中を、一秒一秒すすんでゆく。


***

ご愛読ありがとうございました。

みsty @

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牛どん屋を比べてみた!

こんぱら! mistyです。
日常生活のお話を。

@牛丼屋を比べてみた!

牛丼屋業界比較:
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/2207154.html



Googleで「牛丼屋 比較」と検索すると、およそ30万件のヒット。

各牛屋屋には私も大変お世話になっているので、ちょっと個人的にそれぞれを比較して、簡単に整理・評価しておこうかなと。

言っておきますが本当にめちゃくちゃ粗雑ですよww


☆ 吉野家

何といっても、王道派!

というより、吉野家の味=スタンダードとして、他店が参考にしてライバル関係を築き動向を見せている感じ。
 僕は、味的には、吉野家の牛丼がやはり一番大好きですね~。

無駄なものがないというか、さっぱりとしていて、しかしご飯が進む進む。
お新香が、またとてもシュウイツ。

最近では、キムチパックが人気を博しているみたいですね、確かに弱っている時に食べたら元気が出ました!笑

☆ 松屋

やはり、無料で味噌汁がついてくることのありがたさといったら…!!

味は、全国規模の味というか、そこまでではないんですが、うん味噌汁の偉大さww
ガッツリ栄養を取りたい時に、松屋の牛丼はなかなか適しているのかも。

今日、家の近くに新しく出来た松屋に行ってきました(*^。^*)

なんと、牛丼一つが出てくるのに10分待った笑笑笑

接客1人、厨房1人でお昼時を回すというなかなかの…。 でも、開店早々だし、これからもお世話にどんどんなっていきたいし、僕は応援します!
というより多分明日の昼飯も松屋です!!

☆ すき屋

実は、すき屋にはほとんど行ったことが無いもので…。

岡山の実家にいる時に、家族で2,3回、くらいかな…。

メニューが多彩ですよね。 ねぎ丼、キムチ丼、他にも斬新なメニューがいっぱい!
そこで他店と差別化を図っているんですよね。

味としては、吉野家の次くらいかもしれませんが、やはりそのメニューの多様性と、個別それぞれも、ただ乱暴に新しさを求めているわけではないという事で、そこを評価したいですね☆

あまり近くになくてお世話になっていないのですが、多分結構好みではあるかも。
ファミリー向けでもある。

☆なかう

これは…。 正直私は、「うどん屋」として認識してます。

高校の受験勉強の時に、塾最寄りの駅になかうが設置されていたことから、大変お世話になっておりました。

しかし頼んだのは、99パーセントうどんです…。

そのうどんも、別に各段おいしいわけでもなかったし…爆

ただ、なんというか、チェーン店の画一化された商品のはずなのに、どこか、アットホームな家庭的優しさをその味の中に感じたのはかなり秘密です。

思い出のなかう。

しかし、牛丼屋としてのなかうは、知りません! なんじゃそりゃ! 考慮のしようがありません!


みなさんは、どの牛丼屋が好きですか? (^_^)/~

misty @

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活動としての

KARA騒動、結局は訴訟に発展!事態は最悪方向に…?
http://www.k-plaza.com/news/enter_news_4445

KARAのメンバーは、今後とも生産的な活動をやっていきますと前向きな姿勢を見せ(ようとし)ているのに、

事務所側は、訴訟を提起されるのはホントにごめんだという。。

訴訟「活動」だって、社会生活を実効的に進めていくための立派なそれまた「生産的な活動」ではあるから、
事務所側が主張している困惑というのは、少々的を得ていないなと思いました。


すみません、ぜんっぜん違う記事を投稿する予定だったのですが、取り急ぎ話題のニュースに短絡的に飛びついてみましたww

misty @

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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