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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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ブロク更新☆ポストモダン時代の大学生

@ポストモダン時代の大学生

 従来の大学生/今頃の大学生、という大学生の話題をしてみようと思います。今回はなるべく分かりやすく書こうととの意図のもと書いています!!

***

「いまどきの若い学生は根性(やる気)がないよ」

 というセリフは、新聞・テレビなどのメディア空間や、もしくは自分や親族のおばあちゃん・おじいちゃんなどの親密圏などから、よく耳にする言葉(言説)だと思います。

それを字義通りに受け取ってしまうと、さも従来の人達(今の60~80歳の人たち、それを本稿では「リアル旧世代」と呼びます)は”マジメ”に学生時代を送っていて、今の僕たち(本稿では「リアル新世代」と呼びます)は”フマジメ”に学生時代を送っているかのように考えてしまいますが、勿論本稿ではそんなテーゼに従うわけがありません笑

 むしろ、何故リアル旧世代の人たちが、リアル新世代を見て、「いまどきの若い学生はやる気がないよ」と心理的・感情的・投げやりに言ってしまうのか、そう言わしめてるものは何なのか、それを考察していくのが社会学というものです。

 (※だから)今回は社会学の手法を使って書いています。

ここで、そう言わしめてるものを、私は「時代の雰囲気の違い」という社会構造の差異に結び付けて結論付けます。
 時代の雰囲気の差異が、リアル旧世代にそんなセリフをたくさん言わしめているのです。従って、「やる気がないよ、いかんよいまどきの若い学生たちは」という言説は、専ら自発的なものではない、と筆者は考えます。むしろ、社会構造が個人を規定し、そう言わしめているという思考を採用します。

 そこで、本稿ではフランソワ・リオタールの偉大な著作、『ポストモダンの条件』で出てくる概念群を使ってみようと思います。

リオタールは、その『ポストモダンの条件』モダンmodern(近代)と、ポストモダンpost modern=近代の後、という時代区別を行い、その時代の実質的な内容を次のようにまとめたとされています。
 
 すなわち、

モダン(近代)= 大きな物語の共有

ポストモダン = 小さな物語の乱立

 これがどういう意味を指しているのか。こういうことです。

1900年代の前半に、この世界で二つの大きな戦争がありました。第一次世界大戦と、第二次世界大戦です。それら世界大戦においては、それぞれの戦争参加国、すなわち近代国民国家は、例えば日本だったら「大東亜共栄圏」の構想、ドイツではナチズムによる世界征服、英米など西側陣営では「それら全体主義/独裁主義 に対抗するパワー」といったものを掲げて戦争を繰り広げていました。

 大切なのは、大東亜共栄圏や、ナチズム(全体主義)、さらにはマルクス主義といった、半ば「~主義」という用語(ターム)で括られるような大きな考えや理想が、大マジメに、その当時の人々の間で信じられていたということです。

 ヒトラーは、大真面目に、ユダヤ人を排除し、ナチズムが全世界を征服すれば、この世界は統一的なものとなる、と本気で信じて戦争を行っていたのです。またそれに対し西側陣営は、本気でそれらを何とかして食い止めなければならないという理念の下で、日本に二つもの爆弾を落としたりしたのです。

 近代とはそういう風に、大マジメに、それぞれの大きな物語(「大東亜共栄圏」、「ナチズム」、「それらに対抗するパワー」)といったものが、大多数の人々の間でマジメに共有されえていた時代、そういうことです。

 しかし、そのような近代時代は、1960年代の、マルクス主義(共産主義国の確立を目指した運動)や大学生たちによる大学紛争の失脚という形で、徐々に勢力を失ってきました。

その代わりに出てきたのが、「小さな物語の乱立」です。 もはや大東亜共栄圏やマルクス主義といった話は過去の遺産だ。これからは、もっと現実的な、クールな思考で、世界や社会をどうするのかを語られなければならない…。そこで、戦後民主主義、自由主義、自由民主主義、社会主義、修正された共産主義など政治の場面でも、じつに様々なイデオロギー(考え方)が乱立することになります。

 これは、政治の場面に限った話ではありません。例えば、アイドル文化の成立。 一般に、アイドル文化が成立したのは1970年代だとされています(ちなみに、別稿で筆者はそのことを詳しく論じています)。それまでは、「少数の”スター”」の時代でした。エルヴィス・プレスリーや、美空ひばりなどの、「手の絶対届かない遠い存在の人の輝き」です。 アイドルでは対抗的に、「もしかしたら手が届くかもしれない、もっと身近に応援することのできる存在」なのです。1970年代以降、南沙織にはじまり、山口百恵、松田聖子、きょんきょん、浅川唯、おにゃん子クラブ、Wink…といった実にたくさんのアイドルが登場してきては移り変わっていくという状況がありました。

これが、小さな物語の乱立です。 つまり、かつての大きな物語ほどには大きくないし、支持者も少ないのだけれど、それぞれのそういった物語が幾つも幾つも浮遊しては乱立している、いりみだれている、そんな時代が1970年代あたりから徐々に始まったのです。

 

ここで漸く、大学生の話に戻ります(笑)。

リアル旧世代の人々は、この大きな物語の共有=近代の時代に、まさに自分たちの青春を学生生活の中で送っていました。
 そこでは、その当時の社会や世界をどう生き抜いていくか、変えていくかが、真剣に差し迫った問題として、人々の中で語られていました。

 特に、”大学”という空間はその最たるものです。大学こそが、子供と社会人の分岐点、モラトリアムの時期であり、これから社会人として社会を支えていく側が、どうこれからの未来を支えていくかが、とても大事でした。そこで、例えば日本が共産主義国・マルクス主義国であるべきかどうか、戦後民主主義を支えていくかどうかといった類の話は、実に真面目に大学サロンで語られていたのです。 ”マルクス主義”や、”共産主義”、”戦後民主主義”といったイデオロギーは、それ自体、当時の大学生みんな、みんなとは言わずとも、大多数の人に、暗黙に共有することのできる空間であったのです。

 それとは対照的に、リアル新世代の私たちが生きるこの社会・世界においては、そんな大多数の人が共有できている物語というのは、実に少ないのです。 

 現代社会、つまりポストモダンの時代は、趣味の時代だといわれています。趣味とは、各個人個人がハマるものであって、大多数の人々に強制できるものではない。各個人は、それぞれ自分の自由な選択に基づいて、自分の生を決定できてしまいます(個人主義)。

 実際が、自分の趣味を、公共(パブリック)の空間において、胸を張って言えるものが、どれくらいあるでしょうか?

 筆者は音楽と文芸が趣味ですが、例えば

「僕は音楽が好きだー!」

と言ったとします。しかしそれだけで、何の説明にもならないのです。なぜなら、たちまち次のような質問が返ってくるからです。
 「どんな音楽が好きなの?」
 僕は、エクスペリメンタルやポストロックが好きなので、「ポストロックやエクスペリメンタルが好きです」と答えたとします。すると、「ポストロックって何?」という返事が返ってくるのです。 音楽の界隈でも、「小さな物語の乱立」、つまりジャンルの多様性といったものが深刻に進んでいます。

 例えば「アニソンが好き」といっても、具体的に聞いてる曲は本当に各人様々ですし、「ロックが好き」といっても、本当に近代の時代、つまりビートルズやストーンズの頃の1960年代後半、ギリギリ「近代」の時代に生まれたロックが好きならば、「古典的ロックが好き」と補わなければなりません。 ツェッペリン、ザーフーなどが好きだと言えば、「ハードロック・UKロックの初期あたりのロックが好き」とさらに補わなければなりません。

 つまり、音楽やロックといった一つの例をとるにしても、そこには多様性がどんどん浸透してしており、「みんなが暗黙に共有できる音楽観やロック観」といったものは存在しないのです。

 実際、大きな物語の共有の時代は、過去の「遺産」となっていました。 今の大学にあるサロンがそれをよく物語っている気がします。
 サロンは、現状維持で仕方なく大学制度側がまだ残していますが、例えば九州大学文系のサロンは、かつてあった「サロンで政治や人生を語る」といった場所ではなくなっています。それぞれの学生が、各自分の目的に応じて、利用するだけの場所となっているのが現状です。

 ハッキリ言って、リアル新世代の私たち大学生は、「目的意識をもって勉強することの認識」が欠けていると思います。目的意識とは、「これから社会人になるにあたって、どういう社会を歩んでいくか、どんな社会がこの世界に望ましいか、自分は社会の中でどんな役割を果たせるだろうか」といったことを常に念頭に置きながら、勉強している人たちは、いないとはいいませんが、それもまたごく少数にすぎないということです。大多数では決してありません。むしろ大多数は、単位取得ただそれだけのために、勉強を仕方なくなっている感があるのが、本当のトコロではないでしょうか?

 リアル旧世代の人たちは、大学=子供と社会人の狭間、に来たからには、自分がこれからどういう社会を望むのか、どういう社会に作り変えていくのか、そういうまた一つの”大きな物語”をもって、大多数の人が勉強していたのが事実だと考えられます。 だから、今の、”趣味で勉強しちゃっている”学生をみて、「なんか今どきの学生にはやる気(根性)が感じられん」というのだと思います。

 長くなりましたが、以上です。 ポストモダン時代に生きる大学生がどうなっていくのは、また別稿で考察したいと思います。

misty @ 

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ブログ更新☆神は月であった―ジョルジョ・アガンベン『王国と栄光』に関して―

@神は月であった―ジョルジョ・アガンベン『王国と栄光』に関して―

 何ということだろうか。ジョルジョ・アガンベンの著作は、政治神学に大きな貢献、というよりむしろ途方もないショックを与えてしまった。

 その550頁における一つの大きな着地点は、「神は栄光を求めかつ栄化するもの(でしかありえない)」ということだ。

 栄光とは、そのまんま、賛美や称賛のように、輝かしいもののことである。栄化とは”栄光”(名詞)を動詞化したもので、「輝く/~を輝かせる」という意味だ。

 神は、後述するように、人を救済する神でも、人に啓示を与える神でも、何でもない。
ただただ、”私を褒め称えよ、あがめよ”と人々に要求し、かつそれに応じて空洞のイルミネーションを照らし返すだけの存在だったのだ。

 順を追って説明していこう。まず、神というのは、日本の日常生活圏においては、例えば、明日が期末テストなのに全然勉強してなくて「助けて神様!!」と呼び出されるような存在である。
 そのような神は、実在論的なものである。神はこの世界のどこかにモノやヒトと同じように存在し、私たち被創造物の運命を決定づけているものとして説明される。

 この実在論的神は、いちおう近代自然科学主義的見地によって、排斥されうる。理由は簡単だ。「だれも、神という存在を目にした事がないから」。

ただこの答えは、ただちに次の批判を浴びることになる。「誰も目にした事のないものを、『今目にしたぞ!といって、誰が神だと信じるのか?」 電灯(エジソン)やダイナマイト(アインシュタイン)は、神なのか? 電灯や爆弾が、私たちの運命を決定づけているのか?
 電灯や爆弾の発明は、確かに私たち現代人の生活を規定しているが、だからといってさきの<神>のように私たちの運命までもを決定づけない。

よって、神は実在論的位相では捉えきれない。

神は、観念論的な存在であるのか?

 誰も目にした事がないし、記述の大元は挿し絵抜きの文字のみの聖書である。なるほど、それなら人間が勝手に頭の中で作りだした間主観的なものだ言えそうだ。

 ユダヤ教(初期キリスト教)において、<神>とは、<父>なる存在、厳かな存在であった。恐れ多いのである。
ノアの大洪水を起こす神、バベルの塔を壊す神、それによって人々に罰を与える者としての父=神。

 イエス・キリストの誕生と復活によって、中期キリスト教、現在のカトリック教が生まれた。
カトリック教圏域の神学においては、神=子(イエス・キリスト)=聖霊、という三位一体説が通説である。
 しかしこの三位一体説は、様々な矛盾を孕んでいる。学界からも多くの批判を浴びている。

例えば、親なる神が、子なるイエス・キリストを人間界に使者としておくったという聖書の記述だ。
 <神>は全知全能であるのに、何故わざわざイエス・キリストを送り込むという面倒なことをしなくてはならかったのか?
イエス・キリストの受難と復活を説明するには、あまりに粗雑すぎる。
なぜなら、イエス・キリストが復活してからこのカトリック教(説)は生まれているからである。

それでは、女神=<母>なるものとしての、優しい<神>は存在するのだろうか?

 遠藤周作『沈黙』において現れるような、人間の苦難を共にする、見守る<神>。それは優しさと果たして呼びうるのだろうか、否。


無為の神。 何もしない神、というより中身が空っぽの神。空っぽだからこそ、ヴェールを必要とする。ヴェールに、光を、栄光を求める。

 神とは、鼻から栄化を求める存在以外にないのだ。 それは、月に似ている。
月は、惑星である。恒星である太陽の光に反射して、その光を地球に照らしだす。

ニーチェは、「神は死んだ」といった。 これは、人間=神 を特質とする近代の始まりであった。
 そして、その神たる人間は、科学技術の進歩を伴って、月に辿りついてしまった。そして月の空虚さを証明したのである。

その瞬間、月は、月ではなくなった。世界は神であるか、かつ何もないか、の一つになった。ただの一論である。

今後、月の可能性は、どのように展開されるだろうか。移住計画や、エネルギー源など、それは人間の下僕に過ぎないのか。

こうして神はほんとに死んでしまったのである。
ジョルジョ・アガンベンの『王国と栄光』の余波は、大きい。

misty @

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「九州人」の想い―本州/九州の比較文化社会学的考察―

@「九州人」の想い―本州/九州の比較文化社会学的考察―

 (今回はエッセイです。「○○人」という大胆な括りをしかも大雑把にまとめているので、だいぶ議論を呼びそうな内容になりそうです汗汗)

 僕は、岡山生まれ、岡山/広島 育ちです。ですから中国地方が基盤にはなっているのですが、親の世代で関東や関西、さらには四国(さすがに東北・北海道はいない)の友達も多いです。

 大学は九州です。九州にきて5年間が経つのですが、ずっと思い続ける・感じ続けさせられることがあります。

それは、「九州にいる人/そうでない人」という区別です。
 ※もちろん、生まれがどこかによって物事を区別する先天的運命論という、ある種の生物学的ジェンダー論調にも似た雰囲気になってしまいそうですが、それとは違います。このまま少しお読みください。

 九州大学では、実に8割方の学生が出身が九州です。福岡ではなくとも、熊本や宮崎、鹿児島など九州9県からよりどりみどり集まっています。
 この本稿においてだけ、「生まれ、育ちが九州の人」のことを「九州人」と呼ぼうと思います。

なぜそう呼ぶか。それは、僕が九州で生活をしていて強く感じ続けることがあるからです。

彼らにはある一つの特徴、すなわち”精神なるものの力に対する強い信仰”が見受けられます。これを、単に”アツさ”という言葉に置き換えてもらってもかまいません。(「信仰」という言葉を使ったのは、僕の考えでは”精神”なる概念そのものがそもそも曖昧であり観念論的なものであるから、それはすなわち宗教的色彩を帯びると結論づけられる故です。)

 簡単な例を挙げると、例えば病気。 僕は、不安神経症を患って(6,7年)いるのですが、九州人は『病は気から』というスローガンを全ての病気において当てはめようとします。彼らに言わせると、「風邪は引くもんじゃない」「精神病なんて気が弱いだけ」。

 現代医学的な観点からいえば、風邪や下痢ならまだしも、不安神経症は幾つかの生理学的特徴をもっており、少なくとも「そんなもの気の持ちようじゃ!」という言葉が真理性を帯びないのは当然のことです。
しかしそんな現代的状況にあっても、彼らは精神医学を信用しません(まぁ、九州に限らず一般に精神医学には慎重になるべきだと思いますが、それは別の箇所で)。


 彼らは、自分たちの精神/心 の生成や、変化、ひいては精神的構造を下部構造とした個人観/社会観 を時に強く論じます(主に酒の席で)。
 簡単に言うと、「俺の~な想いが強くて、…」「そういう~な態度はこれから先、…」「私のこの心…」 といった発言が、ものすごく多いということです。学問の世界でいう所の、個人アイデンティティの形成の物語や、社会=世界への参入・変革、ライフストーリーといったものを、およそ精神なるものから全て引きだそうとします。

 唯心論です。 心的なものしか世界にはない、とまではいかずとも、心的なものがまずはじめにありき、といった態度が、九州人には僕の目から見て備わっているのです。


ここでお気づきかと思いますが、「九州人」と呼称したからには、当然比較対照するべき概念が必要となります。
それを僕は「本州に生まれ、本州に育った(しかし東北地域だけは例外とする)人」=「本州人」とします。

 九州人は、一言でいってしまえば、アツさがあります。
反対に、本州人は、一種のクールさ/冷たさをもっています(僕自身も当然そうです)。 「東京の人は冷たい」「都会の人は冷たい」という格言があるのは偶然ではありません。

このアツさ/クールさ、はあくまで相対的なものです。 私たち本州人は、一般的に言って、”精神/心”という概念を疑ってかかります。それがめちゃくちゃ複雑なものであるとは考えますが、少なくとも”モノ”のようにその場にぱっとあるものといった実在論的な位相で捉えたりはしません。実在論的な位相で捉える例外状況は、先程の精神医学です。そこでは異常な心的状況を生理学の位相にズラし、そこにおいて薬の投与やカウンセリングといった極めて近代科学的な処置を施します。

 本州人にとって「心/精神」なるものは観念論的なものです。だからこそ、オウム真理教は少数の信者を集めた後袋叩きにされ続けています(仕方ないですが)。宗教は危険なものとしてしか機能しません。

 そして本州人は、アツさを以て物事を処理しません。というか、慎重だったり懐疑的だったりします。
どちらかというと、唯名論的思考の方が強いです。 全ては”モノ”的なものから出来上がっており、それらがシステムを成したり組み合わさったりしてセカイは動いている、という考え方です。そこに人のココロの重要さ、とかいったイデオロギーは介在しません。いや、介在するとしても一要素に過ぎません。

 本州人にとって、人の心は、あくまでそれであって、それ以上のものではありません。経済、政治、自然環境、他の様々なシステムから世界は成り立っていて、心的システムはその一部に過ぎません。いわんや、「精神/心構えが全て」などどうして言えようか。


さて、九州人、アツさ、観念論、唯心論
   本州人、クール、実在論、唯名論といった実に単純な二項対立によって議論を進めてきました。

 大事なのは、ここからです。周知の通り、現代的状況にあっては、そもそも九州/本州 といった地域的区分が交通手段やネット環境の利便化によって無効化されつつあるので、実はあまり峻別することには意味がありません。つまり、両極端にいるような人はイメージがしにくく、僕とて唯名論者なんかじゃありません。苦笑 
 しかし、九州の奥底の奥底には、こういったものがはっきり存在している。それは感性のレヴェルでしか言えませんが、僕はそう感じます。

時として、九州人のそのアツさが怖いのです。なんでそんなぼんやりしたものをあたかも実在するかのごとくよってたかって信仰して、社会に臨もうとしているんだろうと。 フーコー読んだのかと。

逆に、私たち本州人も、九州人やそれ以外の地域の人達から見たら、同様に怖く思われることがあるのかもなぁ、と思います。

大切なのは、差異(違い)を意識し、共有圏をつくりあげること。理解しなくてもいいのです。共有できればいいのです。

そんな感じで、本稿を締めたいと思います。 公「共」圏 の大切さです笑 いや、冗談ではなくて。

@ misty

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戦争(争い、闘争)への一歩

こんぱら! おはようございます、mistyです♪

簡単なエッセイを♪

@戦争(争い、闘争)への一歩

昔は、なんで人々は戦争を絶えず繰り返しているのか、さっぱり分かりませんでした。
 今もよく分かりません。

…いや、分かります。いろんな利害調整が働いたりとか、世界大戦がはじまる前の、戦争にネガティヴなイメージがそこまであまりついていなかった時代までは栄光とか復讐心の完成とか、、、

「戦争」とひとくくりにして考察するのであれば、各時代ごと、各地域ごと、等なんらかのメルクマークを取り入れて個別的に検討するのがホンスジでしょうね。そのとき、経済学や政治学、精神分析なんかも役に立ちそうです。
 ”戦争”に原因が確定すれば(つまり因果性の概念でとらえきれれば)の話ですが。 僕は、機能主義の立場を最近採っているので、”戦争の原因”そのものにスポットライトを当てる気はさらさらありません。

 しかし心理システム的に、一つ分かったらしいことがあります。

 それはどの時代の、どの地域の戦争においても、戦争遂行者の心理としては、「他者への恐怖」が根源として働いているのでは、と。
 これは、さらっと読むと至極当たり前な言説なので、「他者」と「恐怖」の2つのタームに分けて説明します。

まず”他者”。 もちろんこれは、”自己””我々”との相関において捉えられるべきものです。

他者の例には、子供や外国人(英語ではなく、南アメリカ民族あたりのマイナー言語)がいいかな。私たちは、いつもそうですが、他者とコミュニケーションを直接にしているわけではありません。これが大前提になります。ニクラス・ルーマンの発想なので、なわきゃないと思う人はここで読むのやめて下さい。

 私たちは、常に相手から返ってきた返事を自己の内において処理し、その返事の意味を推測し、そうしてあくまで自己の内から自分の言葉を言葉として発します。 向こうも同じことをやっています。それは相互行為でなく、二者の行為が同時的に複数成立しているだけです。 他者への呼びかけは、あくまで自己の範疇を飛び越えません。
 しかしこういった単なる二つの自己言及的行為が、たまたま奇跡を起こして「わけのわからんが面白い間」とか「不思議な空気」を作ったりします。

 さて、この上で、私たちが全く親密でない、どこのだれかもわからないような子供(分裂症的)か、どこのどこだかわからないような外国人と、出くわしたとしましょう。どうしますか?
 直接面と向かえば、ボディランゲージなどを駆使して「対話」は起こる可能性が非常に高いです。

しかし、一つ間ができた場合には。 おそらく、普通の感覚であれば、ヨリ距離を一歩とろうとするでしょう。つまり、自分のテリトリー(自分の可知的な領域)にこもろうとするでしょう。
 さっきのコミュニケーションの原理からしたがえば、私たちはいつも、自己の内において、相手を処理しているのです。相手と直接コミュニケートすることはまず少ないです。とすれば。
 私たちはその相手に対して、「この子供はきっと認知症的な何かに罹患している」「この子供はきっと3~4歳くらいだろう」「この子供はよその地域の子供だろう」「この外国人は○○の生まれであろう」「この外国人は英語をしゃべれるだろう」「この外国人は少し体格的に危険な人物だ」  など色々なことを思います。

 その思いは、ラベルとなって、いわばこちらからの防御/攻撃態勢となって、相手とのコミュニケーションを図るに至り、その役割を果たすのです(心理学でいう所のラベリング機能です)。 このラベリング機能が働いている間においては、相手は、相手であって相手でありません。なぜなら、そのようにラベリングしたのは、自己なのですから。分かりやすく言えば、その相手は、あなたが作った頭の中の産物ですから。

こうして、他者の、他者だけが有する<他者性>というものは、一気に引きはがされることになります。どんどん、自己が他者の他者性を引き離して、なんとか他者を理解しようとするために、予め「あいつ(他者)とはこういう奴なのだ!」という決め付けを無意識/意識的におこないます。他者の<他者性>は拡大された”自己”の範疇に収まります。なんとか、他者よ可知的であれ!と、自己防御が働きます。

 ここで重要なのは、そうしたラベルや推測は、相手(他者)の本当の姿かどうかは、相手(他者)の反応をちゃんと見ていない限り、いっこうに知りえないという事です。

これが、見知らぬ他者に抱く、根源的な恐怖につながることは想像に難くないでしょう。その推測/ラベリングが外れていた場合、たぶん私たちは慌てふためきます。それか、「分かったつもりにしていた」他者(の他者性を忘れて)が、全く分からないと感じたり。 推測はあくまで推測なので、外れることもよくあります。しかし、私たちは往々にしてその推測を推測だと認識していないため、「(勝手に)分かっているつもりの他者が分からなかった」と嘆き、そして恐れるのです。これが恐怖のはじまりです。

他者の<他者性>を軽視したこの態度は、相手をよく見もしないままに、また新たに相手をラベリングすることになり、「あいつは自分のことを分かってくれない奴だ」「あいつは危険な奴だ」と自分に有利な推測を打ち出します。そうして、勝手に(!)敵視するのです。

これが、おそらく戦争(争い、闘争)の根源的要因の、大きな一つではないか、と私は強く考えます。
集団自己防御が集団恐怖に代わり、はては集団憤怒に代わり、相手と有効なコミュニケーションを取れないことが”戦争”への火種になる。

出発点はルーマンのコミュニケーション原理からでしたが、ルーマンは社会の最小単位をコミュニケーション(個人/人間一人ひとりではない!)におきます。そのことも、こういった例からよくうなずける気がします。

大切なのは、他者の<他者性>を、そのまま尊重すること。不可知なものを不可知なままやりすごすこと。

コミュニケーションの大半なんて、自己の自己演出ですから。勘違いが勘違いを呼び勘違いになってドカーンと争いになった、そんなんばっかじゃありませんか?笑

長くなりましたが以上です!

misty @

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真なる弱者と偽なる弱者

@真なる弱者と偽なる弱者

 自動車を歩道者から外すという政策の云々が問題になっている。
暫定的な解消策としては、とりあえず自転車道というのをきちんと設けた上で、歩道/自転車道/車道 という扱いにするのが望ましい。
 自転車を自動車道に一本化するなど、もっての他だ。いくら法的に”同じ”「車」であるからといって、自転車と普通自動車、軽自動車でさえそこには大きすぎる質的差異がある。自転車と自動車を同じ車道に一本化すると、どちらにとっても迷惑だし、おそらく自転車走行者の事故が多発するだろうというのは確認するまでもない。

 さて、この車社会のアクター(登場人物)が織りなす車社会体についての基本的な視座は、一番の弱者である(とみなされる!)歩行者を中心にして考えるということである。
 今の、自転車を車道で走らせて歩道には歩行者のみをといった平板で馬鹿にもほどがある議論は、しかしそうした基本的視座から短絡的に導いたものにすぎない。

ここまでは当たり前の話である。

 さて、歩行者=弱者 とみなす、この<視点>は、一体だれ(どの主体)であろうか?

  それが歩行者の視点ではないということは当たり前である。私は、福岡市で生活をしているが、歩行している時に当たって、ついぞ歩行者×自転車、自動車 の事故にかれこれ5年間、全くお目にかかってない。事故の中心は明らかに自動車×自動車(或いは自転車×自転車)である。歩行者は実は弱者ではない。歩行者は、ある意味において、一番の強者だ。というのは、都会のほんのちょっとした距離を歩くサラリーマン達が、そうである。歩かざるを得ない高齢者や子供は確かに弱者である。しかし、マントを被って弱者のふりをしている歩くサラリーマン達は、自分たちの移動コストが少しでも少しでも減るようにと、今の車社会体を動かしている一番の大きなアクターなのだ。従って、歩行者には2種類いることになる。真なる弱者と、偽なる弱者。

  したがって、歩行者=弱者とみなすこの<視点>は、とりもなおさずこの偽なる弱者=歩くサラリーマン達=社会の中心を握っている者たち、なのである。繰り返しになるが、彼らは法的な保護(”歩行者”は優先されるべし)を巧みに身に纏って、自転車よどけそうすれば我々歩行者(ここでは、歩く高齢者/子供=真なる弱者と、歩くサラリーマン=偽なる弱者とが意図的に一体になっているのだ)は安全に守られる、とこざかしい主張をしているにすぎない。
 行政は、真なる弱者と偽なる弱者を分かつ判別基準を未だもたずにいる。このままいけば、間違いなく車社会体は、偽なる歩行者にますます有利な環境にならざるをえないだろう。

真なる弱者は、実は自己の<弱み>を主張できない、だからこそ弱者なのだ。
偽なる弱者は、時に真なる弱者を巧みに利用して、自己の<弱み>を<強み>にこっそり変える、いまいましい強者なのである。

以上
misty @

 

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科学の内部から外部へ突き抜ける方法

こんぱら~おはようございます、mistyです。

 昨日、公務員試験の1次を全て受け終えて、はーやっと受験勉強的なものから6割解放されるともう無気力いえあの状態ですww ただ、来週末また地元に戻って2次を受けねばなりません…

 急に高校時代の友達が懐かしくなったので、何人かにとても乱暴に適当に電話をかけて捕まったらしゃべるというアララなことをしてたんですが、ええとですね。 理系でとても聡明な子が、本をほとんど読まないということを知った!(君は読書愛好家というキャラ設定のはずwだろ!)ということがありました。

 でもやっぱりとても聡明だと思いました。
情報が馬鹿みたいに溢れるこの世の中、必要なものだけを取りそろえて後は離脱するという方法は、全く持って正しい。 ノマド的生きかた。
 それに比べたら四六時中本を話せない僕は、やはりこの現代の環境の中で情報の有する悪魔的な魅力から逃れられてはいないのだなぁ… と思ったけど好きなものは好きだからどうしようもなし、そのまま進むべし。。 

はーい、朝から眠たいですが、とてもあっさりした、しかし実は奥の深すぎる話をしたいと思います\(^o^)/

@科学の内部から外部へ突き抜ける方法

 科学の外部、外の世界へ、突き抜ける[逃げ出す]方法はあるのだろうか? あるとしてそれは如何にしてなのか?

 周知の通り、現代社会では、およそ<科学>scientia と呼ばれるものが、真理のほとんどを占めている。科学的根拠があるかなしかの二元論でほとんどの物事のありとあらゆる価値が判断される。

(※ちなみに本稿では差し支えない限り、「科学」を「仮説・手段・目的を設定して、それぞれに基づき論理的に、ある真理の一部を解明することを本質とする学的態様の諸体系あるいは部分」と定義しておく。この定義は本ブログで繰り返し使うことになると思われる。)

 科学とは、簡単にいえば、仮説に基づいて論理的に真理を形成しようとする行動や態度、又はその考え方などのことである。

 科学が人間社会をこのように支配するという事態は、永遠不変の事でも何でもなく、とりわけ近代からその勢いを飛躍的に魅せた出来事であった。 科学が真理だとは限らない、なぜならそれはいつまでたっても仮説であるから。
 しかし、ある有効とみなされる仮説が支配的な立場を占めるに至った場合、それが反証されるとか激しい批判を浴びるとかされるまでは、その妥当性を確保することが社会の安定につながる。そうして時代時代の諸真理は形成される。

 問題はここからだ。人文科学・社会科学・そしてとりわけ自然科学がこの社会を支配するようになったこの今、私たちには果たして科学から抜け出すことはできるのであろうか?

 できる、と答える根拠は何であろうか。観察/判断過程に置いて科学的でない、との<答え>が出た場合、それは科学的なものでないから即ち私たちは非科学に接近したことになるのだろうか?? そもそも、根拠を問うてる時点でそれは非常に論理的な手続きではないだろうか。つまり、それは科学的な手法に他ならないのではなかろうか。

科学を否定する場合、この否定の仕方がまた科学的である場合、事態は延々と科学の内部に留まるばかりである。
 「これは非科学だ、そう考えたのは科学的根拠だ、その科学的根拠は非科学的だ、そう考えたのは科学的だ…」

 井の中の蛙、ということわざが全てを示している。私たちは、単に<科学>という名の井戸に閉じ込められているだけなのではなかろうか?

 それは、果たして正しいことなのだろうか。非科学は不正義なのだろうか。 というより、私たちは非科学的なものを、非科学的な方法で、非科学的な眼で、非科学的な手で、接触することができるのであろうか。

現代社会の病理。パラノイア。

 既に、脱科学を掲げて様々の分野からいろいろな試みが行われている。一番パフォーマティヴでつまり派手であったのは、イェール学派を主とする脱構築であろうか。 内部に住み着いてひたすら徹底的にその構造を問い直す、つまり井戸の中からハンマーでたたきわって、外部へと抜け出すという方法論。

 しかし、脱構築もまだ未完全のままで終わっている。内部から外部へ、私たちは如何にして移行するのか。
簡単なようで、実は驚くほど困難なのが、この<移行>問題である。 それを解消する現場を目の当たりにする日を、私は是非この目で確認してみたい。

以上

misty @



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きれい・かわいい・かっこいい/”オシャレ” の区別

 

 こんぱらーmistyです! 深夜更新です。少し昼寝をし過ぎたようで…
それだからというわけでもないんですが、今回はすごく肩の力の抜けたエッセイでも(*^_^*) まぁ、基本的にいつも大したことを言っているわけではないんですけどね…←

@きれい・かわいい・かっこいい/”オシャレ” の区別

 褒め言葉は、たくさんあります。人に対する賛美に対してもそうです。それほど、賛美への気持ちというものは多義的であり、またいくら言葉を変えても表しきれないものであり、それだけ深いということでしょう。

最近のワカモノ(笑)の、主にルックスに対するホメ言葉としては、女の子だったら【かわいい/きれい】が主流で、他はよく分かりません。男性だったら、クールとか、かっこいいとか、ダンディ(笑)とかありますかね。

さて、女性男性を問わずして、”オシャレ”という言葉がほめ言葉の一つとしてあると思います。
 「○○さんオシャレー!」 とかいうのですね。

 この”オシャレ”という言葉は、他のほめ言葉とは差異があるように感じられます。
主流的な(主にルックス面に対する)褒め言葉は、きれい・かわいい・かっこいいですが、この中に「オシャレ」という言葉を同格的に扱うのはちょっと違うかなーという気がします。

というのも、オシャレというのは、専ら”ファッション”を背景として、それとの関係において使われる言葉だからです。

「○○さん・君がオシャレ」というのは、何よりもまずファッションが良いということであり、その人のルックス/全体像に対するほめ言葉としては、本質的に違うということです。

しかし、ごまかしか拡張か、「きれい・かわいい・かっこいい」という言葉と並列して、今やオシャレという言葉は同格に扱われているのが現状です。
 ごまかしとして捉えると、それは皮肉にも似た、一種の冷たさに他なりません。
他方で、拡張として捉えると、ファッションそのものも含めて、人物に対する賛美の構成がなされている。分かりやすく言えば、ファッショナブルであるということが、割りと直接的に今の「きれい・かわいい・かっこいい」をそのまま規定している。

 こう考えると、”オシャレ”という概念も、中々深いですね。 心のオシャレという言説もたまーに見かけたりするのですが、オシャレは派生的な、つまり元々は専らファッションとの関係において使用されていた意義とは異なる、広い賛美への意味作用を働かせるものとして、起用しつつある。
 ファッションとは、とりもなおさず身体的なものだと私は考えています。衣服やアクセサリーは、<身体>の拡張ないし変容として、捉えなければならない。
 今、オシャレという概念が、人への賛美への一般的なほめ言葉としてますますその地位を高めているのなら、それは、<身体>の美が、人の美へかなり多く貢献する。 身体の美が、すなわち人の美である。

これは言い過ぎでしょうか。 なにも、オシャレという言葉が使われたのは最近に限りません。昔から使われていた言葉です。
 身体の美が人の美の一構成要件である事は間違いないのですが、私的には、オシャレというほめ言葉が流行しつつあるのは、そういった「きれい・かわいい・かっこいい」といった一般的な人の美に対する賛美に、上記の変容を見てとります。

はい、オシマイ。 反論どうぞ!

@ misty

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倫理(道徳/道義心による審級)をどう考えるべきか

今日はもひとつ! いつも通りのテキトウな社会評論です笑

@倫理(道徳/道義心による審級)をどう考えるべきか

”議論”と呼ばれているものの多くの実態、例えば、世論、一般大衆による国家批評―もっともこれはメディアがイメージ作るものでもあるから、一端には責を問えないが―などは、実際のところ、最終的な拠り所を<倫理>やヒューマニズムに求めているのがほとんどだと、私は観察する。

「人間的な態度として…」
「道徳心に欠ける政府の対応…」
「結局、倫理的な使命感を欠いているのが決定的にダメだと…」

こういった言説で他者を批判/非難するのは自由だが、しかしそれは有効なのだろうか?

この<倫理>といったものをどう考えるべきかの、私の回答はひどく冷めたものである。

一言でいえば、倫理(ないし道徳/道義心による審級)とは、他の政治的判断、法的判断、自然科学的判断、芸術的判断、宗教的判断といった諸領域の中のひとつにおける、一機能であり、またそれ以上のものではない。

 倫理感に溢れている人が、常に成功を呼び起こすのだろうか?
 使命感が強い人は、救われるのだろうか?

必ずそうではないことを私たちは知っている。また、全てが倫理で片づけられないということも。しかし、私たちは時に補充的にヒューマニズムを持ち出す癖があるのだ。

 最終的な拠り所にこのヒューマニズム、つまり倫理をもっていることはあまり重要でない。それよりも、他の諸領域と並行して働く、一つの機能だと相対的に把握しておくことが、より大切である。

 倫理を一つの機能として捉えると、それはまず何よりも、諸々の行動/言説に対する、ストッパーの役割になる。

私たちはこの問題に対して法的判断や政治的判断をクリアしてきたが、倫理的判断においてはどうか?それはあまりに非・人間的な態度に過ぎやしないか? こういう風に懐疑することは、必ずしも私たちを損なうものではない。

 ハッキリ言って、<倫理>的な態度を取るということの意味を考えても、あまり役に立たないと考えられる。しかしそれは、私たちを非常に人間らしくする。というより、倫理や道徳の(決定不能な)問いを問い続けることによってのみ、私たちは人間たりえるのだ。

「倫理的には許されざるものかもしれない。しかし…」
「宗教的観点からは好ましい。しかし倫理的にはどうしても…したがって…」

 このように、言説が倫理といったものに一旦括弧をつけて、物事を相対的に見る言説態度が増えることを願ってやまない。

以上。vv

misty @

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9月に読んだ本

こんぱら、mistyです! 10月に入りましたね~。だんだんと寒くなってきました(+_+)

久しぶりに、読書まとめを。8,9月は鬼のように本を読みまくりました笑
 敢えて2冊あげるとするならば、『チベットのモーツァルト』と『夜戦と永遠』は必読本です!!!
どうぞ~。

2011年9月の読書メーター
読んだ本の数:16冊
読んだページ数:5546ページ
ナイス数:18ナイス

■ミシェル・フーコー講義集成〈4〉精神医学の権力 (コレージュ・ド・フランス講義1973-74)
★★★★★ この講義シリーズ、いいですね! それにしても、「精神医学の権力」、これは素晴らしかったです。フーコーによる歴史の取り上げは少し恣意的かもしれませんが、それでも精密。”精神医学(反・狂気)”と”権力”という、フーコーの中でもかなり深いテーマの結節点とも言っていいと思います。読みやすかったし、文句無しです。
読了日:09月25日 著者:ミシェル フーコー
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13624375

■ネーションと美学 (定本 柄谷行人集)
★★★★☆ ネーション論。 『トラクリ』でのネーション論をおぎなうものとしてもあったけど、それ以上に様々な領域とこのネーション論を絡めている(しかも面白いし妥当)所が柄谷さんの粋な所。「文字の地政学」なんかは特にオススメです。定本シリーズもあと1冊かぁ…。
読了日:09月25日 著者:柄谷 行人
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13624287

■雪国 (新潮文庫 (か-1-1))
★★★★☆ 名作すぎて今まで逆に手が出ませんでしたが、やっと読みました。というか読みやすっ!セリフがやたら多いと感じますが、登場人物の微妙で細かい心理の描写が巧い。ストーリーも、雰囲気もとても独特(まるで、ちょっぴり官能的なチェリーの味のような)でした。 いいですね、川端康成( ^^) _旦~~
読了日:09月25日 著者:川端 康成
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13624190

■足ふみ留めて---アナレクタⅠ (アナレクタ 1)
★★★☆☆ あとがきで述べてあるように、雑多なまとめ本。佐々木さんは、結構スキゾ(死語でしょうか笑)な性格なんだなぁ…と思ったり笑 この書物からは、あまり刺激的なものは受け取れませんでした。対談が良かったです。
読了日:09月25日 著者:佐々木 中
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13624144

■夜戦と永遠 フーコー・ラカン・ルジャンドル
★★★★★ うーん面白かったー! 特に僕はラカンへの理解が全然だったので、佐々木氏のまとめはかなり嬉しかったです。フーコーの個所が少し長くてダラダラとした印象。おそらくこの本で日本に名が知れ渡るであろうルジャンドルの論は、新鮮でした。それにしても、この三者を通じて辿り着いた地平、「夜戦と永遠」は、こんなにもあっけらかんとして、ちょっぴり寂しいものなのでしょうか。『何も終わらない、何も』と述べるよりも、『何かがいつも始まる、何も』と肯定的に読み替えて、これから佐々木氏の思想をみていきたいと思いました。
読了日:09月25日 著者:佐々木 中
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13623965

■差異と反復
読了日:09月25日 著者:ジル ドゥルーズ
http://book.akahoshitakuya.com/b/4309230296

■知識人とは何か (平凡社ライブラリー)
★★★★☆ ”有名”な思想家や批評家の本をよく読んでいる僕にとって、そうした行為はどれくらい意義があるのだろうか(ただの啓蒙に過ぎないのだろうか?)などとも思って、知識人論を読みたいなぁと思ったらサイードのこの著作がありました。明快だけど、とてもサイードの確固たる心構えを感じる! そうだ、現代には中途半端な”知識人”が多すぎるのだ、知識人には知識人の倫理や道徳があるのだ、と諭してくれた一冊でした。「オリエンタリズム」もその内読みたいです\(^o^)/
読了日:09月25日 著者:エドワード・W. サイード
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13623799

■吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書)
★★☆☆☆ 吉本隆明氏については、著作を読んだことが無かったので、吉本入門的な意味合いも含めて読んでみました。 感想としては、記述が分かりづらい(引用がヘタ)。 でも、今に生きる思想の重要テーマを何気にうまく整理してもいて、そこはラッキーでした。だけど、この本は、二人の思想の比較というタテマエをとりながら結局合田氏の思考をお披露目したいんじゃないか、という気がして残念。星3つでもいいかなと思ったのですが、これくらいで。
読了日:09月25日 著者:合田 正人
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13623724

■差異と反復
★★★★★ [再読] …やっと完全読破できました! 第三章「思考のイマージュ」らへんから、やっとこの本に対する”姿勢の硬さ”のようなものが取れて、何とかゆっくりづつとはいえ楽しんで読めるようになりました。しかし、内容はやはり激ムズ(というより分からないww) 個体の流動的な発生を主に論じている(「世界は卵である」といった記述など)のかな…? くらいです。 でも、読んでいて本当に楽しかったです。人生の伴侶としたいと思います。ありがとうドゥルーズ!
読了日:09月25日 著者:ジル ドゥルーズ
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/12692884

■表層批評宣言 (ちくま文庫)
★★☆☆☆ 苦しかった。著者は、゛苛立ち゛をありとあらゆる対象にぶちまけているだけのようにも思える。あとがきで弁解はしているものの、この本を読んでも元気になるということはない。難しい文体に挑戦しているのはいいが、論旨がいまいち明快でないのは否めない所だ。
読了日:09月07日 著者:蓮實 重彦
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13251783

■逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)
★★★★☆ 逃走「論」といっても、一つのまとまった体系論ではなく、共同討議や短いエッセイなどを“ざっくばらんに“収めた、スタイルの面白い書物でした。 中でも、「ぼくたちのマルクス」という短い文が良かったです。お堅いイメージから古典を解き放ち、たくさんの可能性を秘めた読み方を推奨している。逃走=闘争という感覚が、少しは掴めた気がします(^O^)
読了日:09月03日 著者:浅田 彰
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13180270

■緑の資本論
★★★★★ 素晴らしい本でしたー!9・11事件に寄せて3つの論文+ 「モノとの同盟」という構成です。「緑の資本論」は、現代の資本主義の暴力的とすら言えるグローバリゼーションに対抗するかのような、イスラム経済・宗教を描出していて見物です。「モノとの同盟」は、皮肉にも3・11事件、具体的には原子力をめぐる問題への考察の糸口を与えてくれました。それにしても中沢新一と僕の相性はいいみたいで、スラスラ読めました(^o^)/
読了日:09月02日 著者:中沢 新一
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13156157

■構造と力―記号論を超えて
★★★★★ 読み終えたばかりの今、僕はくらくらしている。浅田の「スピーディーかつスマート」な記述に酔いしれてしまったのだろう。さて、近代論者たちは、浅田の提示するこのどうしようもない近代モデルを有効に批判しえるのだろうか? 本書の最後に託された、理念型としてのリゾーム型社会を、僕たちは構築していかなければならないのか。 さても、世にも恐ろしい本でしたp(´⌒`q)
読了日:09月02日 著者:浅田 彰
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13150116

■チベットのモーツァルト (講談社学術文庫)
★★★★★ 解説の吉本隆明氏も大絶賛。本書はエッセイかそれとも思想書か? 西洋思想と東洋思想を自由に横断し、しかしそこには留まらない中沢氏には脱帽ですm(_ _)m 本書は決して難解ではないはず。氏が言ってるように、この本はポスト構造主義の範囲にあるので、関連した人物の著作などを参照してみることをオススメします♪
読了日:09月01日 著者:中沢 新一
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13136696

■真昼の女
★★★★☆ 暗い…暗かった。。ドイツ“文学“と呼称してもいいんじゃないでしょうか(^_^;) <※ネタバレ> 最後らへんの、森の中で主人公が息子のペーターを見放していく心理過程が、分かりませんでした。何故? まあさておき、人一人の半生のダイナミクスをドイツ文学的に描き示した、良作だと思います(^O^)
読了日:09月01日 著者:ユリア・フランク
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13129272

■トランスクリティーク――カントとマルクス (岩波現代文庫)
★★★★★ 『トラクリ』『世界共和国へ』『世界史の構造』は、著者が断言するように、その強固な一貫性(揺るぎない姿勢)を示しています。中でも、『トラクリ』での柄谷の仕事は志向。 マルクスにカント論を持ちこみ、カントにマルクス論を持ち込み、しかしそれで終わりではない、批評から思想への転回。カント論が精密さを欠いていたり、この時点ではネーション論が抜け落ちているとはいえ、僕はある種誇りにすら感じる一冊でした(^o^)/
読了日:09月01日 著者:柄谷 行人
http://book.akahoshitakuya.com/cmt/13129230


▼2011年9月の読書メーターまとめ詳細
http://book.akahoshitakuya.com/u/95093/matome

▼読書メーター
http://book.akahoshitakuya.com/

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メディア批判はまだ活力がある

こんぱら!mistyです。

今回は、身近なメディア論を\(^o^)/

@メディア批判はまだ活力がある

 本屋で、社会学の近くのコーナーにいってみると、そこには実にたくさんの「メディア」に関する社会評論やエッセイの類の書物が置かれている。メディア批判はいつもアツい。メディア言説の中では、メディアを擁護する立場は批判する立場よりも圧倒的に少ない。それでよいし、それが正常だ。

本稿ではメディアをひとまずテレビ、ラジオ、新聞に限る(ネットは除外する。)

テレビ、ラジオ、新聞にある共通点は、情報の発信者の非・匿名性だ(ネットは反対に匿名性を特徴にしている)。それは名前を、発信源を、程度の差はあれ、公に示している。発信源を示すことは、そこに責任(応答可能性/レスポンシビリティ)の所在を示していることでもある。ざっくばらんに言えば、「顔」を示しているのだ。

相手の「顔」が見えると、こちらもある程度の覚悟、つまり再批判されるリスクをおいつつ批判することを予め想定しているので、互いに責任感や倫理感をもって言説を行うことができる。古館さんはクソだ、とか、小倉さんの今朝の発言はヒドい、私たちはテレビの前でそういった愚痴や批判をボソッとつぶやくだけではない、きちんとこちらも名前や責任の所在を示しつつ彼らに批判を送ることができる。

 批判は、相手の下に届いてはじめて批判足り得る。どこから矢が飛んできたのか分からないのでは、批判された側もたまったものではない。 飛び矢は矢ではないのだ。

 余談にはなるが、だからネット社会がまだ人々の言説に匿名性を従わせている限り、2ちゃんねるやその他の言説の場は、全く責任・倫理を伴わない、少しも批判ではない批判がただうずまくカオスの場であるだけである。それらは、相手に届かない。唾を吐いているだけである、そうして、唾を吐くだけでナルシズムに陥るだけの、つまらないものである。

 従って、「顔」のみえる、face to faceなメディア批判だけは、依然として社会の言説の闘争の場としての有効性を持ち得る。昨今の”知識化社会”の進行にしたがって、人々は何世紀か前は一部の人だけが握っていた、対抗運動としての知識・情報を獲得する可能性を充分に手に入れた。あとは、各人が行動に移すのみである。知識を知恵に変えるだけである(それが難しいのだが)。

misty @

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音楽をはじめとした、「芸術・文化」の在り方を検討して、そこから日本社会のあるべき構造を考え出していくのを目的としています!
私にとっては、新しい試みです。

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プロフィール

HN:
misty
年齢:
35
性別:
男性
誕生日:
1989/03/19
職業:
学生
趣味:
読書/音楽鑑賞/音楽制作/小説執筆/美術館巡り
自己紹介:
学生をやっております。
*好きなモノ・コト
自分哲学すること。
音楽を聴くこと、観ること、演ること、造ること。
映画鑑賞。静かな空間。くたびれた電車の中。美術館。
江國香織。遠藤周作。田口ランディ。

*苦手なモノ・コト
喧噪。口論。理論づくしの人。
早起き。健康的な生活。
デスメタル。精神性のない形骸的ロック。


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