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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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日記。


驚くほど期間があいちゃいました。 サーバー様申し訳ない。

こんにちは、mistyです。

書きたい内容があっても、何故か書く気力がずっと起こらず、こんな感じに。
うーん、今はアウトプットすべき時じゃないってことなんでしょーか…?

確かに哲学系・社会学系の本や論文はこの頃めっきり読書量が減ってきました。
まぁちょっとお休みという感じで。

今日は日記に留めておきます!
あ、その前に年が明けましたね! おめでとう2011年!

新年からは小説を大量に読んでました(といっても高々10冊程度だけど)。
 論理本→感性系の小説、特に海外現代作家の小説、に移行しつつあります! 小説面白い!

 思えば、物語(ストーリー)、はたまたストーリーテラーは地球上無数に存在するはずなのに、一般的な日本人が手にするものは、ほとんどが国内小説!

それもいいけど、ちょっとつまんないんじゃない?
ってことで、今後は海外作家を模索していきたいと思っております。
 手始めはカズオ・イシグロでした、素晴らしい!
 シャン・サの「碁を打つ女」や、カポーティの「ティファニーで朝食を」などを読み進めつつ。
 現代作家に辿り着きたいと思います。

中々、ペーパーバックから好みの本探し出すの難しいんだよな~。
でも楽しみ!わくわく


新年一発目はこれくらいで、そしてもう少し更新頻度を上げたいと思っております! がんばるんば。

misty @

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自己性、他者性

 こんにちは!

@自己性と他者性

世界を自己と他者の二つに分けるやり方は便宜的で広範に用いられているが、それと並行した形で自己性と他者性という言葉(概念)に分けて考える区別もなお有効である。

というのは、私という存在は、何も自己性からのみなりたっているわけではない。
たしかに、デカルト的主体を考察するときには、<私>において「自己性」は最大限の主張をなす。
「コギト」、すなわち疑いようのない<私>という存在の証明に成功した暁には、他者といった存在は非存在、もしくは大変に疑わしいものとして考えられているからだ。
しかし、私には「自己」とはおよそ考えられない要素や部分、概念が含まれているのもまた事実である。
例えば、この身体、この体は通常<私>の範囲に含まれているものと考えられている。というより、私たちの認識は己の身体を隷属化させることによって日常を成り立たせている。
胃や腸は、普段は意識の中に姿を現さない。それが不調のときに陥ったときに、すぐさまその存在を主張し始める厄介なものである。ビールを飲み過ぎて焼けた胃の不全は、<私>にはどうするlこともできない。もちろん、胃薬を飲むなどの解決法はあるにはあるが、それも薬は効いてくれるはずだという願いのもとに行われる動作である。
基本的には胃はわたしたちの意志を無視する。胃の調子がおさまるかどうかは、まったくもって随意の埒外なのである。こんなものが果たして<私>といえようか?
明確に否定することもできないが、肯定することはできない。ということは、<私>には自己性のみならない、何かそれと区別されるべき何かがあることになる。

以上の理由から、単に私=自己性、他者(他人)=他者性と決めてかかるよりも、もっと細かいところで考察の単位を「自己性」と「他者性」とを挙げて考えることも、また有効でもあるかもしれないという帰結に辿り着く。

さて、例の話でもクロスしてしまったが、とりあえずこの自己性とは何なのか、というところからはじめなければならない。
端的にいってしまえば、自己性とは、①私たちの生活の中で②最も近い存在でかつ同時に③最も遠い存在である、この条件を満たす概念である。これは説明しづらい。感覚的にいうと、「これ!」と叫びたくなるものその対象が、本校の考察するところである「自己性」の正体である。
この<私>と最も行動をともにする存在が、私である。<私>について親よりも思考をめぐらせ、<私の身体>をこなよく労るところの存在である。例えばAさんならその「Aさん自身」が自己性と等値であるということも言えそうなのだが、さきほども述べたように私たちという存在は自己性からのみなりたっているわけではないのでそうではない。

他者性の定義から入った方がはやいのかもしれない。他者性とは、強いていうなら「<私>の統治(それは自己統治も含む)の範囲外にあるもの/概念」である。これまた消去法的な定義で申し訳ない。 ちゃんと言い換えると、1<私>と同じようなシステムを有すると「推測」させながら、2しかし<私>の手には負えない存在である。隣のうちの山田さんでよい。隣のうちの山田さんは確かに<私>と同じ人間であり、同じ町内に住む住人であり、同じ新聞を取っている人だ、と言えるが、しかしそれはすぐさま「確実にはそうだ!」とは言えないはずだ。もしかしたら山田さんは嘘をついているかもしれないし、同じ新聞を取っているのも、たまたまその新聞を彼女が取っているのを目にしただけのことかもしれない。
そして、山田さんは随伴性の外側にある。私がいくら心のうちで山田さんを操ろうが、現実の山田さんは私の意志とは無関係のところにー後述するが、この無関係性は揺らぐものとなるー位置するものだ。<私>が手首をケガしたところで、山田さんが同じように手首をケガすることはない(ここでも同じように、時として両者の挙動が一致することはある。シンクロと呼ばれる現象がそれである。シンクロ現象については、いくつかの類型化された原因が考えられる)。


安易な二分法によって物事を考えるのなら、世界はとりあえず自己性と他者性の二つを基礎としている、と仮定することができる。随伴性、不随伴性。意志の内、外。確実と、推測。同一、差異。いくつかの要素が、ふたたび二項対立として表れる。

本稿での基本的な視座は、<私>とは端的にこの自己性と他者性の混ざり合った存在であるというものである。どちらか一方、ということにはならない。<私>が、自己性の塊として突出することもあれば、他者性の様相を帯びるときもある。ケースバイケースである。深く突き詰めれば、こういう場合には自己性が強く、こういう場合には他者性が強く、と分析することもできるかもしれないが、本稿ではその詳細に立ち入らない。


(執筆を、ここで断念しました↓)

misty @ 

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普通の幸せって?


@普通の幸せって?
 
 「私は、普通の恋愛をして、普通の家庭を築いて、普通の人生を歩んでいく、ただそうしたいだけなのに―。」
 
 そんなセリフをよく聞きます。
私からしてみると、そんなことをよく軽々と言えるな!という感じです。笑
 「普通の」幸せ、この形容詞・「普通の」、という言葉はとてもやっかいなものだなと感じます。
それは、「普通の」という言葉を前にを付けてしまった瞬間、たとえどんなものであろうとそれが「格下」(でありながら獲得されるのが必然とされなければならないという強制を伴ったもの)に成り下がってしまうから、と思うからです。
 
 早いが話、上のセリフ、「普通の恋愛をして、普通の家庭を築いて」という、彼(彼女)が念頭に置いている「普通の」人生とは、本当に「普通」なのでしょうか?
 これは否、誤りだと私は考えます。こんな説教くさい話をするのは元より苦手だしそんな柄でないことは重々分かっているのですが―。
 こういうことです。
例の上の人生図とは、すなわちごく最近に私たちが「夢」にまで描いた、理想図―「普通」は対極・反対のもの―なのではないでしょうか? 四民平等、男女平等の名の下、どこか1920年代のアメリカ的な家庭を背景にしたような構図は、しかし、一般的なものであるとは、到底考えられません。
 
 自由な恋愛ができ、お互いに結婚という一大イヴェントをクリアし、仕事に励みながらも育児を充実させる、このことの難しさ。
 20年代のアメリカにおいては、確かにそれは普遍的な家庭の構図であったのかもしれません。しかし、それは一時的な普遍性だったのではないでしょうか。
 
 1920年代のアメリカといえば、第二次産業革命を起こし、WW1後の国際社会に置いてイニシアティヴを取ったということも後押しをして、国家的にも非常に勢いのある時代でした。そんな時に生活・文化圏の中心になったのが、上の例の「普通の生活」像だと考えられます。
 もう一度いいますが、当時はそれは確かに個人の人生の一般的な図になりえたのかもしれません。しかし、それとて永久的なものではなかった。何故なら資本主義を本格化させることになるアメリカ社会の裏では、実に多くの貧困労働者が生まれ、彼らは「理想的な」人生はおろか、食えるか食えないか分からない生活を強いられていたれっきとした事実があるからです。また、白人社会・黒人社会等に見られる、人種間のあからさまな軋轢、それによる貧困の拡大化も見逃せません。
 ということはやはり20年代が普遍的とみなした「普通の人生像」も、内容的にも歴史的にも「特殊」のものであったことは間違いがないのです。
 
(★「普通の」―  普通の恋愛、家庭、仕事、人生   →  「理想的な」

1、 「普通」とは平均ではなく、むしろ理想化された特殊なものである
2、 「普通」=おしなべて  …そのような等質的な生活像が実際にあるわけではない
3、 「普通の生活」を手に入れた人は、実際はごく少数である

 
 私の意見では、日本は例えばアメリカ文化を、形のみならず精神までもを非常に欲していたと解します。昨今私たちが「普通の暮らしがしたい…」と呻いているその大本の「普通の暮らし」も、たいがい、そういった海外からの影響を受けて多かれ少なかれ歪曲された像に他ならない、と考えています。
 だからといって、そのイメージが悪である、とは一つも思っていません。
 
 しかし、私たちが意識している「普通の暮らし」「普通の人生」「普通の家庭」とは即ち普通ではないのであって、むしろ「理想」や「夢」などの稀の方向に近いもの、と考える方がスッキリします。その差異を私たちは簡単に忘れて、「普通の」という形容詞を用いることでそれらの事実にフタをし、まるでそのことがあたかも一般的、引いては手にするのが当たり前、手にしなくてはならないもの、であるかのように思考しがちなのだと思います。
 
 実際、どのくらいの人がその「普通の」幸せを手に入れているというのでしょうか?
また、私たちの一人ひとりの差異(違い、相違)は、必ずと言っていいほどあるものです。私たちの境遇がまったくそのまま一緒、なんていう事態が果たしてどのくらいあるでしょうか? 似たような人生を送っている人だな、と思うことはあっても、よくよく聞けば細かいところが随分食い違っている、ということはよくあることです。
 とすると、「大多数の人々が送っている普通の暮らし」なんていうのも、アリえないことになります。一人一人こんなにも違う私たちから、共通項をみいだすことなんて、ほとんど不可能に近いからです。同じ人数の家庭をもって同じ年収を稼いでいる人が二人いるからといって、その二人が抱いてる心象までもが同じと誰が言いきれるのでしょうか。片方はこれで満足だ、などとと思っていても、もう片方はこんな生活ではマダマダだ、と思っている―少なくとも、同じような心象風景がみいだされることは皆無と言って差し支えないと思われます(それは私たちが抱えている差異そのものに根拠がある、と考えています)。
 
 さらに、そうした特殊な事例は数の少なさを以て他を圧倒するという性質があります。つまり、「理想の人生図」を手にしたものは、実際にはごく僅かであるにもかかわらず、それがイメージとなり伝聞となることで、人々の脳内を刺激し「そのような人生は、夢ではなく私たちにも同じように手に入れることができるのだ」、と考えてしまうことになります。
 ここで峻別しなければならないのは、「可能性」と「事実」です。確かに、普通の人生=自由な恋愛をして、立派な家庭を持って、希望のある人生を進むこと をかなえられる可能性は、どこまでも平等に私たちの目の前に広がっている、ということは否定できません。特に自由主義資本主義社会との関係では、そのような可能性はぐっと広がった。
 しかし、そのことと実際にそのような生活を送ることができている人たちは、ごく「一部」です。そして多くの人は、恋愛に障害があったり、結婚に何回も失敗したり、子どもに恵まれなかったり、仕事で挫折をしたり、そういうことがありながらも前を向いて生きているというのが実体なのではないでしょうか。それらが「哀れな人生」であると思うことの方が哀れなのです。障害―尤もそれは社会が「障害」と見做すからこそ障害たりえるのだが―のない人生など、ありえるにしても求めるのが不思議なほどです。
 
 つまり、「普通」は普通であって普通ではない―。
素晴らしい物事をあたかも「当たり前」のことにみなしてしまうわたちたちの思考の性急さ、これこそ愚の信骨頂!  私はそう思います。
 それよりも、目の前にある現実から目をそむけずに、大きな気持ちで受け入れていくことの方がよっぽど大事だと私は思います。
 だから、「普通の人生でいいのにっ…!」と言ってしまう人は、普通の人生というものがどれほど困難でだからこそ重要なものなのか、そのへんの所を考慮せずに発言してしまっている結果なのでは―と疑うのが先になります。
 幸せはよく目を凝らせばその人の近くにたくさん転がっているだけであって、「普通の人生」という強迫観念が眼隠しとなってその人の思考を縛り付け、見えなくさせているだけなのではないか―。それならば、「普通の人生でいいのにっ…!」の解決は、「こうこうこうすれば普通の幸せを手に入れられるよ」と説く占い師や宗教家の言葉よりも、「そうじゃなくって、もっと広い心で目の前の現実を受け入れてみれば?」と教えてくれる小説なんかのほうが、よっぽど心に響く。
 もちろん、解決方法は人それぞれであって万人に適したものなどないというのが正論でしょうが、悩んでいる人はまず「何故自分が悩んでいるに至っているのか」ということに思いを巡らせば、意外に答えはそのへんに転がっているのではないでしょうか。
 
まとまりのない文章でしたが、得てして人の煩悩とはそのようなものだと、私は思っています。
misty @

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戦争責任

mistyです!
少し話に飛びがある記事になってしまいました。。 反省。

述べられている2つの疑問というのは、ようするに

1 戦争=WW2 となっている我々の認識の危険性
2 「責任」を戦争未経験のわれわれにあまりにも簡単に、画一的にそして威圧的に伝えている嫌いがある

です。


@戦争責任
 
この時期になるとなお一層、第二次世界大戦をはじめとする日本の「暗い」過去についての報道の熱が増す。
 
端的に言ってしまえば、私には報道の必要性とその大切さは十重に分かっているのだが、それにしても報道の偏りには疑問を抱かざるをえないのである。
 
まず一つの大きな疑問は、日本は歴史を振り返っても幾度の国内・国際紛争をおこなってきた(そしてそれは現在にも連なっている)のにもかかわらず、何故WW2のみが過剰に取り上げられるのだろうか、ということである。
 たしかに、この戦争が日本の歴史や文化などにとって、特殊で異様な意味を持つことは頷ける。最多の犠牲者が出たことや、二度の原子爆弾―日本は唯一の被災国である―が落とされたということ、全体主義的な色がとても濃く、戦時下はあらゆる価値が裏切られ虐げられていたということ。ポイントをあげるには少しも足らないが、WW2が日本に投げかけた―投げかけている―事柄は、実に根が深い。
 しかし、戦争というとなぜすぐWW2になってしまうのだろうか。時系列的に一番短いからか? それは否であると思う。近いといっても、戦争の終わりから現在にいたってはとんでもないほどの月日が流れているし、しかも日本がそれ以降関与している世界戦争は現に存在するからである。まさか、まっこうから交戦をしていないという形式的な理由だけで、日本は非・戦争国であると認識するわけでもあるまい。
 
 疑問は解消しないが、しかしこのことがはらむ問題を敢えてあげるとすれば、それはあまりに戦争=第二次世界大戦 という結びつきが強すぎるために、他の事件の事が認識されなくなってしまうという危機である。
 確実に言えるのは、日本はこれまでも幾度の戦争を行ってきたという「事実」である。WW2は確かに最も異例で重要な意味を持つ事件の一つであったが、だからといって、他の事件が重要でないということでは必ずしもない。
 
 過剰な報道がもつこうした危険性を、もう少し当局は考慮すべきで、報道の配分などについても改めてく構成しなおすべきであろう。
 
二つ目は、われわれはあまりにも戦争責任を重たく負っている、と見えることである。それも、WW2の時のみのことを? 報道は、私たちの「過ち」を決して忘れることないように、という目的をこめてということもあって、毎年毎年戦争責任について考えたり思ったりする時間を私たちに提供する。
 それは、必要的・とても意義の大きい時間であると思う。戦争責任は、何年かかっても償いきれるものではないし、まただからこそ、何年かけてもしょっていくべきであるからである。
 
今いえるのは、私たちが普遍的に戦争や平和のことについて考えるとき、その基盤となるのが固定されたWW2の世界観になってしまわざるをえなくなることである。WW2ではああいうことがあった、だから今回はそんなことが起こらないようにしよう―。 一応、一般的な思考傾向であるように思われる。
 それでは、世界大戦終結後すぐ起こった朝鮮戦争に対する日本の態度は? 友好国であるとされるアメリカが関与した戦争について、日本が積極的な国際対応を取らなかったことは?
 
 私たちが参照するのは、過去に行われたただ一度の戦争のことのみではないはずである。反省材料は色々とあるし、またそれらは同じような意味をもつものでもなく、それぞれ微妙な差異を持った問題を投げかけてくれるであろう。
 具体的にいえば、参加国として関与したWW2の反省として、日本国憲法において国際戦争の参加を禁止する規定を作った。 それでは、朝鮮戦争において軍事物質を結果的には大量に戦争地に配布することとなった日本の、責任は何もないのかといわれれば、そんなことはないであろう。実質的に「参加」というかたちを取らないにしても「提供」国としての対応はどうすべきだったか・・・? このようなことを、このあまり認識されていない戦争は考えさせてくれる。
 
 要は、WW2に捕われるあまり本質を見失ってあまり視野を狭めすぎるな、ということである。
 思考の視野は、自分でも気がつかないぐらいにどんどん変化していくものである。だからこそ、私たちが戦争責任について冷静に考えるときに必要な参照物を、WW2のみに固定することはないのである。広く見なければならない。
 
率直にいうと、報道やその他の情報機関・機構からもたらされる戦争責任についての事柄は、どこか単純で説明不足で威圧的だ、ということが否めない。私も含めて今の子供たちは、WW2をリアルに経験したことがない。
 何かを伝えようとするときに、その肝心の何かが簡単になりすぎてしまったり、大事な要素が抜け落ちてしまったりというのはよくあることだが、だからこそもう少しこの点をデリケートに考慮するべきである。
 
 WW2は60年以上も前に終わっている。そして、戦争についてのイメージは、一途なものでなく、実に様々である。事実を報じるのはけっこうなことであるが、それが人の頭の中にどう映りどう解釈されるのか、このことはメディアについての最大の課題の一つであると断言できよう。
 
misty @

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mement mori

@mement mori
 
メメント・モリと読む。どこの用語法であったかは恥ずかしながら失念してしまったが、意味は「死を想え」ということである。生きながら、その生の中で「死」のことを考えろと問いかけてくる意味の用語である。
 
 生きながら死のことを思うとはどういったことなのか。ここでは、まず俗世間的な視線として<生>と<死>は反対概念としてもちだされる。生きることの反対は死ぬことであり、逆もまた然りである、という(短絡的な)考え方である。
 世俗的観念としての<生>と<死>には、これまた二極的なイメージがどうも付着しやすいようである。<生>には主にプラスのイメージがつきまとう。陽光を浴び讃美歌を口ずさむ人の肖像、などは<生>を肯定しそのことを包括的に善し!と鼓舞する。太陽。日が昇る。木や森が茂る。子どものきらめきが輝く。
 反対に、<死>にはマイナスのイメージが付きやすいようだ。おどろおどろしいガイコツ=髑髏の行進。西洋のペスト大流行時を含意したものとしてよく描かれる(ここでペスト感染がすなわち<恐怖されるべき死>を意味するのは言うまでもない)。月光。日が沈む。幽霊や化け物が死の世界へ誘い、それらを恐れるものともする。黒や灰色の動物が暗喩する。
 
◆ 生(生きること)  ⇔  死(死ぬこと)
 
 なぜ<生>はプラスとして、<死>はマイナスとして観念されるか?
 この答えは幾つかあるだろうし、複層的になっているのだろうが、敢えて一つの答えらしいものを取り上げるとすると、それは<生権力社会>である
[1]だろう。生権力社会とは、すなわち人々の支配の対象が<生>になっている社会のことである。人々は、往々にして、<生きる>ことに支配される。善く生きろ、などと言われることがある。これは、主に倫理的な意味で、その社会・時代において標榜される生き方をなるべく踏襲しろ、と命ずるものである。法律で「善く生きろ」ということが規定されることがないとしても、この標語が掲げられそれが<よい>ものとして作用する限り(近代社会以降において、特に哲学的見地を出発して「より善く生きる」ことを目指す風潮がエネルギッシュとなった)、それは人々の道徳的心理を支配する・縛り上げるものとして働く。<生>とは、先程述べた単純なプラスのイメージではなく、人々の人生を縛り上げるものとして働くという側面を仮定する、というものである。
 生権力社会では、人々は<生>がまるで手錠のようになってそれに惑わされる。こう生きろ、いやこう生きろという無言の圧倒的な命令が社会の随所で鳴り響き、それらに従わなければ社会から排除される―。この、社会からの排除こそが、まるで<死>でもあるかのように。社会的逸脱、アウトサイドはいわんや<死>そのものよりも忌み嫌われるべきものとして現れるのである。
 
 とすると、現代社会は、忌み嫌うべき対象が<単なる死>から<社会的死>へとシフトした社会であるかもしれない。社会に辱められ自己の生を傷つけられるくらいならば、死んだ方がまだマシであるかのような思いとかが、それの特徴を表している。いや、それは現代社会に特有ものでもないのかもしれない。新渡戸稲造の描く「武士像」とは、このように恥ずべきくらいなら死、という様ないさぎのよい侍をも包含していたはずである(それが新渡戸自身が直接意味していたものかどうかは別として)。祖国か死か、チェ・ゲバラのような生き様も、また似ている。ここでは、(何らかの意味において)善く生きることが何よりも重宝され、続いて単なる死が、そして最後に社会的死=排除、逸脱が最後にくることになる。
 
◆ 善く生きること  >  物理的死亡  >  社会的死亡
 
ここで話を戻すとしよう。メメント・モリが示すその広範な意味を捉えることは確かに難しいが、この意味をあえて一歩間違えてみよう。すると、メメント・モリとは実は、人々に<より善く生きろ!>と強制しているようにも聞こえないだろうか? 死を想えの「死」とは、単なる死(=物理的な意味での死、身体の死亡)ではなく、社会的死(被・名誉棄損、堕落した生活、不健康な身体etc)をこそ避けるのだ!と。より善く生きているのならば、別に単に死ぬことは構わない、ただ不名誉な死は避けるのだ、と。
 このようなひねくれた見かたは、しかし、一番最初の段階であった二極対立としての<生>と<死>の観念の差を曖昧にさせる。 生きながらにして死、という新たなレヴェルが登場するからである。
 メメント・モリが本当において人生の何を語っているかは、ここでは重要ではない。その意味の拡張を本稿では標榜している。
 
 死のことを考えながら生きる、というのは、たとえば「人命は知らずともいつかは散っていくものだから、その生を大切にせよ」とでもいうのだろうか。これならば、つまりメメント・モリとは<善く生きろ!>とほとんど同じ意味を担っているのであり、生権力社会に符合する形となる。しかし、そうではない。そうではないというより、それ以上の意味がこのメメント・モリにはあるはずである。
 ここで、はじめに示したファースト・レヴェルとしての<生死>の概念とはおサラバしておこう。死ぬことは、ただのマイナスではない! 思うに、それらはある何らかの意味があるからしてマイナスたりているだけなのだ、と。なぜ死がマイナスとされるかの考察はおくとしても、むやみやたらに忌み嫌われるべき<死>、という概念はとりあえずおいておこう。
 
 私は、生と死は、2極という反対方向に動くものではなく、むしろ同一の所に近くあるものとして捉えた方が妥当であると考えている。それは、生権力社会の描く生死の概念に根拠付けられる。前近代社会や、(問題視されるべき)専制政治などの核には、死が支配する(国の掟を破った者には、無条件に死を処すると威嚇することで、心理的に追いやり、人々を支配の枠の中に入れることなどである)という事柄があった。近代社会以降においては、その支配者が生から死(とくに、社会的死)と変わっただけである。人々の人生を縛り上げるものとしての意味においては、両者は実に異なることがない。
 さらに、<生>と<死>は似たような構造を持つ。支配するだけではなく、人生を燃えたぎるものとしても。現代社会は、前者が燃えたぎる人生だけを価値あるものとしている風もある(太陽の光を浴び、生を肯定することの方が生きやすいといってそれらがあたかも最善であると一部では考えられているように)が、それだけではない。<死>も、同じように人々をエネルギッシュに揺さぶる(例えば心理学用語の<死への衝動>などがそうである。フロイトは<死への衝動>を単なる善悪の概念から外して捉え、中立的な、ある意味では準・事実として<死への衝動>の概念を提唱したはずである)。死へと向かうことは、別にわるいことでも何でもないのだ。というより、善悪の問題ではないかもしれない、というのがポイントである。生きる・死ぬは、この段階において善悪の概念から切り離される。
 
 人は生から出発し、死において到着するという簡単な(それゆえに間違っているかもしれないが)図式を考えてみよう。出発点も到着点もともに人の収束する地点であり、いずれかだけに比重が傾くということを無理にかんがえる必要もない―。というのが、私の持論である。透明な生、透明な死というのは当然あってもいはずだ、と思う。小難しく考えなくても良い生、または死。人は、いつも生死について悩み、ぐだぐだと思考するが、そんなことばかりしなくてもよいのではないだろうか。私はそう思う。だからといって、生死への思考や思いを放棄するわけでもない。
 
 メメント・モリ、特に私にとっての<メメント・モリ>とは(各人のメメント・モリがあっても全く構わない筈である)、単に「善く生きること」を標榜するものでもない、かといってずっと死=恐怖を念頭に置くような鬱っぽい人生を奨励するものでもない、そうではなく生と死の本質を人生と結び付けて時には考えてみるのも手だ、といった意味に捉えている。それくらいの限定を付けくわえても、なおこの用語は重要なものとして私の思考や感情を起伏させる。
 
 
 最後に、メメント・モリをあえて主題にしようと考えたのは、近年の自殺をめぐる人々の思考態様に目をむけてのことであった。自殺はとにかくよくないものと、実に多くの人が思っている。その理由は様々で、どれにもそれなりの説得力があるが、しかし決定的な根拠や正当化までにも至っていない、というのが率直な感想だ。
 実をいうと死=悪、恐怖 というとても強く結び付けられたこの2つのもの、という考え方をあまり否定もできないから、そこから出発して自殺はダメだ!となっている考え方も多いのではないか(例えば、自殺は遺族を悲しませるからダメだ!という考え方は、もっともだと思う反面、それではなぜ遺族は悲しむのか、と問えば、それは一般的に死ぬことが悲しいことと置き換えられているからだ、死=悲愴という単純な構造に支えられているに過ぎないのだ)。
 死=悪 という等号は、必ずしも結びつくものではない。いや、それを積極的に取り外そうとする動きも特段推奨されるものでもないかもしれないが、私はどうも社会の働きに敏感なタチである。
 社会がそれらを等号する―何らかの理由や背景を以て、とあるのならば、それはとりあえず探ってもいいのではないか、というのが私の基本的なスタンスだ。 近年の<自殺はダメだ!>という風潮は、風潮であるがゆえに、その根拠や背景もじっくり考えてみなければならないだろう。
 生命の尊重、という事柄がクローズ・アップされてしかるべきだが、本稿では省かせていただいた。ただ、生命の尊重が実は生権力に裏付けられたものでしかないという事態であるならば、それは本稿でみたような考察も全くの意味をなさないわけではないように考えられる。
 
misty @


[1] 生権力社会とは、私の知識の範囲内においては、フーコーの論ずる主題の中心となっていた概念でもある。私はフーコーの生権力論・生政治論を直接読んだことはない。ここで私がこの用語を用いて念頭に置いているものは、フーコーの生権力論を簡潔に要約した一般的なイメージぐらいである。それくらいの程度で捉えてもらえれば結構である。

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ベーシックインカム-マイノリティたち

こんにちは。
何回も書き直してしまいました、このベーシック・インカム。
それだけ奥が深いってコトで。笑

すみません(平謝り)。

@ベーシックインカム-マイノリティたち

ベーシック・インカムを考えるとき、現代的な「マイノリティ」を考察しておくことは必要不可欠である。
両者は密接に結びついており、深く絡み合っている。

ベーシック・インカムのある一つの構想(※「一つの」、というのはミソである。誰しもが、以下に掲げるような定義をしているわけではない。山森×立岩「ベーシックインカムを要求する者」『現代思想 6月号』(2010、青土社)76頁参照。)には、

「社会構成員すべてに等しく、最低限または少なくともある一定の、所得を付与する」

というものがある。 これを「基本所得」または「ベーシック・インカム」とさしあたり定義しておく。

このようなお金の種類・内容については、それがどのようなものなのかよくよく考えてみなくてはならない。

例えば、これは憲法25条が明記しているような、「健康で文化的な最低限度」のお金、ということになるのであろうか?
もしそうだとすれば、ここで問題となるのは、ある一定程度の金銭は、それが「健康で文化的な最低限度の」生活を送るために必要となる、という前提である。
その目的を達成するためには、お金をかけなければならない。タダでは無理、というのである。

それでは、「健康で文化的な最低限度の」生活とは、具体的に何を指すのであろうか?
ここでその文言を、①健康で②文化的な③最低限度の生活、という風に便宜上分けて論ずる。

(1) ①健康で

健康の概念には、どのようなものが含まれるだろうか?
 それは、病気でないこと、適切な老後生活、幼児期の健やかな成長、精神的健康など、さまざまなものが考えられる。
 中でも、「病気でないこと」は重要である。現代社会は医療社会だといわれるように、人々は病気のない生活を送るためには、人それぞれに違いはあれ、何らかのところで医療にかかわりざるを得なくなってきた面がある。
 大きなケガをすれば、例えば手術が必要になったり、あるいは入院が求められたりする。

そう、ここでのテーマは「医療費」である。
 医療費はタダではない。時には莫大な財産をつぎ込んで病院に世話になることがある。
しかし、医療費には、バラつきがある。個人差がある。
その差には、もちろん偶然的なものもある。 たまたま事故にかかる回数が多かったりだとか、大病に見舞われることが多かったりだとか。
 それらは、後発的事由である。それに対して、先天的事由によるものがある。
ここで登場してくるのが、障害者である。特に、先天的障害者。

@執筆中@

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幽霊はこわくない?!

こんにちは。
最近、難しいテーマが続いていたので、肩の力を抜いた気楽なテーマを考えたいと思います@


@幽霊は怖くない?

幽霊・妖怪って、こわくない?
 最近は、幽霊や妖怪を、小説や映画を用いることで「恐怖」の対象として崇めたてまつる一方で、実在としてのそれらを怖く感じなくさせているような雰囲気が、文化の中にある気がします。

逆説的ですが、僕らは霊感でももっていない限りは、幽霊に対面するのは、テレビの画面や映画のスクリーンの中のことが多くなってしまいますよね。 幽霊は、画面の中で映るものだ。ということは、本物の幽霊は存在しない?
 どこか現実味を帯びていない、はではでしいメイクをした化け物は、ますます現実から遠ざかって、想像界の中での産物というキャラクターを推し進めることになります。
これは、ホラーファンにとってはゆゆしき事態です(笑)。
 ホラーを求めるということは、「これってもしかして本当に僕らの身近にある話なのかも…」と、奇妙な後味を残すような映画がやっぱり名作だからです。 これは映画だからと割り切ってしまうと、全然こわくなりません。

ちなみに近年のホラー界は、まさにこの傾向が高い。(笑) おそらく、「その場だけで楽しめる怖さ」を、配給会社・映画監督なども追及しているのだと思います。
 エクソシストやオーメン、さらには日本のリングなどのヒット作は、後味の悪いという点ではズバ抜けていた。当時の観客に、観終わって普通の日常に戻る際も、映画の感覚を引きずらせるという妙技が、当時の文化社会でセンセーションをいずれも引き起こしています。つまり昔は(リングはそんなに昔でもないけど)良かった!


まぁ、前置きはこれくらいにして、ここでは幽霊というものと、特に科学主義との関係を考察しておきたいと思います。 「幽霊」=装置とみなす、ちょっと変わった考え方です。

 「幽霊」に対する見方・考え方を、科学との関係において整理すると、まずは以下のように分けられると思います。

幽霊を非・科学的なものとする見方   ・・・ 消極的見地  A
                         ・・・ 積極的見地  B

幽霊を科学的に説明する見方   C


まず、A。これは、幽霊を消極的に非科学的なものとみなす見地・文化です。どういうことかというと、幽霊や妖怪のような存在は、科学のように合理的に説明できるものではなく、しかし別段科学を意識しないというもの。

 このような観念があったのは、例えば古代・中世の日本などがあげられます。「妖怪・化けもの」がとても人々の生活の身近にあった時代です。梨木さんの小説「家守忌憚」や、水木しげるの妖怪ワールドは、まさにこの範疇にあると言えます。

梨木香歩の「家守忌憚」は、とてもみずみずしい小説です。江戸の半ば・後期に生きる主人公は、冒頭からいきなり死んだはずの友人の幽霊と会話を交わし、しかも主人公はそれを不思議なものと思いつつもわりとすんなり受け入れているのです。そんなおっとりの主人公のもとに、友人以上にミステリアスなキャラクターが彼をとんどん取り巻いていく、というストーリーなのですが、そこには人間と化物が、なんとなく仲良く世界を共有しながら生きているというほのぼの感が漂っています。

古代・中世の日本では、ヨーロッパほど合理的なものの見方が支配的であったわけではなく、幽霊・妖怪といった存在は小説や小話で幾度も幾度も登場して、親しまれてきたけれども、それを理論的に説明するなどといった芸当はほとんど存在しなかったと思われます。それよりも、そういう不可解な存在を受け入れ自分達の生活の中に溶け込ませるという動きの方が多かったのだと思われます。
 水木しげるワールドでは、あずきあらいとかいったんもめんとか、とても人間の生活がしみ込んだものが多い。これは、化け物が人々の日常にとても深くかかわっていたことを反映させていたのだと考えられます。


同じく幽霊を非科学的なものとする方向に於いても、それを積極的に峻別しようとする見方(B)は、Aとはわけが違います。これは、化け物と共存するなんてとんでもない、むしろ科学の方に寄り添ったりして、幽霊をひたすら怖がるといったなどのものです。
 ここでは科学などの化け物以外のものは、依存するべき対象であり、反対に幽霊などは、排除するべき・避けるべき対象であります。

もともとのホラー小説・映画などは、こういった考え方からできたものもあったはずです。幽霊をひたすら「あっち側の」世界に置くことによって、しかしある種の「向こう見たさ」という心理を利用して、恐怖をあおるという。
 
幽霊は非科学的存在であるとともに、ひたすら恐怖の存在でもあります。忌み嫌う、という表現がぴったりか。
Aのようなほのぼの感はみられなく、幽霊なんてとんでもない!
 こんな気持ちを、私たちは抱くことも在り得るのではないでしょうか。ホラーがほんとにダメという人は、この類型に入るのかもしれません。


そして最後に、幽霊までもを科学的世界の範疇におさめようとする見方(C)です。これは、まず幽霊以外のものも科学の世界に支配されているということが前提となっています。
 つまり、幽霊さえも科学的に説明できるはずだ!というスタンスに立つことです。

「心霊家」など、スペシャライズさせるという動きは、この範囲のものといえます。
最近の(ぶっちゃけてしまえば、魂胆がバカバカしい)ホラーTVなどに、よく見られます。

ます、幽霊写真や動画などといって、根源的恐怖心を茶の間にあおりたてる。
この段階では、Bの観念に近いといえましょう。
しかしそれから、心霊家などの専門家が、「不可解とされた事態」に、説明を与えていく。
「これは、3年前にこのアパートで自殺した人の霊です。殺された時の恨みをうったえたくて、この写真に写っているのです。」

…なんとまぁ、合理的な説明! そして、ほっとしてしまう(もしくはそう見せかける)わたしたちのバカバカしさ!
しかしここでは、あくまでそういった「不可解な」事象を、私たちの理解の範疇に寄り添おうとする動きがあるのです。

説明をされて無意識に私たちがほっとしてしまうのは、科学への信仰心が少なからずとも現れていることの裏返しでしょう。信仰心というと語弊があるかもしれません。 この世の中に、科学・合理性の考え方がいかに浸透しているかということです。

よく分からない・非科学的な存在から、科学的な証明へ―。
幽霊は、幽霊的なものを取り上げられていきます。 最近のTVショーなどでは、C的なものの見方が多い。
でもそれは一方で、伝統的なAの見かたをなくしてしまっているのでは?

 それでいいのか日本!(笑)

不可解な存在でさえをも文化の基盤としてしまう、そういった情緒的な民族を、私はやっぱり愛してやまないようです。
最後に一言いえば、幽霊や妖怪に合理的な説明を与え過ぎると、それはいちホラーファンとしての面白さを減らすことにもつながるので(笑)、ほどほどにしてほしいですね…小さい事ですが!笑

それではっ。
misty @

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事実的な事実


こんにちは、mistyです! やっぱり背景が合わない気がするので颯爽変えたいと思っています。笑
久しぶりですね、「思想・哲学」のテーマで引き続き投稿できます(*^。^*)

前回の自由論は、はっきり言ってあぁいうテーマの文章を書くのに慣れていないので、大変読みにくいと思います。

ちょっと簡単に整理しておくと、以下のような感じになります。

<自由A>・・・(感覚的観点) 選択肢が豊富なことからくる圧倒的な解放感
       ・・・(論理的観点) 選択肢が、より制限的ではないこと→「他のものであり得ること」の可能性がより広い→自由的

・しかし、選択肢を与えられているという時点では、すでに束縛されている
・束縛はされているものの、その中でより自由度が高いかどうかが重要

(3)の論理的考察 中段は、だいたいこういう整理になります。
しかし、このようなあいまいなものを、はたして憲法などの諸理念として定立してよいかどうかは、わりとあやしい事にはなると思います。
多様性の問題も含んでいると思われるのですが、このへんの議論に関してはあまり詳しくないので、せめて勉強してから考えたいと思います。


@事実的な事実

どうでもいいのですが、「A的なA」という表現は、特に現象学や分析哲学に多く見受けられる気がします。

事実とは、いったいなんだのであろうか?
 私は、事実とはあくまで擬制されたものであると、少々ニヒルな見地から考える。
事実とは、常に擬制された構築物である、というのである。
歴史は常に作られた産物であるというのは、よくよく言われる事柄であるが、まずはそのような先入観を排して根本から考えてみたい。

ちなみに、「擬制」というのは、「作る」というニュアンスにプラスアルファが付いたものである。それが真実でないとは知りつつも、別の形を装わせる、といったような意味合いである。


例えば、裁判所は紛争の処理に当たって、まず事案の検討から入る。そしてそのあと、法律を構成する事実を取捨選択し、事実関係→法律関係 へと、次元を移行させる。
 この処理は慣習的に行われているものである。がしかし、よくよく考えてみると、生の事実関係から法的判断を下すために取捨選択を行っているということは、その生の事実が事実として確定していなければ、処理の正統性・妥当性を主張しえないはずである。
 しかし、このことは法社会学などの見地から考察されているにとどまる。法学の全体的なテーマとして扱われることは、意外に少ない。

AとBという人がいるとして、この2人が喧嘩している時、Aから見たら、事実はAの主観そのものである。例えば、Bがある事実を隠してそれをAが知らないとしても、その事実はAから見た事実の中には含まれず、Aの思っていること・感じていることが、そのままAとしての事実になる。
 反対に、Bとしての事実もそうである。
とすると、この二人の存在の時点で、すでに事実は異なることになる。事実とは、こんなに揺らぐものであろうか? それは非常に疑わしい。

この時、第三者の視点は、かなり有用に働くことが往々にしてある。Cという人が2人の喧嘩を冷静に見たとき、そこにはAとしての事実とも、Bとしての事実とも、両者とも異なる事実Cが誕生することになる。そしてその事実Cは、なるたけ誰が見てもそうなる可能性の高い、要するに客観性を有する事実である。
 そしてこの事実Cこそは、擬制された事実に他ならない。

2人のケンカは、Cが介入するよりはるか以前に起こっているのである。Cは、いわば事後的にそのケンカという事態を眺めたにすぎない。
Cが介入する時点で、すでに事態ははるか遠くにいってしまっている。その遠くに行っている事態こそは、けっこう真実らしい事実であろう。
しかし、そこには入手不可能性がつきまとう。私たちが行動するためには、事態を頭であれ感覚であれ一度読みとらなければならない。直接入手することは性質的に不可能である。その時に、真実らしい事実はするっと私たちの内に入ってくればよいのだが。

ともあれ、Cは事実を正確に把握しようとするだろう。
 Aの主観と、Bの主観が著しく異なっている点(争点)につていは、どうすればよいのか?
最も妥当と思われるのは、AにもBにも適合的な事実を作りだすことだが、それはやはり「新たな」事実を擬制してしまうことに他ならないのではないか?
 Aとしての事実は、Aにとってはまったくの真実であるし、反対にBとしての事実は、Bにとってまったくの事実である。
 これに適合的な解を与えようとする時点で、やはり素朴性からは一定程度離れることが想像に難くないのである。

もっともいってしまうと、最適な解を与えることは、もしかしたら本当に当たっているかもしれないし、しかし違うかもしれない。その確かさを窮極的に判定するすべは実はないのであり、すると、新事実を構成することは、やはり常に擬制する契機を含んでいるとここでは言わざるを得ない。

ちなみに、Cの立場は裁判所のスタンスそのものである。
 裁判所は、紛争事実がその裁断にかけられると、一定の期間のもとに法的判断を与えなければならない。モタモタしている暇は、実際的な理由からあまりないのである。限られた裁判所に毎日多くの事案が降ってくる司法性の下では、逆に時間を制限して審理させる方が、司法行為にインセンティヴを与えることにも資することにつながるからである。
 そして裁判所は、その時もっとも確からしい事実と、判断枠組みをもって、判決を下す。
下された判決には、名前(形式)と法的効力(実質)が与えられる。
 裁判例は隠匿されることなく、国民のだれもが参照できるように、公示されている。その時に、各紛争は上の形式と実質を、いちおう与えられることになる。それを使って、便宜的に私たちは生活を送っている。

この裁判所の行為は、やはり厳密には真実の行為ではない。しかし、擬制された行為である。もっとも確からしいと思われる事実を、真実として「扱う」のである。こういう性質がある。

私たちは、限られた時間の下で生きていくほかない。そのうえで、ある時点でケリをつけて、正しいことは証明されてはいないものの、もっとも確からしいことくらいは証明・考察することができるので、それをもって「確からしい事実」→「真実」と擬制していくほかないのである。それは、効率的にも良いことだし、それをやっていくほかに私たちの仕事はない。

たとえば考古学のような仕事は、これらの、どんどん擬制しては流していく「現在」に対して、ストップをかけられるような特別の存在者である。 過去に「真実らしい」と思われた事実の、あやしい所をほじくりかえして、考察によってどうやら「あまり確からしくない」ことに移行させる。そして、「こっちのほうがより確からしい」事実を再提示する。それをわれわれは吟味して、また新たな事実を過去に当てはめていくのである。
 

したがって、事実はいつも事実的な事実であり、真実ではない。擬制された事実をもとにして私たちは日常を送っている。
 この点を意識し、擬制された事実は、覆る可能性があることをわずかに希望していくことが、私たちの不断の努力によってなされてもよいと思うのである。

misty @



 

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選択可能性という自由


こんにちは! mistyです。

前回の記事投稿から時間がたっていますが、連立政権がうんたらの前にもう主相が変わっちゃったりして、てんでダメですね笑

世間ではワールドカップの真っ只中であり、僕ももれなくどっぷりサッカー鑑賞にひたっています笑
みれない試合があったら憤るくらい!

今回は、誰しもの頭を抱えさせるテーマ、「自由」について、ほんの覚書程度のことを申し訳程度に記述していこうと思います。

一応はじめに簡単に触りを紹介すると、「自由」というのはまさに簡単なようで難しいテーマであって、古今東西その概念の内容について偉人たちも普通の人たちも、いろいろな思考をめぐらしてきました。
記述するのは、まったく的外れな議論であろうkとは重々承知ですが、それでも思考はやむことはないので、わかった上ではじめたいと思います。確信犯ですね! (ーー;)

@ 選択可能性という自由

(1)開放感

「あ、これはいろいろと選べるな!」 そう感じるとき、往々にして人はそれと同時に「自由」をおぼえないだろうか。
私の場合はそうである。
たとえば食堂が二つあったとして、A店には3つしかメニューがないけど、B店には30種類ものメニューがある時。
いつもA店に通っていた人は、B店に行くと、「おぉ~」と感嘆の声をあげそうである。
あの、何ともいえない、ある種の開放感。 それは、自由と名づけられてもいいような気がする。

ここで語っているのは、とても気分的なものだ。主観的な「自由」である。開放感というのはまさに気分であり、その人がその時その場所で感じたことは、その人以外には誰も分からない。そういうものであろう。

しかし、その気分を感じさせる、根っこのところに、理論的に説明することができる何かしらのモノはあると思う。そこに焦点を当てて生きたい。

それが、「選択可能性」という名前の<自由A>である。ハッキリ言って、それが自由かどうかすらも分からないし、どのような種類のものであるかも分からないので、これからは<自由A>という風に呼んでおく。
ここでの<自由A>の本質的な定義は、「より選択の可能性があること、外に向かって開いていること」である。

上では食堂のメニューを手に取ったが、正直あまりピンとくる事例でもないので、また新しい事例を取り上げてみたい。
メジャーとマイナーの音楽の世界はたとえばそうである。

マイナーな音楽の世界では、実はけっこう、歌詞がとても開放的である事が多い。どういうことかというと、とても公の場所では言ってはいけないような言葉が歌詞に使われていたり、すごく分かりにくかったり反対にピンポイントの用語を歌ったりされる事が多いのである。これは断言してもよい事柄だ。

あくまで一般論であるが、よりメジャーの世界では、歌詞は分かりやすくなるような傾向にあると考えられる。それはもちろん、聴く人層がそれだけ厚くなるので、老若男女が理解できるような表現がマッチするのだ。

以前、Mr.Childrenの楽曲の歌詞に際どい社会的用語が使われた事があって、歌詞の変更とは言わないまでも、テレビ出演で演奏の際に、その部分だけほかの言葉に代えてくださいと命令されてうたったことがある。
これは、より公正で社会の福祉に利さなければならない空間においては、仕方のないことだろう。

しかしそのフレーズは、どぎついものであるだけに、とても歌詞の内容を際立たせていた。ピンポイントで、歌っている事柄の背景が描かれるのである。

こういう風に、表現の世界では、よいか悪いかは別として、たくさんの言葉を使える可能性があればあるほど、描写が生き生きとしたものになってくるという性質があるのだ。そしてそれは意外に大きな要素である。
メジャーの世界で言葉を変えて歌わざるを得なかったMr.Childrenの例に対して、マイナー世界は対照的だ。言葉が、時には暴力的で時にはあまりに鋭い言葉が、活き活きと歌われてその生命を鼓舞しているのである。

その意味においては、マイナーの世界のほうが、なにかより解放的であるとは感じないだろうか?
もちろんこれは一般論である。逆の事態もとうぜんにあるだろう。メジャーの世界のほうがより広くて、楽しくて、開放的な場面もあるであろう。
しかし、ここは見逃せない点である。公の場所ではタブーになりそうであればなりそうであるほど、逆に表現は生き生きとしてくること。

ある意味、禁忌の独特のゾクゾク感とも似ている。

(2)論理的考察 前段

このように、<自由A>は、よりたくさんの可能性が開けているときに感じる思い、である。
そして、<自由A>はとても短命である。

なぜならば、人は、あるものが決定された瞬間、それに束縛されてしまうからである。
今日の夕食は何にしようと、うきうきで考えていて、しかしメニューを決めた瞬間、そのウキウキ感を味わうことはもう2度とない。「今日はエビフライにしよう」という思いの下に、その人は支配されていることになる。

選択や決定は、すなわち束縛である。あるものが、あるとあらゆる可能性を持っていた時期から、その可能性を一瞬にして奪う契機である。

すると、すべてのあらゆるものは、その選択される直前が、一番可能性の開けている時なのだ。まだなにものでもなくて、これからなにものにでもなれるというその莫大な広大さが、おそらく人にあれだけの開放感を与えるのだとも考えられる。

すなわち、<自由A>は、まだなにももにもなっていなくてかつなにものにでもなり「うる」もの、である。

内に秘めたパワーが、発揮されるその直前が、実は一番発揮されているときなのだ。


(3) 論理的考察 中段

<自由A>は、物事が選択される前に、その時点においてありとあらゆる可能性を秘めているという点で、もっとも自由的である。
それは、<自由A>の、本質的な箇所であると解される。しかし、この議論は、少なからず現実的な側面を見落としている。
物事の選択についてわたしたちが思考をめぐらすとき、つまり、選択肢について考えるときに、物事は既に決定されているということがらだ。
これはどういうことかというと、まだ何にも規定されていない物事は、したがって規定をもたない。たとえばAという物体は、いくつにでも切り分けることができる。ひとつのリンゴは、まだその処分が決まってない限りにおいて、いくつにでも分割しうる。
しかし、それを切り分けようとしたとたんに、その物事は選択肢の切り分け方という一つの事態によって束縛されるのである。一つのりんごを3人分に切り分けようとする、その瞬間に、そのものは4つに切り分けられたかもしれないし、5つに切り分けられたかもしれない、そういったほかのいっさいの運命を辿る道を切り落として、物事Aは「3つに切り分けられる」という厳然たる要素に束縛されてしまうのだ。

だから、私たちが、ある物事について決定を下そうとするとき、その選択肢を考える時点で物事を支配してしまっているのである。
これは、現実の作用として仕方ないと割り切るしかない。私たちは、物事を始めるに至って、すでに終えられているのだ。

しかし、そういった束縛を受けてもなお、その複数の選択肢のどれかにすがりつくことができる、というまさにこの点において、自由は違った性質を持つものとして、新たに登場するのだ。これも、<自由A>の新たな形態に違いない。

それでは、このような事態においては、やはり選択肢の範囲がより広範なものが、より自由的であるといわざるを得ない。3つに規定されるよりも4つの方が、そして浅く切り分けられるよりも深く切り分けられることの方が、より自由的なのである。あらかじめ、束縛されているという点でそもそも自由的ではないのだが、その中でもより制限的でないというまさにこの側面において、<自由A>は姿を現すのである。


話が少々ややこしくなったので、前の具体例に戻ろう。Mr.Childrenの歌詞である。彼らは、禁止されてしまった語句を用いることで、よりピンポイントな感情や歌の背景を、少なくともヒュオ減できる可能性を手にしていた。マイナー音楽の世界では、これが特に禁止されることもないので、はじめからそのような開放性を手にすることができるのである。

語句が禁止されるということは、多かれ少なかれ、表現の選択の幅が狭くされてしまっているということだ。なぜなら、その禁止語句を使うという道はあらかじめとおせんぼされているからである。
これに対し、より寛容な世界を持つマイナー音楽では、そのような道がとおせんぼされていない。それは、その道を通ることは結果的にはもしかしたらないかもしれないがー禁止語句を使うということはしないかもしれないがー、それでもあらかじめその道も選択肢の中に含みいられているという点で、より制限的でない。つまり、より自由的なのである。

これはおそらく、<自由A>の具体的な姿だ。

このように、<自由A>は世の中にごく普通にみられる現象であり、かつ人々にある種のー説明した通りのー開放感を与える性質のものである。この<自由A>を求める人間の欲求は、さだかではないが、しかし現実にははっきりその光景を見て取ることができる。
このような<自由A>は、例えば日本国憲法が規定しているかのように、憲法の理念として設置されているかどうかは不明である。
しかしわずかに言及しておくなら、このような<自由A>は、人間にとってより「多様な」可能性を与えるものである。多様な行動がそれでは善などをもたらすのかといったらそれは疑問であるが、少なくとも「今ではない私」「ほかのものでもありうる社会」といった、人間社会における建設的想像の世界の柱を担うものになっていることは、否定しがたいのである。

本稿はここでいったん筆を置くことにするが、この続きとしては「多様性」の世界についてもう少し考察を加えてみたい。
ちなみに多様性の思想については、今日グローバリズムというのが、現実界•思考界両方においてその勢力を伸ばしていることとも関係して、様々な議論が交わされている。これは、こういった文脈においても、やはり注目したい事柄である。


misty @

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抵当権と資本主義

こんばんは、mistyです!

理由あって、「横に広げるマーケット」は続き断念しています。。書こうと思えば書けるんだけど。うーむ。笑
「見えないことを信じること」に関しては、いつか投稿したいとは思っていますので、どうぞよろしくです(--〆)

今日の話は、法律の簡単な小話、エッセイです。そこまで突っ込んだ議論になっていません。


@抵当権と資本主義

(1)抵当権とは?

今日の大学でのゼミで聞いて、改めてハッとしたことなんですが…
 抵当権の制度趣旨は、資本主義の発展にある! ズバッ!と言ってのけた、民法学者の我妻はやっぱり天才だなと思いました。
あくまで我妻説という話にはなるでしょうが。
法律のお話を、ぐっと社会制度の方に引き寄せて考え付くというのが、中々出来ない。すごい。
抵当権の話を、いつでも現代社会の在り方と結び付けて、いつでも新鮮な議論を展開できますからね!( ^^) _旦~~

抵当権とは何ぞや?という風に思われる方もいると思います。
厳格な説明をすると、また話はややこしくなるので、具体例で説明します。下に述べるような感じです。

Aさんは、Bさんに100万円を貸していたとします(あげた<贈与>わけではないので、当然返さねばなりません)。
しかし、Bさんは、まんま100万円を所持していない。Bさんには、不動産(平たく言えば、土地のことです)を持っているので、それを担保にしていたとします。担保というのは、要するに現金100万円の代わりに、その土地を(最終的には金銭化して)充てる事をいいます。
Bさんは日頃から、持っているその不動産で、賃貸などの商売で儲けているとします。そして、約束の返済期が来ても、100万円を返せなかったら、自動的に、その不動産を競売(「けいばい、と読みます」)手続きにかけて換金して、そこから100万円をAさんの弁済に当てることができる。この、弁済に当てることができる権利を、抵当権といいます。

説明長っ! 笑 要は、債務者に、商売をさせておきながら、約束の時期を過ぎた時には仕方ないから強制的に弁済をさせる権利です。
メリットは、考えようによると思いますが、(1)100万円借りたらそのまま100万円返さなければならない、といった即物的な形式の契約にとらわれることがない、そして(2)債務者は、弁済期にあっても、抵当権の目的物(上の事例でいうと、Bさんの所有している不動産です)を利用して、収益を得ることが出来る、(3)抵当権者(債権者、事例でいうとAさん)は、確実な弁済を得ることが出来る、などなど。
 デメリットは、複数の人が関与してきた場合の処理の仕方がやや煩雑になる、(2)抵当権の及ぶ範囲がイマイチ定かでない、などなど、他にも色々あると思います。

 我妻先生は、もう亡くなっておられる学者ですが、既にこの抵当権の意義を、資本主義の関連の下に考えていました。
資本主義は、資本を投下して、労働力を購入してそこから商品を産み、商いによって利潤を得て、の繰り返しです。ですから、ある程度のスピードと融通の良さは、のどから手が出るほど欲しい要素になります。
 抵当権制度は、債務者は自己の債務の弁済にそれほどとらわれることなく目的物の利用・収益行為をなすことができるし、抵当権者にとっても確実な弁済が得られるので、まさにうってつけといえるわけですね。


(2)資本主義の現在

ところで、その資本主義制度そのものはどうなっているかというと、まさに危機に瀕しているということができます。
書店に行っても、「資本主義」「瓦解」「終わり」「危機」、これらのキーワードが一緒になった論考や基本書は本当に多いです。
労働者への搾取、という、マルクスのテーマの一つでもある事態の困惑さは、資本主義の影の大きな要因になっていると考えます。

(1)で見たように、もし我妻先生に同調するとすれば、抵当権の制度も、今日の資本主義の停滞という現象とパラレルに考えざるを得なくなります。
すなわち、契約をどう結ぶかは基本的に完全に当事者に委ねられている<契約自由の原則、民法の根幹の原理>ので、抵当権を設けるかどうかも、自由の範囲内になっています。
おそらく、ここをイジるのかなぁと。
つまり、抵当権を付けるか付けないかは、昨今の取引界では当事者の自由でしたが、もしかしたら一定の条件を満たした場合にだけ、抵当権付きの契約をしてもよい、などといった形式の議論が生まれてくるかもしれない、といった事柄です。

 抵当権の制度趣旨=資本主義の発展
ととらえることは、抵当権の設定を促す方向に働きます。そこで、「ちょっと待った!」をかける。
一つの取引が新しい取引を産んで、それは利益が利益を産むといった神話=資本主義、が、瓦解の危機に直面しているのだとしたら。
取引締結に関して、もう少し慎重に!との声を政策的にかける余地はあります。
 例えば、別の次元にはなりますが、特定商取引法や消費者法等の特別法の規定は、そうした、「契約をする前にちょっと待った!」の効果を人々に与えるものだという事ができます。


ちなみに、昨今の取引界では、金額がある程度の大きさをもつ契約関係を取り結ぶにあたっては、ものにはよりますが一般的に抵当権などの権利を付すことが多いみたいです。もちろん、返せなくなったら困るのですから当然ですよね。

(3)まとめ

現行の修正資本主義の下でも、1日にどれだけの契約が結ばれているのかは、図り知れません。数えきれないくらい多数の契約関係があることでしょう。
しかし、その中で、どれほど公正で安定感のある関係はあるのかというのも、昨今では微妙なラインです。一般に、契約自由の原則の下では、例えば国が「契約の際にはこうした形式を!」といった公式なルールが中々働きにくいので、その態様は千差万別だと思います。

抵当権は、便利でもありますが、同時に強力な権利です。
あまりに少額の金銭でも、弁済を弁済をと迫るのは、時にはやむをえない場合と認められるにも関わらず、酷であるかもしれません。
抵当権の設定をするにあたって、下限を作って、これ以下の金額でのやり取りでは抵当権を付けることが出来ないなどといった政策の議論が生まれる日はそう遠くないのかもしれません。

以上!
ちなみに、抵当権の基本的な知識については、さまざまな書籍がありますが、
①内田貴『民法Ⅲ 債権総論・担保物権 [第三版]』東京大学出版会、2009
②淡路剛久ほか『民法Ⅱ 物権 [第三版補訂]』有斐閣、2010
をオススメしたいと思います。話の中で出てきた我妻先生の本もあります。以下。
③我妻 栄『民法案内4 物権法 下 』(勁草書房、2006)

misty @

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1989/03/19
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