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発信主義。:「抱えるくらいなら、発信【発進】せよ」 **** mistyの目に映る様々な社会現象を、考察・検討を通してグダグダ考えましょう。

フルハウスは嗤う

   

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見えないことを信じること 2

(2)見えるということ

わたしたちは、実は案外見えていないと考えられる。見えてはいないが、自分の現状を高めに飲み込もうとするのだ。結果、大して見えなくても、見えたつもりになっているのではないか。

まず、可視的に見えるかどうか、という議論から入っていこう。
目が見える、ということは、しかし、あんがい漠然としたものである。簡単に目がいいから、とか人並みの視力はあるから、いっても、実はそれほど安易に片付けられる話ではない。

まず、私たちの、視野の限界だ。私たちは、目が見えるといっておきながら、実は背後は全く見えていない。180度はがら空きになってしまう。
顔に目がついているのだから、当たり前ではある。しかし、私たちはこの事実をよく消去しがちである。
背後においては不可視的である。そこを、意識が想像物として補う。目の前の景色との一貫性や、あるいはこうであろうとの推測から、それは作られる。背後の世界は、造られたものである。
ゆえに、それは本当の背後と、同じなのかはっきりしない。もしかしたら一致するかもしれないし、もしかしたら全く違うかもしれない。不意を突かれる、というが、基本的には背後から起こることであるのが多いのである。
つまり、私たちは、世界の半分を不確かなものとして、それに半ば脅かされながら生きている、ということはできよう。我々が見ているのは常に半分の世界である。

さらに、集中という事柄がある。私たちは、見えている180度の世界の中でも、実際に意識的に見る景色は部分的なのである。意識は、集中という事態を発生させるので、どうしても不注意な部分が景色の中にできてしまうのである。
凝視する、という言葉はつまり、見えている世界の中からさらに対象をしぼりとって見るということである。つまり対象外の部分については、注意力散漫となる。
いや、全部を凝視できるのだ、との反論はある。しかし、たとい全ての方向を注意したつもりでも、それはあらゆる部分が少しぼけるといったことにしかならない。対象を絞らない分、不明確となるのである。


(3)see

見えるの英語は、seeである。周知の通り、この言葉は「分かる・発見する」という状態・動作をも示す動詞である。
そもそもseeには、分かるという意味ガあった。見えるということは、その内容が見えるということでもある。
未来が見える、という時、それは未来が可視的に見えるのだということを指すのではなく(もしかしたらそのような意味合いを指す場合もあろうが)、未来の内容が分かっている・把握しているということを中心的に示している。
ここで、見える/見えない の区分は、分かる/分からないに移行することにもなる。
人間の知を無限定にとる立場からすると、「分からない」ことは何もないの鴨知れない。
しかし、次のような事実を考えた場合、どうであろうか。
私たちは、何かを分かろうとし、結果そのことについての知識を得た、とする。
すると同時に、また新しく分からないことが、噴出してくることはないだろうか。例えば、ある新種の原子を発見したとする。

すると今度は、どういう環境の元でその原子は姿を表しやすいのか、化学反応は、性質は、他の原子との関係はどうなのか、何を生成するのか、地球上にどれくらい存在するのか、といった具合に、どんどん新しい問いが生まれてくる。発見者は、次はこうした問いにまた答えていく姿勢を見せるであろう。 つまり1つの問いとその答えに対応することは、それを終わらせると共にまた新しい問い(謎・分からないもの)を出現させるのだ。人は新たな問いに一つ一つ答えていく生き物だし、世界は分からないことでうめつくされているのである。
分かることが、一つ増える度に、分からないことが10増える。我々の歴史とは、そういうものであったはずだ。
とすれば、どれだけ分かっているものを分かっている、と豪語するよりも、分からないことを見つめていくことの方がより真摯な姿勢だと私は思う。

ただ、人間は分かることに安住してしまいがちな存在である。分からないことに対しては、腹を立てるのである。

あるいは、分かったふりをする―。分からないと安心できないから、気を休めるために、自分の周りを予測可能な、つまり分かるものだけで埋めようとする。隙間を作ってはならない。隙間は悲劇であり、あってはならないものである(視界には隙間のない、「強い人間」という虚像が作られる。)。


鷲田が次に述べるように、企業戦略の場においては常に「現在から確定されたものとしての未来」が、並べ立てられるのである。
話題は、筆者が企業の活動にあたる言葉を分析していた所からはじまる。

…あるプロジェクトを立ち上げようと提案する。そのプロジェクトの内容を検討するにあたっては、そもそも利益の見込みがあるかどうか、あらかじめチェックしておかなければならない。なんとかいけそうだということになれば、計画に入る。計画が整えば、それに沿って生産体制に入る。途中で進捗状況をチェックする。支払いは約束手形で受ける。そして儲けが出れば、企業は次の投資に向けてさらに前進する。事業を担当した者にはそのあと当然、昇進が待っている……。
 ここでポイントになるいくつかの用語を英語になおしてみる。プロジェクトはプロジェクトであるが、次に利益はプロフィット、見込みはプロスペクトである。計画はプログラム作りと言いかえることができる。生産はプロダクション、約束手形はプロミッソリー・ノート、進捗・前進はプログレス、そして昇進はプロモーション。なんと、「プロ」という接頭辞をつけた言葉のオンパレードである。これらはみな、ギリシャ語やラテン語の動詞に「プロ」という接頭辞(「前に」「先に」「あらかじめ」という意味をもつ)がついてできた言葉である。…(中略)…要するに、すべてが前傾姿勢になっている。あるいは、先取り的になっている。そして、先に設定した目標のほうから現在なすべきことを規定するというかたちになっている。…
(鷲田清一「「待つ」ということ」17-8頁、角川学芸出版、2006)

  予見可能のもの中で、なるたけ<現在の方>からのみ、物事の判断をしようとする姿が浮かぶ。

しかし、結局それでは本質を掴んだことにはならない。アキレスと亀の話は、線分の交差点までの一部分までしか見てはいなかったのだ。


(4)信じるということ
  信頼社会という言葉がある。信頼社会は崩れている、今の日本は欺瞞に満ちていると、様々な方向から批判されている。

例えば、売買契約においての、当事者の片方の債務不履行について(例えば買主なら、商品を受け取ることの対価として、金銭を支払うこと。)。法律的には、その相手方(売り主)は一定期間付きの催促を請求することができる(条)。
催促は、必要に応じて何回でもできる、とされている。しかし、何回かにも、限度があるであろうことは、冷静さをもっていれば、判別がつくはずである。

当然、催促は法律上も認められた、権利の行使として積極的にすべきである。
しかし、その催促を過剰にやることは、非合理的ではなかろうか。
過剰に催促すると、それはまず1法律上の強迫行為に近いものとなってしまうおそれがある。
それから、2相手方に不必要な焦りを産ませて、心理的負担を加える可能性がある。
また、3潔さの観点からも疑問となる。

しかし現実は、ヤミ金融の取り立てを典型として、過剰催告の例が珍しくない。
この、過剰に相手に「まだなの!?」と催告してしまう行為は、心理的にはどういった状態から来るものなのか。

それは、私は相手を「信頼しきれていない」ことからくる焦燥感や、不安感、疑心暗鬼の現れだと考えている。
決まり文句のように、「あなた、信頼されていないわよ」という言葉は使われるが、実はそれは裏を返せば、「私はあなたを信頼する自信が持てません。」という、―相手の悪さゆえでなく―自己の弱みを表明してしまう言説でもあるのだ。

催告の法律的な制度趣旨(制度の目的)は、相手方に債務の存在を気付かせることで、債務履行の機会を促すことである。そうすることで、私法上の大原則である、取引上の安全の充足に資するからである。
それは、人情的に言えば、思いやりである。反対に、思いやりがなければ相手方の債務履行の機会を与えようなどとはそもそも意図しない。
 現状は、こうした思いやりを欠いた催告行為が多くなっているのだと思う。それは、先程述べたように、相手に対する疑心暗鬼の気持ちからなされている。
 だから、その不安定な気持ちは、相手をも焦らせてしまい、互いを不信にしてしまう。冷めた契約関係に堕落させてしまい、それ以外の所での心のやり取りといったものは全く無くなる。

ところで、信頼できないということは、幾つかの観点と同視できるものがある。
1つは、不安に思うということであった。
上で見たように、不安に思うという事は、相手の力量や行動や誠心を疑うという事でもあるが、自分をも疑ってしまうことの裏返しであった。
そして1つには、「待てない」ということが挙げられるだろう。
引用で引いた鷲田はその著書「『待つ』ということ」の冒頭で、日本社会は待てない社会になったことを指摘している。
我慢や自制が、効かないのである。
耐久力という言葉があるが、それは、人間においては崩壊しているのが今の現状であるのだろう。
その背景には、人々の相互不信やコミュニケーション不全、物欲主義など様々なものの検討の余地があると思われるが、本稿ではその考察には至らないことにする。
相手を信頼できないことの理由を挙げるのは、幾つでもありそうである。相手を信頼できる理由の方が、挙げることの難しくなった社会であるかもしれない。

一つ、この小節で述べておきたいのは、相手が信頼できないというのは、思ったより手強い事態であるということだ。
相手を待てないのは、とりもなおさず、少なくとも「自分」自身は信頼ができるということでありそうである。
しかし、それは違うと思う。
 相手を信頼できないということは、即ち自分自身でさえも信じることができないことを指すのである。
 自分を信頼していないからこそ、相手にも同じように、自分とよく似た部分への不信を示すのだ。

いや、自分だけは信頼できるのだ、という主張があるのかもしれないが、それでは、次の引用を見て4節を閉じることにしよう。
精神分析者のエーリッヒ・フロムの、「利己主義者」についての議論である。すなわち…

…利己主義をよりよく理解するには、たとえば子どもをかまいすぎる母親に見られるような、他人にたいする貪欲な関心と比べてみればいい。そういう母親は、意識のうえでは、心から子どもを愛していると思いこんでいるが、じつは、関心の対象にたいして深く抑圧された憎悪を抱いている。彼女が子どもをかまいすぎるのは、子どもを愛しすぎているからではなく、子どもを全然愛することができず、それを償おうとしているのだ。…
(エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳「愛するということ」98頁、紀伊国屋書店、1991)


(続く
(5) 可視化の幾つかの例

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評価行為とネクスト・ステージ


こんばんは! 連載の、途中ですが、小話を間に入れておきたいと思います。

少し話が抽象的で、分かりづらいかもしれません。
それは、なるべくコンパクトに今からまとめようと思う気持ちのせいからかもしれません笑

「評価」を通じて、芸術作品を語ることの一端に触れたいと思います。

@評価行為とネクスト・ステージ

評価、レビューというものは大変奇妙なものだ。それは、幾つかの点において、奇妙である。
ある作品のレビューをするとして、話を進めていきたい。

まず、評価したくなるような作品と特別、評価する気にはならない作品と分かれる点。
 これは言いかえると、評価したくなる気分と評価する気にならない気分との、2つを私たちが持ち合わせているということかもしれない。

すばらしい作品に逢った時は極端である。積極的に評価したいと思うか、若しくはこんなのは表現できないとさじを投げ出してしまうかのどちらかにならないだろうか?
反対に、低劣な作品に出合った時も、同様であるように思われる。 攻撃的に、その低俗さを攻めようとするか、若しくはレビューする気にもならない、といった相反した態度を採るのではなかろうか。

 一番レビューしたくなるのは、実は、一見<素晴らしいもの>なのか<低俗なもの>なのか判別がつきにくい作品であると考える。
 なぜなら、そういう作品こそ、レビューという手順を踏まえることによって、作品を<素晴らしいもの>か<低劣なもの>か、あるいは別のボックスかに投下するからだ。
 レビューは、作品の価値づけのための、ある種の儀礼的な、そして過渡的な作業だとも言える

 次に、エクリチュールとの関わり。
エクリチュールとは、書き取るとか書くとかいった事柄をさすが、評価行為が、例えそれが口語であれ書面であれ、このエクリチュールを媒介させなければならないのは事実である。
 エクリチュール行為そのものが、評価の方向を決定づけようとする、といった事態も、踏まえておかなければならないのだろう。実際、書き始めたとたんにその言葉達に表現が拘束されているというアイデアは、中々妥当なものだと私は思う。
 ここでは、エクリチュールの厳密な意味や広がりを書くことは省くので、次に移る。

3番目に、作品をレビューするというのは、「<私>の中の作品」を出現させる、ということである点だ。

<私>の中にあるというのは、すなわちイメージされた作品ということだ。
そして、私は、この段階における評価行為を、ファースト・ステージと呼ぼうと思う。
ファースト・ステージにおいては、人は、作品を<私>とセットに、つまり一体のものとして扱おうとする。この点は大変に奇妙である。
 どう作品をレビューしようかと考えても、<私>と結びつける言葉しか出てこないようなレヴェルがそれに当たる。
しかし、何かをレビューしようと思った時、<私>抜きで語れることがいかに少ないか。

ファースト・ステージでは、特に、作品の、<私>に対する影響などが表現される。例えば音楽作品などの場合、「この曲が<私>の人生を変えた」とか「今までの考えをひっくり返させるかのような曲だった」とか表現するようなのが典型例である。

ファースト・ステージでのレビュー行為を非難しようとか、決してそう言うつもりではない。
そういうものなのだと思う。どうしても作品を語る時は、<私>とセットになった作品、つまり<私>の中において塗り替えられた作品をしか、現出できないのだと思う。
 作品はそのように、<私>という一人称との「関係」によって、まずは表現される。そう定義しても良いだろう。
<私>の中でどう響いているか、<私>の中でどう分類されるか、<私>のどの部分に刺激を与えたか、<私>の中でどのような価値づけになったか。 それらを捉えることこそが、第一の、作品に対する評価行為なのである。

本論はここからなのであるが、そのようなファースト・ステージにおける評価行為から、抜け出そうとする動きも幾つか見られる。

 それは、まず<私>の放棄という事柄によって始まる。これを、セカンド・ステージにおける評価行為としよう。

注1…「儀礼的」とは、<素晴らしいもの>なのか<低劣なもの>なのかすぐさま分からずに、それでも何らかの評価を示してみようとする時に、レビュー行為は一つの儀式として存在するかのごとくである。そして「過渡的」というのは、まさに評価行為そのものによって、その作品に対する価値判断がなされるのであるから(少なくともそう捉えられているから)、評価行為自体は中間的、橋渡し的なものである。

注2…<私>の放棄というのが、どういう事態を示すのかといった、厳密な定義はしない。しかし、ここでは簡単に、<私>という主観性から脱却する、くらいの意味に留めておく。そこから考察する。

 ファースト・ステージでは、付属品のような、<私>付きの作品の出現がなされた。この付属品をとっぱらおうとするのが、<私>の放棄である。
 つまり、主観性を排して、徹底的に客観に作品を捉えようとするのだ。

客観的に捉えられる作品にまつわる表現の言葉は、しかし、実に様々である。まずは、作品の輪郭(外枠)をなでるような行為からはじめなければならないだろう。
 よくある大衆向けの短いレビュー、「青春時代にピッタリの、若者向けの応援ソング…」といった決まり文句は、セカンド・ステージに少なくとも立とうとしたものであると、分類される。
 「若者向けの応援ソング」という外枠を探り当てている。その妥当性はさておき、とりあえずそのような輪郭であると判断を下すのである。

しかし、面白いのだが、<私>を徹底的に排除した客観的なレビューというものは、実に無味乾燥なものであるのだ。人間臭さが無い。ファースト・ステージで得られたような、みゃくみゃくしい表現というものが差しあたってない。客観的な視点は、ひたすら作品を冷静にとらえようとし、観察にとどまる。
 しかし、評価行為が、徹底された観察行為と同位なのか、と尋ねたら、それは微妙なラインである。それなら、いっそ観察、オブザーヴといってしまった方が早い。

徹底された観察も、評価行為の一つなのか? これは、私にはまだよく分からない。

 こうして、ファースト・ステージ、セカンド・ステージを経て、私たちは、次のような事態に出会う―。
ネクスト・ステージ、まだ触れられることのない、しかし評価行為をめぐって必ず目指したくなるようなレヴェルでの評価。 それが、ネクスト・ステージにおける評価である。

 ここでは、<私>とセットにさせるのでもない、<私>を放棄するのでもない評価の仕方が問題になる。

人によって意見は違うだろが、私は、作品そのものの「中に」飛びこんで、そこから作品を新たに描き出そうとする行為が、そしてそれが完成、パーフェクトに達成された時が、ネクスト・ステージであると定義したい。

それは、例えば、ある家があってそれを表現したいと思った時、家の周りをウロウロするだけでなく(これは、セカンド・ステージである)、家の中に入ってしまおう、そこからその家を表現しようといった、ある意味「脱構築」的な作業であるのかもしれない。

作品自らに入り込んで、そこから作品が放っている声やエネルギーを、表現させていく―。 これは、実はしかし、私は不可能ではないと思う。可能だと思う。 <私>を一体させずに、しかもなお作品の内なる声を一層華々しく表現させることは、どこか可能であるように思えるのだ。
 というのは、現実に、このレヴェルに達したのではないか、と思えるような評価に幾つか出会っているからかもしれない。

しかしその数はやはり大変少ない。それは、評価という作用が、このように順序を追ってその内容を変えていくものであるからだ、と私はどこかで思っている。
 作品の、もっと純粋でもっと華々しい内なる声を聞きたい、そう思った瞬間から、人々のネクスト・ステージにおける評価行為への道が用意される。


以上
misty @

***
今回はレビューにまつわる話で、私自身、作品を何らかの形でレビューすることが少なくないので、そのような含蓄からこれをかいてみたというのもあって、やはり話が分からないかもしれません。

とにかく、人は、ある時から「より忠実でしかも内容もより面白い」レビューを目指すということ。
そしてそれは論理上可能なのではないかということ。

この二つを、書いてみました。 脱構築の話に近いと言ったら近いのか?笑
それでは。

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見えないことを信じること 1

こんばんは!

さっそく、連載第二弾に映りたいと思います。
まだ草稿が手元にあり、書き途中なので順調にのせられるかどうかは怪しいです!

「見る」ことの意義を考えた記事です。


@見えないことを信じること

(1)「見える」ことの恐怖/権威作用

「見える/見えない」ことを、考えていきたいと思う。
何かしらの方法なりやり方なり考え方なりで見えるもの。それは、果たしてどれくらいあるのだろうか。

「見えないものを信じる力」
いつからか、こんな曖昧な概念が、それでも有効性を持って言われたりする。

私は、これからの時代において、この見えないものを信じる力、というのはますます大切なものになってくる、と考えている。何故だろう。
それは、さっきの一番はじめの問いにもリンクしている。
私たちは、この世界で一体どれくらいのものが見えるのだろうか。

ある意味、人間が歩んできた道とは、いかに見えるものを多くするか、という点にリンクしていたのかもしれない。
人は、見えるものをできる限り多くすることに、尽力を尽くしてきたといってもいいくらいだ。

 反対に、見えざるものに対しては、一種の恐怖を抱く。未だ知らないものは恐怖の対象であり、また恐怖そのものでもある。化け物と置き換えてもよい。化け物は、普段(通常)は見えないものだからこそ恐ろしい。

 従って、見えないものは恐怖に裏付けられた権威である。反対に、見えることも、一つの権威である。見えないことは、ある種の恥であり、不正であり、良くないことでもある(*1)。

「君には見えなかったのか?」 「見えない方がおかしいよ」
こんな言葉は、幾度も聞く。そのことが、見えること/見えないことの、線引き、またはそれらの断然を物語っている。

*1でさりげなく書いてしまったが、〈見える―良いこと、正しいこと、健常なこと /見えない―良くないこと、不正なこと、異常なこと〉 という風に、見える/見えない に、価値判断が従属していることである。見えない<見える、という不等号が一般的には成立しているようにも思われる。

しかし、こうした価値判断は、実に恐ろしいものである。それらの価値付けは、果たして根拠のあるものであるのか。理由あって正当化されている事柄なのか。
価値付け自体が、暴力現象に他ならないのだから、このことはよく考えなければならない。

 「目」で見えるものを想像しよう。
ここに、普通に目が見える人と、いない人がいて、A地点とB地点、それから〈あまりそこなわれることのない自由〉があるとしよう。
二人は、A地点―B地点を往来したいという欲求と、自由をひとしく持っている
。このとき、目の見える人は、あまり不自由なく、A地点から出発してB地点にたどりつける。B地点に分かりやすい目印がある。

しかし、目の見えない人は、それほどうまくいかない。しかし、彼が何らかの能力でそこにたどり着く場合はある。
彼が超人的な能力を以てして、B地点にたどりつくのはよい。
しかし残念ながら、超人的能力というのは、普遍的ではないらしい(だから超人と言うのかもしれない)。 なるたけ目の見える人と「同じ」ように往来するためには、どうするのがいいのか?
  一つの答えらしきものは、現代社会の中に見出だせるだろう。あたりを見回せば、視覚障害者のための期間や装置などは、いくつか制度化され、運用もされている。点字、点字ブロック、専用杖等々。
だがそれらが、いかに不便に使われているのかも、みおとされている。
「目の見える」人は、わがもの顔にそうした往路を行き来する。そうするのが、さぞ正しいことであるかのように。
  これは、私も例外でない。平気で、点字ブロックの上に立っていたりする。

一つだけ取り出せば、地下鉄の設計はほとんどが酷い。点字ブロックの上を平気で踏みつけたりする私の態度とかもふくめて、地下鉄では、まるで健常者でない人はなるべく利用するな、とでも言いたげである。いったん健常者用/非健常者用のコースを分けた上で、しかもそれは必ずしも便宜的でないことを、再確認する必要があろう。


しかも付け加えておきたいのは、たいていの場合、そうした障害者システムは、「配慮」とかいう概念で設計されたりする。

配慮こそ、何か優越的な含み損をもっているし、上位/下位 の区別形成の前提に成り立っている気がしてならない。配慮と労りは似たようで、大違いである。後者は苦しみも共用しようとするが、前者はともすれば、ただの突き放しになってしまいかねない。

このように一例をとっただけでも、「見える」ことには暴力や権威がつきまとっていることが分かる。
見えないことは、負けであり、支配される側にからめとられる。
先ほどは、この見える/見えない に恐怖が働くといったが、これは、根源的な情念(純粋な恐怖を抱く、完全な暗闇にある種の不安や怖さを抱かないものはいないであろう)に加えて、こうした権威/暴力システムから由来する怯え、恐怖も
重なっていると思う。二重に仕立てられているのだ。
この二重構造の前に、あたふたして翻弄しているのが、今日の人間の実体であろう。

 (続く
(2) 見えるということ

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ゆとり


こんばんは。

責任の連載4回、終わりました!
真面目に読むと結構危ない記事です(爆)

要はですね、人が背負う責任の大きさにも限界はあるはずだ、てことですよ。
何でもかんでも因果関係を作出しては、責任を負わせたがる社会なんてことになったら、確実にその社会はつぶれます。

 構成員に対する、もっと分かりやすい愛情が社会にはないと!

今日は短いエッセイです。

@ゆとり

今ちょうど「ゆとり」についてのテレビやってるんですが、

ゆとりはひどいゆとりは失敗だったとぬかしてますが、
 よーそんなに一括にして人をバカにしていられるな、と。

ゆとり世代は、どうやらコミュニケーション不足、態度が悪い、学力が低い、んだそうです。

抽象的な非難だ・・・。
 要は、今の年配に当たる世代が、文化の変化にとまどっているだけで、自分を正当化したいだけじゃないの?
 適当にゆとり世代とくくりを付けては非難をすれば、自己については見られることが無くなりますからね。

例えば、本当にコミュニケーション不足なんでしょうか。
そもそも、コミュニケーションが発達していた時期なんてあったんでしょうか? というか、コミュニケーションという概念自体が比較的最近のものなのではないでしょうか?

別に非難しているわけではないのですが、もう少し仔細な検討を行ってから非難なり激怒なりをしてほしいものです。

この中で、ゆとり世代はダメだという意見の方がいらっしゃったら、次の反論にはどう思うでしょうか(自分の反論が最も正しいとか、そんなバカげたことをおもっているわけでは決してありません汗)。

 年配の世代と、ゆとりの世代には、文化の変化という波を通して、それぞれの価値観・ライフスタイル等に断絶がある。
一方的にゆとり批判をするものの、実際ゆとり世代の方も、年配の世代とはコミュニケーションが取りづらい、生活観念が違う、などと、年配世代と実は同じことを思っているのではないか。
 すると、ここで問題にすべきは、ゆとり世代がどうのこうのというより、それぞれ価値観の違ってしまったもの同士の間のコミュニケーションや社会技術伝達を如何にするか、という問いが積極的に立てられるべきなのではないでしょうか。

私は、ハッキリ言いますが、高度経済成長期を若いころに過ごされた方には、どうも自分達の行動や考えていることが一番エラいのだとの、ある種の頑固さをもっている人が多いような気がしてなりません。

もうひとつキッパリ言うと、伝統を伝えるのと正しい行為を考えるのは、違うことです。私はそう思います。


…なんとなくストレスが溜まっていたので、今日はかなりキツめにぶっちゃけてみましたww
 どーなんでしょうか? ひがみや非難の下はいつも文化意識のズレ、という案は。
 文化意識の違いが分かった所でさあどう歩み寄るのか、というのが最近の議論の中心であるし、私もそのことを積極的に考えていきたいと思っています。
「ゆとり世代」のろくな定義もせずに、度を超えた怒りを言葉の中に込めるようなことがなくなることを願います。
 今回は攻撃的なので、いっそうご意見ご批判お待ちしています。笑

misty @

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責任 4 (完)

責任 続き 

承前

(4)技術革新と生命の支配不可能性

18世紀末の産業革命(第一次)以降は特に、機械工業がめざましく発展を遂げている。それは今日でも変わらない。
 現代は、機械なしには生活が考えられないほどになっている。

機械というと少々古臭い表現であるが、要は人間の知恵が投入された、システマティックな道具である。
もちろん、ナイフや水車といった原始的なものから、時計やパソコンなどの精密機械まで、実にさまざまのものがある。
 機械工業の移り変わりを、ひとえに技術革新ということができる。
技術革新によって、機械は、どんどん複雑なもの・巧妙なものになっていった。
そしてそれは、人間の産業から生活まで幅広く、半ば無承認的に浸透している、というのが現状である。

おそらく、技術革新は、人間の機械工業に対する一つの夢の現れであろう。
益々の発展と、やむことのない、永遠の革新への願望が、如実に表れている。

たとえば法律は、性社会の役割というテーマにはおずおずとしたものの、技術革新の社会への応用には、ひたすら甘かった。

もしかしたら、である。もしかしたら、人々は、夢(しかも、突き詰めるとあやふやで、独り善がりの妄想)を追いかけるあまり、機械だけが先走りして、それを関係づけることに追い付いていないのかもしれないのではないか。

機械の様々の定義の中から、以下のようなものも導きだせよう。
すなわち、機械とは、人間のコントロール可能な、支配下に在る物体である、と。
事実、機械を支配しているという観念は、支配的であろう。しかし、本当に我々は機械を支配しているのだろうか?
否、機械を支配できるのだろうか?
 おそらく、これを肯定する意見の抜本には、人為に因るものは、人為のコントロールが効く、という前提があるはずである。

しかし、現実を鑑みると、事態はまったく逆である。転倒して、機械が人間を走らせている、不安にさせているという事が如何に多いだろうか。
操作ミスから設計ミス、「思いもよらぬ」トラブルなど、機械に手を焼かない人間がいるだろうか?
人は、やれ機械だからと、さも支配して安心しきった顔をするが、しかしそれが絶対安全だと保証できる根拠は実は大変に乏しいのではなかろうか?

 ところで、飛行機、自動車、電車、これらの交通系機械は特にそうであるが、人間の生命の安全を、それらに乗せている機械は少なくない。

私は常々思うのだが、自動車事故は、限りなくゼロに向けて縮減することはできても、ゼロになることはない。なぜなら、自動車制度自体が、その制度の中にそもそも「事故の犠牲が出る」というシステムを組み込んでいると考えられるからだ。

機械は支配可能であるから、したがって人間の生命を預けても同様に安心―。おそらくこの簡潔な理論で、昨今の交通産業は成り立っているのであろう。
しかし、自動車事故をはじめ、電車の(思いもよらない)脱線事故、飛行機の離着時失敗など、事故が起こらない日を迎えたことはない。

これはおそらく、機械への完全支配可能性というのは、最早神話になっているとみた方が早いであろう。
その神話を以てして、人間の生命を預けているのである。

(5) 神秘性

言いかえると、生命は、機械によって支配可能だとされている。

しかし、生命とは、そんなに簡単に支配できるものであろうか。
この問いに対する私の答えは否である。おそらく、生命というものの不可思議性は、世界が始まるそのころから、ずっと続いてきた性質のものである。 ちょっとやそっとのことで、生命を把握できるなど、おこがましいことでしかなかろう。

つまりである―。 (3)で見たボート事故の例では、機械ミスによって、Yの生命が絶たれた。
しかし、それを、機械の「所為」にすることは、おそらくナンセンスだろうということである。
 なぜなら、機械は生命をコントロールなどできはしないからである。

だとすれば、過失概念を持ってきて、それをさらに機械の所有者であるXに責任転嫁するなど、もってのほかであろう。

これは何も、責任を負わないからといってなんでもかんでも、精密度を問わない機械発明をすればよいという話ではない。むしろ逆である。責任を負える程度を、見極めることが大切なのである。

そうした時に、昨今の技術革新バンザイの声にすぐに傾倒してしまうのは、たいへん恐ろしいということになる。

さて、それでは、(3)のボート事故では、Xは過失がなかったということになるのか。それは、どういった事態を引き起こすのであろうか?

考え方としては、もはやYのYに対する生命を保障する責務は、とりあえず彼以外に負わせるべきではないのであろうか?
 これは、おそらく彼の生命に対して最も適した行動が取れるのは、ほかならぬ彼自身しかいないからである、という風な根拠のもっていきかたになる。
 Yの生命の安否が、ボートに託一時的に託された、とは、すぐさま考えないべきではなかろうか。
事故は、あくまで不慮の事故にあったのではなかろうか?

ルーマンが指摘するように、近代以降の社会は、この不慮という現象をなるべく人為の枠で捉えようとする傾向がある。しかしそれはやはり擬制に過ぎない(「人為」という枠組みの入れ替え)。不慮から人為への転化の作用には、無理が含まれる。

不慮というのは、実に神秘的な事柄だ。 雷、がけ崩れ、津波などの天災というものは、おそよ人知を超えた所にある。 民法に、期間についての天災を考慮した規定があるくらいである。
天災は、どこまでいっても天災でしかない。

そして、不慮の機械ミスによる事故は、どちらかというと、やはり天災に近いものなのではなかろうか。
それは、コントロールの不可能な、しかし起こるべくして起こった不慮の事故なのではなかろうか?
不慮は神秘性故に、ましてや人がその事故の責任を負うなどといったことは、およそ考えられないのではなかろうか。

ここにおいて、事故は起こるべくして起こったのだという、かなり前近代的な考え方ではあるが、一種の宿命の観念を持った方がまだましなのではないか、と私は考える。
過失概念を拡大して責任可能性を追求すると、それではいったい誰が責任を負うべきかといった、ある種のたらい回しのような事態が起こりかねないからである。
帰責性がそもそも内在するのであfれば、それは発見するに困難はないはずなのである。あれこれうーんと考え出した揚句に、「お前に一番帰責性がある」と判断されるようなものではないからである。

そして、技術革新という社会の大きな「波」が、強いて言えば今回の犯人(責任を負うべき主体)である、といえる。しかし、そのような不特定多数の群衆が責任を負うことは、現時点において作業的に不可能である。
ゆえにそれは、前近代的な「不慮」=「神秘的なもの」=「人知をこえたもの」として扱うことも、不可能ではないのではないか。 

技術革新は発展するが、その関係を有する人間は、必ずしも同程度に発展しない。
ゆえに、そのような帰結を考えることは、無意味ではないように思う。

責任、責任というが、これは極めてむずかしく、かつあいまいな概念であり、簡単に「お前に責任があるから」などといった言葉を、本来なら言うのは難しいはずなのである。

(6) まとめ

括弧3で見た事例の法律関係でそれを述べてみる。
つまり、YはXの生命権を、一時的に引き受けたことになる。
しかし、生命権はどこまでいってもY自身のものなのではないか。少なくとも、Yの生命権をXがコントロールすることは、不可能がつきまとうように思われる。
最低限、Yの生命に一番「近い」、Y自身がその権利保障の担い手となる。
そして、終局的には事故によって命を絶ったのは、宿命だと言いきることも必要なのではないか。
コントロール不可能なものを、過失概念の拡張によって、半ば技術的にXに帰責性を負わせるのは、あまりにプログマティックにすぎる。

かつては宿命や不慮と言われた類のものを、解決の方向に向かわせようとしたものは、結局新しい別の問題を引き起こしている。いや、それどころか、益々事態をやっかいなものにさせている。

責任=個別に対応すること。  

技術革新に夢を見てそれを発展させるのは一向に構わない。しかし、技術革新がしいたレールの整備が、中途半端に過ぎる気がする。

事象を不慮や宿命の範囲の方にもっていくことは、決して現代文明の否定ではない。
責任の限界を常に参照し、現代社会のシステムを構築していくことが望まれる。

misty @
(完)

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責任 3

責任概念の揺らぎ 続き

承前

(3) 責任の限界 -ボート事故を例にとって-

 それではここで、あるボートの事故例を話の引き合いに出そう。
あるボート業者と利用者がいて、ボート業者Yは湖面Aを遊泳するのに最適なボートを貸し出ししているとする。
 ある利用者Xがこのボートに乗ったところ、遊泳中に沈没して死亡してしまった。
このとき、Yの罪責はどうなるだろうか?

 これを、業務上過失致死罪で構成すると、おおむね次のようになるだろう。
すなわち、Xが死亡に至ったのは、X自身に因るところもあるにはある。しかし、Xは、Yの貸し出しするボートの作業中に死亡したのである。Yは、ボートに対して最大限の安全を確保せしめる義務を担っており、したがってYを安全に遊泳させる義務に、違反したことになる。したがって、Yに過失があったといえ、YがX死亡についての罪(業務上過失致死)を負う。

このような所である。
 ボート操業については、Yがその専門性を有しており、また貸し出しをして設けをしているからには、利用者の安全を保たなければならないという、業務上の義務を負う、とするわけである。

これが、近年の考え方の主流であり、新過失論に大きく依拠したものであるということができよう。
しかしここでは、もう少し仔細にこの事案を、法律的に見ていこう。

まず、利用者Xには、人一般の権利として、X自身を生命の危機から救う、自己防衛権を有していると考える。
それから、ボート利用についての、賃貸契約から派生する権利関係である。

まずボートは動産(民法86条2項)である。 権利関係としては、民法601条以下の賃貸借か、もしくは使用貸借と見るのが普通であろう(593条)。若しくは616条(使用貸借の既定の準用)。
606条には修繕義務が規定されている。少し見てみよう。

606条 (賃貸物の修繕等)

① 賃貸人は、賃貸物の使用および収益に必要な修繕をする義務を負う。

 606条一項によると、賃貸人(使用賃貸人)は、物の利用若しくは収益のために、自らそれを改善する義務を負っていることになる。つまり、賃借人(使用賃借人)が物を利用しやすいように、賃貸人がその物の便を図るようにする義務を負うのである。逆に、賃借人は修繕請求権利を持つ。

 例で言うと、湖面でボートを使用するにあたって、それが利用しやすいように改善、もしくはそこから収益行為を図るためのそれ(この場合、魚を釣ってそれを売るための修繕とかだが、この事例ではそれは考えられない)を、貸し出し人が積極的にする義務を負っている、ということである。

 この規定があるのは、主に601条以下は土地の貸し出しに当たってを想定しているのであるが、借りる人がいざ借りてみるとなると、当該物件がボロボロでは意味がない(借りる人にとって十分な利益とならない)からである。十分な権利関係としての利益を図るために、相手方が修繕(契約当時に当たっては、少なくともボロのない物を想定している、というのが普通だからである:あまりにもボロの物を借りることを当初から想定しているとは考えにくい)をするのである。

ここまでみると、ボートの利用者は、まず大前提として自己防衛権(若しくは自己防衛義務)を持ち、それからボートを使用する権利(601条)、さらにボートを安全に利用する権利(606条)を持っていることになる。

本論はここからである。
利用者Yが死んだとして、それはどこに帰責性があるのだろうか?
 ボートの機械の故障によって死んだのなら、それは故障するような機械がわるい、引いてはそのような機械の所有者として、ボートの貸し出し人Xの責任が問われ、民事では709条の損害賠償、刑事では前述した通りの業務上過失致死罪(208条)を負うことになるかもしれない。

 しかし、この説明はまったく正しいのだろうか。
これは突き詰めて言えば、機械の故障が、直ちにXの責任につながるのだろうか、という極端な問いでもある。
Xがそのボートを作り、その貸し出しを業務としていたことは確かである。
しかしそのことが、本当に決定的な帰責性の原因となるのだろうか。若しくは、我々はそう考えてもよいのであろうか?

ここでは、機械の支配ということも同時的に問題となってくる。

(続く
( (4) 技術革新と生命支配の不可能性

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責任 続き 2

承前

(2) 宿命・予定説

宿命(しゅくめい)という言葉がある。 もともと、人生は決まっている、という観念である。
これは、日本人には馴染みがあるものだろう。少なくとも私は、そう考えている。

自分の人生についての一挙一足はあらかじめ規定されており、それに抗うこととかはあまり意味がない、ということ。
ここで、自由な意志という話題を引き合いに出せば、宿命はそれを否定することにはなる。
運命は自分で切り開くものだ、とする考えとは相いれないからである。
しかしそう性急にならなくても良い。二つくらいに場合分けが可能であろう。

一つは、宿命に対してその反抗を全く認めないもの。自分が生きることの全てが運命であり、それが落ちようが上がろうが、それにただ服従するしかないというもの。
もう一つは、基本的な所は不動=自分の意志では抗えないものの、一部は意志の自由に開かれている、という考え方である。
意志の自由と、宿命との両者を取り入れて、かつ後者を基軸としたものである。

2つ目は、いつが意志の自由に開かれている場面なのか分からない、という問題を抱えているにはせよ、無理が一番ない考え方かもしれない。
意志の自由という考え方は、すなわち、20世紀の最大の戦利品でもある。 実存主義と置き換えていいかもしれない。
近代が待ちに待った、意志の完全なる自由は、それは妄想に近い形でありながらも、それをめぐって動向を重ねたというのが、

20世紀であったということができるだろう。
1つ目の考え方を取ると、この意志の自由と全く相いれないものになってしまう。その点、2つ目の考え方は柔軟である。

抗えないとはどういう事柄を指すのであろうか。
これには、人間が己をどうとらえているかということと、強く関係している。
これについては、また後述することになるだろう。

宿命の考え方に近いものとしては、オーソドックス(古典的)ではあるが、宗教改革者カルヴァンの、「予定説」などがある。

人生は、生まれたときに予め規定されているとする説だ。予定説によると、人々はただその決められた道に従うほかない。
そして、ただ善行を積み重ねることによってのみ、救われるとするのである。
予定説は、おそらく当時のカトリック世界の不条理=現実と説示とが乖離している状態を、合理的に説明するのにも利するものであったのだろう。
お金持ちの人にはそうなる予定が、貧乏の人には貧乏の予定があるとするのである。

アジア的な宿命の観念にせよ、カルヴァンの予定説にせよ、大事なのは、決められたあるものに抗えないということである。
そこには、ある絶大なパワーが観念される。
その絶大な力には、私たち人間は抗う事ができない。まして、つかみ取ることなどできやしない。

そこには、人々の観念を超えた、その意味で超越論的な、不可解ともとれる何かがあるのである。
その得体のしれない何かを、面と向かって肯定するのが、宿命や予定説なのかもしれない。

 この宿命は絶対なのかどうかは、人々によって様々であるだろう。
しかし、私は思う。 この世には、人の考えをもってしては到底達しきれない、宿命や予定説のようなものは依然として存在すると。
それは、科学技術や、人々の知恵がいくら発達しようとも、いや発達するからこそ、そのような不可解な深淵がますますポッカリと口を開けて我々の前に立ちはだかっているのではないか。
私はそのように、宿命のことを思う。

 この得体のしれない宿命は、後に述べるように責任概念と大きく関わりあいをもってくる。

(続く 
(3)責任の限界 ボート事故を例にとって

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”責任”概念の揺らぎ

こんばんは、mistyです!

前回までのエコ運動の話、ところどころ分かりづらいけど、読んで頂けると嬉しいです!

記事では、4つの点を、適当に挙げただけですが、やはりエコ化運動は、偽善運動、欺瞞運動になってしまっている、もしくはそうなる危険がある可能性を秘めていると思います(その理由は挙げた通りです)。
それは仕方ない事かもしれません。
しかし、原理的に無理があるのなら、その原理に目を向けるべきです。
記事ではおそらく、かすってもいないと思いますが、それでもエコの実践者である私たちひとりひとりが、エコの負の要素を取り出してみて、それをどうすればいいのか、と考えていくことは、決して無駄ではないと、記事投稿を通して改めて思いました。

さて… これから一定の期日にわたり、連載をばはじめたく。
「責任」「見えること」「利用」などの諸作用について、ながったらしく述べていきたいと思います!


@”責任”概念の揺らぎ

「責任を取れ!」「君には~の責任がある」
責任社会は、現代に見られる一つの社会現象である。 責任なくして現代社会は成り立っていけない。それが現状である。

 しかし、反対に、この責任が何を意味するか、どういう事態を指すのかについての人々の意識・考え、若しくは論争については、かなりの変遷をめぐってきた。しかも短期においてである。

また、責任には、(人々の集合体である所の)社会に見られるものにおいてだけでも、種々のものがある。~的責任という用語がそうであるように。

そうして、私は、今の時点に於いて、責任概念の根本を変える、大転換の時期に相応しいのではないか、と考えている。
それを、以下、しばし長きにわたって論じていく。

(1) 業務上過失(致死・障害)

 一概に言えることではないかもしれないが、業務上過失罪で落とす案件が多くなったように思われる。

背景には、現代社会の複雑化・専門化が横たわっている。例えばトラックと一般車両が事故を起こした時などは、トラックの運転手はトラック業務の専門に携わっていたわけであるから、当然事故も起こさない義務を課せられており、その義務に違反をしたのだから責任性を帯びる、という構成になっている(新過失論。客観的注意義務違反説)。

業務上過失の罪で落とす案件が多くなったということは、業務上過失、引いては過失の概念が大きくなったということでもある。
 過失概念の変容は、法学界にとっては常識中の常識である。
しかし常識といえど、その変遷が正しいものであったかどうかは定かではない。

雑なまとめにはなるが、変遷の内容については、責任・過失という主観的なものを、近年より客観的なものに近付けようとする努力が様々な場面において行われている、ということである。単なる心理的責任であったのが、行為の客観性に訴えて非難可能であるのかという点に、多くの人々や判例・学説が移行しているということである。

過失概念が大きくなったことのバックグラウンドには、70年代の高度経済成長期の、大規模会社による公害問題があった。
 つまり、主観からより客観へ、心理的からより行為性へ、こうした引き金を引いたのは、あくまでも会社ではあった。個人ではない。

しかし、それを越えての今日の過失概念は、そういった会社という人的集団から、より個々人へと、矛先を向けることが多くなっている、というのが私の感想である。

 これはつまり、刑罰の厳重化並びに犯罪化の増大という現象とリンクしている。
簡単に言ってしまえば、昔は個人ではとてもにないきれなかった事件の責任を、今日に至っては、引き受けてしまっている、そうさせる理論が主流になってきている、ということなのだ。
 なにかあればすぐ逮捕、と言いたいわけでもないが、しかし、過失を昔より大きく捉えることによって、何人もが、責任を問われるという場面が本当に多くなったのは、事実である。

 過失概念が変容したのはとりあえず認めるとして、さて、はたしてそれはどこまで妥当なものであるのか、と考えるのが本稿の論ずる所ではある。

それは、故に、かなり近年の考え方とは大きく異なっていることをご了承いただきたい。
時に、破天荒なアプローチもあると思うが、そこは目をつぶっていただきたい。

そして、そのことをすぐに述べる前に、「宿命」というものを簡単に述べておきたい。宿命、若しくは運命。
一見これらのキーワードは、責任とかいったものとは全く無関係のようにも思われるが、私には、大きな相関関係があると思われるのである。

(続く
(2) 宿命・予定説について )

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エコ 続き 完


承前

第二の点。
エコ化は、スリム化と同義であるのか?

キーワードとなるのは、「持続可能な発展」である。
 このキーワードを”自然”に当てはめようとするのが、実はエコ化の正体なのではないか。

これは、スリム化と何も変わらない。
自然を、資源に置き換える。 資源は、使うものであり、使われる対象である。
自然の、資源化である。こうして、資源化された自然を、いかに長く利用できるか、という風に見方を変えるのが、持続可能な発展の考え方のようにも思える。

 見方は、あくまでも資源を長く細く使えるか、ということに集中するので、ここでも、定義されたエコ、つまり繋がりを重視した本来のエコ=自然主義とは、似ても似つかないものになる。

実際、この資源としての自然の見方は、あのエコ化運動に珍しいものではなかろう。
これは第一の点にも通じているが、自然はあくまで利用されるものとして、つまり被従属物として、取り扱われることになる。
 被従属物であることの地位は変わらぬまま、しかしその程度を作用させようとするのが、スリム化の運動である。
 大から小へ、資源の利用形態のレヴェルを下げることで、あくまでも善を見せる。
しかし小といってもあくまで資源利用は資源利用であり、その点でエコ化はスリム化の考えと大して変わらないことになる。

第三の点。 この点は、かなり際どい。
エコを向ける、対象(客体)の問題である。
エコの対象となっているのは、どんなものであろうか?
 汚染されうる空気、伐採に供する森林、木々、プラスチック袋、割り箸、電力(その抑えによる火力発電の資源活用の減少)・・・。

 これらは、一括することができる。つまり、これらはあくまで自然(nature)の一環である。

エコ化の働き手に回るのは、私達人間であって自然ではない。そして、その客体は自然であって人間ではない。
自然はエコ化させるが、人間はエコ化させない。

月刊雑誌『現代思想』の昨年09年度10月から、檜垣達哉が「ヴィータ・テクニカ」で論じている人間、またはアガンベンの議論による人間とは、しかしそれ全てが人為ではなかった。
 人間にも、まったく人為的な所と、まったく人為的でない、自然的な所の両者がそれぞれ見られる。

例えば、鷲田が好んで引く例でもあるが、風邪をひいて体調を悪くした時などのわれわれの体は、ほとんど自然物といって過言ではない。なぜなら、それはまったくコントロールが不可能なものであるからである(ある程度の治し方は分かるが、完全に治癒できるかどうかというラインでは肯定することができない)。

 つまり、実は観察者としての私達も、実は人為の部分だけでなく、自然の部分が多々あるのである。
すると、次のように整理しなおしてみるのは、さして論理が飛躍したものでもない。

われわれは、エコ化運動において、私達の外=OUTの世界にある自然物に対しては、エコの矛先を向けるにも関わらず、私達の中=INの世界にある自然物に対しては、エコ化の矛先を普段当てない。

 これには、もちろん例外がある。例えば、臓器移植である。幾つかの論述で見られるように、臓器移植はある種の、移植される者への資源提供と見ることができる。この意味に於いては、臓器移植を大きな意味でのエコとみなすのも、特段の無理もないように思える。

 しかし私達があくまでエコ化させようとするのは外の世界にある自然物であり、観察者自らの自然物としての”私”は、置き去りにされている。 むしろ、それらを置き去りにして、ひたすら外の世界にのみ目を向ける、といういいかたのほうが正しいのかもしれない。

第四の点。
これは、もっと厳密な意味での自然主義に関わる事柄である。
 自然そのものを崇高しようとする、宗教は特に未開地域やアジア地域などにおいて、よく見られる。
日本人にも、まったく馴染みがないというわけではなかろう。

 自然をある種の神とみなすこと―。それらには、どんな意義があるのだろうか。
一概には言えないが、一つには、自然を信仰の対象とし、それらをあがめたてまつることで、神との一体化を図るという、宗教の普遍的な目的が目指されているのではないか。

自然主義は、宗教とはいかないまでも、その本質的な部分とはだいぶ接点を同じくしているように思われる。
 信仰とかの対象ではないが、尊敬を抱く、という点は非常に似ている。

エコ化運動は、はたしてどうであろうか? そこに、自然への尊敬の眼差しという要素は、あるのであろうか?
 
 これは論者によって異なると思われるが、私はどうも、エコ化運動にはそのようなものは見受けられないと思う。若しくはあっても、建前だけの、仮の形だけのものである気がしてならない。

 根拠をあげるとすれば、例えば商業主義との結びつきである。
普遍的宗教は、一般的に、そこまで商業主義の色彩を帯びずに在ることが前提となっている。
それはなぜかといえば、本質的に、宗教と商業があまり重なり合わないからである。

 しかし、運動化された近年のエコはどうか。
それらは、実に色んな商業によってその結びつきを強めている。
エコを前提とした産業や、商い(排出枠取引、マイバッグ商品の売買etc)が台頭しているのをみると、一目瞭然であろう。
 それらはエコを売りとしながらも、結局はお金儲けという捨てきれない性質を抱いている。
特に、エコ運動の自由経済への浸透という現象には、気をつけなければならないだろう。
 なぜならば、本来的には、エコ(つながり、関係の重視)には、値段による価値の序列化や、ニーズなどとは何の関連性もないはずだからである。

それを、結びつけようとするのは確かに斬新性を獲得することにはつながるかもしれないが、しかしその根本の関連性を考慮することには欠けるであろうことを、十分認識しなければいけないはずである。

 以上のように、エコ化運動には、原理的にいくつもの危機をはらんでいる。
私は、運動そのものには、懐疑を抱くものではない。 賛成を唱えたい。
しかし、現状をみる限り、実にエコ化運動には、向う見ずの所というか、見切り発車的な側面や、商業主義と根強く結びついてしまっている側面などが多々あり、そのたびに本来の”エコ”・”自然主義”とかけ離れていったものになっていることは、認めなければならないことであると思う。

 今一度、これらの事態をじっくり捉えなおしてから、エコを再考するのは、決して無駄でないことであろうと思われる。

msity @

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”エコ” 不快な響き


 言うまでもなく、近時、”エコ”という言葉が声高に叫ばれている。

 そのムーヴメントは、ようやく国民(つまりこれは、「国」から(from)という事を意味しているのであろうか?)の意識の下に浸透してきたようだ。
最近、私の友達が”エコ”という言葉を、ごくナチュラルな感じで発していて、それをごく自然に―この「自然に」という用語法=現象が、本稿が捉えようとする所の一つでもある―受け止めている周囲の反応を見ていて、実感したことである。

 ”エコ化”の動きが、国を超えて、あらゆる所で、平坦に盛んになってきている。

この時点で、一度はたと止まって、”エコ”の”意義”を再考してみるのも悪くはない。

多様の意見、情動があって然りであるが、私は幾つかの観点から、昨今の”エコ化”の現象に、ちょっとした異を唱えるものである。 それを簡潔に述べておきたい。


 ”自然に帰れ!”―。 これを唱えたのは、ルソーであった。
自然に帰る、自然の中に今一度「戻」り、その中で人生や価値観やライフスタイルを問い直してみよ―。

 これは、自然主義とでも、とりあえず言葉を置きかえることができようか。 精神世界で言う所の、私たち俗世(物質世界)での、生き方を考えるよりも、より”自然”に重点を置く。 人為よりも、自然。 そういう所であろうか。

 この自然主義を、(当然ではあるが)、概念としてのエコと関連付けることもできよう。
そこで私は、”真の”エコとは、一体何であろうか? と、問わずにはいられなくなるのである。

 エコの一つの定義(原義)を、以下に見ておきたい。

  ―ECOとは、ひとことでいうと、関係の学問、つながりに気付くということ。
(出典HPアドレス:http://eco.81s.net/concept.html

 つながりに気付く。関係性を意識し、それを強調する。
それはまるで、コミュニケーション論の一つのテーマのようにも思われる。
 そうだ、「関係の学問」ということであれば、その関係を結ぶ客体(相手)は、まだ原義からは何も限られていないはずだ。
 相手は、生身の人間でもよい。 コンクリートでもいい。美術。衣服。情報。自然環境。

 昨今唱えられている”エコ化”のムーヴメントは、この客体の幾つもの選択肢のうち、主に自然環境を捉えているようである。自然環境とわたしたちの関連に気付き、それを大切にする。そういう見地が、今全体として行われつつある。

 ここで、さきの自然主義との関連に立ち戻りたい。”自然に帰れ!”と発するこの概念は、実の所、エコの本質なのではなかろうか?
 この概念の下での「自然」も、これまた限られていない。そして何より、解放されている。そのことが何よりも重要である。

 とすれば、昨今の”エコ”は、真のエコを捉えていない、すなわち、偽のエコだと言わざるを得ないことに私たちは気付くのではなかろうか? 対象を自然環境に絞り、自然環境を”改めて”支配しようとするこの動きは、エコ(関係の学問)の本質から、外れているのではなかろうか?
今のエコ化運動は、自然主義に純粋に基づいてはいないのではないか。
そしてそこには、問題点があるのではなかろうか。

 以下の3点を、考察していく。

まず、人為と自然の関係において、そこには<支配―被支配>が成り立ってしまっているのではないか。それは、エコ化運動に於いても同じなのではないか。

 ヨーロッパにおける合理主義が、およそ自然物を被支配として取り扱っていたことは、有名な話である。
合理、理にかなうといっても、それは人類に対してのことであった。
 自然物に利する、という視点ははじめから抜け落ちていた。

 なぜ、自然を被支配の対象としてわたしたちは見るのだろうか。それには、次の3点が絡んでいるように思われる。
・われわれ人間は、人類(ホモ・サピエンス)である。  (これはどう考えてもトートロジーである)
・自然物は、動物若しくは植物又は有機物である。
・人類は上位に位置し、それ以下は下位に位置する。そして、下位の者は、上位の者の犠牲になって構わない。

 この3点のわれわれの固定観念はなかなか手ごわいものであるが、これらが総じて人為に対して自然を下位とみなし、そこから支配の意識が生ずるのではなかろうか。

 これは典型的な被支配観念のようにも思われるが、事態は近年のエコ化運動の基底においても、さほど変わらない。

「地球にやさしい」「持続可能な発展」

 これらのキーワードが、実は自然を俯瞰的に見ていることを物語っている。
つまり、前者のキーワードは、自然物としての地球を、私達人類から引き離しているからこそ、メッセージ足り得る表現となっている。 人類/地球 この両者間に、大きな隔たりを分けているからこそ、「地球にやさしい」などという言葉が成立するのである。

 後者は、自然物をもはや経済対象においての資本としかみなしていない。 ここでは自然物=資本、という等号関係が成立してしまっており、それは固定されている。
 現代資本主義の考え方に大きく依拠してしまっている。資本は投入されるものであり、限りなく扱われる存在でもある。

 われわれ(=人類)が主語で、自然は述語。 人類が第一的であり、自然はセカダリー。 人類が主役であって、自然は被従属物。 こうした観念を、わたしたちは捨てることができないのであろうか?

(2、3の点については後日後述。)




 

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